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文治十六年辛酉 1.A.D.1201 Mar.12 金帳、使を送り。公は求人の令を発する。

旧都ローマより東へ二百四十里離れた平原に、三本の大河が一箇所で合流し、多くの商船が頻繁に往来する。二つの巨石によって築かれた連城がデルタの頂と西岸に君臨(くんりん)し、われらが栄光ある千秋帝国の辺境を守護していた。そしてその地に君臨する騎士団の主こそ、我が主君――ストーリアの女大公、ヴォレール殿下である。殿下は細身で長身、肌は雪のように白く、淡い青灰色の瞳は来訪者の善意も悪意もたちどころに見透かす。漆黒の巻き毛は戦場では兜に収まり、広場では豪華な佇まいで通りを行き交う商人たちの俗気をたちまち圧倒する。普段その美しい髪は銀糸の細網で押さえられており、双頭の鷲があしらわれた月桂冠は先代が武功によって皇帝より賜ったものと伝えられている。さらには滅多に笑わぬ厳格な表情と冷静沈着な性格が、その専制的な命令をいよいよ逆らいがたいものにしていた。まさに女傑と呼ぶにふさわしいお方!いつからこれほどのお方でいらっしゃるのか、私には知る由もない。ただ、僥倖(ぎょうこう)にも殿下より秘書官兼侍従長として仕える許しを得て以来――


「三川。」


 主君の声が飛んできた。同時に、机の上で鈴が鳴る。私を呼ぶ合図だ。声を聞くや否や私はすぐさま直立し、部屋越しに応答した。


「三川光、ただいま参ります。」


 そう言いながら、たった今書き記したばかりの文章を引き出しに仕舞い込み、殿下の書斎へと駆けた。


 扉を開けると、殿下は私と向かい合わせに座っていた。「急がなくてよい。そのソファに座りなさい。」彼女が指さしたのは左手のソファ――そこには文官、すなわち私が用いなければならない書き物台と、青銅ペンと墨壺が置いてある。


 私は一礼して、ソファの傍らに立った。「座りなさい。……いや、やはり三川と呼ぶのはよくないかもしれないわね。光と呼んだほうがいい。そのほうが少しは気が楽になるでしょう。」ヴォレール殿下はめずらしく少し躊躇し、冗談めかした言葉まで口にした。だが私は微塵も気を緩めず、きちんと座ってから青銅ペンの軸を確認し、殿下の御指示を待った。おそらく、何か厄介な文書の起草を命じられるのだろうと踏んでいた。


「光、今日はそのペンは要らないわ。」ヴォレール殿下(以下、敬称略)は天井の吊りランプを見上げながら、何か別のことを考えているような口調で言った。「この国の情勢について、あなたの見解を聞かせなさい。」


 ああ、それはちょうど今まで書いていたことではないか。私は大いに喜び、かすかに口角を引いて、たった今書き記した内容を早速復唱し始めた。最初のうちヴォレールは時おりうなずいて賛意を示していたが、話題が彼女個人のことに及ぶにつれ、その表情は徐々に何とも言えない苦笑いへと変わっていった。やがて彼女は私の語りを遮り、私が反応する間もなく問いかけた。「私個人のことよりも、この国の強弱と安危はいかほどかしら?」


 何か言い損ねたのだと気づき、私は背筋が凍る思いでソファの上で居心地悪くもじもじした。殿下の促すような眼差しに目を向け、私は言い直し始めた。「我が国の地理的位置は、神聖帝国、ラテン王国、ルーシの諸侯、ブルガール人……そして新興の突騎施( トッキシ)人と韃靼(タタール)の蛮族部落のあいだに位置し、さまざまな商人が絶えず往来する。」殿下は手元の地図を墨をつけていない羽根ペンでなぞりながら聞いていた。「情報は豊富で、収入も相当なものです。古代の偉大な弁論家キケローは、帝国が大海に面した一年の収益は銀貨一億枚に上ると誇らしく語りましたが、殿下の励精図治のもと、」ささやかな笑が見えたが、気のせいか?「今度の時代では我が国東西八十里、南北二十里だけで整々六千万の銀貨と数えきれないほどの外交贈礼を有しております。一応、銀貨の価値などは変わっていますが、過去より質が上がっていると考えられております。」私は自分の職務を述べながら、自信げに殿下の表情をちらりと横目で窺った。しかし殿下は表情を変えず、わずかに頭を仰け反らせ、私を何とも掴みどころのない気持ちにさせた。「これが我が国の長所です。弱点については、率直に申し上げます。」わずかでもいいから考える間を稼ぎたいが、一秒も経たぬうちに殿下がうなずいた。「言いなさい。」


 私は少々ばつが悪そうに笑い、続けた。「実を申せば、まだ細部まで考えが至っておりません。ただ、我が国は事務が繁雑で、人口もわずか十五万ほど、その多くは城内の職人です。」殿下は無意識に何回も○を書いた。「食料の乏しさはいかんともしがたく、ほぼ全部都以外の農村部や他国から船の輸送に頼っているため、穀物の価格は一斛あたりローマよりも銅貨数十枚は高くつきます。」殿下がうなずく。「また、私自身の経験から申しますと、人手の不足も深刻でございます。一時的に留まる者ですら千に一人、長く居つく者となれば絶無に等しい状況です。」殿下がめずらしく少し笑みを浮かべた。私は一瞬ぼんやりしたが、すぐに我に返った。「例えば私の仕事にしても、毎日十数時間も文書を読み、月に一度は倉庫の棚卸しに出向かなければならないというのに、それを手伝ってくれるのは殿下の近侍であるティルーンとヴェローナの二人の侍女しかおらず、このような仕事に一人の男が二人の女性の手を借りているわけで――」殿下が気づかれないほどかすかに私を一瞥した。「不満というわけではございませんが、手違いが出ないか心配ではあります。」と私は取り繕う一言を添えたが、殿下は何の反応も示さなかった。


 二秒ほどの沈黙の後、殿下は背筋を伸ばして私を正面から見据え、手の中の羽根ペンをもてあそびながら、重々しく一言を繰り返した。


「人手ね。」


 私が相槌を打とうとした瞬間、彼女はさっと顔を背けた。「光。この一週間、文書の処理には及ばないわ。なぜなら、使える人材を探してきてもらう必要があるから。どんな手を使っても構わないから、必ず留まらせなさい。ヴェローナ!」黒白の修道女服を身に纏い、髪を結い上げた近侍侍女兼私の代筆者がすっと入ってきた。「光にぃさん、はい、これ。」と小声で私に袋を渡しながら、ちらりと上目遣いで私を見る。銀貨五十枚入りだった。「これが活動資金よ。必要があれば告示を貼り出してもいい。」


「殿下?」私が事態を飲み込めずにいると、金髪碧眼の白い制服の侍女ティルーンが物音もなく私の背後に回り込み、腰をつんと突いた。「うわっ!」


「一人前の男子が、細くて綺麗な顔をして、馬にも乗れず弓も引けず、ちょっとつつかれただけで妙な声を上げるとは情け……」さっきから屏風の陰で私たちの会話を聞いていたヴェローナが思わず笑い出し、殿下もティルーンと顔を見合わせて微笑んだ。この方の性格は、敵に回すのも憚られるが、なぜ修道女になったのかも不思議でならない。私よりも殿下に従う彼女には事情があるのか?


 私はティルーンが差し出したものを手に取った。一通の手紙で、見慣れぬ文字がびっしりと書き連ねてある。手紙を見て、殿下を見て、するとティルーンが私の手をひょいと掴んで裏返した。もう少しで脱臼するかと思いながらも、見慣れた文字と自分の手首の形を確認した。


「痛い痛い!何だこれは……タタールが我々との通商を独占し、関所と水路を押さえようとしている?どういうことだ?」


「字義通りです、閣下。」ティルーンがめずらしく口を開いた。感情のない声だったが、それが最悪の予想を裏付けていた。


「もし従わなければ――」「戦争です。」ティルーンが再び遮った。


 殿下は立ち上がり、書き物台を回り込んで私の前に立った。「私が求めることは至って簡単、三川閣下。兵を鍛えられる剣士か弓手を一人と、指揮に優れた騎士を一人、見つけてきてほしいの。我々に欠けているのは戦の人材よ。あそこを見なさい――」


 彼女が指さしたのは左側の武官用の卓で、わざわざ埃を払わないでいるように見えた。「あそこは、前回われわれが朝廷の連合軍とともにロストフでルーシ人に敗れて以来、大将クラスを失ったあの日から、座るに足る者が一人もいないの。」


 私は頭を垂れ、記憶の中に沈んだ。あの頃、私はここの書記官に雇われてまだ日が浅く、あのような事態に巻き込まれた。宮廷はすっかり空になり、朝廷の援軍のおかげでようやく難を免れた。だが今や朝廷は衰退し、もともと半ば独立していた我々は自力で乗り越えるしかない。朝廷がいつ内乱に陥ってもおかしくない今、まさにこんな脅迫が……私みたいな名ばかりの騎士一人で、この国の未来のために人材を……?


「三川閣下、頼んだわよ。」


「殿下、せめて書簡を書くことはお許し願えませんか。募兵などというものは……」


「以前は吟遊詩人だったのではないの?人脈においては、あなたを信頼しているわ。ーーただ、自分の本質をみて、無理をしないことも大事。」


 礼を述べて退室するその時まで、殿下の表情は変わらず穏やかで静かだった。しかしその口調は、疑問を挟む余地を一切与えなかった。ましてやこれは生死に関わる問題であり、疑問を呈したところで何も変わらない。


 頭を悩ませながら、鈴を鳴らしてヴェローナを呼び、帳面を彼女に渡して照合を頼んだ。また、届いている通関文書は罪人でない限り許可を出すよう言い含めた。「大丈夫ですよ!必ずきっちり片づけてみせますよ!」と彼女は意気揚々と私の椅子を奪い取り、羽根ペンをくるくると回しながら約束してくれた。「にぃさんはとっとと行ってきてくださいよ、ここは任せておけばいいんですから!」……が、「片づける」という言葉を帳面と文書に結びつけた瞬間から、私はすでに後悔し始めていた。あの秀でた文才を人様のために発揮してくれることを祈るばかりだ。仕方なく、かつて吟遊詩人として過ごした頃の出で立ちに着替えた――長衫に深紅の絞り皮チョッキ、背にはハーディガーディを担ぎ、露台まで出たところで引き返して防寒用の帽子と白い手袋も取ってきた。幸い、ヴェローナはすでにいつも通り眼鏡をかけて、真剣に文書を精査し始めていた。


 城を出る前に、鏡の前で身だしなみを整えた。磨き上げられた青銅鏡に映し出された私の長身の全身像は、ぼんやりとした輪郭ながらも服に一分の皺もないことが見て取れた。鏡に向かって黒い顎ラインのショートカットを揃え、二重瞼のやや釣り上がった目元を揉んで少し生き生きと見えるようにし、控えめな鼻と丸みのある顔の脂をぬぐい取って、乱れた前髪を額を半分隠すよう整える。あまり威圧的に見えず、かといってぼんやりして見えないよう気をつけながら。もしこうしたことを考えなくてよいなら、きっと私の外見はまた別の様相を呈していることだろう。そして口をきゅっと結んでおき、帯は少し高めに締めて、歩幅をやや広く取り、重心を少し低く落とし、腕は振らずに歩き出す。


 城門を叩いて城の外へ出たものの、どこへ向かうべきか頭を悩ませた。このような用件には告示を出すのが一番手っ取り早いが、そうすれば必ずならず者たちが紛れ込んできて、一生をかけても目当ての人材には辿り着けない。それに殿下が自ら探しに行けとおっしゃったからには、告示では探さないようにという意味でもあるはずだ――弱みを見せたり、敵意を露わにしたりしないためにも。とすれば、方法は一つしかない……


 私は町の一番大きな酒場、山崎屋に向かった。主人の健五(けんご)は外でスケッチをしており、往来する人や町並みを描いていた。私は傍らに立って待ったが、半時間以上が過ぎた。絵には町のあらゆる要所が描かれていた。最も西の西港から始まり、黒森の狩場、入城谷地、召使川(メシア)の木橋、源河(オリゴ)の木橋、南市、中央冶錬場、中央広場、教会、城下牧場と順に広がり――跳ね橋で繋がれた二つの城塞は尊き殿下の安全への配慮からか意図的に省かれ――三叉橋(さんさばし)と東部の三つの農村、一里塚の宿場町とその先の二つの関所まで描き込まれていた。初めてこの地を訪れた者が見れば、道に迷うことはまずないだろう。建物の描写も生き生きとして、なかなかの出来だった。


「お嬢さん、まだ開いてないですよ。」健五は顔も上げずに、のんびりとそう言った。


「誰がお嬢さんだ。」私は少し立ち疲れて、重心が傾いて、苦笑いした。これだけ待たせておいてこの台詞とは。あと、女だと認識されることが多すぎるんで、中性的な外表はやっぱり邪魔だな。


「おや、これは珍しいお方が。」健五は私の声を聞いて驚き、筆を止めて絵を押さえ、顔を上げた。「お前、少しは日に当たったほうがいいよ。さっき手を見たら細くて白くて、どこぞの女子かと思った。」


「お前は挨拶代わりにまずセクハラをするのか。どうしてお前がいるのに城下の治安がこれだけ保たれているのか、本当に不思議でならない。治安にも多分力を入れた私を褒めて?」私はうんざりしながら返し返した。


 健五は慌てて立ち上がった。本気かもしれないと思ったのだろう。「閣下、ご覧になってください。あなたのような口は蜜、腹に剣ありの美男がわしらの財布の紐を握っているとは、城中みんな知ってますよ。そんなことはわしらにはとてもとても――というか、あなたがいなければ乱暴するという意味では決してないのですが……」


 嫌味を言われて腹がめちゃ立ったが、今日は頼みがあるので堪えるしかない。「実はお話があって参りました。中で詳しく話させてください。」


 健五が困惑しつつも動じていない様子を見て、私はほっとした。昔この宿に間借りしていた頃と変わらず、口では何を言っても、脱税もせず、法を犯すこともない爺さんだ。


 昨夜の残り油でかろうじて灯り続けているランプの薄明かりを借りて、私は爺さんと酒場の裏の厨房の入り口に腰を落ち着け、ひそひそと話し込んだ。


「坊や、なぜそんな昔の格好をしているんだ。まさか何かやらかして、あの方に……」爺さんは私の身なりを見て、遅まきながら心配そうな顔になった。殿下に追い出されるようなことが自分にあるとは滅相も思っていないだろうが、この乱世の中、何が起こるかわからない。


「違います、爺さん。ただ、一週間ほどここをお借りしたいのです。騎士道物語とかを演じようと思いまして。」爺さんの戸惑いの表情を見て、私は銀貨二十枚を差し出した。爺さんは目を丸くした。


「ちょっと待て、どこからそんな金と暇が出てきたんだ。まさか本当に……」「だから違いますって……」私は前置きを省いて、募兵の事情を正直に話した。健五は眉をひだのように寄せた。


「若いの、じゃなくて、三川閣下、」健五は禿げかけた頭を掻いた。「人を探すなら、なぜ告示を貼り出さないんですか。」


「告示が出せるなら私じゃなくてもいいよ?」「なるほど、お前が細くて白くて女一人みたいなので男を惑うということだな。」「女を白さ細さとかの計量単位に使うのはやめて。」「そうだな、お前を計量単位に使ったほうがいい。」「いい、もう一言言ったら樽の抜き打ち検査で秘蔵の古酒を全部調べ上げますよ。」「すみません、閣下。」


 爺さんが茶化すのをやめると、二人とも黙り込んだ。数秒後、健五は首を振り、何の話しを演じるつもりかと聞いた。私は一瞬言葉に詰まった。


「アーサー王?」「縁起が悪すぎます。」「ローマン・ロラン?」「同じく。」「マハーバーラタ?」「それでは修行者しか集まりません。」「だろうね。」「これ、聞いたことがない、やってみてもいいかも。」


 待て、聞いたことがないがやってみてもいいかも……


「名案です。」


「あ?」健五が顔を上げると、この狭い部屋でも山羊髭がそよいだ。「今なんと言った?」


「聞いたことのない創作物語をやってみてもいいと言いました。」


 酒場の主人は口を「だめだ」の形に開けた。私はうなずいた。


 爺さんは長々とため息をついた。「バカ者、私の店を潰さないでくれ。」


「信じてください。昔ここでオペラを歌った時、毎晩満席だったではないですか?」


「それはわしの酒がよかったからだ、若造。それにあんたの名曲《La donna è mobile》は、お前さん自身が女より女らしかったからいけたぞ。騎士なんやと関係なかったやん。」


「おい、その言葉は聞き流せませんよ。もう一度言え。」


「一週間、うちの店を使うのを許可した。銀の力ということだ。わかったか?」


「ありがとうございます。」私は簡単に一礼する。「晩祷(ばんとう)の時刻に来ますか?」


 爺さんは手を振った。「そうしてくれ。ただ今日は開店前に、何を歌うつもりか一度聞かせてくれ。」


 私はすぐにハーディガーディを手に取り、健五は頬杖をついて私が口を開くのを待った。


 私はゆっくりと弓を弦に当て、低く唸るような持続音から入った。ハーディガーディ特有の、鼻腔に響く野太い音色が裏の厨房に満ちた。やがて回転する鍵盤が旋律を刻み始め、音は次第に力を帯び、高らかに広がっていった。「汝らは神の戦士、神の掟を守る者……」


 ハー(La)ディガーディ( ghironda)で《汝ら(Ktož) は神の(jsú Boží)戦士( bojovníci)》を弾き終え、私は目で健五に問いかけた。健五はうなずき、そして首を振った。


「この曲はもともと戦場で歌われるものだろうが、お前が弾くとどこか哀愁が滲み出る。まぁそれはそれで悪くない。だが、これはうちのブドウ酒に蜂蜜酒を混ぜるようなものだ。妙な好みの客には病みつきになるが、普通の客なら顔をしかめるだろう。」


 私はうなずき、そして首を振った。


「わしを真似ていますか?」


「店長、お忘れなく――私は歌いに来たのではありません。」


 店長は思案顔になった。「本当に、そのような志と愛国心を持った荒くれ者がこの酒場でお前さんの演奏を聴くと思うか?」


 私はハーディガーディを置き、机の端に頭を抱えて座った。難解すぎる曲で人材を招こうとしても、結局私のような中途半端な下級役人くらいしか集まらないだろう。


 店長は腰を上げ、うなずいて励ますように言った。「やってみるしかないぞ、坊や。」


 私もうなずいた。今はどうやら他に手がない。開店まで時間があるので、先に辞去するのがマシだ。


 店を出て町へ出ると、手持ち無沙汰で、教会の参道から川岸まで歩きながら、頭の中でさまざまな楽譜を回想していた。気がつけばぼんやりとした心持ちになっていた。そもそも春分に近づいて、月末の復活祭の準備をしないとダメだろうね。


「あ、お兄ちゃん!お兄ちゃん!」道端の一人の婦人が灰色の麻のエプロン姿で、暗い表情をして赤子を抱いており、その赤子がたどたどしく私を呼んでいた。


 私は微笑んで、挨拶をした。鉛色の空を指さして言った。「ほら、雁だよ!雁!」雲を背景に、空を渡る雁の群れがはっきりと見えた。


 しばらく赤子をあやしていると、すっかり楽しくなって時間を忘れてしまった。ふと顔を上げると夕日が地平線に半ば沈みかけており、晩祷の鐘が鳴り始めた。名残惜しく思いながら、酒場へ戻らなければならないと気づいた。ちょうどその時、冶金工房の陶工ヴェンツが私を見かけて、転げるように駆け寄ってきた。「閣下、何でそんなお召し物を?」


 婦人は呼称を耳にして、急に動揺した様子になった。以前大公のために食器を調達した際にヴェンツに世話になったことがある。このまま喋り続けそうなのを見て、私は急いで制した。「何かご用があればまずそちらへ。今日はあなたに用があって来たわけではありませんので。」


 この男に邪魔をされて、遊ぶ気分もすっかり失せてしまった。別れの礼をしようとしたその時、婦人が遠慮がちに尋ねてきた。「あの、あなたは騎士様でいらっしゃいますか?」


「そのとおりです。」剣術はかろうじて及第点で、領地は零点だとしても、私は胸を張って微笑んだ。騎士という身分を心底誇らしく思いながら……次の一言が出てくるまでは。「旦那様……この子の病気を、診てはいただけないでしょうか。」


「?」話題が飛躍しすぎて、私は大いに当惑したが、それでも聞き続けた。


「この子は生まれつき言葉が出ません。もう三つになりますが、他の子より随分遅れていて……今しがた声をかけてくれた一声が、私が初めて聞いた言葉なんです。そもそも閣下ですから、言葉などの素養があろうかと思いますし、何とかこの子を診ていただけないかと……」婦人は言葉を続けるうちに泣き出した。


 私は本当に助けてあげたかったが、時間がもう迫っていた。やむなく断るしかなかった。「奥様、これから数日こちらに参りますので、もしまだいらっしゃるようであれば、この子と少しお話をすることができますよ。私は光と申します。Hi-ka-r――」


 言い終わらないうちに、婦人はやや慌てた様子で首を振った。「私どもは今日しか来られないんです。主人が商いをしておりまして。」


 今日しか来られない――その言葉の意味をさほど深く考えなかったが、ただひどく残念に思った。袋の中にまだ銀貨があることを思い出し、何枚か取り出して婦人に渡した。「お力になれなくて申し訳ないのですが、よろしければこれは私の……月給です。お子さんの治療にお使いください。」


 ところが婦人は気乗りしない様子で首を振り、断った。「お金には困っておりません。ただ、この子を救いたいだけで……」


「お子さんには発育の遅れがあるようです。差し支えなければ伺いますが、母乳は随分お与えになりましたか?」


 婦人と私は、この突然の一言に遮られ、思わず声の主のほうを向いた。見るからに干練そうな栗色の巻き髪の若者で、無精髭を生やしているが肌はつやつやと滑らかで丸みがある。奇妙な円錐形の珠飾りのついた帽子をかぶり、全身が髪と見事に調和した茶褐色の装いで、小さな荷車を押していた。声の主はこの人物に違いない。その若い声はまるで髭が作り物ではないかと疑わしいほどで、しかし絹の外套とその滑らかな肌が、ただ者ではないと感じさせた。あの帽子は、どこかで見たことがあるような気がする。


「あなたはどなた(さま)ですか?」婦人と私は再び声を揃えた。しかしこの人物は直接答えずに、子どもを指さして言った。「奥様、遠東の医師によれば、頭の発育に遅れがある子は必ず母乳が足りていない。もし乳が出なければ、牛乳か卵に頼るべきです。あ、これは他意はありません。経験からの話です――」私は思わず白い目を向けたが、婦人は真剣に聞いており、うなずいていた。するとこの人物は今度は私を指さして言った。「そしてあなた、表情は誠実で視線は集中していますが、お金の出所を言う時だけ目が泳いでいました。きっと何かを隠している。それにその手つきを見れば……胸を押さえているということは、まだまだお金を出し惜しみしているということですよ。そのお金は、後ろめたくないものですか?」


 私は絶句した。この人物の優れた洞察力が、辛辣な弁舌によって台無しにされていると思ったが、確かに何と言い返せばいいか言葉が出てこなかった。そこで婦人が沈黙を破った。「おっしゃる通りです。確かに私には子どもに授乳する力がなく、牛乳も卵もろくに与えられておりませんでした。」


 この人物の関心はたちまち婦人のほうに引き寄せられ、認められた喜びからかすかな笑みが浮かんだ。「毎日牛乳を一升、鵞鳥(ガチョウ)の卵を三個与えるとよいでしょう。」


「何を言ってるんですか、そんなにあの子に食べさせたら腹いっぱいで他に何も食べられなくなるじゃないですか。」思わず叫んでしまったが、この人物は微笑んで黙っている。婦人は厳かに向き直って礼をした。「ありがとうございます、医者さま。試してみます。」さらに私に向かって深々と辞儀をした。「それからあなたも、この子のためにお口添えくださった親切なお方、決して忘れません。私はハイデと申します。もしまたお会いする機会があれば、ぜひご恩をお返ししたいと思っております。」


 突然の二度の礼に私たちは顔を見合わせ、慌てて答礼した。鐘が鳴り、婦人は微笑んで私たちに別れを告げ、西の街道へと歩き去り、馬車に乗り込んだ。私たちは二人で手を振り、ハイデを見送った。夕日の中にその姿が消えると、今度は私たちが向き合い、先に彼が口を開いた。


「見たところ、あなたは情の深い人物ですね。子どもが助かりそうだとわかった途端、さっきの緊張がすっかり消えてしまった。」


 私は大声を上げた。晩祷がとっくに終わっていたことを思い出し、酒場の件もある。別れの言葉を告げる暇もなく、間に合うかどうか確かめながら全力で駆けた。酒場に飛び込むと、苦々しい顔で行ったり来たりしている健五と、満員の客席が目に入った。顔見知りの姿もちらほらある。私の心は半分凍りついた。健五は私を見ると、避雷針が雷を見るような目をした。


「よ、三川。」小アジア商品を扱うトッキシ人ハタクだけが愛想よく声をかけてきた。私にはどんな顔をして返していいかわからない。他にも幾つかの商館の主人たちが興味津々で私の出し物を待ち構えており、日頃自分たちに税を課す若い上官が大恥をかくのを心待ちにしているのだろう。


 私は急いで台に上がり、咳払いをひとつした。「皆様、今日私がここに立ったのは、実はお願いがあってのことです。しかし当然ながら、この国はかくも豊かで、お金をせびりに来たわけではありません。」私は胸を張り、わずかに微笑んで切り込んだ。「お願いの中身は、本日の演奏の中に込めました。意を汲んでくださる有志の方は、どうか一声お声がけ願います。この私、心より感謝申し上げます。」


 言い終わるや否や、客席からどっと笑い声が上がった。私が彼らの文化的素養に過剰な期待を寄せていると嘲るような笑いだ。ここに至って私は、告示を貼らなかったことを後悔し始めていた。ちょうどその時、正面の扉が開いて、さっきの若者がそっと前の席に着き、卓上の油灯を脇へ寄せた。これで私のプレッシャーは倍増し、本当に終わりが近いと感じた。


 腹を括って、《汝ら(Ktož) は神の(jsú Boží)戦士( bojovníci)》を弾き始めた。この曲は戦場へ向かう者の歌だが、今の私にとっては早く終わってほしい処刑の行進曲のようだった。弾き終わると、皆が形ばかりの拍手を送り、乾杯を始めた。その時、あの若者が口を開いて静寂を破った。


「聖戦歌をハーディガーディ一本で酒場に再現するとは、なかなか度胸がある。何という覚悟も見えた。曲で志を語ろうとしていたわけですが、うまくいかなくても仕方がない。それなのに、なぜ緊張してリズムを外してしまったのでしょう?」


 カウンター越しの物音がふいに止まり、私は背中に目が生えたような気がして、健五の視線がこの若者に注がれているのを感じた。


 私はぎこちなく笑った。「すみません、お客様。不手際をお詫びします。お許しください。」


 健五の声がそっと届いた。「求めていた客が来たぞ、若造。」


 私は弾かれるように顔を上げ、その若者を凝視して、再び目が合った。その時私は確信した――奇妙な格好をしてはいるが、その知識からすれば、このフィレンツェの気鋭の若者は相当な人物に違いない。そしてその帽子……高麗王朝のものと似ているので、おそらく半島のものだろう。


 心の中に突然自信が芽生え、この若造の才量を試したくなった。私はハーディガーディの弓を引き直し、テンポよく《騎士の踊り》を弾き始めた。健五は薄く笑って黙っていた。フィレンツェの男は聴き終えると首を振った。「あなたは専制公の命を受けた官吏でしょう。なぜそんなに自由奔放に振る舞えるんですか?」私は顔を赤らめ、すぐさまテンポを落として厳かな《十字軍の行進》に転じた。フィレンツェの男は声を上げて笑った。「ペルシアにイチジクという果物がありましてね、あれは花が咲かずに実がなる。あなたとは真っ逆さまとも言えるでしょう。」


 ここまで来ると、傍らの商人たちも曲と恥かく両方にすっかり大喜びで、フィレンツェの男も終始笑みを絶やさず、羞恥と憤慨で熱した鉄の上のアリのようにもだえていたのは私だけだった。引き下がろうかと迷い始めた時、健五が手招きした。


「若造、もう大体わかっただろう。あの男に一曲見つけてやれ。」


 主人の合図を聞き、フィレンツェの男はふいに笑みを収め、真剣な顔つきになった。革の鞄から数枚の楽譜を取り出し、さらさらと数行を書き加えた。「この通りに歌ってみてください。遠東からここに来て、もしあなたが本当に私のような人を探しているなら――できるはずでしょう。」急に声を落とし、私の心は猛然と騒ぎ立てた。「力を貸してもいい。ただし、私の心に届く歌を歌ってみせることだ。」


 楽譜を受け取って目を凝らした。泣きたくなってきた。書かれているのは見覚えのある文字で、振り仮名と震えそうなほど小さな訳文が添えてある。これ、宋の国の漢文では……ないか。以前にこの文字の読み方を学んだことがある、内容まで読み解けたが、どうやら奇妙な気骨のある英雄の回想のようだ。


義兵を起こして――(自起義兵)」高らかな声が響くと、酒場の喧噪がたちまち止まり、場内に不思議な静けさが満ちた。私は目を細め、酒場の座席を見回した。

賊どもを討つより――(把賊来討)」フィレンツェの男が静寂の中で揺れるように頷き始めた。私は彼を見ないようにして、存在しない遠い彼方に目を向けた。

 胸の中は最後の一手に賭ける興奮でようやく満ち溢れ、沈黙の後歌い続けた。「国のために残虐を除き辛苦を厭わず。黄巾を破り董卓を誅し、呂布を征したり――」ああ、これは宋の国の語りもの、《平話三国志》の一節ではないか……?

「関雲長、顔良を斬り、青龍刀を見せたり……」私は手の上に薙刀の軌跡を描き、腰のわが剣を思い浮かべ、自然と笑みが浮かんだ。いつの間にか背後で健五の盃の音が途絶えていた。

「袁術を滅ぼし袁紹を除き、また劉表を平定して……」次々と武功を数え上げながら、まるで夢の中で自らがその場にいたかのように感じ、知らず知らず語り口が速まり、頷きながら得意絶頂となって、「桃園の兄弟が当陽にて敗れ夏口へ奔り、十万の民が号泣した声をさせて、(あれ?)荊襄九郡の豊かな糧秣、水陸の三軍の高き戦法も伴い。八十三万の兵を率いて江東に至り、あの若き周郎ごとき小童に何を恐れん――」台下から拍手が湧き起こり、フィレンツェの男が率先して叫び声を上げ、傍らの商人たちも一句も聞き取れないながら思わず手を叩き始めた。

 私はいよいよ上気して、次の句で少し溜めを置き、いくらか勢いを緩めた。「銅雀台はすでに築き上げられ、大喬と小喬を欠くのみ。」これは好色の男では……?

「連環の戦船も整い、手はあの周郎を指す。お前はいずこへ逃げるのか――」拍手が沸き返り鳴り止まぬ中、私は指を突きつけ目をフィレンツェの男に注ぎ、今夜の夕食はこの男を食ってやるという気迫で睨みつけた。


 拍手の渦の中でフィレンツェの男も手を叩き、健五がブドウ酒と冷水を一杯ずつ運んでくれた。頭がじんじんと痺れていた。


 フィレンツェの男は笑いながら近づいてきて、拍手しながら言った。「あなたが求める義兵、まずここに一人おります。今こそ教えてもらう時が来た。あなたは誰の代わりに、どこの賊を討ちに行くのかを。」


 私は驚き、これほど脈絡のわからない場面でこれほどの巡り合わせがあろうとは、想像もしていなかった。「あれ?あ、だとしたら――あなたは……」


 フィレンツェの男は両手をポケットに突っ込み、カウンターに寄りかかった。「マルコといいます。フィレンツェ人で、以前ヴェネツィアで傭兵をしながら東方へ旅をしたことがあります。戦歴は数十回、訪ねる国の面積は百万里も及ぶ。この曲も東方で耳にしたものだが、こんなにも潔く魄力のある演奏を久しく聞いていませんでした。」


 私は嬉しくなって声を上げて笑った。「潔く魄力があるとは!私のことをおっしゃっているんですか!」


 マルコはうなずき、そして首を振った。その動作が、誰かと同じだ。「あとほんの少しのところです。あなたには英雄の才はあるが、英雄の欲がない。きっと真の窮地に立たされた時にはじめて、内なる欲望が目覚めるのでしょう。その時こそ、完璧と呼べる。」


 その言葉を聞いて私は急に沈んだ気持ちになり、助けてもらえないかもしれないと思い始めると、マルコの顔にもかすかな憂いが浮かんだ。「すみません!落ち込ませたかったわけではありません。できることなら、やはり力を貸したいと思っています。店主、空き部屋を一つ用意してください。この騎士様と詳しい話をしたいので。」


 裏の小部屋に入る前に、健五が私に親指を立てた。頭はまだぼんやりとしていた、半分は酒のせいで、半分はわけのわからない感覚のせいだ。それでも考えている暇はなく、私はありのまま事情の次第を打ち明けた。フィレンツェの男は話を聞き終えてうなずいた。「タタールのことなら私も聞き及んでいます。彼らが求めているのは結局のところ交易上の利益だけです。もし勝てば盟友にもなれるでしょう。しかし悪い知らせとして、もし勝てなければ、一国も全滅を免れない。」


 自分の耳を疑った。「何とおっしゃいましたか?」


「全滅と申しました。タタールの手順は礼を先に、兵を後に。礼とは外交による降伏勧告のこと。兵とは武力による征服のこと。礼に従って降伏すればあくまでも封土を保つことができますが、戦って敗れた場合は、国中の車輪の高さを超える男子はことごとく生きながらえることが難しい。これは、タングートやカラキタイとかの国で証明されたことです。」


 彼の言葉に衝撃を受けたが、その弁舌の流暢さと険しい表情を見て、信じることにした。「ならば、私たちは彼らに勝てないのですか?」


 マルコは首を振った。「彼らは南方へは豊かな宋の国を制し、無尽蔵の森から一瞬にして百矢を放てる弩機を作る。西方へは万里の商路を奪い、捕虜の職人に百斤の巨石を爆発させる火砲と投石機を作らせた。北方ではルーシの多くの国が服属し、東方は未踏の彼岸にまで達し、」私は思わず震えていた、「それだけでなく無数の駿馬と馬上で自在に弓を引ける射手をも擁している。あなたの歩兵方陣は前進すれば弩機に対処できず、後退すれば騎射に耐えられず、城へ引き籠もれば食料が彼らの属国の補給に太刀打ちできず、城壁も巨石で打ち砕かれてしまう。今の状況で、私にはあなたたちの勝算が見えません。唯一の朗報は――彼らは今のところ分裂しており、いくつかの大国に分かれているようです。そもそも大国の中にも多くの内紛がある、逆に一枚岩な小国に打ち破られるのもあり得る――これは私の知る範囲ではないのですが。貴国では……」


 私は頭を垂れて気持ちを落ち着け、顔を上げ、彼の目を真っ直ぐに見た。「一つ気になります。あなたはかつてタタールのために働いたことがあるんですか?」


 マルコは苦笑いした。「傭兵をしていて一度捕虜になったことがあります。だからこそ、自分の故郷にこのような戦火が及ぶのは絶対に避けたいことです。今すぐすべきことは、ストーリアの軍備を整える手伝いです。」


 私は真剣な表情になった。「私には剣術と文才しかありません。せいぜい倉庫の管理と荷車の扱いで、行軍や布陣については一切わかりません。もしよろしければ、どうかお力を貸してください。」


 マルコはうなずいた。私は既に封印済みの文書を取り出した。そこにはこう記されていた。


「余、ストーリアの専制公は、この者を本国の世襲騎士と認定し、その家族および家人への待遇を保証し、必要な刀槍、甲冑、馬匹を維持することにより、代々変わらぬ奉公と絶対の忠誠を期待するものである。」


 君主と臣下が署名する欄だけが空白だった。マルコは丁寧に読み終え、「世襲」の一語を消して署名した。私が受け取って見ると、「マルコ・アダムス、フィレンツェ市民、一等航海士」と記してあった。


 何も言えず、ただ頭を下げて敬意と感謝を示した。後は引見のみだろうな。顔を上げると、マルコが私を観察しているのに気づいた。恥ずかしくなって机の天板に目を向けると、マルコが問いかけた。「あなたはこの領主のもとで働いているのだから、当然彼女にまつわる噂は聞いておられるでしょう?」


「どんな噂ですか?」吟遊詩人を自称しておきながら、こんな裏話を知らないとは、まったく失態だ。


「この領主は代々女性によって受け継がれているが、彼女たちの夫が誰なのか、誰も知らない。それでいながら跡継ぎ争いが一度も起きたことがない。男性貴族が家系を継いだ後に姿を消したという説もあるが、それでは跡継ぎ争いが皆無だった歴史をどう説明するのか。しかもここはひなびた辺境で旅人は多く住民は少なく、昔から戦えば必ず勝ち、そのせいで誰も領主の交代を気にしない。それゆえ一つの伝説がある――この領主は不老不死の存在であり、その代償として――」


 私は興味津々で聞き入り、答えをうすうす察していた。「毎年、人の生き血を吸わなければならない。」


「あなたもご存じのように、そのような言い伝えはこの辺りどこにでもある。しかしここだけが実に奇妙なのです。女性の領主だけが代々続き、それでいて一度も跡継ぎの問題が起きていない。」


 私はうなずき、かすかに口角を引いて、微かに歯は見せず、唇を緩めない笑みを浮かべた。「おっしゃる通りです。実は私も、その噂に引き寄せられてここへ来たのです。」


「おお?おおっ――?」マルコが声を上げた。「では、あなたのような文弱な方を心配して申し上げますが、その容姿が危険を招くかもしれませんよ。噂が本当なら、若くて美しい男の血液を使うことを吸血鬼は嫌がらないでしょう。もし噂が偽りだとすれば、あなたはこの辺り数十里で最も彼女たちの家系に貢献できる可能性を持つ男性かもしれない。」


 私は笑い出した。「ご心配なく。少し遅れるが、私はあの方の秘書官兼侍従長、三川光です。仕えて今年でちょうど五年になります。あなたの仮定によれば、少なくとも四年前には既に鬼籍に入ったことです。」


 マルコも大笑いした。「それならば、余計な心配でしたね。三川といえば、あのジパングの国の出身でしょう。」……山城の国、だったか。自分でも定かではないが。「とりあえず、明日、あのお方にぜひお目にかかりたいものです。もし可能であれば、引き合わせていただけますか。」


 私はすぐに約束した。「引き合わせる前に、傭兵としての技術と経験を少し教えていただけますか?」


 マルコはやや照れた様子で笑った。「私は水兵士官ですが、陸戦もできます。もし傭兵隊がいればこのような川沿いでは虎に翼ですが、ここには適したガレー船も、使える奴隷水手もありません。私たちは佩剣と噴火の羽根を使い、船には火薬を使う投石機械を積んでいました。ここでは上質な鉄は豊富に取れますし木炭もたくさん作れますが、火薬に必要な硫黄や硝石が手に入らないので、刀・剣・弩・弓を使うしかありません。」頷く、覚える。そもそも東方にはそんなものがあるのかどうか、実はよくわからない。「自分も唯一の強みはタタールが好む騎兵陣形について知識があることで、あとの戦術の知識はあなたと大差ないでしょう。ただ私は一応水陸八十三万人を統べることはもちろんないが、」私は噴飯しそうになった。「――普通の軽歩兵指揮官として役に立てます。水戦については、この三つ巴の川を守れる船が揃ってから考えましょう。」


 私は大いに喜んだ。「マルコ航海士、それではまず我が軽歩兵の訓練はあなたにお任せします。この土地はずっと傭兵に頼ってきましたが、今となっては自力でやるしかありません。よろしくお願いします。」


 マルコはうなずいた。翌朝の合流時刻を十時と決め、早々に退散した。出がけに健五が目で探りを入れてきたので、私はうなずいて答えた。二人揃って長く息を吐いた。


「この男が明日、殿下の前でうまく話してくれますように。」私は誰にともなく、そう願をかけた。

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