素敵なポスト
嫌な予感というものは、何故かよく当たる気がする。月曜日なのにあまりにも忙しい一日を終えてマンションに帰ると、朝とは変わり果てた姿のポストが私を出迎えてくれた。
ぎっしりとチラシが詰め込まれたポスト。もう初見ではないのに、やはりこの光景は何度見ても慣れないし、見えない鈍器で頭を殴られたようなダメージを受ける。
クレームと社内のくだらない会議。それからその会議にまつわる雑務に追われ、お昼もまともに食べられなかった。仕事が終わる気配がなかったので、残りは明日の私に任せることにして、残業をそこそこに切り上げてきた。
あまりの疲労にすぐにでも湯船にゆっくり浸かりたい私に、今からチラシを片付ける余力なんて残っていない。悪いけど今日は見なかったことにして家に帰る、そう思って通り過ぎようとした。でも、目の端に映り込んだ紙切れが私にそれを思いとどまらせる。
立ち止まってもう一度ポストを見る。すると押し込まれたチラシの束から、細長い紙がはみ出ているのが見える。薄紅色の短冊型の紙だ。
もう一度見なかったことにしてしまおうかとも思ったけど、さすがにできなかった。私は力無い足音を響かせながらポストに近づくと、短冊型の紙をポストからずるりと引き抜く。引き抜いた時に二、三枚チラシが床に落ちたけど、それは気づいていないことにした。短冊はさくら急便の不在票だった。
今日届く物に心当たりはない……と思っていたら、送り主の名前を見てため息が出た。
『楠本 りつ子』
母の名前だった。母はたまに野菜ジュースやよくわからないサプリメント、聞いたことのないブランドの栄養ドリンクを送りつけてくる。気持ちはありがたいけど、野菜ジュースは好きじゃないし、よくわからないサプリメントや栄養ドリンクは飲む気になれず、いつも処分に困っている。
もう送らないでと何度言っても、半年ほど経つと「前のとはちょっと違うから」というよくわからない理由でまた送ってくる。どうやら母に送ることをやめるという選択肢はないらしい。
せめて事前に一言言ってくれたら、受け取りができる時間を運送会社に伝えられるのに。それも毎回言っているのに、事前に母が連絡をくれたことはない。
たくさんのチラシをそのままに、大きなため息を一つついてから、私は家に向かった。たった数分で疲労感が二倍以上になったような気がした。
重たい足をなんとか動かして部屋の前に着く。今のところいたずらは玄関のドアまでは迫って来ていない。そのことに安心しながら鍵を開ける。
「月曜日なのに、どうしてこんなにハードなのっ!」
背後でドアが閉まった瞬間、心の声が口から飛び出した。雑に靴を脱ぎ捨てて、ハンドバッグから今日一日お世話になったタオルハンカチを抜き取ると、そのまま廊下にバッグをリリース。その勢いのまま洗面所に向かって、蓋の開いた洗濯機へハンカチを全力で投げつけた。
放物線を描いたハンカチは洗濯機の中に入るかと思われた。しかし、勢いよく投げすぎてしまい、ハンカチは洗濯機の蓋にぶつかった。そして、変な方向にはね、吸い込まれるように洗濯機と壁の隙間に落ちていった。
洗濯機と壁の細い空間。最後に掃除したのはいつだったっけ? 過去数年の年末大掃除の記憶を遡るが、掃除をした記憶がない。ということは、あそこはほこりの集合住宅になっているに違いない。
「んああぁっ!!」
言葉にならない叫びが洗面所にこだまする。なんでよ、なんでこんな日に限ってそんな所に……。
ガッ……
嫌な音がした。この音の正体にはすぐに検討がつく。一瞬の間を置いて、パタンと軽い音がする。これもわかる。足元を見ると、百均で買った白いプラスチック製のゴミ箱が予想通り倒れていて、その中から丸めたティッシュや髪の毛、空になったシャンプーの詰め替え用のパックがわらわらと床に解き放たれていた。
「はぁ……」
私は放流されたゴミたちを見て、この日二度目の大きなため息をついた。
夕飯はパスタにした。アルファベット三文字のコーヒー大手が運営する、通販サイトで買ったパスタソース。同社が展開中のカフェで提供されるものと同じパスタソースということもあり、スーパーで売っているものよりも少しいい値段がするけど、その分しっかり美味しい。家で簡単にカフェレベルに近いパスタが食べられるのはありがたくて、定期的にまとめ買いをしている。
パスタを茹でながら、隣で和風きのこのパスタソースを湯煎していると、インターフォンが鳴った。思わず身構えたけど鳴ったのは一回だけ。私が急いでモニターを確認すると、俯いていて顔は見えないけど、さくら急便の制服を着た男性の姿が見えた。
男性の手には箱のようなものがあった。再配達の指定はまだしてなかったけど、気を利かせて持って来てくれたようだ。
「今開けます」
通話ボタンを押してそう告げると、私は念のためガスを切って玄関に向かう。ちょっとの時間でも火をつけたまま火の元から離れたらいけないという、子どもの頃から母の教えが染み付いていた。そんな自分に苦笑いしながらドアを開けると、ギラリと光る刃物が目に飛び込んできた。
「こんばんは、大人しく部屋に入れてもらえますか? あなたが怪我をしたくないなら」
よく通る声で男が言った。
私の早合点だったみたいだ。マスクをした男の落ち着いた声に聞き覚えはない。たぶんこれまで来てくれたさくら急便の配達員の人ではないと思う。あと、さくら急便の制服と思ってドアを開けたけど、似ているだけでよく見たら制服なんかじゃなかった。でも、そんなこと今さら気づいても手遅れだ。
すぐにドアを閉めようとした。でも、チェーンをかけずにドアを開けてしまったため、力負けして男にドアをこじ開けられてしまった。
一体私はどうしたらいいの? こういう時の対処法なんて教えてもらったことがない。声を出そうにも、男が持つそれなりに刃渡りのある包丁のようものから目が離せず、私は頭の中が真っ白になった。
「静かにしていてくださいね」
気づけば私はリビングの隅に追い込まれていた。刃物を持った男の侵入を許してしまった私は、なす術もなく家の中を後退し、逃げ場を失っていた。ベランダからの脱出も考えかけるが、現実的ではないとすぐに頭の中で没にする。
男の目的が私にはわからなかった。金目のものなのか、それとも他に何か目的があるのか。考えたいけど考えたところでわからないし、そもそも男が手に持つ刃物が思考の邪魔をする。
じりじりと近づく男の手には、いつ、どこから取り出したのか、縄のようなものが握られている。
「少しの間、言うことを聞いてもらえたら怪我をさせることもありません。だから、さあ、両手を前に出してください」
マスク越しに男が私に微笑みかけてくるのがわかり、私は恐怖した。今まで自分がこんな状況に直面するなんて考えたことがなかったけど、まさかこの状況で笑いかけられるなんて……男の行動が私の理解の範疇を越しすぎていて、ただただ恐怖でしかなかった。
何の打開策もないまま、迫り来る危機を眺めることしかできない私。恐怖と絶望で視界がぼんやり歪み始める。そんな私を見て楽しそうに男がまた笑顔で何かを言おうとするが、私にはそれが聞き取れなかった。
男の声はインターフォンの音によってかき消された。三回連続で押されたインターフォンの音が、男の顔から笑顔を奪う。