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5話「はなしてくれよ」

亀のごとき筆運び、お詫び申し上げます。生活が安定してきましたから、また精力的に書きます。

 その日は、すべての授業が自習になり、初めの二時間は皆静かに顔を見合せたりなどしていたが、誰かひとりが何かの拍子で剽軽な声をあげてからは、まるで空気が変わった。努めて帰らぬ人を忘れようとしているのか、本当に気持ちが切り替わったのか、ぼくには判然としなかった。ぼくは、前者であった。友人と談笑しても、心に暗い雲が一点、その中心にあの死神が佇んでいるように思われ、帰り道もずっと気持が悪かった。

 油断しきって家に這入はいると、女の人の喘ぎ声が聞こえた。ぼくは、瞬時、体が強ばって、すぐさま振り向き、音が鳴らぬよう扉を押さえた。ため息をこらえて、ふたたび家を出る羽目になったのである。

 これといってあてもないので、何となしに通学路を戻っていると、同級生で一番仲の良い男子、中沢志道が電柱に寄りかかっているのを見つけた。どうしてか、家のことは隠さねばならぬ、と強く思っているぼくは、志道の目につかぬよう、なるべく俯いて歩いた。引き返すも不自然と思ったのである。今日は部活があって、もう日が落ちかけていた頃合なので、或いは見つからずに済むかもしれない。呼吸ひとつも命取りと感ぜられる重苦しさの中、彼の横を通り過ぎ、安堵、それから、達成感、勝ち誇ったような気持ちになっていたところ、不意に財布が転がってきた。


「ああ、すみません」


 少し高い彼の声が、嫌に背筋に響いた。観念。拾って、渡した。


「こんなとこで何してんの?」


 自分から尋ねた。向こうも、ぼくに気がついたようで、おお、と言った。


「いや、鍵忘れちゃって。親は飲み行ってるから帰れないんだよね」


「そりゃあきついや。お金ある?」


「ある。六〇〇円」


「ジュースでも買って、その辺うろつこう」


「だな」


 こうしてぼくは詮索されることなく、二人、歩き出した。

 自販機で、飲み物を買いながら、志道が重たそうに口を開く。


「美琴って、さ、その……」


「ん、どうしたの」


 少し身構えた。暗いことを聞かれるだろうと思った。香澄のことではあるまいか。


「家で暴力とか振るわれてない?」


「んー? いや、えー……」


 ぼくは、咄嗟の嘘が、甚だ下手である。口ごもってしまった。果ては窮して愚かな質問。


「なんでそう思ったの?」


「いや、なんていうかさ、いつも俺たちといるときも、よく手の動きとか目で追ってるし、頭とかぶつけたとき、すごく怯えたような顔するし、あと普段あんま周り見えてないくせに、ぶつかりそうなとき避けるの上手いから、痛い思いするの慣れてるのかなって」


 思いのほか足腰の強い疑念らしく、ますます困ってしまった。もともと、殴られることに疑問を持ったことはなかった。しかし、殺されかけたあの時からは、なかなか親に信が置けずにいるのである。斯くて生まれた心がふたつ。罪人と被害者。せめぎ合う二者。ぼくはいずれかに傾くことを密かに望んでいる。殴られることに己の罪を感ずるがゆえ、悪事を問い詰められたような気持がして、まごついてしまった。


「ぼくは……」


「話してくれよ。そういうのは、割と心得があるから」


 志道は、悲しげであった。

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