彼は遭遇した
大きな、そして乱暴なノックが三回。それから立て続けに「さくら急便です。さくら急便です。さくら急便です」という威圧的な男の声が家の中に響く。
ここはリビングだというのに、玄関のドアの向こう側から怒鳴るように発される男の声がしっかりと聞こえた。私が平常心を失っているからなのか、男の声がいつもより大きく、そして乱暴な気すらした。
私はなんとなく気づいていた。目の前で刃物を持つマスクの男と、変な配達員が別人であることを。陰湿な笑みを浮かべながら、わざとらしく優しい声で語りかけるように話す目の前の男。その声音と、過去に三度聞いた配達員の男の声音が全く違ったから。
違う人だろうという予想が的中し、思わず「ほら、やっぱり」と口に出しそうになるのをぐっと堪える。でも、私の周りはどうしてこうも狂った人間が多いんだろう? 悲しいけど一周回って自分でも笑ってしまいたくなる。
改めて目の前の男を見ると顔が死んでいた。先程まで貼り付けていた薄ら笑いが消えて、あらゆる感情を失った無表情の仮面でもかぶっているみたいだ。笑顔も気持ち悪かったけど、これはこれで思考が読めず気味が悪い。
「お知り合いですか?」
男が仮面顔のまま聞いてきた。今の奇妙な呼びかけを耳にした上で、この男は本気で聞いてるのだろうか? 私は耳を疑いたくなる。
衝撃のあまり返事ができないでいると「無視ですか? 知り合いかと聞いてるんです」と男に言われ、私は大慌てで首を左右に振る。知り合い? とんでもない。相変わらず冷や汗は止まらないし、心臓もどくどくしているけど、変な配達員の訪問によって空気が変わり、僅かだけど落ち着いて考えられるようになった。
「助けを呼んだ……訳でもなさそうですね。携帯を今すぐに渡してください。私は様子を見てきます。怪我をしたくなければ絶対に変なことはしないでくださいね」
男の視線が私の右手に向かう。私はそこで初めて、いつの間にかスマートフォンを握りしめていたことに気がついた。
「さあ、早く」
男が刃物を私にぐっと突き出す。余裕がないのか口調にも少し苛立ちを感じる。私はこれ以上刺激しないために男にスマートフォンを渡した。
「その場所から動かないように」
男は念を押すと、私に背を向けないようにしながら玄関に向かった。一時的に男の姿が見えなくなる。動くなと言われたけど、行動するなら今しかない。
ベランダに出て窓を閉めるか、トイレに逃げ込んで鍵を閉めるか、生存率が高いのはどっちだろう? 急いで考えなきゃ、そして動かなきゃ。頭の中でいろんな考えが巡る。でも、考えが少しもまとまらないし、緊張のせいか足がすくんで体も動かせない。
早くしなきゃ男が戻ってきてしまう。でも、そう思うと余計に焦りさらに考えが滅茶苦茶になる。
ガチャン……
ゆっくりとドアが開く音がした。男が外を確認するために開けたのかもしれない。
「誰ですかあなたは? いきなり人の家のドアを開けるなんて何を考えているんですか?」
刃物を持つマスクの男の声がした。誰かがドアを開けたらしい。きっと驚いたんだろう。マスク男の口調はさっきまでと明らかに違い、声が大きいし早口になっていた。
普通に考えるとこれはチャンスだ。今の状況をドアを開けた人にうまく伝えることができれば、この局面を打開できるはず。
しかし、ドアを開けたのは一体誰? こんな時間に……いや、時間に関係なくいきなり人の家のドアを開ける、その時点で異常だし、まともな人間じゃない。しかも、タイミング的に外にいるのは……。
「ご不在の為お荷物を持ち帰りました」
胸がどきりとした。決して胸高鳴るときめきなんかじゃない。心臓を見えない大きな手で握りしめられているような、強いプレッシャーが襲いかかる。この声は例の配達員の声だ。
「は? 何を言ってるんです? さっさと帰ってもらえませんか?」
マスク男が苛立ちを隠そうともせずに言った。
「ご不在の為お荷物を持ち帰りました」
二回目の同じ台詞。なんだか無慈悲な通告のように感じる。配達員は会話の成り立つ相手ではないのかもしれない。私の体は小刻みに震え出したけど、なんとか耳を澄ます。
「知るかよそんなこと。荷物って言うけどあなた何も持ってないじゃないですか。それより早く失せろって言ってるでしょう?」
戸惑いからなのか、マスク男の口調にぶれを感じた。
「ご不在の為お荷物を持ち帰りました」
三回目の同じ台詞。三回目……実は変な配達員が来るようになって、私は頭の中で「三」という数が引っかかっていた。
三という数字には色々なイメージがある。私にとって一番印象的なのは、社会人になりたて頃、初めての上司に「どんなに辞めたくても、仕事は短くても三年は続けろ」ってよく言われたことだ。石の上にも三年だと。因みにその上司は気前はいいけど仕事があまりできなかった。
あとは三に関して思いつく言葉は、
三日坊主
早起きは三文の徳
三人寄れば文殊の知恵
三度目の正直
そうだ、『三分間待ってやる』、なんて有名な大佐の台詞もある。あれは優しさなんかじゃなく、弾切れだったから大佐にも三分ほど時間が必要だったんだと、仕事ができない上司が部署の忘年会で話していた。
緊急事態だというのに、私の頭の中はどうでもいいことばかりで埋め尽くされていく。マスク男が声を荒げて何か言ったようだけど、私は聞き漏らしてしまった。
「ご不在の為お荷物を持ち帰りました」
四回目の同じ台詞。私は思わず廊下を見た。ここからでは玄関の様子が見えないので、何が起きているのかかなり気になる。でも、絶対に向こうを見に行ってはいけない気がした。行けば私も不吉なことに巻き込まれるような気が。
「仏の顔も三度」
誰かに耳元で囁かれた気がした。それが自分の声だったことに気がつくのに数秒かかった。自分で口に出した覚えはないけど、無意識に呟いていたんだろう。
どうして今この状況で独り言が出たのかはわからない。それに、変な配達員と仏がリンクしないけれど、「三」繋がりで今一番しっくり来るのはこの言葉だった。
玄関の方向を眺めながら、マスク男は『終わった』と思った。根拠はない。でも、それは正しかったようだ。
音がした。鈍い音だ。重たいボーリングの玉を高い所から座布団や布団の上に落としたような、鈍くて大きな音が一度。それから後を追うように硬い何かが床に落ちる音。そして、落下物が床で跳ねて転がる音がリビングへ届いた。
「集荷が完了しました」
配達員の声がした。そして、玄関のドアが開き、人が外に出る音がした。ドアは当然のように閉められ、部屋は静寂に包まれた。家の中に私以外の存在の気配はない。
何度か深呼吸をし呼吸を整えてから、私はそっと廊下の様子を伺った。まだうまく立つことができず、私は四つん這いで玄関が見える位置まで移動した。やっぱり廊下には誰もいなかった。
突然大きな振動音が廊下に響く。私は驚き体が大きく震えた。音がした方を見ると、廊下の壁際に落ちた私のスマートフォンの画面が光っている。ショートメッセージの通知だった。
通知欄を見ると母からだった。
「荷物今日届くから」
遅すぎる連絡に腹が立った。返信なんてしてやるものか、そう思いアプリを閉じようとしてもう一つの通知に気がつく。
ご不在の為お荷物を持ち帰りました。こちらにてご確認ください xxx.####..com
迷惑メールだった。









