娘になるはずだった女
おっさんの突拍子のない言葉におれはその場で動けなくなった。今おっさんは、おれがおっさんの娘を殺したと言った。でも、当たり前だけどおれには身に覚えがないし、そもそもこのおっさんの娘が誰なのかもわからない。おれが返答に困っていると、肩を振るわせながらおっさんがこちらに向かってきた。
「何のことかわかりませんが、人違いです」
おっさんがおれの元に辿り着く寸前に、早口でおれはおっさんの問いかけを否定した。しかし、おっさんはおれの言葉なんか聞いていないのか、鬼のような形相でおれの目の前まで迫ってきた。
「人違いだと!? じゃあ、お前の職場の誰が犯人なんだ?」
おっさんの唾が顔にかかるが、今はそれを気にする余裕もない。困った事に話が読めない。おれじゃなければおれの職場の誰かが犯人って、どうして決めつけているんだ? そもそも娘が殺されたっていうのも本当なんだろうか。
風貌だけでなく、以前話した時とは口調も全く違う。あの紳士的な雰囲気で迷惑行為をする姿も不気味さを感じたが、今の様子も鬼気迫るものがあって凄まじい。
おれには何がこんなにおっさんを変えてしまったのかわからない。ただ一つ確かなのは、これ以上このおっさんに関わってはいけないということだけだった。
「すみませんが何のことだかさっぱりわかりません。まず、私はあなたの娘さんがどなたかも知りませんし、何があったのかもわかりません。それでは失礼します」
おれはそう言っておっさんから一歩後退りする。
「おれの娘が誰かわからない? そんな訳がないだろう。今まさに荷物を届けようとしてたじゃないか」
このまま距離をとって逃げようとしていたおれの足が止まる。おれは「あの、もしかして楠本様のお父様ですか?」と聞かずにはいられなかった。もしそれが本当なら、このおっさんは思っていた以上にぶっ壊れた人間だ。
「そうだ。いや、近い未来そうなるはずだったんだ。なのに娘は……」
おっさん顔から怒りの色が消え、目に涙が浮かぶ。とりあえず父親ではないことがわかったけど、まだよくわからない。おれはつい「父親になる予定だったんですか?」と聞いてしまった。
「ああそうだ。駅で見かけて、直感的に私の娘に相応しい女だと思っていたんだ。しかし、こういうことは一方通行の愛じゃいけない。お互いの合意が必要だ。お前もそう思わないか?」
おれには一ミリも意味がわからない。でも、真剣な顔で質問をされたので、「それはまあ……」と空気を読んで曖昧な返答をした。
「そうだろう? 血縁関係がない二人が親子の絆を育むには時間がかかるものだ。だから私ははやる気持ちを抑えて様子を見ることにした」
だめだ。何も情報が頭に入って来ない。おれとおっさんでは根本的に考え方というか、何かが違うみたいだった。
「近くで様子を見るようになってすぐ、向こうも私を父親にするに相応しい男と思ったんだろう。私が挨拶をすると挨拶を返してくれるようになったんだ。だから私は次の段階に進むことにした。手紙で愛を伝える段階に」
手紙。あれか、あのチラシの束ぎっちぎちの迷惑行為か。「あの、ポストのチラシのことですよね?」と、おれはおっさんに理解があるふりをした。
「そうだ。しかしだ、ここにきて娘が親である私を焦らし始めたんだ。丁寧に愛を伝えても、それに対する肯定的な反応がない。これには驚いたよ、まさかそんな態度を取られるとは思わなかったからな。でも、ここで慌ててはいけない。親たるもの堂々としていなくちゃいけないからな。だから、私は落ち着いて焦ることなく手紙を出し続けた」
もう自分のことを親と言い切り、楠本様のことを娘と呼び出している。気持ち悪すぎるおっさんを前におれは吐き気さえ感じた。
できることなら今すぐこの場を後にしたい。それに急がなければ他のお客様の配達時間に支障が出る。なのに、一度生まれた好奇心がおれの足をこの場に止まらせる。
「娘の想定外の反応に、しばらくこの段階で足踏みかと思っていたよ。ところが娘が突然体調を崩したんだ。親として娘を心配するのは当然だし、娘が甘えてくるのを待っている場合でもない。だから、体調が悪いと聞いてすぐ、そのレジ袋のように見舞いの品を持ってきたんだ」
わなわなと力なく震える指が、楠本様の家のドアノブにかかるレジ袋をさす。やっぱりこれはおっさんの仕業だったのか。しかもこれ見舞いの品かよ。見舞いの仕方まで狂ってるな、なんて感想が喉まで出かけるのをおれはなんとか押し堪えた。
「娘は嬉しそうに受け取ってくれたさ。流石に向こうも焦らす余裕が無くなったんだろう。帰宅後すぐにドアノブから見舞いの品を外して家の中に入っていった。入って行ったのにだ……」
これまであまり淀みなく喋っていたおっさんが口を噤む。目は力を失い俯いていく。急激な変化におれは戸惑いながら「あの、どうしたんですか?」と声をかけた。
「娘が、お見舞いを受け取ってから、もう一週間も家から出て来ないんだ」
「それは……心配ですね……」
これはおれの本心だ。お愛想でもなく、一週間家を出ていないというのは何かおかしい。そして、一週間楠本様が家から出ていないことを把握しているこのおっさんもおかしい。
「だろう? それでだな。娘が帰宅後に最初に娘の家を訪ねたのはお前と同じさくら急便の配達員だったんだ」
おっさんはそう言うと、がぎりと歯軋りをしておれを睨みつけた。
「本当にそれはうちの配達員なんですか?」
「ああ、間違いない。その制服を着ていたからな。あ、でも、お前、よく見たら背丈が違うからあの時来ていたのとは別人か……」
どうやらおれへの疑いはまだ晴れていなかったようだ。でも、今のでおれがこれ以上疑われることはないだろう。このおっさんにまともな感覚が備わっていればの話だが。
「おい、お前らはトラック以外で配達することはあるか?」
おれは数秒気が抜けていたのでおっさんの問いかけに「は?」と間抜けな声を出してしまった。
「トラック以外ですか? 基本トラックですけど、自転車で荷車を引いて配達するケースもありますね」
「なるほど……でも、あの日マンション近くにトラックや配達に使いそうな乗り物は一台も止まってなかったはずなんだ。それにマンションのエントランスを通る人もいなかった。なのに、気がつけば娘の家の前に立っていたんだ。配達員が」
「なんでそんなことわかるんですか?」
流石に我慢できなかった。一個人がどうしてそこまでマンション周辺や建物内の状況を把握できる? 普通できないだろう。思い込みならまだいいが、もし何かしらの方法で把握していたら犯罪の香りしかしない。
「おい、おれは父親だぞ? できることならなんだってやるのが親の務めだろうが。くだらないことを言わせるな」
おっさんは呆れた顔をして言った。そんなおっさんの様子を見て、これは確実に何かしらの方法で、おっさんはマンション周辺の情報を得ているとおれは確信した。把握方法も聞こうかと思った。でも、さっきの質問に対するおっさんの反応を考えると、これ以上聞かない方が身のためだと判断し断念した。
「配達員がトラックや配達車なしでお届け先に向かうことはありません。だから可能性としてうちの配達員ではないケースも考えられますね」
これは事実だ。そもそも、トラックや配達車はお届け物を運ぶためのものであると同時に、配達員の移動手段でもある。基本的に徒歩で届けることはないし、ここは営業所からも離れている。となると徒歩で配達というイレギュラーケースの可能性も限りなくゼロだ。
「じゃあ、どうしてここに来たやつは配達員の制服を着ていたんだ。説明がつかないだろ」
この質問に対する正解をおれは持ち合わせていない。制服に似た服を着たやつによるいたずらな気もするが、そんな特殊なことをするやつが実在するとも言い難い。
「それは……」
おれが返答に窮していると、おっさんが何かに気がついた。突然おれの背後を指差して「あいつだ!」と大声を上げた。
おれは急いで振り向いたが、そこには誰もいなかった。
「ここで張ってれば、絶対また来ると思ってたんだ。絶対に逃がさん!」
おっさんはそう言っておれをその場に放置して駆け出した。そして、「待て!」とか、「止まれ!」とか叫びながら、おれが登ってきたのとは別の階段で下に降りて行った。
「なんとか、乗り切った……か?」
おれはおっさんから解放されて、思わず全身の力が抜けた。楠本様の状況はわからないし、本当に一週間ほど引きこもっているのかどうかも不確かだが、とりあえずこの場をさっさと脱しようと思った。
「待てって言ってるだろうが!」
マンションの下から声がする。
楠本様の家の前から離れ、おっさんが向かったのとは違う方、おれがさっき登ってきた側の階段に向かって歩いていた時だ。おれは気になって下を覗いた。
ここは三階。それほど高くないから地上の様子ははっきり見える。下を見るとおっさんが「止まれ!」と言いながらマンションから走って出て行った。しかし、おっさんが走る前方には誰もいない。
おっさんは明らかに誰かに向かって声を出しているし、誰かを追いかけている様子だ。なのに、どこを見ても追われているであろう人の姿はなく、おっさんがただ一人で走っているようにしか見えない。おっさんは幻覚でも見てるのだろうか? それともやっぱり頭がいかれているのか、なんて思いながら階段に向かった時だ。
大きなブレーキ音と、鈍い衝突音がした。
音はマンション中を駆け巡り、おれはびっくりして思わず体を震わせていた。急いで引き返して柵からマンションの下を見ると、車道でおっさんが頭から血を流して倒れていた。
血が止まらないのだろう。おっさんの周りに赤い色がどんどん広がっていく。そして、おっさんの側の電信柱には、うちの配達用トラックと思われる車がぶつかっていた。
「まじかよ……こんなことになるなんて」
おれは急いで階段を駆け降りてマンションの外を目指した。トラックがうちのだとすると運転手は誰だ? これは大事になるぞ。焦りからか鼓動が早くなるのを感じる。
急に走ったことで呼吸が上がり、脇腹に鋭い痛みが走る。それでもなんとか走り続け、マンションの外に出たおれは自分の目を疑った。道路には誰もいなかった。
電信柱にぶつかっていたはずのトラックもなく、車道に倒れていたはずのおっさんの姿もない。しかも、道路に流れていた血の跡すらない。
「どうなってんだ……」
おれは何もない道路でそう言わずにはいられなかった。