君の灯し火を消さないために
電話が鳴ったのは、瀬戸内海の島々の間に見える海に、静かに夕日が沈もうとする時だった。たまたま旅行中だった僕は、画面に表示された君の名前を見て、胸のざわつきを感じた。
受話器を耳に押し当てたまま、僕は息を止めた。しばらくの沈黙のあと、スピーカーの向こうからかすかな衣擦れの音に続いて、漏れ出るような浅い呼吸の音が聴こえた。
「………もし、もし………」
受話器の向こうから聞こえたのは、間違いなく君の声だった。でもそれは、以前の君の声ではなかった。
何年もの付き合いだ。少しくらいかすれていようが、弱々しかろうが、聞き間違えるはずがない。
昔の君はよく笑った。くだらないことでも小さな鈴が転がるように笑い、人の失敗話を聞いて「それ最高じゃん」と夏空の下の大きな向日葵のように笑っていた。
だけど、その日は違った。
言葉と次の言葉の間に、長い沈黙があった。息を整える時間なのか、それとも痛みに耐えている時間なのか。僕には分からなかった。ただ一言かけることしか、できなかった。
「もしもし?元気かい?」
そう尋ねることさえ、ためらわれた。元気じゃないことくらい、微かに聞こえる音だけで分かったからだ。
君はゆっくりと息を吸って、小さく笑った。
「……元気、じゃない」
いつもだったら「大丈夫」「平気」と返ってきていた言葉が違った。
「………全身、転移で入院してた。明日退院」
全身転移。その言葉を聞いた瞬間、音が消え、昔の君の姿が駆け足で流れていく。同時に今の君がいるであろう病室での姿が浮かんで来る。
白いベッド。
腕に繋がった点滴。
窓からわずかに差し込む夕陽。
僕の頭の中には、勝手な想像ばかりが浮かんでは消えていく。
「今、どこ?」
「………呉の病院」
こんな偶然があるのか。
たまたま訪れた所に、車を飛ばせば届く所に、君がいるなんて。
「今、たまたま近くまで来てるんだ」
少し間が空く。
「………うそ?ほんとに?」
「会いに行こうか?」
返事は、すぐには返ってこなかった。電話の向こうで、小さく息をつく音だけが聞こえる。そして君は静かに言った。
「……来なくて、いいよ」
「そんなに時間はかからないよ」
「ううん」
その声だけは、不思議なくらいはっきりしていた。
「来ないで」
声帯を震わせることすら、今の君にとっては莫大なエネルギーを消費する作業なのだということが、スマホ越しにも痛々しいほど伝わってきた。それはまるで体内の深い場所からすくい上げて絞り出すような声だった。
そんな状態の君が電話をかけて来た理由。それでも会いたく無いと言う理由。それは恐らく……
「………見られたくないんだろう?」
「………うん」
「わかった」
「ねえ、お守り、まだ、ある?」
「もちろん」
「……それだけでね、幸せだよ」
病魔に蝕まれ、肉体が痩せ衰え、髪の艶が失われていく自分の姿を最期に残すより、僕の記憶の中に残されている、陽だまりの中で笑っていた自分の姿を、彼女はそのまま僕の心の中に留めておくことを選んだのだろう。
断られる理由を理解してしまったからこそ、僕はそれ以上「行く」とは言えなかった。理解できてしまうということが、これほど恨めしく思ったことはなかった。
それから僕たちは、二分か三分ほど、ゆっくりと言葉を交わした。半分はよく聞き取れず、彼女の体力が限界に達しているのは明らかだった。
通話を切った時には夕陽は沈み、空は紅掛空色から群青へと変わり始めていた。
窓を開けると、目の前の砂浜に静かに打ち寄せる波音が聞こえる。微かな紅色を映した海に浮かぶ島々の向こう側に、君がいる。
彼女の意思を無視してでも、ドアを蹴破るような勢いで会いに行けば良かったのではないか。たとえ彼女に嫌われようとも、どんな姿に変わっていようとも、その手を握りしめるべきだったのではないか。彼女のプライドを守ることと、彼女の孤独に寄り添うこと、どちらが本当の誠実さだったのだろう。
正解なんて分からない。
君の気持ちを尊重したことも。
会いに行かなかったことも。
その時から答えのない問いが、不揃いな澱のように今も胸の底に溜まり続けている。
次の日の朝カーテンを開けると、夏の青空を映しとった海には牡蠣筏が浮き、クレーンを操って働いている人が忙しそうに働いていた。この海の、多分いつもの何気ない美しい風景が、なんだかとても残酷に感じた。
彼女のために、僕に何ができるだろう。ベッドの上で、ただ天井を見つめているであろう彼女の呼吸。薄くなっていく命の影。彼女がこの世界に確かに存在し、誰かを愛し、笑い、傷ついていたというその証を、どうやって残せばいいのだろう。僕が彼女を忘れないために。そして、世界が彼女を忘れてしまわないために。
僕には医者のように病を治す手もなければ、神様のように奇跡を起こす力もない。
できることがあるとすれば、僕の紡ぐ言葉で彼女に少しでも笑ってもらうこと。ただ、それだけだ。
ならば僕は、道化師の仮面を被ろう。
現実の残酷さに押しつぶされそうな自分の心を隠し、僕は愉快でおどけた道化師になろう。例えそんな僕を嘲笑い、批難する人達がいたとしても。
哀しみや諦念を、言葉の花で隠すために。
苦しみや悲嘆を、言葉の花で癒すために。
僕は喜んで道化師の仮面を被ろう。
何も書かれていないスマホの画面の白さは、どこか雪原に似ている。
僕は物語を書きながら、遠くの病床にいる君に向かって呼びかける。君がその場所から立ち上がれなくなったとしても。身体が動かず、光の届かない場所に閉じ込められていたとしても、物語の中では君は自由に動ける。
それは僕から彼女への、届くかも分からない手紙であり、祈りであり、あるいは悪あがきの記録だ。
夜の砂浜を歩き、打ち寄せる波を手に掬う。少しばかり冷たさを感じさせる海水は、程なく手のひらからこぼれ落ちていく。見上げれば、昼間の暑さが冷めきらない夜の空気を、月の白い光が辺りを照らしている。この光と僕の言葉は、君にも届いているだろうか。
君はもう、電話には出ない。
既読もつかない。
隣を歩くことも、一緒に笑うことも、もうできないだろう。
それでも、僕が書いた物語のどこかには、君がいる。
僕の拙い文章でも、「もう少し生きてみよう」と思ってくれるだろうか。そしていつか、「あれはちょっとつまんなかったわ」なんて笑って感想を言ってくれるだろうか。
登場人物の笑顔の中に。
何気ない冗談の中に。
誰かを励ます一文の中に。
君はまだ、そしてこれからも生き続ける。
僕はポケットから水晶でできた少し不格好な石を取り出した。かつて、彼女から「願い事が叶いますように」と貰ったお守り袋の中に入っていたそれを、僕は目を閉じて握りしめた。
君の物語は、まだこの世界では終わっていない。例え君の命が手のひらからこぼれ落ちる水のようであっても。
僕は道化師として君に笑顔を届け続けよう。
いつか幕が降りる、その時まで。




