九日目・疑念 △
「傷は痛むか」
「今更ですよ」
「そうか、すまん。……ゾンビでもいるのかこの島は」
前原さんが明日香ちゃんを下ろし、うんざりした顔でつぶやいた。
ブルータスが喜んで明日香ちゃんの足元で尻尾を振る。
あれから姿が見えなくなっても走り続けて、安全だと分かるとペースを緩めた。
僕たちが通った後を追ってくるんじゃないかとも考えたけど、杞憂で終わったようだ。ーー終わったんだろうか。
それにしても女の子おんぶするだけではなくかついで走るとかすごいよなぁ…。
「多分…」
明日香ちゃんが弱弱しく答える。
「否定してくれ」
「否定する要素が、ない、から、困ってる、ん、ですよ…」
ゾンビなんて要るわけないじゃないですか、メルヘンやファンタジーじゃないんだから。と嘯きたくもなったがどうにも否定しにくいんだよなぁ…。
「腕時計が壊れているだけならいいんですけど…」
僕たちは明日香ちゃんを見る。
彼女は自身の左手を指さしながらとつとつと語った。
「十メートルぐらい近寄ってきたのにまったく音が鳴りませんでしたから」
「確かに」
十メートルがどの位かはほとんど予測だけど、近かったことは近かった。
ギリギリ鳴らなかっただけと思いたいものだが。
「ヤクでもやったのかってぐらいおかしかったよな。仮にそうだとしてわざわざ持ち込んできたのか」
「ああー…」
目的とかは考えもつかないけどありえそうな気もする。
だってこんなところじゃクスリなんて……。そういえば。
「まさか、あの、建物から、とか?」
あまりに断片的で通じるかなと思ったが、前原さんはすぐに気付いてくれたみたいだ。
あの雨が降った時に避難した怪しい建物のことを。
「…人体実験とかの生き残りって意味か?」
「いえ。二階とかに……見て、ないですが……もしかしたら、置いて、行かれた、薬品とか」
「なるほど。なんらかの薬品がまだ現存していて、探索に入ったやつが間違えてそれに接触したかもしれないと」
「はい、」
予想でしかないし、確かめに戻るにも道が分からない。
別に二度も行こうとは思わないし。
「この島自体が妙なところだしあり得るかもな」
かなり突拍子もないけど採用してくれたようだ。
前原さんはしばらく考え込むようにして俯く。
「ブルータスの反応も気にかかるな。様々ないきさつがあったとはいえ明日香にべったり懐くぐらい警戒心が薄い馬鹿犬が、いきなり攻撃を始めた」
「なぜいきなりブルータスを貶しはじめたんですか」
会話を黙って聞いていた明日香ちゃんがそこだけ口を出した。もしかしたら話題についていけていない可能性もあるけど。
前原さんはスルーして続ける。
「それが一目見ただけであの豹変具合だ。おかしすぎるだろ。岡崎が合流したときはまるでおとなしかったのに、だ」
たしかに。
いきなり出て来た僕でも普通に撫でることができた。前原さんとは…あまり仲が良いとは言えないけど。
「犬の生態は分からないが、遺伝子レベルで敵だとインプットされていることなのか、こいつは一度同じような目に遭っているかだ」
「ブルータスの母犬を殺したのはちゃんとした人間でしたよ」
「じゃあそれ以前になんかあった、か? それはコイツに聞かないとどうしようもないが……この場合はやっぱ仲間だろ。あんな感じで獰猛になるんじゃねえの?」
「…あんな、感じに、ですか?」
「はぁ。……はい?」
前原さんにつられ無意識のうちに視線をやっていた先には、鼻先にしわを寄せて涎を大量に流し濁った目でこちらを伺うように見ている犬が居た。
一般のラブラドールと同じぐらいか、それより小さいぐらい。短毛の犬種だからか血管――筋肉が浮いて出ているのがはっきりと見えた。
どちらにしろ不味い状況には変わりない。
どうしたらいいんだ、これ。