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5.May.3 公は三川光を使者として、金帳へ訪ねる。6.同五日、官軍、ミラーノに敗績。皇帝は都落ち。イタリアは大乱。

張謙(ちょうけん)注釈:孔子曰く、敗績(はいせき)とは、大いに崩れることだ。帝の「官軍(かんぐん)」はどこかに総崩れたら、「官軍、どこかに敗績」と書く。都落ちやイギリスの大乱まで述べるのは、皇帝の戦は不義理であるため、非難するつもりだ。

 平和で退屈な二ヶ月が過ぎた。


 五月祭が終わり、初夏の陽射しが城壁の石を温め始めた頃、私はもうすっかり山崎屋の住人になっていた。毎朝惣菜に乗って城内に入り、午前は馬術の稽古、昼は殿下の書斎で戦術の講義を受け、午後は訓練と実際の旗や軍楽を使って指揮を練習する。夜はハーディガーディの手入れをしながら戦記や戦訓を読む。騎士の称号を失ってから、奇妙なことにかえって日々が充実していた。


 もっとも、私がのんびりと過ごせたわけではない。マルコが三千の新兵を訓練し、ジェノヴァやロンバルディアの傭兵を合わせて練兵官とし、ルイージの部下たちも殿下の庇護のもとで少しずつ落ち着き始めた。ロビンフッドだけは相変わらず森に潜んで姿を見せなかったが、ハイデが子どもと南の市場にいるのを時々見かけるので、心配はないだろう。


 そんな穏やかさの裏で、私が毎日気にかけていたのは一つだけだった。


 ジョチ・カン様からの返書が、まだ来ない。


 五月祭の翌々日のことだった。朝の露、まだ目覚めない街並み。ふと、一首の和歌が口をついた。何日前から、ずっとこれを呟いていたが。


「いとどしく 虫の音しげき 浅茅生に 露置き添ふる 雲の上人」


城門のドミトリーが山崎屋に駆け込んできた。


「三川殿。殿下からの至急の呼び出しです。外国からの書簡が届いたと。」


 私はハーディガーディを壁に立てかけ、健五に一言断って駆け出した。惣菜は牧場にいるので徒歩だ。城門をくぐり、五階の書斎まで駆け上がると、すでに全員が揃っていた。


 殿下が正面の席に座り、その背後にティルーンが控えている。右手の武官席にマルコが座り、左手の文官席にはクレータが陣取っていた。ヴェローナは書き物台の前でペンを構えている。そして――私にとっては初めてこの場で見る顔が一つ。ルイージが扉の脇に立ち、居心地悪そうに腕を組んでいた。


「来ましたか。」殿下が一言だけ言った。


「遅れて申し訳ございません。馬を――」


「馬の言い訳はもう…座りなさい。」殿下が中央の卓を指さした。椅子がない。私は立ったまま卓の前に出た。


 殿下が一通の書簡を差し出した。蝋で丁寧に封じられ、金帳の印章が押されている。先日私たちが送った書簡への返書だ。私は両手で受け取り、封を切った。


 一目見て、息が止まった。


「金帳親王ジョチ・ボルジギンより、ストーリア大公殿へ。」私は声に出して読み始めた。


「貴公の誠意ある書簡に深く感銘を受けたり。名馬の保全と盟約の申し出は、天神の御旨に適うものと信ず。


しかるに、兄弟の盟を真に不変のものとなすには、血縁をもって結ぶに如かず。よって、我が嫡子バトゥと、貴公の正統なる後継の婚姻を提案するものなり。


これにより両家は永世の絆を得、天の下に並び立つ二つの柱となるであろう。


盟約の格式に相応しき者を送られたし。いつでもお話を心待ちにしております。」


 読み終えた瞬間、部屋の空気が凍りついた。外の鳥の声だけがやけに騒々しく、初夏の部屋がにわかに冷えたように感じた。


「婚姻の同盟…?しかし、殿下には……後継が、おられない。」私がようやく絞り出した言葉は、この部屋にいる全員が知っていることだった。


 沈黙が数秒続いた。最初に口を開いたのはマルコだった。


「おかしいですが。」マルコが椅子の背にもたれ、顎に手を当てて天井を見上げた。「なぜかこの同盟は、縁談でないとダメなのですか。」


「浅はかな男……」ティルーンが嘆き、私に目を向けた。


「真におかしいところ、お気づきなのでしょう。」


 私はもう一度手紙を見下ろした。なんとなく、すぐにわかった。


「ジョチ・カン様の手紙は、いつも誤字だらけだった。あの通牒も、ルイージ殿宛の手紙も、殿下が注釈をつけなければ読解すら困難なほどでした。」


「今回はそうではありません。」ティルーンが続けた。


「つまり――」


「あ、そうですね! この手紙を書いたのはジョチ様では――」マルコが言いかけたが、重苦しい空気に呑まれて最後まで言い切れなかった。


 部屋に再び沈黙が落ちた。ヴェローナのペンが止まっている。クレータがわずかに目を細めた。


「しかし印章は本物でございます。」クレータが手紙の封蝋を指さした。「これほど印章を偽造する技術は、少なくとも私の知る限り、ビザンツの工房でさえ容易ではありますまい。」


「つまりどうだい。行くのか、行かないか。」ルイージが壁から離れ、一歩前に出た。


「行くなら、ルイージ殿の証言は重要です。」マルコがうなずいた。「だけどいまのところ、こんな文書を書けるのが…」


「そもそも、なぜこうなるかはわからないが…ウグデイですね。」私は名前を口にした。


「そもそも意図ははっきりわかりました。」クレータが身を乗り出した。「この婚姻の提案は、表向きは友好的に見えますが、実態は罠です。殿下に後継がいないことは周知の事実。それを承知の上で『正統なる後継を送れ』と要求している。殿下が応じられなければ盟約は破綻、応じれば――」


「人質を差し出すことになる、しかも跡継ぎまで傘下にさせ…」私が継いだ。


「あるいは、殿下自身が赴くことを暗に強要しています。」クレータの棕色の目が鋭くなった。


「流石に、ビザンツ式の…」マルコはツッコミたいが、女性陣の冷ややかな視線を受け止めて声を殺した。


 全員の視線が殿下に集まった。殿下は手紙を受け取って読み返し、ゆっくりと卓上に置いた。そして――私をまっすぐに見た。


「答えるべきだと思います。」クレータが先に口を開いた。「沈黙は弱さと見なされます。応答しないことは、ウグデイに――もしこれがウグデイの筆であるなら――攻撃の口実を与えることになります。」


「しかし何と答えるのですか。」ヴェローナが困惑した表情で顔を上げた。「後継がいないのは事実ですし、嘘をつけば後で破綻します。」


 殿下はまだ私を見ていた。口元にかすかな微笑が浮かんでいた。


「光。」殿下が名を呼んだ。


「はい。」


「あなたなら、どう答えますか。」


 全員の目が私に集まった。


「え?」私は思わず声を漏らしていた。


「そうですね……」やむを得ず、私は考えた。いや、もしかして……違う……


 だがヴェローナとクレータが互いに目を合わせ、妙な視線で私を見つめた。この重苦しい空気の中で視線を注がれると、いっそう息が詰まる。私は思わず言い放った。


「誰か…殿下の娘を偽って、相手の交渉をまとめるしか…」


「そうね。さぁ、誰を送るのか。」


「この馬の件について理解を求める、私の意思をよく伝えて、同盟を結べるけど婚姻は拒む。しかもこれほど大胆な策を立てられ、万が一だったらすぐに帰れる、情報収集にも才能がある者。」


「え?」私は驚いた。それは違う。私が考えていることとはまったく違う。


 しかしティルーンもまた妙な目で私を見つめている。


 私は口をきゅっと結び、数秒だけ余計な考えを巡らせて、やっと――女性陣の視線の意味が、わかった。


「――まさか……私が、行く……のですか?」


「はぁ?」ルイージが素っ頓狂な声を上げた。


 マルコが目を見開いた。「そもそもなぜ、クレータやヴェローナじゃなくて…」


 そもそもといえば、そもそもあいつに向かう女性陣の視線が痛い。私とルイージは叫んだ。


「そんなのもってのほか!貴族女性を野蛮人に…」


 そして目と目が合って、分かってきた。


「そうですね。大国から小国への婚姻同盟なんて、そんな綺麗ごとはそもそもありませんよ。」


「むしろ殿下に何らかの形で害を加えて、跡継ぎを人質と捉えて、我が国を合併させる手段だけだ。」こうして、ようやく考えることを整理出来た。


「殿下の後継として、私が婚姻の使者を兼ねてカン様の天幕に赴きます…が、同盟だけは受け入れる、実際の跡継ぎでもないから、このような強引で悪意が溢れる婚姻同盟は辞退する…ということですね。」


「本当に盟約が欲しいなら、ルイージ殿には馬の返還と盟約の証人として同行をお願いしたいし、ティルーンには助手として頼みたいのです。」


「光。」殿下の声は静かだった。「あなたは今、自分が何を言っているか、わかっているのか。いいえ、覚悟していたのか。そう…何かあったら、()()かもしれない。」


私が左手で黒色の羽織を軽く整理して、帽子を正面に向けるようにした。そして深呼吸して、答えてくる。


「他の人に任せると、まるで見殺しではないのか。そしてこのストリアの運命を決める時、私は自ら往かないと、まるで自分のすべてを他人に任せると見られるのではないのか。」少し呼吸して、言葉を整理した。「この私以上に上手く対応できる人なんて、ここにはいないだろう。他人事でもない以上、私が行くしかありません。」


「一般な侍女はできませんが、そもそもクレータやヴェローナもそれなりに事情があるだろう…」


この二人に加えて、ティルーンは悲しそうな顔で、私を見詰めているが、何の声も出ていなかった。これは良かった…かもしれない。


「後継に相応しいだけの見識と……その、女子に見紛う容貌を持つ者は他にいない以上……」私はいくらか気が落ちた。だが、続けた。


「たとえこの手紙がウグデイの罠であっても、応答しなければ事態は悪化するだけです。それは機転が利く人が、有事の時も破局できる人なら――」


 私はようやく、真っ直ぐに殿下の目を見た。殿下の微笑がわずかに深くなった。あの切れ長の目の奥に、何か温かいものが一瞬だけ光ったように見えた。


 そして殿下が目を閉じた。数秒間の沈黙。


「よろしい。」殿下が目を開いた時、微笑はもう消えていた。代わりにあるのは、満足げな表情だった。「ルイージ・オリヴィエ。あなたには馬の件の証人として同行を命じます。ティルーン。」


「はい。」ティルーンが一歩前に出た。


「あなたも同行しなさい。光の補佐を。」殿下が淡々と、立ち上がった。


 マルコが立ち上がった。「殿下、私も――」


「あなたはここに残りなさい。兵の訓練が完了するまで、この城を離れることは許しません。」殿下が即座に遮った。マルコは仕方なさそうに、両手を広げる。


「クレータ。」殿下がギリシャの侍女に目を向けた。


「はい。」


「留守中の事務を取り仕切りなさい。ヴェローナと共に。」


「かしこまりました。」クレータが一礼した。その棕色のアーモンド目は私を見ていた。揶揄も、囁きもない。ただ真剣な眼差しだけがあった。


「出立は明朝。準備をしなさい。」殿下がそう言ってティルーンを従えて奥の間に消えた。


 残された私たちは、しばらく動けなかった。それぞれ沈黙の中、大理石の回廊に戻って、黙って解散することになった。




 その夜。


 荷を整え終えて山崎屋を出ると、空は透き通るように晴れ渡っていた。五月の夜空には無数の星が散りばめられ、召使川(メシア)の水面にも星々が映っていた。明日からどうなるかわからない。今夜くらいは、この空をゆっくり見上げていたかった。


 城下町の西出口の手前で足を止めた。門の外に一人の人影があった。


 麻布の衣に笠を被り、背が高く、肌は白く、どこか世俗を超越した佇まいをしている。手には羽扇を持ち、夜空を仰いでいた。その風貌は――どことなく、東方の儒者のものに見えた。


 私は立ち止まり、息を殺して見つめた。儒者はしばらく天を見上げたまま動かなかったが、やがてゆっくりと口を開いた。


「将星が数多く集まっているところだ。」


 その声は静かで、低く、しかし夜気の中を通り抜けて驚くほど明瞭に届いた。


「妙なことに、一つの白い王者の星がもう一つの尾を追っている。」儒者が羽扇で天の一角を指した。「そしてやがて最後の星は、形こそ見えぬが、最も明るい。」


 私は思わず近寄っていた。足音に気づいたのか、儒者が振り返った。笠の下から覗く顔は端正で、その眼差しは山のように不動だった。


「しっ……失礼しました。」私は慌てて一礼した。「もしかしたら、星をご覧になっているのですか。」


 儒者は答えず、私の顔をじっと見つめた。月明かりの下で私の目を、眉を、輪郭を確かめるように。数秒の沈黙の後、彼の口元がわずかに動いた。


「そうだ。なるほど。」


 たった一言。そして男は踵を返し、立ち去ろうとした。


「お待ちください!」私は衝動的に呼び止めた。男が羽扇を振って、半身だけ振り返る。


「あの……不躾ですが。」私は言葉を選んだ。星を読み、将星を語る。この方はなんなんだろう…「私は……近く、遠くへ参らなければなりません。とても大きなことを託されて、それを成し遂げられるかどうか、自分でもわからない。……将来への迷いがあるのです。」


 男は完全にこちらを向いた。羽扇を胸の前で止め、夜風がその麻布の衣の裾をなびかせた。


「迷い、とは。」


「もしうまくいけば、多くの人が救われるかもしれない。でも失敗すれば、私一人の命では済まないのです。その重さに……耐えられるのかどうか。」


 なぜ、こんなことを打ち明けているのかわからなかった。ただ、誰かに話さなければならない。それも、この人でなければ意味がない。そう感じただけだった。


 儒者はしばらく私を見つめ、それから再び天を仰いだ。


「ひとつ、よろしいか」


 私は息を呑んで、頭を縦に振った。


「大昔、九方皋という馬の目利きがいた。」儒者が羽扇を下ろし、私を正面から見据えた。その目は深く、なぜか私を見抜いているようだった。


「九方皋は王のために名馬を探し、栗毛の牝馬を見つけたと報告した。」


「ところが届けられたのは黒毛の牡馬。王は怒ったが、傍らの馬の第一人者・伯楽はこう言った。」


「『九方皋(きゅうほうこう)は馬の外見ではなく本質を見抜いている。その眼は私より優れている』と。果たして試してみれば、まことに千里の馬であった。」


「――この話の意味は、貴殿ならおわかりでしょう。」


 それだけを言い残して、儒者は夜の闇に歩み去った。私は静かに立ち尽くしていた。遠くの黒い森が風に揺れて、知らず知らず私の心を乱すばかりだった。あの男に打ち明けたのは、間違いだったろうか。――そう思い込みたいが、蝉の声だけが無情に響いていた。


 私は首を振り、山崎屋に戻った。天井を見つめながら、男の言葉を何度も反芻した。森の涼しい風のせいか、冷や汗が流れ続けて、真っ黒な天井や破れた壁を見つめたまま、しばらくは眠れなかった。




 翌朝。薄い霧のなか、人を二度寝にする散漫な日差し、ゆっくりと流れる川、三叉橋、三人、両馬、牛車一つのみ。


 東門の前に惣菜を連れ、旅装を整えて立った。ルイージが自前の馬に跨り、傍らの牛車にはティルーンが乗っていた。白い制服の上に旅用の外套を羽織り、膝の上に書類の入った革鞄を置いている。


「三川殿、準備はよろしいですかい。」ルイージが声をかけてきた。この二ヶ月で、彼の態度はずいぶん軟化していた。殿下の庇護を受け、部下たちに食糧が行き渡ったことが大きいのだろう。


「ルイージ殿こそ、ハイデ殿は大丈夫ですか。」


「ああ、ロビンが見てくれている。あいつは俺の言うことは聞かないが、ハイデと子どもの面倒だけはきっちりやる男だ。」ルイージが髭を撫でて笑った。


 城門の上に人影が見えた。クレータとヴェローナが手を振っていた。


「貴方様!」クレータは不自然に微笑んで、声が朝の空気に響いた。「必ず無事にお戻りくださいませ!」


「光にぃさん!」ヴェローナの顔が見えないが、声がそれに重なった。「ヴェローナ、毎日お祈りしていますから!」


 私は手を振り返した。言葉が出てこなかった。この二人を残していくことの重みが、昨夜の男の言葉と重なって胸を押した。


 その時、マルコが走ってきた。


「すみません、危うく忘れるところでした。閣下、これを。」マルコが二通の封書を差し出した。「万が一の時に――お使いください。」


「マルコ……?ありがとう。」私は封書を受け取り、内衣の懐に仕舞った。マルコが私の肩を軽く叩き、小声で言った。「万が一の時だ。私が保証します。」


 顧みると、殿下の姿は見えなかった。しかし書斎の窓が半開きになっているのが見えた。あの方はいつもそうだ。見送りの言葉を口にせず、ただ見ている。


 馬首を東に向けようとした、その時だった。


 城門の脇に、あの人影が立っていた。


 昨夜の儒者だ。麻布の衣に笠、羽扇。朝の光の中でも世俗を離れた風格は変わらない。


 しかし、いま、儒者の体が硬直した。羽扇を持つ手が止まり、笠の下の表情が一変した。


 儒者が呟いた。声は私にだけ聞こえるほど低かった。「ほう…死した者が、生ける者を救うとは。」


 私が振り返った時には、儒者はもう人の群れに溶けていた。市場へ向かう商人や農民の間に、麻布の衣の裾が一瞬だけ翻り、消えた。


「三川殿?」ルイージが怪訝そうに声をかけた。「どうしました?」


「……いや、何でもない。」


死した者が生ける者を救う、とはどういう意味だろう。なにか、嫌な匂いがする。


 私は首を振り、惣菜の腹を軽く蹴った。傍らにはティルーンの牛車が付き従う。黒毛の駿馬が静かに歩き出し、城門を抜け、東への三叉橋に出た。背後で城門の鎖が軋む音がした。


 振り返らなかった。振り返れば、きっと足が止まる。


 召使川の水面に朝日が反射して、金色の帯が東へ延びていた。私はひとつ息をつき、その光の先を見据えて、馬を進めた。

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