6話「寝ぼけてたかな」
「ぼくは」
「うん」
「なんともないよ」
志道は、ぼくの瞳から目を逸らさなかった。彼の目は大きい。ぼくは、たじろいでしまった。
「なんともないとは言っても、ほら、家庭環境の判断基準なんて、ほかの家庭に身を置いたことがないからさ、そもそもこういうのは成り立たないというか」
「うすうすわかってるんだろ」
その言葉は、ぼくの胸を鋭く貫いた。ぼくは、無性に恐ろしく、転じて、悔しさが湧いて出た。
「お父さんに抵抗する術を、つい先日身につけたところだよ。本当に平気だって」
嘘でなかった。あの死神は、きっとまたぼくを守るはずである。それでもこうしてぼくは逃げてきた。何を怯えているのだろう。何も怖いことはないはずである。殴られる道理がないのである。
「今日、お前の家行きたい」
「え、あ、それはちょっと本当に困る……」
「ほら、だからやっぱり……」
「いや、その、いまお取り込み中……」
「あっ……」
たいへんばつの悪い様子である。ぼくも始末に困った。
「志道の親はいつ帰ってくるの?」
「もうじきかな。三十分くらいで」
「それなら、帰りなよ。ぼくも帰らなくちゃ」
「……そんな陰気臭い顔してるくらいなら、誰かに相談すればいいのに」
胸をつかれる思いだった。世界中のすべてに見放されたような心地がしたのである。ぼくの救われることは恐らくない。否、見放されたという表現は、適格でない。ぼくが、世界のすべてを拒絶したのである。故に救われぬ。
苦しい真実に脳天を貫かれ、戸惑いして立ち尽くすぼくに、志道はその悲しそうな背中を向け、去っていった。ぼくは、しばらくその方角を見つめて、やはり立ち尽くすばかりだった。
「帰ろうかな。……ね、死神?」
ほかに縋るあてもなかった。自分のことを、心底馬鹿だと思った。しかし思いがけず返答が得られたのである。
「グ……」
呼ぶと、姿を現すらしい。何やら、忠義らしい面持ちで、ぼくのとなりに蠢いている。
「ねえ」
「グ……」
「……ううん」
守ってもらった立場で、確信に至りもせぬのに被害者が如く振る舞えば、却ってぼくが罪人ではあるまいか。
「戻って。ごめんね」
頭を撫でてみると、死神は満足そうに体をゆすって、ぼくの影に溶けて消えた。
「はあ……」
なんだかひどく疲れた心地がした。父は、行為にさほど時間をかけない。もう帰って大丈夫だろう。顔を合わせて、何を言われるだろう。楽しみやら怖いやらで胸が躍った。
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軋んだ音を立てて、扉が閉まってゆく。靴を脱ぐ頃には、背後で重い音が鳴った。扉の開閉の音は、ぼくには少しおそろしかった。音自体よりも、合図としてのこの音が恐ろしかった。而して今度は床の軋む音が聞こえる。父だ。足音で概ね分かる。何をされるか、さまざま、想像をめぐらせた。心臓が跳ねる。暴れるように跳ねている。息が上がる。走った後のようだった。苦しくなってきた。
「大丈夫、ぼくには――」
自分の影を見つめる。大丈夫だ。無理にもそう思わせた。屹っと顔を上げる。父は何やら血眼の態であった。
「おい、昨日、変なものを見たのは俺だけか?」
ここで、脅しのひとつでもかければ、今後殴られることはなくなるのかもしれない。
「変なもの、って?」
ここに至って、ぼくはやはり、臆病であった。負け犬である。親に対して、いつでも敗北の態である。
「見てねえなら、そんでいい。寝ぼけてたかな。じゃ、おやすみ。寝るから」
「ん……おやすみ」
果てしなく暗い気持ちだった。暗い気持ちをおさえつけること自体が、いっそうぼくを暗い気持ちにさせた。
自分の文業に、どんどん自信がなくなってきました。