《春秋注解》
文治十六年辛酉
1.A.D.1201 Mar.12 金帳、使を送り。公は求人の令を発する。
注曰く、いずれも礼に合う。使者は(編者:逸文)が仕官しているストリアに送るため、目的地は省略する。
2.同十三日 城下。公は、ロンバルディアとジェノヴァへ手紙を送る。
注曰く:城下にて名馬を得たが、きっかけは不意ながら不正であり、この件は略した。
3.同二十八日,復活祭。徴兵。賊を帰順させた。
注曰く、祭りをもって徴兵するのは本来礼に合わずものだが、特殊の状況だから、礼に合う。
金帳との遣り取りは、首尾のみを記述する。
4.夏Apr.17 ロンバルディアの諸侯。ミラーノ。
注曰く、本来この「文治十六年 4.」の条の「経文」、つまり「春秋」という編年体史書の内容として表題に記入しているものは、「Apr.17 皇帝は、ロンバルディアの諸侯をミラーノに征伐する。
教皇は、皇帝を破門した上、ロンバルディアは教皇を支持する為。」と書くべき、なお、本文として作者の(編者:逸文アリ)の詳しい描写は、経文に対して「伝文」と呼ぶ。
「征」は天子が臣下を攻撃すること、「伐」は正式な宣戦布告を伴う攻撃。この件の理由について記述するのは、帝にも大義がないと非難している。
そして《春秋》に載せる戦は、大義名分があるもののみ、上の者については、君主であろう、教皇であろう、もしくは作者(逸文)の(逸文)ろう、その是非を明示しないまま、地点のみを書くのであれば、それは批判だ。
このような細いところで記述の方式を変えて(逸文)への態度を示すのが、「春秋の筆法」というもの、もしくは「書法」ということだ。
5.May.3 公は三川光を使者として、金帳へ訪ねる。
6.同五日、官軍、ミラーノに敗績。皇帝は都落ち。イタリアは大乱。
注曰く:孔子曰く、敗績とは、大いに崩れることだ。帝の「官軍」はどこかに総崩れたら、「官軍、どこかに敗績」と書く。都落ちまで述べるのは、皇帝の戦は不義理であるため、非難するつもりだ。イタリアとドイツを含める大乱は、ここから始まる。
7.同八日、金帳と盟をする、ウグデイ、其の兄を攻める、光は、逃げ帰り。
注曰く、攻めるとは、殺すことなり。「其の兄を攻める」と、兄の名前も地点も載せないのは、兄であるジョチ・カンは無罪である為だ。帝でも父親でもないから、「弑逆」と書いていない。「ウグデイ」と称するのは、其の罪を暴く、カンと呼ぶにはふさわしくない為だ。
8.同九日、ウグデイとハンガリーは我を侵す。ウグデイを破り。
9.同十三日、皇帝はシュヴァーベンに戻る。
10.同二十一日、官軍はケルン主教を破る。
11.June.1 ガーリチ公ウラジーミル薧。
注曰く:諸侯の死は「薧」と曰く。ウラジミールには嫡子がなかったので、ルーシ諸国の西南におけるガーリチ公国のロスチスラフ家は、これで途絶えた。因みに、北のウラジミール大公国の大公・「大巣」フセヴォロドが保護者だった。隣国の事情だから、史書に載せた。
又、去年、キエフ大公の東のチェルニーヒウ大公・ヤロスラフが薧した。イーゴリ公が其れを継ぐ。
注曰く:五月二十二日、大将の首を討ち取った。作者の戦功だが、君の為に臣の功績を称せずにした。
12.同十三日、ラテン十字軍が、ブルガリアに宣戦布告を送った。
13.同二十八日、ウグデイを討つ。
注曰く:君主が殺されることは、国内からは「弑」、外国からは「戕」と呼ぶ。ウグデイの行いからして君とは認められないため、「カン」と呼ばず、「討つ」と称する。




