第7話
「ずっと黙っていてごめん…」
人気のない海辺に停めた車の中で、和人は優理子にそう言った。
「黙っていればいいやって、そう思ってたの?」
優理子がそう聞き返したけれども、和人は黙ったままタバコを吸っていた。
知り合った頃は、和人はタバコを吸わない人だった。
けれども、いつの頃からか、タバコを吸い始めるようになり、優理子も和人がタバコを吸う仕草が嫌いではなかったから、そのまま許していた。
けれども、今になってようやく気づいた。
和人がタバコを吸うようになったのは、自分と会っていた痕跡を消す為だったのだと…
そしてそう思うと、今まで許せていたタバコも無性に腹立たしくなってきた。
優理子はわざとらしく窓を全開にした。
外は真っ暗で始まったばかりの冬の冷たい風が吹いていた。
「ずるいよね。ずっと黙ってるなんて。こうなる前にもっと早く言ってくれれば良かったのに… バレなければ、このまま続けていけると思ってたの? それとも私が本気で恋してるって、言えば、傷つくとでも思ってたの?」
優理子は精一杯の無理をして、高飛車に言ってみた。
「ちがうよ、それは…。言えなかったのは、俺が本気になっってしまったからさ」
「何それ? 意味わかんない」
優理子は窓の外を見たまま、言い返した。
「俺、最初は単なる好奇心でおまえと会ったんだ。メールのやり取りをしてる相手がどんな子かすごく興味があって、一度見てみたくて…」
優理子は黙って聞いていた。
「でも、実際に会ってみて、話をしたらすごく真面目っていうか、真っ直ぐで一直線で、筋が通ってるっていうか、たぶん俺が結婚してる事を話したら離れてく子だと思った。ただそれだけでもう離れていくような気がしたんだ」
隣で、和人がタバコの煙を吐く息の音がする。
優理子はその吐息にすら切なさを感じながら、黙って和人の話を聞いた。
「でも、俺はどうしても終わりにしたくなくて、今までのメールをなかった事にしたくなくて、できればもう少し優理子の事を知りたいって思ってしまって…。だから結婚してる事を言えなかった」
「結婚してる事を言わなかった事はもういいわ。でも、結婚してるなら、何故、私とキスしたの? 何故、私を抱いたりしたの?」
優理子は自分達が深い関係になってしまった事を責めた。和人に対しても自分に対しても…
「好きになったから…」
和人はそういうと、吸っていたタバコの火を消し、そのまま優理子の右手の上に自分の左手を重ねた。
夜のドライブをする車の中、何度もそんな風に手を重ねて、互いに触れ合いながら時を過ごした。
時折、信号で車が停まった時には、手だけでなく、どちらからともなく唇を重ねた。
ずっとそうしていたくて、優理子は何度も信号が赤のままだといいのに…と思ったりもした。
けれども、今はその手のぬくもりすら切なく苦しいだけだ。
その手はもう自分のものではない。
いや手だけではない、心も体も、本当は全て自分のものではなかったのだから…
優理子は重なる和人の手の下から、自分の手を抜き取った。
そして、お腹の辺りに動かした。
和人は残った自分の手をギアの上に移動し、指先を小刻みに動かしながら言った。
「信じてもらえないかもしれないけれども、俺は本当に優理子が好きだったよ」
優理子はその言葉を黙って聞きながら、変わらずに窓の外を見続けた。
もしも今、和人の顔を見てしまったら、きっと泣いてしまうだろう。
嘘でも、気まぐれでも、たとえ自分と会っていた事が世間で言われる浮気だったとしても、好きな人からそう言われれば嬉しいに決まっている。
そして、何よりも、和人が言った言葉が嘘ではないと思ったから、本当は和人も少しは自分の事を本気で好きでいてくれたのだとわかるから、隣に座っている和人の顔は見ないようにしていた。
「でも、俺、家族は捨てられないんだ。だけど、お前もすごく大事で…」
和人のその言葉をさえぎるかのように、優理子は言った。
「そんなの都合よすぎだよ。それに、もし仮にそうだったとしても…っ…」
一気に喋ろうとして、優理子は言葉を詰まらせた。
「私達、もう終わりにしなきゃいけないよ」
最後まで言葉を続けてから、優理子は我慢しきれなくなって嗚咽を漏らした。
頭の中を和人と一緒に過ごした日々が蘇る。
楽しかった気持ちが湧き上がる。
メールをしていた期間が長い分、一緒に居た時間が少なくても、会った回数が少なくても、優理子の中では和人と過ごした時間はとても大きなものになってしまっていた。
もっと早くに知りたかった。
和人をこんなにまでも好きになる前に、会う回数がもっと少ないうちに、彼が結婚している事を知りたかった。
だって、優理子は初めからこんな恋を求めていたわけじゃないもの…
「俺は…」
和人は再びタバコに火をつけると、言葉を続けた。
「また前みたいになれたらって思ってる。会うのは無理でもメールをやり取りしてお前と続けていけたらって、そう思ってる」
「何言ってんの? そんなの無理に決まってるじゃない」
「でも、俺は、今は無理でも、いつかお前が許してくれた時には、そういう関係に戻りたいって、戻れるって思ってる」
「もしもこの先、街中で偶然再会したりした時は、一緒にお茶でも飲めたらいいと思ってる」
「だってさ、このまま連絡を取らなくなってしまって、音信普通になってしまうのはあまりにも悲しすぎやしないか?」
優理子はただ黙って、和人の言葉を聞いていた。
本心としては、優理子だって、和人と別れたくはない。
恋人同士が無理なら、せめて友達という関係ででも繋がっていたいと思っていた。
和人が言うように、メールフレンドに戻って、また昔のように他愛ないおしゃべりが出来たらどんなにいいだろかと思う。
でも、それは優理子にはとても出来そうになかった。
そうするには、あまりにも和人を好きになりすぎていた。
そうする事は、優理子にとってツライだけのなにものでもなかった。
「でも私はあなたを許せない。ううん違う…。そうじゃなくて友達になんて絶対に戻れない」
どのくらいの間だったか、沈黙を続けていた優理子が口を開いた。
「そっか…」
和人はそう頷き、そしてまた沈黙の時が流れた。
それは長い長い沈黙のような気がしたし、この先、もうどちらも話すことがないような気もした。
「じゃ、元気でね」
優理子はそう言うと、ドアを開けて、車を後にした。
和人が追いかけてきてくれるとは思ってはいなかった。
けれども、せめて気にして欲しいとは思っていた。
車の中のバックミラーで見られているかもしれない…
そう思いながら、優理子は振り向かずにただただまっすぐに歩き続けた。
そして、それが和人との最後になった…
いや、最後になると思っていた…