第3章 2話 「民のかまど」
調の徴収をやめて、一年が経った。
はじめ、「そんなことを行えば、国々で混乱が起こるぞ」と高津宮に訪れ直談判してくる県主などもいるにはいた。しかし、その都度スメラミコトは殿上に出て説得をし、どうしてもというのならばわれの倉のものを持ち出せばよいと、実際高津宮の倉を開けてみせた。すると、さすがにそれ以上食い下がるものはいなかった。
武内宿禰は言った。
「口で説明するより、この宮に来て見せた方が早いな」
「どういう意味だ?」
「わからぬか?国々を治める長であるスメラミコトの宮に来てみれば、スメラミコトがもっとも質素な生活をしていることがわかるからだ。宮の建物もほとんどが屋根に苔生してきているではないか。難波の集落でも、まだマシな倉が建っているぞ」
スメラミコトは武内宿禰と共に表に出て屋根を見上げた。たしかに屋根は苔生していた。
「民が困窮しているのに、われらだけが贅沢するわけにはいかぬからな」
「せめて、衣くらい新調すればよいのに」
「これか。ところどころ穴は開いてきているが、まだまだ着れる」
武内宿禰は、まいったと呆れるようなしぐさをした。
「しかし、よくあの正妃を説得できたな」
今度はスメラミコトがまいったと表情を固まらせた。
「なんだその顔は、まさか説得できていないのか…?」
「いや、磐之媛は理解してくれておる。さすが葛城の娘だ…」
「どうも歯切れの悪い言い方だな」
「条件を出されてな。宮が手狭になるからと髪長媛とその女孺を追い出し、なぜかわれに付いていた女孺たちも地元に帰してしまった」
「なんと…。今スメラミコトを世話するものはいないのか?」
「いや、磐之媛が葛城から呼んだ女孺がわれに付いている」
「では、それほど悪い話ではないのでは?」
「それがな。われの女孺は、歳のいったお婆ばかりなのだ」
「ははははっ」
武内宿禰が高笑いした。
「笑いごとではないぞ」
「すまぬ…。しかし正妃は妬いているのだな」
「妬いている?磐之媛がわれに嫉妬しているということか?」
「それ以外になにがある?」
「いや、それはないと思うが…」
実はスメラミコトは何度も髪長媛に会おうと桑津に行こうとしていた、しかし磐之媛は頑なにそれを許さなかったのだ。宮を抜け出そうとも考えたが、宮の警備はかつての御子のときとは違い、久米部の兵の警護は厳重で、殿内も女孺が常に部屋の外に昼も夜も控えており隙がなかった。同じスメラ族でも、継承者とそうでないものではこれほまでに違うのかと感心もしたが、これはスメラミコトを護っているというより、監視している。というようにも思えた。
ついにはしびれを切らして、磐之媛になぜわれと髪長媛を引き離そうとするのかと問うたのだが、
「髪長媛が謀反を企て、大和を乗っ取ろうとしている」
と言った時は、さすがのスメラミコトも腹を抱え大笑いした。
しかし、磐之媛の目は据わり冗談を言っている様子ではなかった。もしかしたら、葛城襲津彦からなにか進言があったのかもしれない。それでも信じることはできなかったが、そう納得するしかなかった。
「正妃とうまくいっているのなら倭国は安泰だ。おれはそれ以上は望まない」
武内宿禰は、自らを納得させるかのようにうなずきながらそう言った。
「そうかもしれぬが…。やはり髪長媛を一人で桑津に住まわせておるのは心配だ。われは手を回せぬので、おぬしが様子などを伺ってやってくれぬか」
「それくらいならたやすいが…」
スメラミコトは安堵の表情を見せかけたが、すぐにまた思いつめた顔をしたので、武内宿禰は、「まだなにかあるのか?」と促した。
「実はな、長年われに女孺として仕えてくれた玖賀を妃に迎えようとも考えておったのだが…、それも叶わぬことになってしまった。寡婦のまま歳をとらせ一人で地元に帰してしまったのが忍びなくてな」
「玖賀…。あぁ、あの令しい女孺のことか。地元はどこなのだ?」
「丹波国桑田だ」
「そうか…。それで玖賀のこともおれに気にかけてほしいと」
スメラミコトはうなずく。皆まで言わなくとも武内宿禰は察してくれる。今更ながら側近にしてよかったと痛感した。
「わかった。若い舎人を向かわせることにしよう」
「たのむ」
スメラミコトは、ようやく肩の荷が下りたと安堵の表情を見せた。
*
約束の三年の年月が経った。
スメラミコトは、再び武内宿禰と共に高津宮から国見をした。
「ほう」
思わず互いに声が出る。
見渡せる限りの集落の住居からは煙があがっていた。
「今年は天候もよく豊作だったと聞いた。これでスメラミコトの望んだ国の姿になったのではないのか?」
武内宿禰の言葉にスメラミコトはうなずいた。
「ではスメラミコトよ。調の徴収を再開すると各国に伝えるぞ」
「いや」
スメラミコトは武内宿禰の方を向くと、頭を振った。
「なぜだ?」
武内宿禰は、怪訝な表情を浮かべてスメラミコトに迫った。
「まだだ。ようやく民の暮らしが豊かになりかけたところなのだ。あと三年待とう」
「おいおい、話が違うぞ。約束は三年だったはずだ。実は少し前から、調の徴収を早くもとに戻すべきだと、各国から声も届き始めてきておるのだぞ」
「今はまだ堪えるときなのだ」
「スメラミコトよ、それは違う。われらがどうとかではないのだ。カミの怒りがくだるのではないかと心配する声があるのだ」
「カミの怒り?」
「あぁ…。倭国を代表するスメラミコトの宮がこうもみずぼらしいと、不吉であり、異国にも申し分がたたないとな…」
武内宿禰が視線をあげた。スメラミコトも同じように視線を向ける。
宮殿の屋根は以前よりさらに苔生し、柱は黒ずみ、屋根の一部は葺きが剥がれて穴も開いていた。宮を取り囲む垣も一部が倒れたままになっている。強い風雨があった際に倒れたが、スメラミコトが直さずそのままにしておくように指示したのである。
「われは気にならぬのだがな…」
「いや、気にしてくれ」
「武内宿禰よ。前にも言ったと思うが、民はもっとみすぼらしい住居に住み、満足な食事さえままならないのだ」
「その民の暮らしもよくなったと言っておるのだ」
武内宿禰は語尾を強めた。
しかし、スメラミコトは意に介することなく、
「民の暮らしはもろいものなのだ。たしかにこの三年は気候も穏やかであったが、それはたまたまと思った方がよい。特にこの…大和川、おだやかな流れの時は心を癒すものであるが、ひとたび牙を向けば、根こそぎ、それこそ住む人さえも奪ってしまう」
武内宿禰は言葉を挟もうとしたが、スメラミコトの思いつめたような顔を見て言葉を飲んだ。
「たしかにわれは三年と言った。しかし、われの見込みが緩かったのだ。民の暮らしはたしかに元に戻ったかのように見えるが、徹底しなければまた元通りになる。特にこの難波は大和川と淀川がある。川はなくてはならぬ存在ではあるが、繁栄を脅かす存在でもある。氾濫が起こらぬよう川の流れを変えることができればよいのだが…」
「…今なんと言った?」
「われの見込みが緩かったと言ったのだ」
「いや、違う。大和川の川の流れがどうとか言ったであろう」
「あぁ」
スメラミコトは心の内だけでつぶやいたつもりだったが、思わず口に出てしまっていたらしい。
「われは前々から思っておった。大和川が流れ込むこの河内湖の水を排水できれば、もっと農地も広げることができるのにとな。そのためには台地を開口させなければならないが、丁度この高津宮の先で堀江を築き…」
「……」
「同時に淀川に堤も築かねばならぬ。氾濫を防ぐための長い堤をだ。その土をどこから運べばよいのか、そう、台地の掘削で出た土砂を運べば…」
「おいおいおい、待て待て」
武内宿禰は手を振り上げてスメラミコトを制止するように立ち塞がった。
「スメラミコトよ、なにを言っておるのだ。河内湖の水を排水するために台地を削るだと?そんな大事、まるで水田の水路を築くように簡単に言うな」
「われは簡単とは申していない。おそらく倭国始まって以来の大工事となるであろう。大和の纏向の比ではない。もちろん大和を含め、各国々の力も借りなければならぬであろう」
「民の負担を無くすと言っていたではないのか?」
「これは負担ではない。工事は農閑期に行い、仕事をあたえ対価を与えるのだ」
スメラミコトは、かつて葛城で見た行き場を失った異国の民や帰還兵の姿を思い浮かべていた。
「民には目的が必要なのだ。大きな示しとなる目的が。人は目標があると力が出る」
「……」
「今、われは決断した。武内宿禰よ。すぐに動いてくれぬか?葛城の方へ使者を出してほしい」
武内宿禰は考え込んでいた頭をあげ、スメラミコトを見た。
「葛城に?」
「うむ」
しかし、武内宿禰はお手上げだと言わんばかりに首を振った。
「葛城に使者を向かわせるのであれば、もっと頼むに相応しい方がおられるであろう」
「…?」
「……」
武内宿禰は宮殿の方へ目を向けた。
スメラミコトもそれに続いて向ける。
次の瞬間、「あっ」と驚いた声をあげて、スメラミコトは手をパン!とひと叩きした。
*
宮殿に入ると、磐之媛が出迎えた。
「もう、起き上がって大丈夫なのか?」
スメラミコトが声をかける。磐之媛はゆっくりと顔を上下させた。
妃は先日、第一子の去来穂別を産んだばかりである。難産で数日産屋から妃の悲鳴が宮内に響き渡っていた。スメラミコトは何もしてやれないことに歯がゆく思いながらも、じっとその時を待った。やがて訪れた静寂。女孺がかけつけ元気な男子が産まれたことを伝えた。その女孺は今心配そうな顔して横に付き添っている。
「わらわは大丈夫。…それより」
磐之媛は、その目を天井に向けた。
「このところ雨漏りが酷くなった」
「あぁ」
スメラミコトも天井に目を向け、「すまぬな。苦労をかけて」と声をかける。
「わらわはよい。御子のことが心配なのだ」
「そうであるな…。御子はわれの間にうつそう。まだ雨漏りはせんのでな」
磐之媛はうなずいた。
「おぬしに見せたいものがある」
「わらわに?」
スメラミコトは一緒に表に出るように手招きした。
磐之媛は女孺に支えられながら立ち上がると、スメラミコトに続いた。
表に出ると日差しが照りつけ、心地よい風が丁度通り抜けた。
磐之媛と女孺はまぶしそうに顔をしかめる。
「ほら、素晴らしい眺めだ」
スメラミコトは手をひろげ、満足気に言ってみせた。
すると、「それ」と磐之媛はスメラミコトを指さした。
「ん?」
「衣に穴が開いています」
「あぁ。これか」
この三年間ずっと同じ衣を着ていたわけではないが、新たには作らせることはしなかった。武内宿禰などはみすぼらしいと言うが、民はもっとみすぼらしい姿をしているのだ。着れればそれでよかった。むしろ使い込んでわれの体に合って着心地はよい。
「まだ充分着れる」
「そういう問題ではありません」
「そうか?われは気にせんが」
「はぁ…」
磐之媛はふらつき倒れかけた、すかさず女孺が支える。
「あなたはスメラミコトなのよ。そんな穴だらけの衣を着て、雨漏りのする宮殿に住んで情けなくならないの?」
女孺が心配そうに、「磐之媛さまどうか無理なさらず」とささやいている。
スメラミコトは近づき、やさしく磐之媛の肩を撫でた。そして、ほら見てみなさいと河内湖と平野の方を指さした。
「われは豊かなのだよ」
「ゆ、豊か?ど、どこが!?」
磐之媛はごほごほと咳き込み、身をよじらせた。女孺が背中をさする。
「磐之媛よ。大切なことなんだ聞いてくれ。われがスメラミコトになったのはわれの意思だけではない。カミが民のためにわれをさだめたのだ。だからわれという存在は民を一番に考えなければならない。民が貧しければ、われも貧しいが、しかし、民が豊かであれば、われも豊かであるのだ。民が豊かでわれが貧しいということはないのだ」
「………」
磐之媛はなにも言わなかった。
「ついこないだまで、民の家から竈の煙が上がっていなかった。民は飢えておったのだ。しかし、今は見てみると、どの民の家からも煙があがっておる。おぬしも知っておろうが、われの父上の御世から度重なる戦と天災で国は弱まっておった。そのしわ寄せはすべて民にのしかかっておった。今一丸となって国を立て直さなければ、今度は本当にわれも含めて皆が飢えてしまうかもやもしれぬのだ。…あと三年我慢してくれぬか?」
「あと三年?」
磐之媛はスメラミコトを見た。
「この三年はひたすら耐える三年であったが、これからの三年は攻めるのだ」
「…戦をするのね?」
「違う、違う」
スメラミコトは否定したが、磐之媛は急に力が湧いたようになり、
「ついに高句麗をつぶし、大陸の王朝もあなたのものにするということね!」
とスメラミコトの胸ぐらをつかんだ。
「違う、違う、違う!」
「なにが違うの?で、なぜ笑うの?」
「攻めると言ったのはそういう意味ではない。でもそうだな、ある意味ではわれらは戦を起こそうとしているのやもしれない」
「新羅ね。新羅をひねりつぶすのでしょ?」
「違う、違う!」
スメラミコトは今度は腹を抱えて笑い出した。
女孺も釣られてくすくすと笑う。磐之媛だけわけがわからぬ様子で、顔をきょろきょとさせた。
スメラミコトは息を整えてから言った。
「われらが戦う相手は、この難波の台地だ」
「はぁ?」
「台地に堀江を築き、河内湖を農地に変えるのだ。そして淀川には堤防を築く」
「そんなこと…できるわけ…」
「しっ」
スメラミコトは磐之媛の口を押えた。
「言うな、なにも言うな」
「……」
「それで、おぬしにも頼みたいことがあるのだ」
「わらわに?」
「うむ。葛城には異国からやってきたものたちが多く住んでおるであろう?」
磐之媛は首を上下させた。
「そのものたちの力を借りたいのだ。おぬしの父上に頼んでくれぬであろうか」
「なるほどそういうこと…。そんなの気を使う必要はありませんでしてよ」
「そうではあるが…」
スメラミコトは葛城襲津彦の顔を思い浮かべた。
「なにを遠慮してるの?父上があなたの命令を断るわけがありませんわ」
磐之媛は「ふん」と鼻で笑って言った。
「なんだって、わらわの夫なのだから」




