掌中の華
五限の休講メールが来て、時間を持て余してしまったので、神保町辺りを散策しようと思った。バイトはしていなかった。
半蔵門線の駅からほど近い書店に入って、小説を探した。あてがあるわけではなかったけれど、無性に小説が読みたくなった。
店からでたとき、僕は右手に三冊の文庫本が入った紺色のビニール袋を下げ、左手には同じくらいの重さの死を抱えていた。小説家もまた、芸術家であるのだ。そうであるのならば、死をもってしてその義務を履行するべきだと確信した。死なくして、芸術は成し得ないと思った。最後の読点無しにして、小説が終わり得ないのと同じように。
小説の本質は紙に依らない。それはただひたすらに文章のみに依る。
ならば、ページが物語を終わらせることはできないだろう。ただ言葉のみが、物語を終わらせ得る。
小説家は、言葉ただひとつにだけ究極の純愛を寄せることができる。芸術は、最終的には究極に至らねばならない。その極地に至ってこそ、それまでの道程が一層その光沢を増す。凡庸な芸術など、あってはならない。それは芸術とは呼ばない。
この世の究極とは、死しかない。僕らの知覚し得る世界は生によって規定される。生は物事に限界という線を引く。あのビルも、この車も、あいつもこいつも、三冊の本も。
死なくして、僕らは知覚と想像の限界を超越しえない。死こそが究極の美である。芸術である。その向こうへ、僕は行きたい。
人は、死する者を蔑み、その跳躍に嘲笑を付すだろう。ああ、芸術を解さない哀れな者共の、あの阿呆面を見よ‼ 僕は今、飛んでいるぞ