4話「褒めて、褒めて」
時間がかかっても、必ず、完結させます。
その日は、どうしてか消えない胸の痛みをひた隠しにしながら、香澄と少し雑談をして、暗い中、ひとり、帰った。また、ぼくは独占欲が強いほうらしい、ということが、今日、よくわかった。香澄の処女をもらって、そのときの、安心、というべきか、満足、というべきか、欲しかったものが手に入ったような、あの気持ち。
空を見上げる。特に意味はなかった。ぼくは、もともと、落ち着きなく視線を彷徨わすタチである。
今日は殴られずに済む!
ああ、やはりぼくは、殴られることが、嫌だったらしい。馬鹿だ。ぼくが悪いんだ。ぼくはこんな調子ではいつまでも罪人のままだ。ぼくはごみだ。そう云えば、射精には至らなかったまでも、避妊をせず行為に及んでしまった。香澄は、うちの初めて、ちゃんと、美琴のを生で感じたいから、と言っていた。ああ、もう、どうでもいい。疲れた。みんな死んでしまえばいいんだ。なんの意味もないんだ。ぼくは可哀想だ。いや、何を考えているのだろう。馬鹿。死んでしまえ。
「こんなに、傷だらけで、同情のひとつもなしで……」
香澄の処女をもらった。それは嬉しかった。しかしなんだかぼくを見られていないような気がした。いや、ぼくはなんと贅沢者だろう。感謝する立場だ。
帰路は、暗かった。
―――――
翌日、朝のことだった。
昨日は、気が動転していた、香澄はぼくを救ってくれた、滅多なことを考えるものではない、今日も、香澄がいれば、ぼくは生きていける。そう持ち直して、教室に入るも、香澄はまだ来ていない。寂しい気持ちで待ち続けた。始業の鐘。未だ現れず。ぼくと、顔を合わせたくないのだろうか、それとも疲れて寝坊したろうか、不安とそれを打ち消す思想とが絶え間なく互いを潰し合う。ぼくの生きがい。そういえば恋仲になろうとはっきり言われたわけではない。いや、なにを思い上がっているのだろう、とにかく、ぼくの生きがい、待っていれば、また笑顔で話してくれる。捨てられる。ぼくはいらない子だ。いや、もともと、ぼくらは互いに所有権など、持ってはいないはず。
動悸。目眩。脳裏に浮かぶ香澄の顔。匂い。感触。独占欲が満たされていくあの感覚。動悸。少し息苦しい。同級生の騒がしい声。友達が心配そうに、遠方からぼくを見つめる。目眩。陽光、眩しく、ぼくの視界は霞み、硝子越しのように全てが歪む。
扉の音。前の扉。見る。先生だ。香澄は、遅刻、あるいは、欠席。先生が、何事か話す。ぼくはどうしてか、突如、死神の顔が頭から離れなくなった。どうしても思い浮かべてしまって先生の話は何も聞こえない。ふと、耳に入った。
「有里香澄さんが、亡くなりました」
有里香澄さんが、亡くなりました。
なんのわけだろう。
みな顔を見合わす。先生は俯いている。
みな黙っている。
女子が、何人か、声をあげずに慟哭した。
どうしてみんな、黙っているのだろう。薄情じゃないか。
ふと、聞こえた。あの、地底から這い上がってきたような、暗い、暗い声。
「グ……グ……ググ……」
ぼくは、悲鳴をあげたくてたまらなかった。けれども息ができないのだ。酸素を求めて喘ぐ。汗が垂れてきた。苦しい。つらい。
「グ……グ……」
褒めて、褒めて、と、そう言われているような気がした。苦しい。嫌だ。なにか、いやなことに思い至ってしまいそうで、嫌だ。
「グ……グ、グ……」
やめてくれ。今は君の声が聞きたくないんだ。黙ってくれ。頼むから。
「美琴!」
冷水を浴びたような感覚。はっとして、顔を上げる。みんなが、ぼくを見ていた。声をかけてくれたのは、一番仲の好い男友達だった。ぼくは、自分がひどい悪者のような気がした。死んでしまった香澄ではなく、ぼくのほうが気にかけられているということに、ぼくの罪悪を見出さずにはいられなかった。
「ごめん」
「いや、謝んなくていいけど、お前大丈夫そ? 汗やばいけど。息もすごい荒かったし」
「え、あ……」
「まあ、仲良かったし、ショック……だよな」
「うん、ぼく、……」
なんだか、よくわからない気持ちだった。先程まで暗く暗く沈んでいた感情が、今は凪いでいた。ただ涙だけが止まらなかった。いま、ぼくの頬を伝うのは、なんの感情もこめられていない塩水である。死神の声は既に聞こえなかった。