討論開幕──言葉の剣と、民意の光と
正午を目前にした都市アルセナの中央広場は、これまでにない熱気に包まれていた。
石造りの噴水を中心に、円形状に設えられた壇上。その周囲を取り巻くように、数百、いや、千を超える市民たちが集まりつつあった。
戦火に疲れ、閉ざされていた顔に、ほんのわずかだが期待と緊張が浮かび始めている。祭りの前の静けさ──だが、これは祝祭ではなく、言葉と信念が激突する政治の場。
広場に立つ兵士たちも、今日は剣を帯びていない。
「……集まり始めましたね」
ユラリアが石守真誠の隣で、静かに呟いた。
「予想より早い。みんな、関心はあるんだ」
「不安もあるのでしょう。“異界人”とやらが都市の行方を語る……多くの者にとって、それは異常なことです」
石守はわずかに頷き、懐から手帳を取り出した。
そして、目を閉じて静かに口を開く。
「《テレリンク》、展開」
スキルが発動する。
彼の視界に、周囲の感情の渦が数値と光の濃淡となって現れた。
《現在の民意可視化:
希望 22%/不信 41%/警戒 26%/無関心 11%》
「……まあ、こんなもんか」
石守はひとりごちる。
希望が見え始めている──だが、信用は得きれていない。
それでも、数字が見えるという事実は、武器になる。
「数字は冷たい。でも、冷たいものを温めるのが……言葉の力だ」
そのとき、広場の中心に設置された壇の上に、数名の人物が登壇するのが見えた。
ローダン伯爵。都市アルセナの防衛を任された統治者。
ヴィレム神官。教会の代弁者にして、保守勢力の象徴。
そして、青年ラセル。昨日、民意の中から代表として推薦された一人。
「……あとは俺か」
石守は深く息を吸い、ゆっくりと壇へと歩き出した。
観衆の視線が集中する。
ざわ……と音のように、空気が震える。
「異界人だ」「あれが市長?」「ほんとに討論なんかで何か変わるのか?」
囁きが、期待と疑念を交えて渦巻いていた。
──けれど、それでいい。
それが今の“この街の空気”なのだ。
「……さあ、始めようか。言葉で、この空気を塗り替える」
壇に立った石守は、ゆっくりと視線を全体へと向けた。
心臓が高鳴る。
だが、それは恐怖ではない。
「元・市長、異界人、改革屋──どんなレッテルでも構わない。
この口で、今ここで、世界の歪みを討つ」
陽光が差し込み、鐘が鳴る。
都市アルセナ、初の“公開政策討論”が今、静かに幕を開けた。
◆
「まずは、各登壇者のご紹介と、議題の確認を行います」
進行役を務めるのは、都市議会書記官。中立的な立場とされる年配の文官が壇中央に立ち、手元の文書を読み上げる。
「本日、公開討論に出席されたのは──都市代表ローダン伯爵、教会代表ヴィレム神官、民兵代表ラセル・グレイ、そして、異界からの来訪者であり特別参与──石守真誠殿」
四者が順に頭を下げ、観衆からざわざわとした反応が漏れる。
「なお、本日の主題は“都市アルセナの未来と、停戦後の方針について”といたします」
その言葉を皮切りに、いよいよ本論が始まる。
「まずは、教会側からのご意見を賜りたい」
司会が促すと、ヴィレム神官が壇上中央に進み出る。
「民よ、よくぞ集われた。我ら教会は、この都市の“魂の守護者”として、異端と混乱から皆を護る義務を負う」
その語り口は朗々としており、声には張りがあった。
だが、その内容は、今まで通りの“古き価値観”の焼き直しだった。
「異界の力、魔の契約、混ざり合うことの危険。それは神の戒律に背くものであり、堕落への道である」
観衆の中には頷く者もいた。だが、石守の《テレリンク》には、別の反応が映る。
《共感:19%/疑念:35%/無関心:31%/苛立ち:15%》
「……流れは悪くない」
石守は自らに小さく言い聞かせる。
「次に──石守殿、お願いいたします」
書記官の促しに応じて、石守が壇上の中央に立つ。
ゆっくりと、観衆を見渡した。
「皆さん。今日、こうして集まってくれてありがとうございます」
冒頭は、静かな声から始めた。
「私は、皆さんと同じく、この都市の未来が心配です。そして、同時に……期待しています」
「なぜなら、この都市には希望がある。理不尽に抗う意思がある。そうでなければ、私は今ここに立っていない」
その言葉に、何人かが息を呑むように静まり返った。
石守は続ける。
「教会は“異界の力”を危険だと断じました。ですが、私はこう考えます。
力そのものが悪なのではなく、それを使う者の心が問われるのだと」
「私は、力を“見える化”して使います。《テレリンク》で、皆さんの気持ちをこうして可視化できる」
再度、スキルを発動。
《現在の感情:共感 41%/疑念 25%/無関心 19%/好奇心 15%》
数字が、確かに変わり始めていた。
「この力が、“支配”や“洗脳”のためではなく、“民意を政策に反映する”ために使えるなら……その価値は、あるはずです」
微かに拍手が起こる。小さな波紋──だが、それは確かに広がり始めていた。
ヴィレム神官の演説に続き、石守が自らの想いと信念を述べたことで、広場にほんのわずかなざわめきが生まれた。
「言葉が届き始めている……」
石守は小さく息を吐き、次の波に備える。
しかし──
「おい、黙って聞いてりゃ……」
広場の片隅から、怒声が飛んだ。
「異界の者が偉そうに! 貴様は神の試練を騙り、この地に混乱をもたらす者だ!」
群衆の一部から、声を荒げて前に出る男がいた。粗末な聖印を掲げた純血派の信徒だ。かつてラセルと交戦した民兵の残党か。
ヴィレムはすかさず、声を張った。
「民よ、聞け! 異端の言葉に心を委ねれば、災厄が訪れる。これが神託なのだ!」
その言葉に呼応するように、数人の信徒が壇にじわじわと近づき始める。
ユラリアがわずかに身を乗り出した。衛兵が緊張する。
「まずいな……」
石守がスキル《読心術》を展開。
――恐怖、不安、そして……“正義感”。
彼らは悪意から動いているのではなかった。ただ、信じる“世界の型”を守ろうとしているだけだ。
「このままだと衝突になる」
彼は即座にスキル《討論誘導》を重ねる。
「皆さん。怒りがあるのは分かります。ですが、怒りをぶつける相手を間違えてはいけない」
石守の声が、広場全体に響く。
「この都市が疲弊したのは、異界のせいではない。争いを終わらせる方法を選ばなかった者たちの責任です!」
ヴィレムが再び叫ぶ。
「だまされるな! 異界の力は災厄の前兆だ!」
しかし、その言葉の直後──石守がスキル《テレリンク》を再発動した。
《現在民意》
・教会の言葉に不安:43%
・石守への期待:49%
・討論継続希望:76%
数値が、可視化される。
広場に、再び静けさが戻った。
「……民が選ぶのです。どちらが“言葉を託す”に足る存在かを」
そう告げる石守の瞳は、揺るぎなかった。
すると、ラセルが前に進み出る。
「俺は……俺は、あんたの言葉を信じる。だって、あんたの言葉は、誰かを縛らない。押しつけじゃないんだ!」
その言葉に、観衆の中から拍手が起こる。
ぽつ、ぽつ……と。
やがて、次第に大きく。
「話を、もっと聞かせてくれ!」
「俺たちが選んでいいって、初めて思えた!」
言葉の波が、怒号を押し流していく。
ヴィレムは唇をかみしめたまま、一歩退いた。
石守は小さくうなずいた。
「……ようやく、始まったな」
民が、聞く姿勢を持った。
討論の“本番”は、ここからだ。
◆
討論は、一つの転機を迎えていた。
昼を越えて、すでに午後の陽射しが西へ傾きつつあるなかでも、都市アルセナの中央広場には人があふれ続けていた。
言葉が、ただ交わされたのではない。
ぶつかり、響き合い、心に刻まれていた。
壇上の中央、石守真誠は再びマイクのように細工された拡声結界の前に立った。
広場をぐるりと見渡し、ゆっくりと語り始める。
「……皆さん。今日は、本当にありがとうございました」
第一声に、会場の空気が緩んだ。
「ここに集まった一人ひとりが、“政治”に向き合った。その事実だけでも、この都市にとっては大きな一歩です」
沈黙と耳を傾ける静けさ。
誰も口を挟まず、次の言葉を待っていた。
「討論とは、ただの言葉の遊びではありません。声を張り上げて勝ち負けを競う場でもない。
そう思っている人が多いかもしれない。でも、違います」
石守の声が、ひときわ強くなる。
「討論とは、意見をぶつけ合うことでなく──“考え”を育て合う場です。違う立場、違う思い、違う視点を持つ者同士が、互いに学び、未来に向けて歩み寄る。そうやって、ひとつずつ、新しい社会が形作られていく」
その言葉に、多くの聴衆が目を伏せたり、誰かと目を合わせたりしながら、静かに反芻している。
そして石守は、視線をある一点に移した。
彼の後ろ──壇の脇に設置された、灰色の大きな木箱。
その横には兵士が一人、守衛のように立ち、人々の足がそこに向かっている。
「この箱、見えていますか?」
石守は手でそれを指し示した。
「“意見投函箱”です。これは、私の提案で今日から導入させていただきました」
広場の市民たちがざわめく。
新たな仕組みに対する好奇と戸惑いが入り混じった反応。
「討論の最中でも、あとからでも構いません。皆さんが思ったこと、感じたこと、言いたいこと──名前を書かなくても構わない。この投函箱に、そのまま入れてください」
「誰の声も、無駄にはしない。すべて読み、すべて記録し、政策や方針に活かす。私は、皆さんと一緒にこの都市の未来をつくりたい」
言葉が、まっすぐだった。
不思議と、嘘や打算を感じさせない。それが、石守真誠という男の“力”だった。
それを聞いていたローダン伯爵が、ゆっくりと立ち上がり、壇の前に進み出る。
「……私もまた、貴殿の言葉に学ばされた。この都市の治者として、私は過ちを恐れず、再び歩み出す覚悟を持ちたい」
その口調には、これまでの彼にはなかった“揺らぎ”があった。
頑なだったローダン。
守旧派の象徴とされてきた男が、今、民の前で己の過ちと向き合おうとしていた。
──変化の兆しだった。
その言葉に、壇上のもう一人の男、教会代表のヴィレム神官が驚きと戸惑いを浮かべる。
「ローダン伯爵……それでは、教会の方針とは──」
だが、ローダンはそのまま、真っ直ぐに言い切る。
「教会もまた、この民の声に耳を傾けるべきです」
「神は、民を導く光であると信じています。ならば、まず民の声に耳を傾けなければ、導くも何もないはずだ」
重く、しかし澄んだその言葉に、教会の支持者の中にも頷く者がいた。
石守は、そのすべてを見届けた上で、最後の言葉を告げた。
「……ここからです。この都市の政治は、今ここから生まれ変わる」
まるで結界のように張り詰めていた空気が、ゆっくりと溶けていく。
どこからともなく、ひとり、ふたりと手を叩く音。
その拍手は、まばらながらも確かに、広場のあちこちから起こり、やがて徐々に重なり、波紋のように広がっていった。
石守は目を細めて、その拍手に耳を澄ます。
──これは、命令ではない。
──これは、強制ではない。
それぞれが、それぞれの思いで鳴らす、自分の意志の音。
民の意志は、もう誰かの命令や煽動で動くものではない。
理解と共感、そして選択の積み重ねによって動く。
言葉がそれを起こすのだとしたら。
討論という手段に、こんなにも大きな力があるのだとしたら。
未来は、変えられる。
「今日の“公開討論”は、歴史の最初の一歩です」
石守は小さく、広場全体に告げた。
「これからも、また開きましょう。この街のために。この国の未来のために」
誰かが「おお……」と感嘆をもらし、また誰かが「聞いてよかった」と呟いた。
小さな波が、確かに起きていた。
こうして、都市アルセナにおける“最初の討論”は、その幕を静かに下ろした。
◆
討論が終わったあとも、広場にはどこか祝祭の余韻が漂っていた。
鐘の音が遠くで鳴り、風に乗って屋台の香りが運ばれてくる。いつもは無言で往来していた人々が、今日は口々に何かを話していた。言葉が飛び交い、笑いが交じり、まだ完全ではないが、確かに空気が変わっていた。
ローダン伯爵は壇を降りながら、ひとつ息を吐いた。
「……ああ、疲れたな」
「お疲れさまです、伯爵。慣れない舞台でしたよね」
石守が肩を軽く叩くと、ローダンはやや気恥ずかしそうに眉を動かす。
「本当に……討論とは、これほどまでにエネルギーを消耗するものなのか」
「ええ、慣れると胃も慣れます」
「ならんでいいわ!」
そこへ駆け寄ってきたラセルが、口を尖らせながら言った。
「まさか、本気で胃の話になるとは思いませんでしたよ」
「いやでもな、ラセルくん、議会答弁のときのほうが地味に胃に来るんだって。市長室で味のしないおにぎり食ってたもん」
「なんの話してるんですか……」
そのやり取りに、ユラリアも思わず吹き出す。
「それでも、今日のあなたの言葉は……まっすぐだった。市民の多くが、あなたの声を“聞いた”と思います」
「そうなら、よかった。あとは、今後どう動くかですね」
「ええ。さて、“敵”はここで終わったとは限りません」
ユラリアが微かに眉をひそめる。
石守も頷いた。
「そう。次の敵は──」
その言葉を遮るように、リーナの声が響いた。
「ししょーっ!!」
「ん、あれ?」
ラセルの妹であるリーナが、母親とともに駆けてくる。
「石守ししょー! 今日の話、すごかった! 大人たち、いっぱい拍手してた!」
「そ、そう? ありがとう、リーナちゃん」
「うちのお母さん、泣いてたよ!」
「う、うん……それは、うれしいけどちょっと恥ずかしいな……」
ローダンが思わず笑いをこらえながら咳払いする。
「リーナ、ししょーに“恥”という概念があるようで、私も安心したよ」
「なにその失礼な感想!?」
◆
笑い声と共に、彼らはその場をあとにした。
都市庁舎の一室に戻ると、そこには簡素な料理が用意されていた。
塩漬け肉と煮豆、パンとスープ、そして薄いワイン。
「やっと飯だぁ……」
石守が椅子に倒れ込むように座る。
「言っとくけど、この会食は“祝勝会”じゃないからね」
「えっ……勝った気分だったのに」
「少なくとも、胃は勝利を求めてる」
「だから胃から離れて!」
笑いが続く中、ラセルが真剣な顔で聞いた。
「ねぇ、石守さん。本当に……これからも続けるの? 討論とか、民意とか」
石守は頷いた。
「うん。これが、僕の戦い方だから。剣よりは、言葉で戦いたい」
「……俺も、そうなりたいな。人の前で、言葉で伝えられる人に」
「なれるさ。君は、ちゃんと“伝える気持ち”があるから」
石守は、笑った。
「ただし……胃薬は常備するんだぞ?」
「それはもういいですって!」
◆
同じ頃、教会本庁区画──都市北端にある古い石造りの塔の奥。
ヴィレム神官は、地下の祈祷室に一人、膝をついていた。
「……導かれるべきは神の意思。討論など、世俗の戯れ……惑わされた、愚かな者どもよ」
彼の前には、古びた聖典と、幾重にも縫い込まれた魔導布。
部屋の中央には、魔法陣が薄く輝いていた。
「異端の光が民意を揺らすというのなら──我らは“神の火”で浄化せねばなるまい」
ぽつりと、彼が呟いた。
そして、振り返ると──そこには、黒衣の者たちが数人、黙して立っていた。
枢機卿直属の“正統審問官”たち。
そのひとりが静かに問う。
「討論で民意が動きました。どうなさるのですか、ヴィレム神官」
「……もはや、言葉では足りぬ。神の教えがゆがめられる前に、“手”を打つしかあるまい」
審問官たちは無言で頷いた。
ヴィレムの手には、赤く染まった小さな封書。
その封蝋には、教会本庁の最高権威を示す“神眼の印”。
「命を懸ける覚悟は、できている。……我らは、“神罰”を下すのだ」
封を解かれたその書簡が、“暴走”の火蓋を切って落とすことになる。
◆
そのころ、屋敷のテラスでは──
「……で、あんたって本当に“市長”だったの?」
「おい! 信じろよ! 信じてくれよ!? 名刺ないけど!」
「リーナにも“ししょーはなんか商人だったの?”って聞かれてましたよ?」
「だめだ、異世界名刺を作ろう……」
「私がデザインします。肩書きは『異界市長(胃弱)』で」
「そのカッコ要らない!」
「異世界ってほんと、カロリー使う世界ですねぇ……」
「でも、面白い」
ユラリアのその一言に、全員が一瞬静かになった。
そして、石守が言った。
「そうだな。……面白くて、やりがいがある世界だよ」
乾杯することもなく、肩を並べた笑顔のまま、彼らは小さな夜を過ごしていた。
だが、その空の向こうに──静かに忍び寄る闇があった。