暴走の代償――神罰を名乗る力に、剣と意志を
──夜明け前、空がまだ深い群青に包まれていた頃。
都市アルセナの北端、ひときわ古い教会の尖塔の奥にある祈祷室には、ろうそく一本すら灯されていなかった。
代わりに、部屋の中心にだけ、魔力の光で描かれた魔法陣が淡く揺らめいている。
その中心にひざまずくのは、ヴィレム神官。
「……討論などという世俗の幻想に、信徒が心を奪われるなど」
声には冷え切った怒気がこもっていた。
彼の手には、封蝋を破られた小さな書簡。そこに刻まれた紋章──“神眼の印”は、教会本庁が発する命令の中でも最も強力なもの。枢機卿直属の命令であり、異端対処の最終手段を示す印だった。
「民意が揺らぐ前に……浄化せねばならぬ」
その言葉に応じるように、祈祷室の扉の陰から黒衣の者たちが現れる。
正統審問官。
法と教義に基づく“神の審判”を執行する者たち。
「標的は“異界人”石守真誠を含む、反教会勢力全て。討論により動いた民意の象徴を、ここで断つ」
ヴィレムは頷き、静かに立ち上がった。
「……神の名の下に、“異端浄化作戦”を始めよ」
◆
同時刻、ローダン城館の執務室。
石守真誠は簡素なベッドから起き上がり、軽く伸びをしていた。
「……まだ夜明け前か」
昨日の討論が、まるで夢のように感じられた。
だが、体には疲労が残っている。頭は冴え、心のどこかで微かな不安が燻っていた。
それが何かは分からない。だが、長年の政治勘が警鐘を鳴らしている。
(何かが起きる──今日、ここで)
そのとき、遠くから小さな爆音が響いた。
「……っ、今のは……」
すぐに廊下を駆けてくる足音。
扉が乱暴に開かれ、ユラリアが駆け込んできた。
「石守! 教会の一派が襲撃を開始した! 正統審問官が、兵を伴って城門前に現れた!」
「やっぱり来たか……」
石守はすぐにコートを羽織り、腰に小型の結界石を装着する。
「民は!? 広場に残っている市民たちは無事か?」
「一部が混乱し始めています。ローダン伯爵はすでに広場へ向かったと!」
「なら、俺たちも行こう!」
二人は廊下を駆ける。
その背後で、また別の爆音──今度は近い。
──正統審問官。
それは単なる武力集団ではない。
魔導と神聖術を併せ持ち、“神罰”を執行する者たち。
彼らが動くということは、教会が完全に“力による支配”へと舵を切ったことを意味していた。
(昨日、確かに言葉が届いた。それが脅威になったのだろう)
石守は奥歯を噛みしめた。
(なら──言葉を信じてくれた人たちを、今度は“行動”で守る番だ)
◆
一方その頃、民家にいたラセルも騒音に目を覚ました。
妹のリーナが不安そうに顔を覗き込んでくる。
「お兄ちゃん、なんか外で……こわい音した……」
「……っ、大丈夫だよ。すぐ戻る」
ラセルは剣を掴み、ドアを開け放って外に出た。
すると──広場の方角から火の手が上がっていた。
「何が起きてる……!? 教会の奴ら……!」
迷うことなく、彼は走り出した。
胸にあるのは怒りと、昨日の討論で感じた希望。
(あの人は、俺たちに“選ぶ力”があるって言ってくれた。
なら、選ばせろよ……こんな“暴力の神”じゃなくて、“自分の意思”で)
ラセルの足が、夜の街を裂くように響く。
アルセナの夜明けは、まだ遠かった。
◆
都市アルセナの中央通りに、突如として響いた破砕音と怒声。それは祝祭の名残を一瞬で吹き飛ばし、広場にいた人々の表情を凍りつかせた。
「──っ!? 今の、何だ……?」
石守真誠が眉をひそめ、視線を建物の向こうへ向けたその瞬間──黒煙が立ち昇るのが見えた。
「火の手!? まさか……」
「……教会本庁から、来た」
ユラリアが即座に判断する。彼女の目は鋭く、騎士としての直感が警鐘を鳴らしていた。
「武装信徒たちが……正面から来る。あれは、審問官の装束だ」
その名を聞いた瞬間、広場にいた元兵士たちや市民の顔色が一気に青ざめた。
「審問官──!?」「嘘だろ……神罰部隊じゃないか……」
かつて、反教会思想を持った村が一夜にして消されたという噂。その実行部隊こそが、教会直属の“正統審問官”たちだった。
「くそ……ローダン伯爵! 急ぎ避難誘導を!」
「了解した!」
伯爵は指揮を取り、周囲の兵士たちへ命じる。
「非武装市民を南通りへ! 老人と子どもを優先して搬送せよ!」
「ユラリア、俺たちはどうする?」
石守が問いかけると、彼女は頷き、剣を手にした。
「……防衛線を敷きます。ここが陥落すれば、討論の意味が消える。私たちが、“言葉”の場を守らなくては」
「了解。俺は……俺は、スキルで後方支援をする」
◆
煙が空を覆い始める中、ラセルはリーナとともに避難路の先頭に立っていた。
「リーナ、こっちへ! 急いで!」
「兄さまっ……でも、討論は……」
「心配いらない。俺たちが守るから!」
ラセルは言い切った。剣を腰に下げたまま、避難する市民の列に背を向けた。
「……戻るの?」
リーナが問う。その声には、不安と同じくらいの尊敬があった。
「うん。俺は“あの人”に教わった。守るってのは、命令されてやるもんじゃない。自分で決めるもんなんだ」
ラセルはそう言い残し、炎と怒声の方へと走っていった。
◆
一方その頃、北門付近では、審問官部隊が整然と進軍していた。
真紅の法衣に身を包んだ彼らの中心には、指揮を執るヴィレム神官の姿がある。
「民が異端に惑わされようとも、神の法は曲げられぬ……」
その声に応じるように、審問官たちが詠唱を開始する。
「──〈神罰発動:燼滅の契律〉」
空気が歪み、白銀の光柱が夜空に伸びた。
だが、それを阻んだのは、地面から突き出した防御陣の結界だった。
「簡単には通させませんよ」
ユラリアが剣を掲げる。後ろには、元兵士たちが即席で築いた防衛線。市街地の通りを使った“瓶の口”戦法が取られていた。
「おい、あの姉ちゃん、ほんとに軍の人なのか?」「かっけえ……」
市民たちの間にも、ユラリアの姿に希望を見いだす者が現れ始めていた。
石守はその後方で、再びスキル《テレリンク》を展開。
《現在民意:混乱 31%/恐怖 42%/希望 15%/戦意 12%》
「……まだ傾いてる。でも、ゼロじゃない。なら、俺の言葉で引き上げる!」
石守は声を張った。
「皆さん、聞いてください! これは“神罰”ではありません! 違う意見を持つ者を、力でねじ伏せようとするただの暴力です!」
その言葉に、広場の人々が振り返る。
「私たちは、昨日、言葉で向き合いました。未来を話し合いました。その歩みを、誰かの一方的な命令で壊させてはいけない!」
ラセルがその横で剣を抜いた。
「俺も立つ! 誰かに命令されたんじゃない。自分で決めたんだ!」
彼の声に、市民の一部が動いた。臆病だった青年が、老婆が、手に棒を、木材を持って防衛線の補強に加わっていく。
「よし……来たぞ、流れが」
石守は笑った。
「言葉が民意を動かした。あとは、止めさせないように──守るだけだ!」
戦いの火蓋は切って落とされた。
街の夜空に、戦火の赤と、希望の灯が交差して揺れる。
だが、その炎の先には、まだ誰も知らぬ“神の本懐”が待ち構えていた。
◆
激戦は熾烈を極めていた。
正統審問官──それは単なる武力ではなかった。
教会の秘術を操る戦闘法官、そして狂信的な信徒による殲滅部隊。
彼らの詠唱が終わるたび、空が裂け、大地が焼かれた。
「《聖火招来》、第七陣、準備──!」
先鋒を指揮する黒衣の審問官が叫ぶ。
その指示に従い、神罰詠唱が再び響き渡る。
──だが、それを断ち切ったのは、石守の声だった。
「《討論誘導》──始めよう。お前たち、“神の名”で暴れて、本当に神が喜ぶと思ってるのか!?」
声が周囲に響いた瞬間、審問官の一人の意識が一瞬だけ揺らいだ。
「なっ……精神妨害!? いや、これは……言葉……?」
混乱の隙を突いて、ユラリアの剣が閃いた。
「神の名を叫ぶ前に、己の剣の意味を問うべきです!」
斬撃が審問官の結界を破り、その男を無力化する。
「各個撃破! 狙いは本陣のヴィレム神官だ!」
ユラリアが叫ぶと、ラセルがそれに呼応した。
「了解っ!」
彼の剣が炎を裂き、前線を突き進む。
市民たちは怯えながらも、誰かが言った。
「守る者がいる……!」
「戦ってるのは、神じゃない、“人”だ……!」
その声が、次第に連鎖していく。
◆
石守は中央広場の壇上に立ち、群衆に向けて呼びかけ続けていた。
《テレリンク》で捉えた民意は、刻一刻と変化している。
《現在民意:混乱 21%/希望 38%/団結 24%/恐怖 17%》
「まだだ。希望は動いてる。もう一押し……!」
彼は手帳を開き、書き殴ったフレーズを読み上げるように、叫ぶ。
「民意は、神の命令じゃない!
選ぶのはあなたたちだ!
命じられて生きる時代は、今日で終わりにしよう!」
市民たちが声を上げ始めた。
「もう怯えない!」
「言葉を、選ぶ自由を俺たちにくれ!」
「もう“神罰”なんか怖くないぞぉ!」
その叫びに、審問官たちの足取りが鈍った。
「おい……揺らいでるぞ」
「こ、これが……“討論”の力……なのか……?」
◆
そのときだった。
「退けいっ……!」
爆音と共に、ローダン伯爵が兵を引き連れて突入してきた。
彼の鎧は土埃にまみれていたが、視線は鋭く前だけを見ていた。
「私は、都市の主として宣言する!
この場において、教会による“軍事介入”は違法と見なす!」
「違法!? 神の命令を、違法呼ばわりするのか!」
ヴィレム神官が叫ぶ。彼の周囲にはまだ数十名の審問官が残っていた。
ローダンは剣を抜いた。
「そうだ。神の名を掲げて市民に剣を向ける者を、我々はもはや信じぬ。
……そして、この都市の守護者として、我は“命ずる”──」
「審問官殲滅の構えをとれ!」
ローダンの号令に、周囲の兵士たちが一斉に前進した。
◆
ラセルが最前線で敵の懐へ飛び込む。
「ここまでだ、ヴィレム!!」
「黙れ、黙れ黙れ……お前たちは、神の代弁者ではない!」
「違うな。あんたこそ、“神”を盾にして、自分を守ってきただけだ!」
ラセルの剣が振るわれ、ヴィレムの足元が崩れる。
そのまま後退した彼に、石守が歩み寄る。
「……終わりにしましょう」
「異界の者よ……お前は、何者なのだ……なぜ、言葉だけで……民が……」
石守は静かに答えた。
「“異界人”じゃない。“この世界の市民”だよ。……たった今、この街で選ばれた、民の声の一部だ」
ヴィレムの目に、かすかな驚愕と、諦めの色が浮かんだ。
そして彼は、ゆっくりと地に膝をついた。
◆
戦闘が終わったあと、夜明けが街を優しく包み始めていた。
焚かれていた火は消され、騒ぎも落ち着きつつあった。
民衆の多くがまだ恐怖と緊張を抱えていたが──
その中で、広場の一角からひとりの子どもが、小さく拍手をした。
そして、その拍手は次第に広がっていく。
「ありがとう!」
「言葉で守ってくれて、ありがとう!」
石守が微笑んだ。
ローダンが隣で肩を並べる。
「……今日、お前がいなければ、この都市は終わっていた」
「皆さんが戦ったんです。僕は、少しだけ風を送っただけですよ」
「謙遜するな」
「そうですね。じゃあ、ほんの少しだけ、誇ります」
ユラリアが剣を収めた。
「さて……異界市長。今日は、あんたの勝ちってことでいい?」
「……うん。でも、明日も戦うよ」
◆
──その夜、ヴィレム神官は拘束された。
枢機卿会議により、教会による“武力介入の不正”が認定され、アルセナでの特権が大きく制限された。
ローダンは臨時評議会を開き、市民からの意見箱制度の恒久化、公開討論の月例実施を宣言。
ラセルは、正式に“市民代表補佐”に任命され、ユラリアと共に治安維持組織の再編に携わることとなる。
そして石守は──
一通の手紙を窓から入ってきた黒いカラスから受け取っていた。
差出人は、南部辺境にある“魔族自治区”からのものだった。
《遠見の術にて貴殿の活躍は拝見した。貴殿の活動に敬意を表する。我らもまた、話す機会を求めている──》
◆
夜の執務室で、石守が独りつぶやく。
だがその表情に、迷いはなかった。
「次は、“魔族”について調べたり動いてみるか。……異世界だとしても、様々な種族との対話や関係値構築はは必要だろうしな」
風が窓を揺らし、ろうそくの灯が静かに揺れた。
──続く、第2章【双界交渉編──沈黙の辺境と魔族自治区】へ。




