【前日譚】湊光
——あの春、俺は恋をした。
中学二年の四月。新学期が始まり、クラス替えの空気にも少しずつ慣れてきた頃。
俺の目に、ひとりの女の子が映った。
名前は、森下遥。
明るくて、誰にでも分け隔てなく接する、クラスの中心的存在。
男子にも女子にも人気があり、自然と周りに人が集まっていた。
「湊くんって、ちょっと静かだけど、優しいよね」
「うんうん。なんか安心感あるかも〜」
そんな風に言われたのが、初めてだった。
当時の俺は、どちらかといえば“地味で目立たないタイプ”だった。
人前で話すのも得意じゃないし、スポーツも平均以下。けれど、本が好きで、
静かに過ごすのが好きだった。自分に自信はなかったけれど、
それなりに平穏な日々を過ごしていた。
遥が俺に話しかけてきたのは、そんなときだった。
「ねえ、湊くん。よかったら、放課後一緒に図書室行かない?」
最初は、冗談かと思った。からかいかと疑った。
でも、彼女は笑っていた。あたたかく、無邪気に。
それが、俺の初恋だった。
* * *
それからの日々は、少しずつ変わっていった。
一緒に登校するようになった。
昼休みに、遥が俺の机に来て、お弁当を広げるようになった。
図書室で借りた本の感想を語り合った。些細なことで笑い合った。
そして、ある日——
「湊くん。好き、かも」
彼女は、そう言って俺の袖を引いた。
顔が真っ赤だった。けれど、目はまっすぐで、冗談ではないと分かった。
——夢みたいだった。
俺なんかを、本当に好きだと言ってくれる人がいる。
信じられなかった。けれど、嬉しかった。
「俺も……好きだよ」
そう返したとき、彼女はふわっと笑った。
あのときの笑顔は——少なくとも、あの瞬間だけは、
きっと嘘じゃなかったと信じてる。
* * *
——だが、それは長く続かなかった。
一ヶ月後。クラスの空気が妙に変わったのに、俺は気づいていなかった。
遥は、以前と変わらず接してくれた。
だけど、ある日を境に、視線が冷たくなった。
「ねえ、湊くん。今までのこと、全部ウソだったらどうする?」
そう、彼女は笑って言った。
その日。放課後の教室で、彼女は俺の前に数人の友達を連れて現れた。
「——“陰キャに告白して付き合ってみる”って罰ゲームだったの。ごめんね〜」
教室に笑いが響いた。
「マジで信じたの?」「キモいんだけど」
「本気になっちゃったんだ? うける〜!」
俺は、言葉を失った。
——心臓が、音を立てて崩れた。
夢みたいだった時間は、全部、笑い話だった。
俺はただの“ネタ”だった。
次の瞬間、走っていた。
悔しさも、怒りも、悲しさも。なにもかも飲み込めず、教室を飛び出した。
——そして、あの場所へ向かった。
* * *
中学校の裏手、グラウンドに面したベンチ。
そこに座っていたのは——幼馴染の優菜だった。
「……光?」
「……何でもない」
「泣いてるじゃん。隠しても分かるよ」
優菜は、そう言って俺の隣に腰を下ろした。
そして、なにも言わずに、ハンカチを差し出した。
俺は、それを受け取って——ただ、泣いた。
悔しくて、情けなくて、惨めだった。
でも、優菜は何も言わなかった。ただ、隣にいてくれた。
やがて、涙が乾いた頃。
「……見返してやりたいよな」
ぽつりと俺がつぶやいたとき、優菜は小さく頷いた。
「うん。光なら、絶対変われるよ。魅力的な男になってさ、後悔させてやろう?」
その言葉が、胸に刺さった。
(——変わりたい)
そう、強く思った。
「絶対に変わってやる——」
それが、俺が中学二年の夏に立てた決意だった。
罰ゲームで付き合って、笑いものにされて。
あのときの悔しさと惨めさは、今でも胸の奥に焼き付いている。
けれど、ただ傷ついて終わりにするなんて、絶対に嫌だった。
だから——変わろうと思った。
* * *
最初に手をつけたのは、見た目だ。
眼鏡をコンタクトに変えて、髪を短く整えた。
母親任せだった服も、雑誌を読み漁って研究した。
最初はぎこちなかったけれど、優菜が手伝ってくれた。
「光、こっちの方が似合ってるよ! シャツの襟は少し開けた方がいい感じ!」
「そ、そうか……?」
優菜は、俺の変化を誰よりも喜んでくれた。
それが、素直に嬉しかった。
次に取り組んだのは、話し方と表情。
表情が固いってよく言われたから、鏡の前で笑顔の練習をした。
声もぼそぼそ話していたから、はっきり喋るようにした。
最初は自分じゃないみたいで恥ずかしかったけど——
「……お、ちゃんと目を見て話せてるじゃん。成長してるなぁ〜」
優菜の言葉が、また俺を一歩前に進めてくれた。
* * *
中学三年になった頃には、周囲の見る目が少しずつ変わっていた。
「あれ、湊くんって……なんか雰囲気変わったよね」
「ちょっとカッコよくなってない?」
そういう言葉を、耳にする機会が増えていった。
でも、俺はそれを鵜呑みにはしなかった。
なにより、自分に言い聞かせていた。
——本当の目的は、“見返す”こと。
罰ゲームで俺を笑ったあいつらに、「やっぱりあいつは違った」と思わせること。
そして、二度と誰にも、あんなふうに笑われない自分になること。
俺は、ただの恋愛に飢えていたわけじゃなかった。
“落とす”という行為を通して、自分の価値を証明したかった。
「本気になったら負けなんだ。俺が、落とす側になる」
いつしか、そんな思いがルールになった。
付き合わなくてもいい。ただ、惹かせればいい。
心を揺らせば、それで十分。
それが、俺にとっての“勝利条件”だった。
* * *
高校入学後。
最初は少し不安だったけど、自己紹介で堂々と話せたとき
——周りの目が変わったのを感じた。
「湊 光くん……けっこうイケメンじゃない?」
「なんか落ち着いてて、大人っぽい……」
そんな声が聞こえるたび、胸の奥がざわついた。
(——俺は、変われたんだ)
あの頃の自分を思い出す。
目を伏せて、声も出せず、笑いものにされて逃げた俺。
でも、もう違う。
今の俺は、誰かの目を見て話せるし、心を掴む言葉も知ってる。
そして——ヒロインたちを、“落とす”こともできるようになった。
* * *
でも——心のどこかでは、分かっている。
この“ゲーム”を続けるたび、どこか虚しくなる自分がいることも。
それでも、やめることはできなかった。
なぜなら、それが俺の“復讐”であり、“証明”だから。
(——俺を裏切ったあいつらに、“あのとき手放したのは損だった”って
思わせてやる)
そう、強く願いながら。
俺は、今日もまた新たなターゲットを探す。
次は、誰の心を揺らすのか。
次は、誰が俺に「本気」になるのか。
それが、俺にとっての、終わらないゲームのルールだった——。
***
「……はぁ」
夕方、人気のない教室で、俺はひとりため息を吐いていた。
今日もひとり、“落とした”。
ただ、心を揺らすだけ。
ただ、惹かせるだけ。
けれど——胸の奥に、何かが引っかかっていた。
(……なんでだ? うまくいったはずなのに)
ヒロインたちは皆、俺に好意を向けた。
幼馴染の優菜、氷の風紀委員長・瑠璃、生徒会長・白河ほのか、そして如月蘭、
天音凛。
俺はそのたび、“落とした”という感覚を確かに得た。
なのに——満たされない。
むしろ、誰かの気持ちを受け止めた瞬間、心のどこかにチクリと痛みが走る。
「……俺、何してるんだろうな」
ふと思う。
もし、俺が本気で人を好きになったとしたら?
今みたいなゲームの延長線上に、それはあるんだろうか。
いや——そんな未来があるとは思えなかった。
なぜなら俺は、自分が本気になることを恐れているからだ。
* * *
あの日。
「付き合ってください」と言ってきたあの子の、無邪気な笑顔。
そして、その裏にあった“罰ゲーム”という言葉。
信じて、心を預けて、笑われて。
——それ以来、誰かに本気になるのが怖くなった。
もう二度と、あんなふうに壊されるのは嫌だった。
だから、先に落とす。
先に惹かせる。
そして、付き合わずに終わらせる。
それが、俺の防衛線。
(……でも、それって、本当に俺が望んでる形なのか?)
ふと、凛の言葉が蘇る。
『私が君を好きだったこと、忘れないで』
あの子の笑顔。あの震える手。
嘘偽りのないまっすぐな想い。
それを“ゲームの成果”と片付けることが、本当に正しいのか——
(俺は、いつの間にか“傷つける側”になってるのかもしれない)
気づかないうちに、自分が一番嫌っていた“あの連中”と、
同じことをしているのかもしれない。
俺は、“笑われる側”から、“笑わせる側”に回っただけ。
その中身は、結局何も変わってないんじゃないか——
「……なぁ、優菜」
思わず、幼馴染の名前が口から漏れた。
いつもそばで支えてくれた優菜。
あのとき俺が崩れ落ちそうになったとき、黙って背中を支えてくれた。
彼女は知っている。
俺がこの“ゲーム”を始めた理由も、本当は脆い心を守るための鎧だってことも。
「もし、俺がこのまま突き進んだら、どうなるんだろうな」
問いに答える声はない。
だけど——
きっと、誰かが泣く。
そして、俺もまた、自分を許せなくなる。
そんな未来が、薄暗く浮かび上がってくる。
* * *
放課後の教室。
西日が差し込む中、俺は席に座ったまま、そっと机の上に手を置いた。
この手で、誰かの心を掴むことはできても、
この手で、自分の本心を掴むことはできない。
(俺は、本当はどうしたいんだろう)
少しずつ、分からなくなっていく。
誰かを“落とす”ことに慣れた代償として、自分の気持ちが分からなくなっていた。
でも——
きっと、もうすぐ終わりがくる。
この“ゲーム”の、決着のときが。
そのとき、俺は——
逃げずに、本当の自分を見つめ直せるだろうか。
そんな予感を抱えながら、俺は、次のページをめくる準備をしていた。
数日後。
俺は、駅前のカフェの片隅にいた。
目の前には、優菜が座っている。
——あのとき、唯一、俺の味方でいてくれた幼馴染。
「……でさ、最近どうなの? その“恋愛ゲーム”ってやつ」
ストレートすぎる問いに、苦笑が漏れた。
「なんだよ、いきなり」
「光の顔見れば、だいたい分かるもん」
「……何が分かるんだよ」
「うん、つまり“うまくいってるけど、全然うまくいってない顔”」
「……それ、なんか矛盾してないか?」
「してないよ。心は嘘つけないんだから」
優菜は、昔からこういうとこが鋭い。
俺が心を押し殺して笑っても、必ず見抜いてくる。
中学のとき——あの裏切りに打ちのめされて、部屋に引きこもってたときも。
「光」
優菜が、静かに口を開く。
「私ね、あのとき、本当に悔しかったんだよ。あんたのこと、
好きだったとかじゃなくて」
「じゃなくて?」
「……好きだったけど、それよりずっと前に、あんたがバカみたいに人を
信じてたとこ、ちゃんと知ってたから」
優菜の声が、少しだけ震えた。
「そんなあんたが、笑われて、裏切られて、嘘だったって知って……
壊れちゃったみたいに見えたから、すごく怖かったの」
「……」
「でもね。だからこそ、あんたが“変わりたい”って思って、
努力したことも知ってる」
俺は言葉を失ったまま、ただうつむいていた。
「オシャレとか、髪型とか、体鍛えたりとか……全部、
笑い返すためだったんでしょ?」
「……ああ。見返してやろうと思ってた。あいつらを。自分を——笑ったやつら、
全部」
「うん。そうだと思った。でも……」
優菜は、そっとテーブルの上の俺の手に、自分の手を重ねた。
「見返すだけの人生なんて、もったいないよ」
「……」
「光はさ、もう十分魅力的になった。外見だけじゃなくて、ちゃんと誰かを見て、
言葉を交わして、心を動かせるようになった」
優菜の瞳は、どこまでもまっすぐだった。
「だから、もう“ゲーム”なんかやめなよ」
「……それが、できたら苦労しねえよ」
「うん、難しいの分かってる。でも、そろそろ“落とす側”じゃなくて、
“本気で向き合う側”になってもいいんじゃない?」
(……俺は、本気で誰かを好きになれるのか)
そんな問いが、胸に突き刺さる。
優菜の言葉は、正しい。
でも、怖い。
また裏切られるかもしれない。
また笑われるかもしれない。
また——本気になったら、壊れてしまうかもしれない。
それでも——
「……ありがとう、優菜」
ようやく出たその言葉に、優菜は小さく笑った。
「何それ。やけに素直」
「お前の前だと、昔の自分に戻るみたいでな」
「ふーん。じゃあ、その“昔の自分”で、これからどうするの?」
「……考えてる」
「うん、それでいい」
* * *
帰り道。
夕暮れの駅前をひとり歩きながら、俺は考えていた。
俺は、もう“落とすこと”に飽きていたのかもしれない。
あるいは、誰かの“本気”を受け取ることが、怖くなっていたのかもしれない。
でも、優菜が言ってくれたように——
俺は、もう十分変わった。
だったら次は——
「……本気で、誰かを好きになる番か」
そうつぶやいた瞬間、心がふっと軽くなった気がした。
これから先、また誰かに出会うだろう。
その誰かは、俺の心を揺らす存在かもしれない。
それとも、俺を変える存在かもしれない。
でも今だけは——
「少しだけ、休もう」
“ゲーム”の終わりを、俺は自分の中で、静かに迎え入れていた。
その先に、何があるのかは分からない。
でも、もう一度信じてみようと思えた。
“誰かを本気で好きになること”を。
そして、自分自身を。
——それが、湊 光という男の、リスタートだった。