八日目・親子戦争3
見えていた世界が突然見えなくなるとはどんな気分だろうか。
危険を視覚で判断し避けられないというのは、降りかかってくる暴力を視認できないというのはどれほどの脅威だろう。
黒川はもはや言語と化していない叫び声をあげながら顔を押さえ地面をもがいていた。
とりあえずは命の危機を脱して息を吐く。
眼球を潰した感覚がまだ残っている。決して気持ちのいいものじゃなかった。
でもまあ、精神衛生と引き換えにしてこいつに痛みを与えることができたのは大成功と言ってもいいだろう。
そろそろ苦悶の声も耳障りになってきた。わたしはこの男と違ってそれを喜ぶタイプじゃないからなおさらだ。
このまま放置して勝手に死なれるわけにはいかない。私がとどめをさすのだから。
首を回すと落ちている棒をみつけた。
ちゃんとそれだという確証はないけど、状況的にこの男の持っていたものだろう。
ぴしぴしと悲鳴をあげる身体を曲げて拾い上げる。
私の手には馴染まない。長いとリーチの差があってよいのだろうが、これじゃ私のほうが振り回されそうだ。
棒の先端部分で黒川の頭を小突く。
びくりとした。明確な反応が返ってきてちょっと楽しくなる。夏の終わりに道路に落ちているセミをつつくようなそんな気分だ。
意識はともかく生体反応はあったのでそこそこにやりがいはありそうだ。
両手でしっかり棒を持ち、振り上げた。
そして、頭に向かって振り下ろす。
さっきからこれで殴られている私が生きているんだからこんなの一発で死ぬとは思わない。
振り上げて、振り下ろす。
振り上げて、振り下ろす。
振り上げて、振り下ろす。
何度も何度も繰り返す。単調な作業で、空っぽな頭がさらに空っぽになる。
右腕が上がらなくなった。
気にせずに続行しようと思ったが無理してまで腕を酷使する必要もないと考え直す。
棒を投げ捨てて私はひたすら顔面をふみつける。
昔から見たくないとずっと思っていたのだ。今潰さずにいつ潰すというのか。
足首に絡む指を払いのけながらふっと潰れた猫の頭を思い出した。顔の抉れた京香を思い出した。
私の身内で綺麗に死んだのは母親ぐらいじゃなかろうか。
足にも力が入らなくなってきたので動きを止める。
黒川は顔は押さえたまま断続的に何か言っていた。歯も何本か抜けているはずだし、口の中を盛大に切っているっぽいのでちゃんと聞いてみても意味は分からないだろう。
それに、どうせ気持ちのいいような内容じゃない。
最後の仕上げと行こう。
いまだに刺さったままのナイフを勢いよく抜く。甲高い悲鳴があがった。何をいまさら。
馬乗りになり奴の開いた口に拳を突っ込み閉じれないようにする。強く噛まれた。歯を折っておいて正解だった。全部揃っているか、それか指だけ突っ込んでいたなら噛み千切られていたかもしれない。
ナイフで口端の片方を横に裂く。口裂け女も存在していたらこんな感じなのかもしれない。
ガチガチと手の甲に歯形ができていく。できるだけ奥まで突っ込んでいるので吐き出せはしない。
「私は、人間だ」
つぶやく。
いったい誰に対しての言葉なのかは自分でもわからなかった。
「人形は人間を殺せない。だけど私は殺せる」
なぜならそれは。
「人間だから」
口の中にナイフを滑り込ませ、突き進み、全身の力を込めて地面と縫い付けた。
真っ直ぐ刺さったとは言えない。硬い部分を横滑りしてしまった。
だけども命を取るには充分だったようで。
動かなくなった男から手を引っこ抜き立ち上げる。
尿の濃い匂いがして顔をしかめた。黒川はどこかの段階で漏らしていたようだ。
カッコ悪いな、と思った。
あんなに自分が世界の支配者ばりの言動をしていたのに。おしっこ漏らすとか。
開放感とかそういうものよりも残念な気持ちしかなかった。
あと短い間の相棒には悪いがそこで錆びついてもらうしかない。
私はこいつに二度と触りたくもないのだ。
「あ…」
後ろに数歩よろめく。
倒れる寸前で誰かにそっと支えられた。
「またえらい暴れたな」
「そう、ですかね」
どうやらおじさんに支えられたらしい。
呆れの混じった言葉に苦笑するしかない。
「お疲れ様。明日香ちゃん」
「…お兄さんもですね」
お兄さんが横に立った。
顔の半分が赤いみたいだけど、大丈夫だろうか。
ブルータスがしっぽをふりつつ私にすり寄った。さっき足で退かしたことは怒っていないみたいでよかった。撫でてやりたいけど身体が限界だ。
「終わりましたよ。終わりました。私が殺しました。私は死んでません。よかった――」
笑おうとしたけれど、やっぱりうまくいかなくて。
「勝ちました」
それだけ言って私は黙る。
おじさんとお兄さんがそれぞれ短く同意した。
風が吹いて、ほんの少しだけ血なまぐさい空気が新しくなる。
「よく頑張ったな。ほんとに。今なら俺も殺せる」
褒めているのか分からなかった。
文句の一つ二つ言おうとして、だけど言葉は出てこない。
しかも目頭が熱くなってきて周りがぼやけてきた。
顔に熱が集中して暑い。
どうすればいいのか戸惑っていると頬に何かが落ちる感触がした。
涙だった。
こらえていたわけでもないのに後からどんどん涙が出てくる。
「あ…うわぁ…うわああぁぁあああああん」
赤子のように声をすり減らしながら、泣いた。
ボロボロと溢れ出す涙を止める術も知らずみっともなく泣き続けた。
親を殺したのはこれで三人目だ。
おやこ編完了。
次から最終章です