耳鳴り
「いきなりごめんね……夜だし悪いなって思ったんだけど、誰かの声を聞かずにはいられなくてさ……」
乱れた呼吸に鼻をすする音。電話の向こうの普通じゃない状況に私は慌てて起き上がる。
「大丈夫です?! 舞さん、何があったんですか?」
心配になりついちょっと大きな声になった。私自身声が大きくなっちゃったと思ったぐらいだから、絶対に舞さんにも声は届いているはず。なのに、舞さんは私の質問に対して全く反応しなかった。
「伊織が言った通りだった。やっぱり自分から怪しいものには近づいちゃダメだったよ……」
舞さんの言葉に私はため息がつきたくなった。やっぱりこの人は関わってしまったんだ。でも、関わるって言っても程度があるはず。ちょっとぐらいなら、引き返すというのかわからないけど、もう一度距離を取ればなんとかならないかな、そんな考えが頭に浮かぶ。
「あの、何をしたんですか?」
私は緊張しながら聞いてみた。さっき返事がなかったから、聞いても返事はないかもしれないけれど、今の私にはそれしかできることがない。すると今度はすぐに私の質問に対して返事があった。
「調べに行ったの。図書館なら古い新聞が読めると思ってさ……時間がかかるかもって覚悟してたけど、目当ての記事はすぐ見つかったんだ。やっぱり電信柱で事故死したのはさくら急便の配達員の人だったの」
まずいかもしれない。今のところ予想していた範囲内の事実しか特定されてないし、まだ何もやばい要素は出ていない。でもどうしてだか嫌な感じが背後からまとわりついてくる。
「やっぱりそうだったんですね……でも、わざわざ調べに行くなんて、舞さんちょっと物好き過ぎません?」
私はわざと少し軽い感じで会話を続けた。でも、それとは裏腹に私は自分の心拍数が上がるのを感じている。そもそもその程度の内容で舞さんが泣いて電話してくるかな? 当事者じゃないけど緊張からか鼓動が少しずつ速くなっていく。
「事故は去年の八月だった。それだけなら、やっぱり亡くなったのはさくら急便の配達員の人だったなって思って終わりだったの。でもそうならなかった。だって亡くなった人の名前が、変な配達員の人に入れられた不在票に書かれた配達担当の人の苗字と同じだったから……」
突然耳鳴りがした。耳障りな高音が頭の中に響き渡る。ダメダメダメ、それ以上はいけない。話を聞いている私もやばい気がしてきて「舞さん、ちょっとその話待ってもらっていいですか?」と話を止めにかかる。でも、舞さんはまた私の声を無視して「それでね……」と話し続ける。
「舞さん? ちょっと……あの……舞さん、待ってもらえません?」
私はもう一度話を止めようとした。でも、私の声が存在しないかのように舞さんは「家に帰ってからふと気になってインターフォンの録画データを見てみたの」と声を被せてきた。そんな舞さんの反応を前に諦めたのもあるけど、私は舞さんが何をしたのかが気になり始め、黙って続きを聞くことにした。
「今まで知らなかったんだけど、録画データって自分で消さない限りかなり保存されるみたい。データはリストみたいにはなってないから、順番に画面を見ながら一つずつ遡っていかなきゃいけないんだけど、去年の八月よりも前のもの残ってたんだ。それでね、あったの。変な配達員の人が生きてた頃、私の家に荷物を届けてくれた時の記録が」
「……え?」
ぱっと頭の中が真っ白になった。どういうことかわからない。わからないけど、今やばい話をされたことはわかる。耳鳴りはまだ止まず、気分も悪い。だけど、私はスマホを強く握りしめ耳から離せないでいた。
「去年の一月までデータが残ってたからそこまで見たんだけど、二ヶ月に一回ぐらいのペースで荷物を届けてくれてたの。その時は乱暴なノックもしてないし、インターフォンも連打してないし、手にちゃんと荷物も持ってた。その時は普通だったんだよ」
「舞さん……でも、変な配達員が最初に来たって言ってたのって……」
声が震えた。聞かなくてもわかってる。わかってるけど聞かずにいられなかった。そしてできるなら私の考えを否定する言葉が欲しかった。
「去年の九月だよ。その次は十月の末で私の家に二回も来てる。ねえ、これっておかしいよね? 死んだはずの人が家に来てインターフォン鳴らすってありえなくない?」
ありえないですね。普通ありえないし、これは絶対に特定しちゃダメなやつだ。だから私は言ったのに関わらない方がいいって。なのにこの人どうして……。私は「なんで……なんで調べちゃうんですか? 私ダメって言ったじゃないですか!」と、思わず声を荒げた。すると舞さんが何か呟いた。小さな声で聞こえなかったけど、ぼそぼそと声がする。
「え?」
私は考えるよりも先に聞き返していた。そしたら少し声が大きくなり、「……ないでしょ」と最後だけなんとか聞き取れた。でも、それだけじゃまだ意味がわからない。
「あの、舞さん今なんて言いました?」
気まずくなりおずおずと聞いてみた。そしたらやっと聞き取れる声で反応があった。
「できる訳ないでしょ」
聞き取れた。でも、今度は何のことか意味が分からず、また私は咄嗟に「え?」と聞き返してしまった。
「だから、できる訳ないじゃない! 意味不明なことが起きて、それを忘れて過ごすことなんかできないよ! 調べない方がいいことなんて私もわかってる。でも、普通に生活してるだけでそこら中に思い出すきっかけがあるんだよ? 一つ無視してもすぐまた別の気になることが出てきてずっと頭に居座るの。そんな状況で気にするなっていう方が無茶でしょ……」
「すみません……」
感情が爆発したように大声を出し、でもすぐに力無く声が小さくなっていき、最後はすすり泣く舞さんに私は謝ることしかできなかった。
「インターフォンのデータを確認したのが今日のお昼過ぎ。それでさくら急便の営業所に電話したのが夕方なんだ」
舞さんは私が謝った後、すぐに泣き止み話を再開した。でも、再開早々私の理解が追いつかない。
「あの、舞さん? 電話したってどうして?」
「苗字は同じだったけど、事故で亡くなった配達員の人と、八月以降おかしくなった人が同じ人かはわからないじゃん。だから事故で亡くなった配達員の人が本当にうちのエリアの担当営業所にいた人なのか確かめようと思って営業所に電話したの」
話していて私は舞さんに対しても怖くなってきた。情緒不安定なせいか会話が成立したりしなかったりするのも怖いけど、それ以上に気になるとはいえ何がそこまで舞さんを突き動かしてるのか、舞さんがどこに向かっているのかがわからなくて不気味さを感じた。
「営業所の人にね、『以前、そちらの配達員の村上さんにお世話になったのですが、村上さんは今もそちらの営業所にいらっしゃいますか?』って聞いたの。そしたら、『村上は……現在在籍しておりません』って言われたんだ。『村上という社員はこちらの営業所に在籍しておりません』じゃないんだよ? 返事に変な間もあったし、気になってもっと詳しく聞こうとしたら個人情報なのでって断られちゃった。でも現在在籍していないってのは死んだからだよね? となると事故で死んだ村上さんはうちのエリアの配達員だったってことで間違いないはず。じゃあ、どうして死んだはずの人がうちに来てたの?」
何も言えなかった。どう声をかけたらいいか分からなかった。分からないけど、私がもし舞さんの立場なら同じことをしていたかもしれないと思い始めていた。考えないようにしてもつい考えてしまうようなきっかけがたくさんあったら、私はその全てに蓋をして無視し続ける自信がない。
舞さんの話を聞いていて、一つ気づいたことがある。舞さんの声のトーンが電話がかかってきた時よりも落ち着いていて、話し方もつっかえることなくスムーズになっていた。でも、だからといって本当に落ち着いた訳ではないんだと思う。だって舞さんは一息に話して私に問いかけた後、いきなり笑い始めたから。
いい笑いじゃなかった。声も感情も何もかも乾いた木枯らしのような笑い声。それを聞いて私は悟ってしまった。舞さん自身、自分がもう引き返せないところまで来ていることに気づいてるんだって。
言えなかった。『まだ大丈夫です』『何とかなりますって』なんて無責任なことは口が裂けても言えなかった。だって根拠はないけど直感が『舞さんはもう助からない』って私に告げてきていたから。
舞さんにかける言葉が見つからず私が途方に暮れていると、いきなり耳鳴りが止んだ。私は少しほっとして胸を撫で下ろす。でも、そんな時だった。
「聡い子だ。確かに彼女はもう助からない」
耳鳴りが止んだ直後、耳元で男の声がした。
スマホをあてていたのとは逆、左耳に吐息が当たるのを感じ慌てて横を見たけど誰もいない。突然の出来事に心臓が爆発するんじゃないかと思うぐらい暴れ出す。
気のせいと思いたい。でも、左耳にはまだ息がかかった感覚が残っている。汗は止まらないし泣きたくなってくる。今すぐ部屋を出てお母さんの顔が見たい。けど、私は動けなかった。だってさっき耳元で聞こえた声が『彼女は助からない』って言ったから。
正体はわからない。でも、あの言葉が本当なら舞さんは……。
「え、なんで……?」
電話から聞こえていた笑い声が突然切羽詰まった声に変わった。そして舞さんの声とほぼ同じタイミングでインターフォンが鳴る音が聞こえた。
聞こえたインターフォンの音の回数は三回だった。









