事故現場へ
「こんにちは。今日はお休みをいただいたんです」
突貫ながらも笑顔を作って挨拶をかえす。おじいさんからかけられた言葉は、当たり障りのない一般的な挨拶だし、口調も普通。でも、やけに眩しい笑顔のせいだろうか? おじいさんからは不自然な馴れ馴れしさを感じる。顔見知りと言えばそうだけど、透かせば向こうが見えるぐらい薄くて浅い関係性だ。それにも関わらず、何故か親戚ぐらい親しげな雰囲気を出してくる。その妙な馴れ馴れしさに悪寒に似た居心地の悪さを感じる。
「そうでしたか。体調でも悪いんですか?」
顔を曇らせて心配そうな仕草をするおじいさん。そのリアクションに嘘っぽさや演技臭さはなく、本気で心配をしてくれているんだろうなと思う。でも、赤の他人である私を、どうしてそこまで気にかけてくれるんだろうという疑問により、申し訳ないが余計に鳥肌が立ちそうになる。
「ええ、朝起きた時に少し調子が悪くて、念のためお休みをいただいたんです。午前中ゆっくり休んだら、もうすっかり良くなったので、今から気分転換をしに買い物に行ってこようと思うんです」
これ以上心配そうな態度を見せられるのは避けたかったので、私は少し無理をして笑顔を強め、元気なアピールをした。おじいさんはそんな私を見て、「そうでしたか。あまり無理をなさらないようにお気をつけて」と笑顔で見送ってくれた。
客観的に見れば、ただのご近所付き合いにしか見えない。私も当事者じゃなければきっと同じことを思うだろう。しかし、面と向かって会話をしていると、表情や仕草の節々に、親族や家族を想起させるような心理的な距離の近さ、馴れ馴れしさを感じた。
私はおじいさんに悟られぬように少しだけ早歩きでマンション前から離れた。おじいさんから距離が離れていっているはずなのに、何故かぞわりとする視線をずっと背中に感じた。自意識過剰であってほしいと思いながら、マンションの角を曲がる時に後ろをさり気なく見てみる。すると、私の期待も虚しく、おじいさんが笑顔でこちらを見つめていた。
些細なアクシデントはあったものの、私はなんとか気持ちを立て直して目的地に向った。交通事故があったであろう、花が供えられた電柱の立つ場所へ。
真夏日までとはいかないけど、七月の午後の日差しは強く、容赦なく空から私を照りつける。紫外線対策のアームカバーの中が蒸れてくるのを感じつつ、私は日陰を探しながら歩き続ける。
少しでも楽をするために、最寄駅から電車で一駅移動して、可能な限り距離を詰めてから歩いてストリートビューで見た電柱を探す。幸いなことにスマートフォンの地図アプリのおかげで、迷うことなく私はゴールに到着することができた。でも、スムーズに到着できたものの、到着した頃にはすっかり暑さに体力の大半を持っていかれていた。
ゴールはストリートビューで見た通り、駅から少し離れた住宅街の中にあった。中央分離帯もなく、細い道路で車も人の往来も少ない十字路。その十字路に面する一軒家の側に探していた電柱があった。ストリートビューで見た時と同じように、電柱の足元にお花と飲み物が備えられていた。
暑さに多少やられてはいるものの、青々しさを保った仏花。その横には冷えたまま置かれたであろう、汗をかいた缶ビールとスポーツドリンクのペットボトルが一本ずつ置いてあった。
ここだ、そう思った時だ。二、三メートルぐらいだろうか。私の少し後ろで「あ、今日は誰か来てくれたのねえ」と、優しさを感じる声がした。振り向くと白い日傘を差した、品のいいおばあさんが一人、電柱の下のお供物を見て言った。
夏物の薄いブラウスを着たおばあさんは、私の存在を気にすることもなく電柱の側へ歩み寄る。そして、持っていた生成色の布製のトートバッグから新鮮な仏花とミネラルウォーターの入ったペットボトルを取り出して電柱の下に供えた。そしてまたトートバッグに手を突っ込むと、今度は黒い数珠を取り出して両手を合わせた。
語彙力が乏しくそのままの表現過ぎて恥ずかしいけど、「絵になる」と思った。暑い日差しの中でおばあさんが静かに拝む佇まいは、何時間でも見ていられる、そんな気さえした。私は目の前の光景に完全に心を奪われていた。
不謹慎だとはわかっている。でも、どうしてだかおばあさんが祈っている目の前の景色に、私は一枚の美しい絵を見ているような、そんな気持ちにさせられていた。
「あの、すみませんがどなたが亡くなられたのか、お伺いしてもよろしいでしょうか?」
おばあさんがトートバッグに数珠をしまうタイミングを見計らって、私は声をかけた。缶ビールがあるのでここで亡くなった人は子どもではないだろう。おばあさんの年齢を考えると息子か娘だろうか。私の推測ではその人は運送会社で働いていたはずだ。そして、その運送会社はさくら急便なはず。
「そうねえ、たぶん男の人じゃないかしら」
少し困り顔で言うおばあさん。予想していたリアクションと異なるので、私は思わず首を傾げる。
「たぶん、ですか? あの、こんなことを伺うのは恐縮なんですが、ここで亡くなったのはご親族やご友人ではないんですか?」
不躾な質問なのは承知の上で私はおばあさんに聞いた。だって誰が亡くなったのかわかっていないのに、あんなに熱心に拝んでいたなんて私には信じられなかったから。
人は、誰が亡くなったのかもわからない場所へわざわざお供えをして、熱心に手を合わせることができるのだろうか? 私の中に大きな疑問が浮かび上がり、同時にさっきまで胸を満たしていた感動が一気に流出していく。
「いいえ、そういう関係とは違うわねえ。そもそも関わりも面識もない方よ」
できてしまうのか、見ず知らずの人の死をこんなに丁寧に悼むことが。そのことが衝撃的過ぎて、「そうなんですか……」としか言えず、私はその場で固まってしまった。
私が何も言えずにいるとおばあさんが優しい口調で説明をしてくれた。
「二、三年前かしら。ある日突然、気がついたらここにお供えがされるようになったの。私、この道はお散歩のコースでよく通るのよね。それで事故でもあったのかしらと気になっていたら、ご近所さんが教えてくれたの。『兄が仕事中にここで亡くなったんです』ってお花を持ってきた男の大学生を見たって」
お婆さんの説明を聞いて、『仕事中』という言葉が気になった。やはり、私の推理が正しい気がする。「仕事中っていうのは、もしかして亡くなられた方は運送会社勤めでしたか?」と聞きたくなる気持ちをなんとか抑えて、「仕事中に……ですか」とだけ相槌を打つ。
「そうみたいよ。詳しくは知らないけれど、どうもかなり仕事熱心なお兄さんだったみたい」
お婆さんは「惜しい人を亡くしたわね」としみじみと言った。私がさっき調べた話に出てくる配達員の人も、話を読んだ限りでは仕事熱心な人の部類に入るだろう。あの話の事故現場はここで間違いないはずだ。
「それでね、お兄さんを亡くされた学生さんはここからかなり遠くに住んでるみたいでね、なかなか顔が出せないらしいのよ。そのお話を聞いてね、ほんの少しだけかもしれないけれど、私が代わりにお供えをしてあげたら、亡くなったお兄さんもちょっとは寂しさが紛れるんじゃないかと思ってね、たまにこうしてお供えをしているの」
少し気恥ずかしそうに話すお婆さんを見て、私は胸が痛くなった。興味本位でここまで来た私と違い、亡くなった方のことを考えて足を運んでいるこのおばあさんはなんて心の綺麗な人なんだろう。そして、私はなんて未熟な人間なんだろう。なんだか自分が情けなくなる。
「私の他にも町内に何人かお供えをしてる人がいるの。ちゃんとお話ししたことはないけれど、みんな同じ気持ちでやってるはずよ」
そう言うおばあさんの顔からは優しさがにじみ出ていた。そんな顔を見て、私はついさっきまで、おばあさんに亡くなった男性が運送会社勤めだったかどうかを聞こうとしていた自分が恥ずかしくなった。
私はお婆さんにお礼を言い、すぐに駅前に向かった。駅を出た時に見つけたスーパーに入ると、すぐにお花コーナーへ向かった。そこでお供え用の花束を手に取り、それから缶ビールを買い物かごに追加するとレジへ急いだ。
強い日差しを受けて、自分用の飲み物も買えばよかったなあと後悔しつつも、私は再び事故があった電柱の所へ向かう。そして、買ってきたお花とビールをお供えしてから手を合わせた。
昨日は助けてくださり本当にありがとうございました。そして、安らかにお眠りください。
ありきたりな言葉だけど、私は心の中で真剣に祈った。祈っている間、車も人も誰も通らず、鳥の鳴き声さえない静かな時が流れた。
合掌をやめて目を開けた時、まるで私の祈りに呼応するかのように、目の前が心なしか輝いて見えた。ほんの一瞬だったので気のせいかもしれない。でも、気がつけば私の頬に一筋の涙が走っていた。