嫌がらせ
それはなんの前触れもなく、ある日突然発生した。
仕事帰りだったか、土日に出かけた帰りだったかは、もう覚えてない。夕暮れ時、マンションに帰ってきてエントランス横にあるポストを見ると、私の部屋のポストだけ何十枚ものチラシが詰まっていた。
詰め込まれたチラシはどれもぐしゃぐしゃ……ではなかった。一見、汚れている様子もなく、綺麗と言えば変なんだけれど、新しいチラシのようで、ポストへの入れ方にも煩雑さは感じられない。
できるだけ綺麗に何枚か束ねながらチラシを丁寧に入れ続け、容量オーバーによりうまく入り切らなかった分が、バランス悪く投函口からはみ出している、そんな感じ。
投函口からはみ出たものの何枚かが滑り落ちて床に散らばっているが、それすらも等間隔に人為的に配置されているように見える。チラシがいっぱい詰まっているだけでも気持ち悪いのに、それがさらに気持ち悪さを増幅させる。
最初見た時、ドラマで見るストーカー被害のワンシーンみたいだなと思った。でも、記憶の中のドラマの映像はもっと暴力的で破壊的で衝動的な雰囲気がある。あれがあるから怖いと思っていたけど、なかったらなかったで怖いんだな。頭の中ではそんなふうに冷静に考察している一方で、非現実的なポストの前で私は体を動かせなくなっていた。
何も見なかったことにして、このまま立ち去ろうか。そんな衝動にかられる。でも、どこからどう見ても私のポストが嫌がらせを受けているのは明白だし、ポストから溢れたチラシがマンションの共用エリアを汚しているのに、それを放置するはどうも心苦しい。
悩んだ結果、同じマンションの人に変な目で見られるのは嫌だと思い、私は落ちていた分も含めてチラシを全て集めて持ち帰り、捨てることにした。
ポストはマンションのエントランスのすぐ近くにあるので、外出する時には必ずポストが目に入るようになっている。その日の朝、家を出た時はポストに違和感はなかったはずなので、犯行は私が外出している間に行われたことになる。
床に落ちたチラシを束ねていると、なんとなく引っ掛かりを感じた。最初は何が引っ掛かっているのかわからなかったけれど、束ねたチラシをぺらぺらとめくっていくうちに、違和感の正体に気がついた。詰め込まれていたチラシには共通点があった。チラシはどれも同じサイズだった。
紙のサイズは全てA4サイズの一枚もので、カラーやモノクロ、多少の厚みの違いはあれど、それ以外のサイズのものはなかった。そして、落ちていたものにもポストの中に入っていたものにも破れや、汚れ、引き裂かれた痕はなく、あるのは突っ込む時にできたと思われる少しのしわぐらいだった。
チラシの内容は、成績アップを謳う学習塾のものに、不動産販売。ブランド品買取に、整骨院、ポスティングスタッフ募集など。広告主はばらばらだけど、どの事業所も徒歩圏内にあるものばかりだった。
何枚もタブっているチラシもあり、ポスティングスタッフのいたずらか、もしくは配るのが面倒になって突っ込んだだけなのかもしれない。でも、もしそうならどうして私のポストだけが被害に? 周りのポストを見ても他にいたずらをされた形跡はない。
もしかしたら、他にもやられた人がいたけれど、自分の分だけ片付けたのかも。もしそうなら私のポストも一緒に片付けてくれたらよかったのに……。
あくまでも仮定の話だが、もしそうだったなら私のポストも綺麗にしてほしかったなと、存在するかどうかもわからない人に悪態がつきたくなる。私はため息を一つついてチラシを再び束ねる。
「でも、私でもそうするか……」
チラシを集め終えた時に、はたと気づく。もし私と私以外の誰かのポストがチラシで溢れていたら、私は二人分のポストを綺麗にできるだろうか? 答えはNOだ。恐らくかなり悩んで、自分のポストだけ綺麗にして立ち去るだろう。
だってこんな状況誰にも見られたくないし、私が犯人だと疑われたらたまったもんじゃない。
警察には相談しなかった。一回だけのいたずらかもしれないし、相談して余計に話が面倒になっても困る。
チラシを詰め込んだ犯人は一体誰だろう? 犯人に心当たりはない。身近な所から浅い知り合いに至るまで、候補になりそうな人たちを片っ端から考えてみるが誰も怪しくないし、誰もが怪しく思えてならなかった。
何度も何度も考えたけれど、答えなんか見えてこず、ストレスが溜まる一方だったので、私はチラシが詰め込まれてから一週間後に犯人探しをやめた。これ以上一人でぐるぐる考えたところでわかるはずがないと気がついたんだ。
時間を無駄にしたなあと思う。だから、こんな気味が悪いことはさっさと忘れてしまおうと思った。しかし、事はそんなに甘くなかった。犯人探しをやめて一週間ほど後、また、チラシが押し込まれたのだ。
二度目の日のことはよく覚えている。平日の仕事帰りにマンションのポストの近くに差し掛かった時、「うわ、何これ……」と呟く男の声が聞こえた。何があったんだろうと思いながら近づくと、大量のチラシが溢れかえるポストを見て気味悪がる若い男が立っていた。チラシが溢れていたのはもちろん私のポストだった。
私の気配に気づき振り返った顔を見て、男が私の隣の部屋の男子大学生だと分かった。眼鏡にまでかかる少し長い前髪のせいで根暗そうな印象の彼は、私の顔を見て一瞬顔を引きつらせた後、「こんばんは」とだけ言ってそそくさと部屋の方へ歩いて行った。
もともとあまりいい印象ではなかったが、私の中で彼の印象がさらに悪くなった。
「一体誰、こんなくだらないことする奴は」
私は思わず苛立ち、声を荒げながら乱暴にポストからチラシを引き抜く。それから床に落ちていた分もぐしゃぐしゃに握りつぶしながら、全て回収して家へ帰った。
嫌がらせをしてくる犯人の心当たりがないため、正体不明の存在が私を沸々と苛立たせる。
二回目の被害の後、思いきって近所の交番に相談してみた。しかし、「どうせ元カレとかじゃないですか? もしかして不倫とかされてます? 心配なら今の男にでも家に泊まってもらったらどうでしょう。聞いた感じ大きな被害も出てないようだし、もう少し様子を見てください」と若くてへらへらした警官に雑にあしらわれた。
私は頭に血が昇るのを感じながらも、「そうですか、ありがとうございます」と警官に吐き捨ててその場を後にした。あまりにも腹が立った私は、もう警察に頼らないと決めた。