不在メール
盲点だった。メールアドレスを変えたら迷惑メールは一切届かなくなる、そう思っていた。しかし、私は大きな見落としをしていた。電話番号経由のメッセージはアドレスの変更と全く関係ないということを。
受信履歴を見ると、不在配達を装った迷惑メールは他のメールと異なり、どれもショートメッセージだった。思い返してみれば、迷惑メールが殺到するよりも前、たまに届いていた迷惑メールはどれもショートメッセージだった……ような気がする。
「これは……防ぎ切れないな……」
ショートメッセージでやってくる迷惑メールから逃れるには、電話番号を変えるしかない。でも、それはかなり面倒だし、そもそも情報の流出元がわからない以上、変えたところで逃げ切れないかもしれない。
完全に迷惑メールから解放されたと思っていた私は、ぬか喜びだったことに気づいて地味に心にダメージを負った。
改めて不在配達に関する迷惑メールの内容を確認してみる。文面は、
「先程配達に行きました、不在のため荷物保管しています」
「お届けに行きましたがご不在でした」
「お客様不在のため、荷物を持ち帰りました」
など、若干日本語が怪しかったり、言い回しに変化はあるけれど、基本的に書かれている内容はいつも同じ。あとは記載されているURLの文字の羅列が異なるぐらいだった。
アドレスを変更したことにより、迷惑メールの件数は格段に減り、なんならほぼゼロに近いと言っても過言ではない。現状ショートメッセージは普段あまり使わないし、迷惑メールの頻度もかなり少ない。もう、これぐらい無視してもいいんじゃないかなとも思う。
でも、指のささくれみたいに無視できそうでできない、少し引っ掛かることがある。それは妙な配達員が来るようになったことだ。
二週間ほど前、休みの日に家で朝からだらけていると、インターフォンが鳴った。普段ならすぐに出るんだけど、たまたまその日は平日に蓄積した疲れのせいで眠気が酷く、私はリビングに横たわったまま、なかなか動けないでいた。
早く出ないといけない。そう思うのに体が重力に逆らえず、私はなかなか動き出せない。動けないまま時間だけが進んでいき、私は結局そのまま寝てしまった。
寝たと言ってもインターフォンが鳴ってからの経過時間は、まだ二分にも満たないはずだった。しかし、その短い間に配達員の人は帰ってしまったようだ。私が起きてから慌てて玄関を出て外を確認すると、私の家のドアの周り含め廊下には誰もおらず、気配一つなかった。まあ、家の中から何も反応がなかったら不在と判断して帰ってしまうのは当然のことだ。
申し訳ないことをした、そんなことを思いながら、リビングに戻ってクッション片手に床に横になり、再び眠りにつこうとした時だ。インターフォンが鳴った。
せっかく今横になったのに……タイミングが悪いな。胸の中で来訪者を毒づいた。しかし、胸の中で不満を言っている最中に二回目、そしてその直後に三回目のインターフォンが鳴る。
おかしい。ただならぬ雰囲気を感じて体が固まる。しかし、外の人物は私のことなんかお構いなしで、乱暴なノックを三回。そして、「さくら急便です」という大きな呼びかけをしてきた。
耳障りな男の声で三回。
「さくら急便です」
社名を言っているだけ、ただそれだけ。それだけなのに、新品のお皿の裏に貼られた値札シールの粘着物のように薄黒く、そして、ねちゃねちゃと耳の奥に残る声だった。
配達員の人……ではないと思う。もし誰かに、どうしてそう思うのかと聞かれると「なんとなくそう思う」としか言えないけれど、絶対に配達員の人じゃないと思った。変な行動をしているからという理由だけでなく、私の直感がそう告げる。
暑くないのに急に汗が吹き出してきて、前髪が額にへばりつき始める。この場から逃げ出したいけれど、自分の家だし家の前に何かがいるからどうしようもない。姿は見えないけれど玄関の向こう側にいる何かからのプレッシャーに、私は息苦しさを感じる。
途方もなく長い時間、私は玄関からの見えない力に押しつぶされそうな気持ちで過ごした。動いていないのに疲労感が全身に広がり、気が遠くなった時、ふっと圧がなくなるのを感じた。最初は戸惑ったものの、私はすぐにドアの向こうにいた何かが去ったことを悟った。
時計を見ると最初にインターフォンが鳴ってから全く時間が経っていなかった。あんなに長く感じたのに、それは体感だけだったと気づき私はさらに冷や汗を流す。
服は絞れば水滴が落ちるんじゃないかと思うほど汗に濡れ、下着もびたりと肌に張り付いている。今すぐ着替えたいという衝動を抑えながら、私はそっと玄関に向う。
心臓が破裂しそうなほど脈打つのを感じながらドアスコープで外を確認する。当たり前だけど、気配が消えてから見に来たので誰もいない。聞こえるのは私の大きな心拍音だけ。
次に、念のためチェーンをかけたままドアを開けて隙間から外を確認する。やはり誰もいない。最後にチェーンを外して外に出て確認する。やはり怪しい人はいない。私は肩から力が抜け、どっと疲労感に襲われた。訳がわからないけど心の底から助かったと思った。
「あの……大丈夫ですか?」
突然後ろから声がして、私は思わず体を震わせる。振り向くと隣の部屋の男子大学生がドアから出てきて心配そうな顔でこちらを見ている。
「すごい汗、それに顔色悪いですよ」
「ああ……おかまいなく。大丈夫ですので」
こんな時どう言えばいいのか、模範解答がわからなかった私は、とりあえずその場しのぎの返答しかできなかった。男子大学生は「そうですか……」とだけぼそぼそと呟くと、鍵を閉めてどこかへ出かけて行った。
遠ざかる背中を眺めてから部屋に戻る。服を脱ぎながら洗面所の鏡を見て私は自分の顔を二度見した。休日のためノーメイクなのはこの際置いておいて、丸い粒のような汗を大量に浮かべた青白い顔、目の下には黒いくまができている。今朝、顔を洗った時に何気なく顔を見た時、こんなふうにはなっていなかったはず。ということは今の数分でこんなふうに……。
何歳も年下で恋愛感情が皆無とはいえ、異性にこんな顔を見られたという事実が胸に刺さる。配達員による恐怖と羞恥心により、私はこの日何もやる気になれず、せっかくの休みを無駄にしたのだった。
変な配達員とはその後もう一回出会っている。それは一週間前の木曜日、仕事帰りのことだ。
早く帰ろうと思ったのに、片付けていると何度も取引先から電話がかかってきて帰るのが遅くなった。頼んでいた化粧品が届く予定だったので早く帰りたかったのに、物事は私の思うように進まない。
配達の時間指定をしているのに不在で受け取れないなんて申し訳ない。そう思って急いで帰ったけれど、ポストには不在票が入っていた。不在票に記載された時間を見れば二十分ほど前。罪悪感が込み上げる。
しかし、そんな気持ちは凄まじい速さで消え失せた。家に帰り、玄関の鍵を閉め、パンプスを脱いだ瞬間、インターフォンが鳴った。「はーい」と声を出そうとしたがそれを阻むように二回目、三回目が鳴る。そして、大きなノックがなった時点で私は全身に鳥肌が立った。