嫌な現実
憑き物が落ちたみたい。そんな気分だ。昨日あんなことがあったのに、胸の中にあった重りのような感情が動き、体もなんだか軽くなったような気がする。
マイナス要素のない、明るくてポジティブな何かが水のように流れ込み、私の中を満たしていく。その何かで全身が満ち足りているのに、心も体も軽く感じるから不思議だ。
もう大丈夫。何に対して大丈夫なのかはわからないし、どうしてかもわからないけど、「大丈夫」と言いながら誰かが優しく背中に手を添えてくれているような気がして、安堵している自分がいる。
暑さも、流れる自分の汗も、汗に濡れて体にまとわりつく服すら気にならない。たった数分、いや、数秒で大きく自分の気持ちが変わったことに驚きつつも、ここに来て良かったと心から思った。
できればさっき拝んでいたあのおばあさんにもう一度ちゃんとお礼が言いたい。でも、別れてからそれなりに時間が経ってしまった。ダメ元で周りを少し探してみたけどそれらしい人影はなく、私は肩を落とした。
駅までの道を足取り軽く歩く。途中で喉が渇いていたことを思い出して、自動販売機で缶コーヒーを買った。何も考えずに目に入った自動販売機を使っただけだったけど、それは当たりつきの自動販売機だった。
小銭でぴったり120円を入れてミルクたっぷりのカフェオレを購入する。しゃがんでコーヒーを取り出し、立ち上がると同時に数字が回っているルーレットの画面が視界に入ってきた。これ、いつも最後の一桁が違う数字になってはずれるんだよな、なんて思いながら眺めていると、数字が綺麗に『7 7 7 7』で揃って止まった。
今まで当たりつきの自動販売機で飲み物を買ったことは何度もあるけど、自分が当たったのも、当たっている人を見るのも初めて。だから、数字の並びを見て一瞬見間違えかと思った。
「当たった……の?」
思わず大きな独り言が出る。そしてもう一本飲み物が買えることに気がついた私は、さっき買ったカフェオレと同じ銘柄で、パイプをくわえた紳士が描かれた微糖の缶コーヒーを購入した。120円で缶コーヒーが二本。かなり得した気分だ。些細なことだけど、何かがうまく回り始めている、そんな気がした。
カフェオレを飲みながら駅へ向かい、そのまま家の最寄り駅まで移動した私。寄り道せずに家にまっすぐ帰ろうとしたけど、駅から一歩踏み出したところでぴたりと足が止まった。このまま帰ってゆっくりするのもありだけど、なんだかそれは勿体無いような気がして。
せっかく仕事を休んで出かけたんだから、普段できないことがしたい。休息も大切だけど、気分展開も必要だと思った私は、駅を挟んで私の家とは反対側にある駅前の商店街を散策することにした。
商店街には閉店でシャッターが閉まっているお店もたまにあるけど、書店や喫茶店、美容院や整骨院に飲食店が並んでいて、それなりに賑わっている。チェーンの居酒屋やカフェも見かけるが、昔からありそうなお店もたくさんあって、前を通るだけでも楽しい気持ちになる。
商店街に色んなお店があるのはずっと前から知っていた。三十を過ぎた年、異動により引っ越してきた当時は何度か見て回った記憶がある。その時の買い物が楽しくて、定期的に遊びに来たいと思っていた。でも、年を経る毎に忙しさが増していき、なかなか買い物に行く時間が取れなくなっていた。また、時間に余裕があっても体力に余裕がない日々が続き、近所なのにここ数年は特に足が遠のいていた。
昔ながらのお茶屋さん、白い外観が眩しくもかわいいケーキ屋さん。歴史を感じる婦人服店に、たくさんの本が店先に並んだ古本屋さん。前をゆっくり歩くだけでわくわくする。どのお店に入ろうかな、どこも入ってみたいけど、お金も時間も限りがあるので吟味しながら商店街をねり歩く。
商店街の真ん中あたりまで来た頃、木目調の外観がおしゃれなイタリアンバルが見えた。店先に立てられたA面ボードには、残念ながら提供時間は終わっているが今日のランチメニューがチョークで書かれている。丁寧な字で書かれたA面ボートから、今日のランチはトマトソース系のパスタだったことがわかる。
美味しそうと思った途端、急にお腹が空いてきた。そういえば昨日は晩御飯を食べてないし、今日は食パンを焼かずにかじっただけ。水分はとってるけど摂取カロリーが少な過ぎる。イタリアンバルの入り口を見ると『Open』と書かれた小さな札が下がっていたので、私は迷うことなくお店に入った。
レンガ調の壁紙に濃いブラウンの木製テーブルが並んだ店内。夕飯時には少し早いけれど、若いカップルや家族連れ、私のように一人で来ている客の姿があった。
商店街が見える窓際の席に案内された私は、壁にかかった黒板の「本日のおすすめ」のメニューからトマトソースパスタとハウスワインを頼んだ。パスタもワインも非常に美味しくて、「今日はなんて素晴らしい日なんだろう」、なんてアニメ映画のプリンセスが言いそうなセリフが頭に浮かんだ。
普段の私が聞けば「お寒いこと」と思うような感想はさておき、私は「今日は特別な日だから」ということで本日のおすすめメニューから生ハムメロンやチーズの盛り合わせ、それからワインのおかわりを注文した。追加注文分を胃袋に納めた後もたくさん食べてたくさん飲んで、満腹になった頃には日はとっぷり暮れていた。
上機嫌で帰った私。こんなに素敵な日はこのままの気分で今日を終えたい、そんなことを考えながらマンションに到着する。マンションに入る時、もしポストが残念な状況だったらどうしよう、そんな心配が頭をよぎる。こんな日の嫌な予感ほど当たるものはないことぐらい私だってわかる。心地よい酔いは一気に覚めてしまった。
緊張しながら自分のポストの様子を伺う。すると、ありがたいことに私の予感は外れ、ポストは今日出かける前に私が片付けたままの外観を保っていた。
流れが変わった。これまでの私なら、今日は絶対にポストはチラシで溢れていたはずだ。せっかくの素敵な一日が最後の最後に最低な日に塗り替えられる。そんな展開が見えていたのに、そうはならなかった。私は嬉しさのあまりポストに向かってガッツポーズを繰り出した。
なんて素晴らしい日なんだろう。昨日の最悪な日と比べると差が激し過ぎて戸惑ってしまう。昨日の出来事が帳消しになった訳ではないけれど、今日は本当にいい日だった。
足取り軽く階段を登りきる。こんな日がずっと続けばいいな、なんて考えているとばったりお隣の男子大学生と出会った。
「こんばんは」
根暗そうでいい印象がないため、普段なら挨拶するのも面倒だなあと思ってしまうけど、今日は何の躊躇いもなく自然と挨拶の言葉が口から流れた。
「こんばんは、体調悪いそうですね。お大事に」
すれ違い様に、男子大学生はぼそぼそと小声だったけど挨拶を返してくれた。それどころか私の健康の気遣いまでしてくれている。
「ありがとうございま……え? 今、なんて?」
私は思わず振り返って男子大学生を見る。どうして今日初めて会うのに私の体調が悪かったことを知っているんだろう? 驚きのあまり大きな声が出てしまった。私な声に驚いたのか、男子大学生も勢いよく振り向いてきた。
「体調悪かったんでしょ? 夕方、おじさんが家の前に来てましたよ。差し入れだとかって」
私に質問されるなんて思っていなかったんだろう。嫌そうな感情が隠しきれておらず、口調にも目つきにもそれが出ている。どうして私がそんな態度をされなきゃいけないんだと腹が立つけど、そんなことより私には確認しなきゃいけないことがあった。
「あの、おじさんってどんな人でした?」
「どんなって、優しそうな背の高いおじさんですよ。白髪の」
そこまで言うと、彼は迷惑そうな顔で「これからバイトがあって急いでるんで」と言い私の反応を見ることもなく早足で階段を降りてしまった。
なんて態度だ。近所付き合いが希薄とはいえもう少し人との接し方というものがあるだろう。私は苛立ちを感じたけど、今はそんなことどうだっていい。私にはそれ以上に気になることがあった。家の前までおじさんが来ていたって言ってたけど、それは一体何者なんだろう? 心当たりが一人いなくもないけどあまり考えたくない。
背筋に嫌なものを感じながらも家へ向かう。せっかく素敵な一日だったのに、こんなところで台無しにさせてたまるか。私は強い意志のもと家へ急いだ。でも、自分の家のドアが見えた時、思わず足が止まった。
ドアノブに中身がぎっしり詰まったレジ袋が下げられていた。