悪趣味
不運な日というものは、何をやっても不運なのだろう。今日は朝から運がなかった。
まず雨。朝起きたら腰が痛かった。大学時代、引越しのアルバイトをしていた時に腰を痛めてからというもの、雨の日は腰が痛い。鈍く重たい痛みが体に張り付き、動くのをかなり阻害する。寝起き早々嫌な気分になった。
腰をさすりながら起き上がり、枕元に置いていたスマートフォンを見ると充電が切れていた。寝る前に充電をしていたつもりが充電器に繋ぐ前に寝落ちしていたらしい。スマートフォンを充電器に繋ぎ、すぐにテレビの側のある小さなデジタル時計を確認する。そこでおれは自分の目を疑い愕然とした。七時半。出勤時間を考えると、もう家を出ないといけない時間だった。
「やっべぇ……」
寝起きの頭が秒で覚醒、おれは大慌てでシャツに着替えて出勤準備に取り掛かった。一度もアイロンがけをされたことのないくしゃくしゃのシャツを着て、少し汚れが目立ち始めたスラックスを穿くと、おれは家を飛び出した。
最寄り駅までの道を傘をさしながら全力で駆け抜ける。地面を蹴るたびに跳ね上がる水滴がスラックスの裾を濡らす。ああ、気持ち悪い。
駅まで歩いて十五分の道のりを、なんとか八分で移動する。二十代の頃はそれほど苦も無く走れた距離が、三十を超えた頃から足が重たくなり、三十五歳の今では駅に着いてもなかなか息が整わなくなった。高校時代、陸上部で磨きをかけた走りは見る影もなく、代わりに存在感を示すのはベルトの上に乗った贅肉だけだ。
なんとか始業前に間に合う電車に駆け込み、おれは一安心する。しかし、それも束の間、嫌な予感が過ぎる。スラックスのポケットに手を突っ込み、それが予感ではなく現実であることに気づく。スマートフォン、充電器に刺して持ってくるのを忘れていた。
扱いが悪いせいで傷が目立つ腕時計を見ると、ぎりぎり始業前に会社には行ける時間だ。とてもじゃないがスマートフォンを取りに戻る余裕なんて残されていない。
「仕方がない、このまま行くか……」
ゆっくりと動き出す電車の窓から外の景色を眺め、自分に言い聞かせるように独り言を言った時だった。けたたましい警報音が車内に響き、電車がブレーキをかけた。
『お急ぎのところご迷惑をおかけして誠に申し訳ございません。ただいま危険を知らせる信号が発信されており、緊急停止いたしました。確認いたしますので車内でお待ちくださいませ』
舌打ちが出た。我慢するとかそんな選択肢なんてなく、気がついた時には舌が勝手に動いていた。そしてその直後、無数の鋭い視線がおれを突き刺した。わざとじゃないのにと思いつつ、おれは居心地の悪さに俯くしかなかった。
「間宮、お前は一体何度言ったらわかるんだ!」
四十分の遅刻。大学卒業から勤める小さな広告代理店に出社して早々、課長に呼び出されて怒鳴り散らされた。説教の内容は多岐にわたる。
朝の無断での遅刻から始まり、おれが先日提出した資料の不備、顧客からのクレーム、プリンターの不具合のことまで文句を言われた。
資料の不備は課長が「最後おれが入力しておくな!」と言っておれから取り上げたくせに、自分が入力し忘れていただけだ。そもそもおれの仕事じゃなくて、課長が作らないといけない資料だったのに、面倒だからとおれに押し付けてきたやつだし。
顧客からのクレームは課長のお気に入りの若い女性社員の言葉遣いが悪いことが原因だし、プリンターの不具合も目の前の馬鹿が、エラーが出ているのに無理やり使おうとして余計な操作をしたからである。
「なんだ? 不服そうな顔をしてるけど、文句でもあるのか?」
どうやら顔に出ていたらしい。文句しかないけれど、上層部に媚を売りまくり気に入られている課長に逆らうのは得策ではない。おれは不満が爆発しそうになるのをなんとか我慢して「ご迷惑をおかけして申し訳ございませんでした」とだけ言った。
「わかればいいんだ、わかれば。今後はもっとちゃんとしてくれよ?」
課長はそう言っておれの肩を軽く叩くと席を離れていった。
課長に叱られた後も散々だった。課長お気に入りの女性社員に対するクレームを入れてきたクライアントに謝罪に行き、帰社後はまた課長に仕事を押し付けられた。全く仕事をせずスマートフォンをいじるだけの課長を横目に、どうしてこんな奴が課長なのかと沸々と不満を募らせていると、「おれ、ちょっと外出するからさ、これもよろしく」と言ってさらに仕事を押し付けられた。
同じ部署の他の社員たちは憐れむ目でおれを一瞥するが、巻き込まれないようにするために我関せずの態度をとる。課長は過去にもパワハラ、セクハラで人事部に通報されていたがそれを悉く上の力を使って揉み消しており、一度目をつけられると諦めるか会社を辞めるしか方法がないのが現状だ。
どうして課長が上層部とそんな密に関係があるのかは誰もわからないが、調べようとした人が過去に何も言わず突然退職していたので、踏み込んではいけない領域だと部署の暗黙の了解となっている。
なんとか押し付けられた業務をこなし、会社を出る。最近会社が残業に厳しくなり、残業がしにくくなった。基本給が安く残業代をあてにして生活をしていたので、ここのところ少し財布が寂しい。
十九時に会社を出て、寄り道をせずに帰宅する。我が家である賃貸マンションが見えてきた時、マンションの前に運送会社のトラックが見えた。そうだ、今日は通販で買った鹿児島の芋焼酎が届く日だった。
月に一本、通販で焼酎を買っている。ちょっといい値段のものを買って自分へのご褒美にしているのだ。トラックの運転席から運転手が降りて荷台から荷物を下ろすのが見える。たぶんあれはおれが買った焼酎だろう。
配達員がマンションに入るのを見ておれは歩く足を止めた。おれはここ最近ハマっているストレス発散法を行うことにした。
今、少し早歩きをすればきっと荷物を受け取ることができるだろう。でも、おれはあえてそれをしない。配達員の人に対して申し訳ないと思う気持ちもゼロではないのだが、指定された時間に届けに行っても不在という状況に苛立ちを感じる配達員を見ると、「ああ、理不尽なことでストレスを抱えるのはおれだけじゃない」という謎の満足感が得られるんだ。
最初はそんなつもりはなかった。先月だったか、たまたま電車の遅延で帰りが遅くなった日に、すんでのところで受け取ることができなかった。その時の荷物が何だったかは覚えてないが、顔を曇らせながらトラックに戻る配達員の人の表情を見て胸がときめいてしまった。
それからだ。ストレスが溜まった日に荷物の配達が重なると、わざと受け取らない日が出てきた。配達予定時間に帰宅が間に合ってしまう日は、わざわざ寄り道をして時間潰しまでした。
自分でもやばい性格だと思う。でも、そう思いつつも何故かやめられずに何度も繰り返している。上手く言えないが謎の優越感にハマってしまった。でも、そろそろ潮時な気もしている。最近、配達員が引き返した直後に、別の変な配達員が来るようになったのだ。