第4話
自制心が風にさらわれて揺らぐ。彼女なら本当にやってくれると確信がある。たった一歩を踏み出すだけで、救いの手が掴める。掴めるはずなのに、その一歩をユディットはどうしても踏み出せなかった。
ヴァルトシュタイン家の令嬢としての矜持と言えば聞こえはいい。多くの貴族はよく踏み止まったと褒め称えるだろう。だが実際のところ、洗脳に近い。名家としての生き方を叩き込まれ、それ以外に道はないのだと教えられてきた。
頭では理解している。自分が想像しているものとは違って世界はもっと広いと。なのに、前へ進めない。踏み止まらせる声が聞こえるのだ。
『お前はヴァルトシュタインの人間だ、それを忘れるな』
何も感じない。それが正しいと思い込んでしまう。そうするべきだと認識してしまう。悲しそうに、ユディットは胸の前でぎゅっと拳を握った。
「嬉しいお誘いですが、私はヴァルトシュタインの人間です。既にいくつもの恩恵を与る身。私よりもずっとイーリス様の助けを必要とする方々は多いはず」
本当は取りたかった手が目の前にあるのに、ユディットは諦めた。
「こうしてイーリス様と言葉を交わせたことは光栄です。あなたは見た目と違って、ずっと優しい心をお持ちの方であることも知れましたから」
「余計なことは言わなくていいんだよ」
なんとも度し難いほどに哀れな娘。貴族という立場から、自分は助けを乞うて良い人間ではないのだと思い込んでいるのだ。
「日の光に当たってるのに見えないなんて、お前はどこまでも不幸な奴だな」
「不幸……私が、ですか?」
「おう。心底から不幸だ。貧民街の連中よりもずっとな」
向けられた背中。ユディットはどうしてか、その背中が大きく見えた。
「待ってください。本日から三日間の側仕えを命じられております」
「アタシは幼児じゃないんだ、見張ってなくてもいい」
「そうはいきません。騎士たるもの、受けた任務は徹底してこそですから」
「……仕方ない奴だな」
抱えていた本をサッと渡す。お前が荷物を持てという意味だなとユディットがにこやかに受け取り、大事そうに両腕にぎゅっと抱える。
「間違っても落として開くなよ」
「もちろんです」
人懐こい犬のようだとイーリスがくっくっ、と声を殺して笑う。
「決めたよ、ユディット。お前の心はどうあっても動かないんだな?」
「はい。私が得るには過ぎた奇跡ですから」
城の前庭をのんびり歩いていたイーリスは、ぴたっと足を止めた。一歩後ろに並んで立つユディットが不思議そうに顔を覗き込む。
「どうかされましたか?」
「魔女は欲しいものは必ず手に入れてきたって話、知ってるか」
「いえ、初めて聞きます。でも、それが何か……」
「────お前のことが欲しくなった。それだけだよ」
ニヤッとして、また歩き出す。何を言われたのか、ぽかんとしていたユディットはようやく理解すると、思わぬ告白に頬を赤くする。
「ぼさっとしてんなよ。護衛なんだろ」
「……え、っと、ま、待ってください! 置いていかないで!」
急いで追いつき、ぐるぐると思考を巡らせて落ち着かないユディットが、顔を覗き込んで「なんですか、どういう意味で言ったんですか?」と困惑して尋ねる。イーリスはまるで答える気がなく、鼻歌交じりに無視をした。
「戻られましたか。観光はいかがでしたか、イーリス様」
「クラウス。皇帝のご機嫌はいかがだったかな?」
「ハハハ、中々に手厳しい挨拶ですね。問題ありませんよ」
「珍しいな。あのすぐにキレる奴が」
きっと宥めたのはクラウスだろう、と不思議そうに眉を曲げた。
「私の顔に穴が開いてしまいそうです、レディ。惚れましたか?」
「お前は要らない。アタシは顔で選ばないんで」
「でしょうね。芯のある人間は好きですよ。尊敬に値します」
「心にもないこと言いやがって。……パーティはいつ頃?」
クラウスは尋ねられるとあごをさすって僅かに首を捻った。
「どうでしょう。そろそろ陽も落ちていきますから、あと四時間もすれば始まるのではないでしょうか。観光ではあまり時間を潰せなかったようですね」
「屋台以外で見るものがない。アタシはお前の三倍は生きてるんだぞ」
それはそうだとクラウスは微笑みを浮かべた。
「ごもっともでございます。それで、この後のご予定は?」
「適当に過ごす。時間になったらユディットに案内してもらう」
「そうですか。それは良いことです、探しに行かなくていい」
クラウスの視線がユディットに移る。穏やかな表情のまま鋭い眼で。
「今日はお父様もいらっしゃってますよ、ユディット。あなたも参加者としてドレスの用意をしておかなければならないのでは?」
「いえ。私は騎士団に所属する身なれば、ドレスなど無縁の代物です」
ビシッと姿勢を正す。クラウスがそれを見て小さく息を吐く。
「この調子ですから、イーリス様にお任せしても?」
「……! あぁ、そういうことなら問題ない。そのつもりだよ」
騎士団長たるもの、ただ規律に忠実であればいいわけではない。なぜその職務に就き、人々に認められているか。その人望の厚さを感じるものがある。
クラウスは貴族出身でありながら身分に囚われた考え方を持たず、それこそイーリスに近い自由な人間だ。好きで騎士団長をやっている。だからこそ多くの騎士たちの精神的なケアも含めて、観察力が高い。今のユディットは明らかにひとつのことに固執しすぎており、魔女の助けすら受け取らない。それを憂いているのだ。
「これはこれは……。なるほど、素晴らしい。では私には業務がありますので、これで失礼いたします。私も警護に出ますので祝宴の席でお会いしましょう」
「おう、またな。完全無欠かと思ってたが案外良い奴だよ、見直した」
ニコ、とやんわり会釈をしてクラウスは立ち去った。愛想笑いばかりで何を考えているかはあまり汲み取れないが、決して悪人でないのは確かだった。
「行こう、ユディット。アタシは部屋で休むから」
「でしたら私は扉の前で警護を」
「ん。まあ、そのへんについてはとやかく言わないよ」
騎士の務めなのだから当然だ。本当は部屋の前にいられるのも好きではないが、無理を言って困らせすぎるつもりもない。
「……それで、部屋どっち?」
「あ、こちらです。ご案内致しますね」
前を歩こうとしたとき、正面から大きな声で呼び止める誰かがやってきた。いかにもな金持ちを象徴する貴族らしい正装。金髪碧眼に、ユディットに似た顔立ち。イーリスは、男の顔を見てため息を吐く。
「魔女様、お会いできて光栄です。ルッツ・フォン・ドラケンダイト・ヴァルトシュタインと申します。娘が世話になっているとお聞きしまして、ご挨拶を」
差し出された手を見てイーリスは不快になったが、表情には出さず、ゆっくりと手から顔へ視線を流して────。
「イーリス・ブレンヒルトだ。出来のいい娘を持ってるようだな」
「それはもう、家門の顔となる人間ですから」
隣に立つユディットが青い顔をしている。イーリスがそっと袖を引っ張った。無表情で『心配ない』とでも言っているかのような堂々したものだった。抑圧された心が僅かに安堵を覚えて、ゆっくりと呼吸を整えた。
「娘が何か粗相などはしていませんか」
「今後もアタシの護衛を頼みたいくらいだ。これからどこへ?」
「ええ、実は陛下に呼ばれていまして」
「そうか。じゃあさっさと行きな、アタシに時間を取る必要はない」
話しているだけで気分が悪い。取り繕って気遣うふりをする。
「では失礼致します。祝宴の席でも、またお話ができれば」
立ち去って遠く離れたルッツの背中を振り返り、チッと舌を鳴らす。
「近づきたいのが見え見えだ。いけ好かない」
「……すみません、父がご迷惑を」
「構いやしないさ。お前が謝ることじゃない」
親指を人差し指に掛けて、ぱきっと関節を鳴らす。
「行こう。夜には面白いものを見せてやる」




