集荷漏れ
ドアノブにかけられた白いレジ袋の中身は、普通だけど普通じゃなかった。
詰め込まれていたのはペットボトルのスポーツドリンクに野菜ジュース。紙箱に入った高そうな栄養ドリンクに、よく名前を聞く有名なサプリメント、それから疲労回復の効能がありそうな入浴剤。
かなり健康に気を遣ってくれていそうなラインナップ。でも、袋への入れ方に異常さというか狂気を感じる。なぜなら袋の中が気持ちが悪いぐらい綺麗だったから。
綺麗と言えば聞こえはいい。でも、この綺麗さは不気味過ぎる。サイズも形状もバラバラのものが詰められているのに、外側から見ると袋の中に正方形の何かが入っているのかと思うぐらい形が整えられていた。
袋の中央に位置するのは大手製薬メーカーのスポーツドリンク。そのペットボトルのキャップの上には、白い長方形の付箋が貼ってあった。そこには赤ペンでご丁寧に『取り出す時はこれを最初に引き抜くように』と、ペン字の教科書にお手本として載っていそうな字で書かれている。
寒気がした。ぞわりとして思わず体が震える。不審者に家の前まで来られたことも気持ち悪いけど、それ以上に『~するように』と、謎の命令口調をされたことにすごく嫌悪感を感じて鳥肌が立つ。こいつは一体何様のつもりなんだろう?
袋をこのまま思いっきり投げ飛ばしてやりたい衝動に駆られる。でも、マンションの上から投げて下を歩く人に当たってしまったら大問題だ。私はなんとか湧き上がる衝動を抑え込むと、指先でつまむように袋を持って家の中に入った。
ポジティブに考えよう。実害が出た。家のポストにチラシを詰め込まれただけでなく、家のドアにまで不審な物を置かれた。置かれた物の中身はともかく、不審な人物が家のドアの前まで来ているというのは十分危険な状況だと考えられる。これなら警察にも今まで以上に相談しやすい。
犯人の心当たりも一人、限りなく黒に近い人物が浮上した。今日私の体調不良を知る人物は会社の人か、もしくは家を出る時にあったおじいさんだけだ。会社の人がわざわざ見舞いに来る可能性は低いし、こんな奇妙な見舞い品を持ってくる可能性は限りなくゼロに近いので、消去法で犯人は絞られる。
それに、このレジ袋の中身とこれまでのポストに詰め込まれたチラシにはなんとなく共通するものを感じる。どちらも必要以上に整った詰め込み方をされていて、その異常さからポストの迷惑行為の犯人もおじいさんだと私は考えている。
今までこんな気の狂ったことをする人に心当たりなんてなかった。けれど、情報が揃った今ではあのおじいさんが犯人で間違いないと思っているし、そのことに対して驚きよりも「やっと犯人を見つけた!」という達成感の方が大きい。
ストーカー被害にようやく終わりが見えてきた、そう考えるとなんだか少し救われる気がした。
今日、私は暗くて悪いものから解き放たれた。これからは全てがいい方向に進む、だから大丈夫。
私は自分にそう言い聞かせると、気持ち悪い差し入れ品を玄関の隅に置いてなるべく視界に入らないようにした。それから、お風呂の支度を整えて、湯船にゆっくり浸かった。
嫌なことはお湯で流してしまい、明日から明るい気持ちで頑張ればいい。ストーカー被害も犯人がわかったから、あとは警察に突き出すだけだ。
警察に相談する前にマンション前でおじいさんと遭遇する可能性はゼロではない。万が一のことを考えて、遭遇してもすぐ110番通報ができるように身構えておこう。もしかしたら咄嗟になんて電話で説明したらいいのかわからなくなるかもしれない。でも、どんなに緊張で焦ったとしても、ちゃんと住所だけは言えるようにしておかないと。そんなことを考えていると、いつの間にか長風呂をしてしまい、私はすっかりのぼせてしまった。
熱を帯びた体をエアコンの風で冷ましながらパジャマを着ていると、インターフォンが一度鳴った。時計を見るともうすぐ九時になるところ。こんな時間に誰だろう? モニターを確認すると配達員の人の姿が見えた。
「はい」
夜遅くに配達なんて大変だなあと思いながら、通話ボタンを押して応答する。しかし、モニターに映し出されたさくら急便の制服を着た配達員の人は、私の声に対して無反応だった。帽子を深くかぶっていて顔は見えないけれど、たぶん何も返事をしてくれていないと思う。
「あの、何か御用ですか?」
配達員の人が家の前に来ているんだから用があるに決まっているし、その用件は荷物の受け渡しであることも明白だ。だけど、なんとなくまだドアを開けることに抵抗感を感じて、私はもう一度モニター越しに呼びかけてみた。
「……………………」
何か言っているみたいだった。反応があって安心した反面、ちゃんと聞き取れなかったことで少し申し訳ない気持ちにもなった。でも、ちゃんと聞き取れるようにもっと大きな声を出してくれたら良かったのに、と心の中で少し腹を立てたくもなった。
「あの、すみません、ちょっと聞き取れなくて……」
ドアを開けてもいいような気がしたけど、胸の中に起きた僅かな苛立ちから、私はもう一度聞き返してしまった。私自身ちょっと意地悪だなと思う。でも思った時には言い終えた後だった。
画面越しに配達員の男性の様子を見る。配達員に目立った動きはなく、相変わらず口がもごもごと動いていて、ぼそぼそとした声が時折り耳に入ってくる。
何を言ってるんだろう? 不気味な感じだなあと思うと同時に、ある疑問が浮かび上がった。口がずっと動いているってことは、何かを呟き続けている? それにたまに聞こえるこの声には聞き覚えがある。この声はあの奇妙な配達員の……そう思うと背筋に冷たい汗が流れた。
そうだ、インターフォンを切ってしまおう。私は右手の人差し指をインターフォンの通話終了ボタンに伸ばす。
「集荷漏れがございました」
ボタンに触れかけた指が止まった。男の声がした。それはインターフォンのモニター越しでも、玄関からでもなく、私の右の耳元で、はっきりとした滑舌で言われた。その声は昨日も聞いた聞き覚えのある配達員の声だった。
声が聞こえた時、右の視界の端に私に話しかける人の顔のようなものがちらついた。私はすぐに右を確認した。でも、ちらりと見えたはずの顔はどこにもなく、部屋の中には誰もいない。しかし、耳には男の声と吐息を感じた余韻が残っていて、今のが気のせいだとは絶対に思えない。
何が起きた? 何がいた? あの声は奇妙な配達員の声だった。でも配達員は玄関のドアの前にいるはず。どうしてこんな至近距離で声が? いや、その前に彼には今日許してもらえたはずだ。それなのに何故また彼が私の家に来ている?
混乱しながらもう一度モニターを確認する。すると、配達員はまだ私の家の前にいて、相変わらず口を細かく動かして何かを呟き続けている。
一瞬配達員に何も変化はないと思ったけど、徐々に呟く声が大きくなってきていることに気がついた。声はさっき耳元で聞こえた声、奇妙な配達員と同じ声だった。声が大きくなるにつれて男の呟きが聞き取れるようになってくる。
「どう…………じ…………し…………のじ…………に………………」
ずっと聞いていると同じ言葉を繰り返していることがわかった。静かに言葉を繰り返す背後に、ある感情が込められているのをなんとなく感じる。
「どうし……じか……し…………のじか……にい……」
今すぐインターフォンの通話を切りたいのに、恐怖のせいか指を伸ばすことも、モニターから目線を外すこともできない。
「どうしてじかんしていのじかんにいない」
奇妙な配達員はずっと『どうして時間指定の時間にいない』と、繰り返し呟いていた。何の話だろう? 私は彼にさっき許してもらったはずだし、昨日の今日で配達員の人に不在配達による迷惑もかけていないはずだ。
…………いや、本当にそうだろうか? ざわざわと胸騒ぎがして私は徐々に自信を失い始める。昨日は母からの荷物があって不在票が入っていた。その後、男に家に入られたり、奇妙な配達員が来たりして、そのまま寝てしまい不在票は……。
頭から血の気が引くのを感じた。昨日の不在票はそのままテーブルに放置している。再配達の依頼もできていない。でも、配達員の人が気を利かせて今日も荷物を持ってきてくれていたのかも……。
今日私はポストを見ていない。チラシが詰め込まれていないことに満足して、確認せずにポスト前を通過してしまった。もしかしたら、ポストの中に新しい不在票が入っている可能性がある。時間指定はしていないけど、不在配達という点で迷惑をかけたことには違いない。ということはこれは……。
考え込んでいるうちに無意識に俯いていた私は、恐る恐るモニターを見た。するとそこにはこちらを凝視する配達員の顔があった。
配達員の顔を見て、私は思わず息を呑んだ。だって初めて見る配達員の顔が人間のものではなかったから。
口から上の部分はぐちゃぐちゃだった。油絵具で乱暴に真っ黒に塗りつぶされたような顔。本来人間であれば目があるであろう部分からは、体に突き刺さるような視線を感じる。
何度も繰り返される『どうして時間指定の時間にいない』の言葉には、雰囲気から強烈な怒りが込められていると考えていた。そして今配達員の顔を見て、私はその考えをさらに強く確信した。画面越しから痛いほど伝わる感情に晒されて、私は震えながらいつの間にか涙を流していた。
恐怖のせいで呼吸は乱れ、震える歯ががちがちと大きな音を立てる。心臓が急激に心拍数を上げて、部屋中に自分の鼓動が響いているよう気分になる。私はどうすればいい? 許されたと思っていた。思っていたのにそうじゃなかったの? それとも、許してもらったのに、私はまた怒らせてしまった? それなら私はどうすればいい?
誰かに助けを求めたい。でも、この状況を誰が変えることができるだろう。大声で泣きたいのに、まともに息が吸えず、声を出すことすらできない。
「「集荷漏れがございました」」
また耳元で声がした。モニターに「どうして時間指定の時間にいない」と繰り返す配達員が映っているのに、同じ声が左右両方から聞こえた。そして、声と同時に正面を見つめる私の左右の視界の端に男の顔のようなものがちらついた。
動けない。右を見ることも、左を見ることも怖くてできない。正面から首も視線も動かせない私。視界が涙で歪み、モニターがぼやけて見える。ああ、解放されたと思って、あんなに喜んでいたのに……。
「「集荷漏れがございました」」
左右の視界の端で再び口が動く。そして左右にいる声の主がそれぞれゆっくりと私の肩の上に手を乗せる。こんなことをされたらもう逃げられないと思った途端、吐き気が一気に喉をせり上がる。
そんな私の嗚咽をかき消すかのように、モニターからは今尚「どうして時間指定の時間にいない」と繰り返す声が流れている。
「「集荷漏れがございました」」
また左右から声がする。そして、力無く垂れ下がった私の両手首が力強く握られる。涙で歪みきった視界は次第に暗くなっていき、どんどん何も見えなくなっていく。ああ、私は諦めるしかないのか。そう思った時、五度目の「「集荷漏れがございました」」が左右から聞こえた。
ついに視界が真っ暗になる。その直後、全身で何かに衝突したような衝撃と、電気を流されたような激痛が走る。反射的に叫びそうになったけど、息が吸えていなかったので短い呻き声が小さく部屋に響いただけとなった。そして、その呻き声が私の最期の声となった。









