腐敗の核心──決済者との交渉
「……将軍ボレル様はこの奥です」
ユラリアに案内され、石守真誠は包囲軍本営の中心にある指揮幕へと歩を進めた。
天幕の入口には金糸の刺繍が施された紋章。
重厚な衛兵たちの無言の視線。外面の“威厳”とは裏腹に、その空気にはどこか鈍い腐臭のようなものが漂っていた。
真誠は深く呼吸を整え、一歩、幕をくぐる。
「……おう? なんだ貴様は。ユラリア、こやつは誰だ?」
威圧的な声が空間を支配する。
金ピカの肩章をつけ、椅子にふんぞり返る巨体の男──包囲軍の将軍、ボレル。
その隣で、参謀たちが沈黙している姿が印象的だった。
権威に従うふりをして、心は別の場所にある。そんな匂いが、場を支配していた。
「ご紹介します。こちらは──」
「石守真誠と申します。包囲戦における戦況と市民被害の実態を調査・調整するため、上層より派遣された“外交監査官”とでも認識していただければ幸いです」
実在しない役職だ。
だが、交渉において“存在しない肩書き”など些事にすぎない。“言い切る意志”こそが重要なのだ。
ボレルは眉をしかめ、鼻を鳴らす。
「ふん、上層だの民だの……貴様の言う“民”とは、敵地の市民か? それともこの軍の兵士共か?」
真誠は一歩前に出る。
「どちらも、です。戦場において“命”の重さに優劣はない。
犠牲の拡大は士気と継戦力を失わせ、未来を腐らせます。
“無駄な犠牲”は、戦略の失敗ではなく──政治の怠慢です」
「……っ!」
ボレルの顔が引き攣った。
ユラリアは視線を下げながらも、僅かに口元を緩めていた。
(この男、無理解ではない。ただ、“出世”と“保身”に心を食われている)
真誠は畳みかける。
「将軍。補給線の崩壊、物資の枯渇、兵士の疲弊と逃亡者。
すべて、すでに報告されていますね?」
「……」
「戦術的な勝利を目前にしても、維持可能な支配体制を築けなければ敗北です。
都市の陥落と同時に、あなたの地位は剥奪され、戦後統治は他者に移されるでしょう」
「なっ……!」
「なぜなら、あなたが“戦争を終わらせる計画”を、持っていないからだ」
――沈黙。
その場の空気が凍りついた。
そして次の瞬間、ボレルは硬く拳を握りしめた。
「……貴様の言葉、枢機卿殿にも伝えてみるがいい」
(やはりか。ボレルは“見せかけの指揮官”にすぎない。本当の支配者は──)
◆ 枢機卿との謁見
本営の奥、聖堂を模した豪奢な天幕。
香の煙が漂う中、玉座のような椅子に座っていたのは──教会枢機卿、オルセリオ。
「ようこそ、石守殿。あなたのような知性ある方を、我々は待っておりました」
礼儀正しい言葉の端々から、冷徹な計算が滲み出る。
「我々はすでに、戦後体制について魔導士会や貴族評議会との調整を済ませております。
都市が降伏すれば、すぐに再統治が可能です。……が、頑なに応じませんでして」
「市民との交渉は?」
「市民? ああ……ええ、戦後には教会が“導く”予定です。民の感情など、一時の混乱にすぎません」
(──完全に“人”を“数字”としてしか見ていない)
「都市側は何らかの合意条件を提示していないのですか?」
「時間稼ぎばかりです。魔族との通謀の噂もある。彼らに正義はありません」
(……この男も、“戦争の終結”より“勝利の演出”にしか関心がない)
真誠は、視線を鋭くした。
「オルセリオ殿。もし、あなたが本当に“この地の安寧”を望まれるのならば、一つ提案があります」
◆ 提案──停戦と直接交渉
「都市との一時停戦を取り決め、私が直接都市へ赴き、市民代表と交渉を行います。
目的は、市民の意志の確認と、即時降伏の可能性を探ること。
もちろん、これはあくまで“非軍事的調整”の一環です」
最初は、沈黙。
将軍ボレルも、枢機卿オルセリオも言葉を発さなかった。
だが数秒後、オルセリオが笑みを浮かべる。
「……よろしい。実に面白い。
仮に失敗しても、あなたが“独断専行”したことにすれば済む話。
成功すれば、我々の寛大さと戦略眼が称賛される」
ボレルも渋々うなずいた。
「……行ってこい。ただし、死ぬな。
死ねば、我々の手間が増える」
「心得ています」
真誠は頭を下げ、天幕を出た。
◆ 同行者たち
外に出ると、ユラリアが駆け寄ってきた。
「まさか……都市に行くなんて、あなた正気ですか!? 危険すぎます!」
「危険なのは分かってる。だが、このままでは市民も兵士も未来も潰れる」
そのとき、後方から声がした。
「……俺も、行かせてくれ」
現れたのは、伍長・ラセル。
「都市に家族がいるんだ。俺のこの目で、街がどうなっているのか確かめたい。
それに……あんたの言葉、信じたくなった。軍の中で、誰も言ってくれなかった“当たり前”を、あんたは言った」
真誠は小さく笑い、頷く。
「覚悟はあるか?」
「ある」
「なら、歓迎する」
ラセルの肩を軽く叩き、ユラリアに目を向ける。
「君にも同行してほしい。軍の視点、参謀の視点を、現地で活かせるはずだ」
ユラリアは躊躇い、そして決意のこもった目で頷いた。
「分かりました。私も行きます」
こうして、石守真誠は二人の仲間を伴い、都市との対話という“危うくも希望ある第一歩”へと向かう。
この交渉が、異世界における“市民政治”の夜明けとなるとは、まだ誰も知らなかった。