消えたおっさん
「村上さん、コーヒー出てますよ?」
完全に意識が飛んでいた。佐伯の声でおれは自分がぼーっとしていたことに気がつく。
「ああ……すまん。意識飛んでたわ」
慌てて缶コーヒーを自動販売機の取り出し口から拾い上げる。缶を引き抜く時に右手の親指をぶつけてしまい鈍い音がした。地味な痛みが指に走り顔をしかめる。
「大丈夫です? 村上さん最近なんか変っすよ。疲れてないっすか?」
そう言いながら、佐伯はズボンのポケットから取り出した小銭を自動販売機にからからといれ、スポーツドリンクの500mlペットボトルを買った。
午前中の仕事を終えて事務所で休憩していたおれは、喫煙所の側の自動販売機にアイスコーヒーを買いに来ていた。特に何かを考えていた訳でもなく、お金を入れて飲みたいコーヒーの購入ボタンを押していたのだが、ボタンを押してからの記憶がぼんやりとしている。
「疲れてるのかもな……」
おれはため息をつきながら缶コーヒーの開けた。疲れている……かもしれない。でも、夜はちゃんと眠れているし体調が悪い訳でもない。ただ、何故かここのところぼーっとしてしまうことが増えていた。
「またおっさんのことでも考えてたんすか?」
あっという間にペットボトルを半分ほど空にした佐伯がおれ見る。おっさん。ああ、確かにおっさんのことを考えていたかもしれない。おれは佐伯の問いかけを否定できず俯いた。
おっさんが道路に飛び出してトラックにぶつかり、その直後に姿を消してから一カ月が経った。
おれはまだ狐につままれたような気分から抜け出せないでいる。直前まで面と向かって話していた人が事故でぶっ倒れるのも衝撃的だったが、それ以上にぶっ倒れた人も流れたはずの血もおれが見にいったら消えていたことが納得できないでいた。
倒れた人が移動したとかならまだ可能性はあるかもしれないが、水たまりのように流れていた血も消えるって流石に物理の法則を無視し過ぎだろう。
おっさんがいなくなった道路で呆けていたおれは、その後なんとか我に返ると仕事に集中した。正確には集中はできていなかったが、仕事のことだけを考えるようにすることで、なんとかその日の配達を乗り切った。
事務所に帰ってすぐ、おれはちょうど同じタイミングで戻ってきた佐伯におっさんのことを話した。佐伯はおれの話を最後まで黙って聞いてから、「異世界にでも転生したんじゃないっすか?」と笑った。
「異世界?」
意味がわからず首を傾げるおれに、佐伯は「冗談っすよ。そういう展開がラノベとかアニメとかに多いんすよ」と言ったが、どちらにも疎いおれにはなんのことか全くわからなかった。そうか、あの会話からももう一カ月も経つのか……。
「それにしても、本当におっさんはどこに行ったんすかね? おれもずっと見てないし。事故った時周りで見てた人もいないんすよね?」
佐伯の手の中のペットボトルは空になっていた。ここ二、三日は特に暑く、いくら飲んでも喉の渇きが潤わない時があるので気持ちはわかるが流石に早すぎる気もした。部活終わりの学生みたいだと思ったが、おれは口には出さなかった。
「ああ、おれ以外誰もいなかった」
「それからおっさんにぶつかったはずのうちのトラックもいなくなってたんすよね?」
「なかったな。でも、あの日おれは絶対におっさんと会って、それからおっさんは道路で轢かれたはずなんだ!」
佐伯に疑われているような気がして、後半思わず声に力が入ってしまい、声が廊下に少し反響してしまった。
「別に村上さんを疑ってる訳じゃないっすよ。でも、改めて不思議な話だなと思って。それに、楠本さん? でしたっけ? あの人のポストも荒れてないっすよね」
佐伯はおれの態度を気にする様子もなく話を続けてくれた。おれは自分の幼い行為に対して「すまん」と一言詫びてから、「そうだな、荒れてないな」と話を続けた。
佐伯の言うとおり、楠本様のポストはおっさんが消えたあの日から綺麗なままの姿を保っている。
楠本様のポストは荒れていない。荒れていないと思う。楠本様のマンションに配達がある時にしか見ていないから分からないが、見た時は荒れていない。ただ、それとは別に気になることが一つある。どうやら楠本様もずっと家にいないままのようなのだ。
おっさんが消えた日。あの日おれが楠本様の家に持って行った配達物は、保管期限が過ぎてしまい送り主に着払いでお戻しすることになった。
それ以降も、楠本様が定期購入しているであろう化粧品などのお届け物はいくつかあった。でも、それらを持って行ってもいつも不在。おれや佐伯以外のドライバーも「楠本様いつもいないよな」と、事務所で話し出すようになった。
「おれは夜逃げだと思うんだよな。長年の勘がそう言ってやがる」
自信満々に言うのは定年間近のベテラ配達員の山田さん。競馬に競艇、パチンコにパチスロ、博打で大損し続けて火の車のような生活をしている山田さんの勘に信憑性は乏し過ぎるのだが、「夜逃げに違いない」と言い切る山田さんに同調する人もいる。「これまでもそうやって姿をくらませた人を何人も知っている」と山田さんは言うが、おれには楠本様が夜逃げだとは思えないでいた。
手段はさておき、ずっと楠本様に付き纏っていたおっさんが、楠本様が一週間家から出ていないと言っていた。おっさんは頭がおかしかったが、その話は嘘じゃない気がして気になっていた。
もしおっさんの話が本当なら楠本様はどこに行った? 家の中で事切れている可能性もあるが、それなら夏だし既に異臭騒ぎが出ていそうな気もする。となると、やっぱり山田さんが言うように夜逃げで、おっさんの目を潜り抜けてどこかへ引っ越したのだろうか……。
ぽすっ
おでこに佐伯のゆるいチョップが落ちてきた。突然のことに驚いて佐伯の顔を見ると「また物理的におっさんが消えるのはありえないのに……とか考えてません? そんなこと考えても無駄っすよ」
佐伯はおれを見て呆れながら言った。
「無駄ってどういうことだよ?」
「だって人間が作るゾンビ映画でもめちゃくちゃじゃないすっか。進行方向の安全確認をしたはずなのに、少し余所見をしただけで目の前にゾンビがいたりするんすよ? 実体を持つゾンビやエイリアンですらそんな感じなんですから、人間の常識なんて意味不明な事象の前じゃ無意味っす」
フィクションの世界と現実の世界を一緒に語られても、と思ったものの佐伯の言うこともなんとなくわかるのでおれはちょっとの間黙ってしまった。
「おれ、霊感とかからっきしなんすけど、つれに霊感あるやつがいるんすよ。そいつが前に『人が理解できない不思議なことに遭遇したら、なるべくすぐに忘れた方がいい』って言ったんすよ」
「なんで忘れた方がいいんだ?」
ついさっきまで砕けた空気を漂わせていた佐伯がおれをまっすぐ見つめる。イケメンに見つめられるのはなんだか照れ臭いものがあるが、佐伯の目を見てそんなことを考えている場合ではないとすぐに気づく。
「引っ張られるから」
「引っ張られる?」
「よくわかんないんすけど、引っ張られるって言ってました。あと、なんでとか考えても無駄らしいっす。対処法なんて存在しないから、関わっちゃいけないものとして距離を置くしないって言ってました。だから村上さんもあんまり考えない方がいいっすよ。引っ張られ始めたら、もう戻ってこれないらしいので」
引っ張られると言われてもあまりおれはピンとこなかった。でも、真剣な眼差しで告げられたおれには「わかった」としか言えなかった。
佐伯には申し訳ないと思う。おれのことを心配してくれていることはわかっている。でも、おれはおっさんのことを考えずにはいられなかった。
今どこにいるのか?
まだ生きているのか?
何を追いかけたのか?
楠本様と一緒なのか?
どうして楠本様に惹かれたのか?
どうやって楠本様を監視していたのか?
楠本様が姿を消したこととおっさんが消えたことに繋がりはあるのか?
考えても答えなんて出てこないのに、風呂場にこびりついたカビのように、どうしても頭から離れない。佐伯の忠告をちゃんと守ろうとしたが、守れたのは一日だけで翌日からはまたおっさんのことを考えてしまっていた。
佐伯の言葉の意味を理解し始めたのは、佐伯と話した五日後だった。配達中、トラックに乗っていたはずなのに、気づいた時にはおれは電信柱の前にしゃがんで両手を合わせていた。電信柱はいかれた大学生が話を作り上げた例の電信柱だった。
ポケットに入れた社用携帯が鳴り、そこで初めて意識が戻った。着信画面には『非通知』と表示されており、電話に出る間もなく勝手に切れた。
時計を見ると十一時。周りを見渡すとすぐそばにおれが運転するトラックがあった。
朝から配達していて、一区切りつきそうだと思い時計を見たのが十時五十二分。おれはちょうどこの近く、二区画手前に来ていた。そこまでは覚えているが、ここまで来て車を止めて降りた記憶も、電信柱に手を合わせた記憶も残っていない。
おれは一体何をしているんだろう? ここで人が死んでいないことを知っているのに、何故わざわざ車を降りて手を合わせていたんだ? 自分のことなのに訳が分からなさすぎて気持ち悪くなった。真夏で暑いはずなのに背中にひやりと冷たいものを感じる。
「お知り合いだったの?」
突然後ろから声をかけられて、おれは思わず体を震わせてしまった。急いで立ち上がりながら後ろを見ると、手押し車を両手で押すお婆さんがこちらを見ている。
「ここで亡くなったドライバーさんの同僚さんなの?」
この老婆はここで人が死んだと思っているのか。おれはやっとそのことを理解した。これはここで人が死んでなんかいないと説明するいい機会だと思った。思っていた。なのに、おれの口から出た言葉は、おれが話したい内容とは全く別だった。
「そうなんです。私と同い年の仕事熱心な男でした。本当、惜しい人を亡くしたものです」
おれの意思とは関係なく、思ってもいない言葉が流れる水のように口から出ていく。おれは内心すごく驚いているのに、どうしてだかそれすら顔に出すこともできずにいる。
そんなおれを見て、お婆さんは「そうだったのね……」と言うと、無言でおれの横に並び両手を合わせた。