1話「救い」
何かと至らぬところも多かれど、意気込みばかりは傑作です。必ず書き終えます。行き当たりばったりで、迷走することも多々あるかもしれませんが、軸はブレません。
それを初めて見たのは、十四歳の時だった。
その頃は、親の暴力が最も酷かった。特段それを変にも思わなかった。親は恐怖の対象ではあったが、共に暮らして気まずいとは思わなかった。
親に殺されかけたことがある。あの日は、寒かった。父はひどく酔っていた。
「おめぇはいったい、なんでそう黙り込んでるんだ。家族じゃねぇか」
そう話しかけてきたので、恐る恐る顔を上げる。父はぼくより余程大きいので、鼻の穴がよく見える。突然顔を殴られた。
「つっ……」
「痛い、つったか? いま、反抗したな? なぁ? やんの?」
胸ぐらを掴まれた。ぼくは、この頃から、密かに父を軽蔑していた。下品な気がしてならなかった。それでも嫌いなわけではなかった。
「……やらない。ごめん」
すると父は舌打ちして、ぼくを床に投げ捨てた。
「お前さあ、最近うぜえな。ふてぶてしくなっちまってよ。なあ? おい」
倒れたままのぼくを何度も蹴りつける。実際、ひどく痛いわけでもない。ぼくにはとにかく恐ろしさばかりだった。それでも、どうしてか謝罪の言葉は重たく感ぜられて、なかなかつむぎ出せなかった。親に謝るのは気まずいことだと思っているのである。今でも。
しばらく蹴られて、体の力が抜けてしまった。だらしなく横向きに倒れていると、父は本棚を持ってきた。何かまた趣向を凝らした説教でもするのか、と思ったが、父がそれを振りかぶったので、瞬時、ひどく混乱した。頭も疲れていたのだ。死ぬかもしれない。
ぼくは、楽しいことを考えるよう努めた。たとえば、かつて読んだ漫画の主人公、彼のように怒りで覚醒して。
父を殺す?
何かが脳天を突き抜けた気がした。とても清らかなことのような気がした。
「痛い目見ろクソガキが」
本棚が振り下ろされる。しかしそれは、ぼくの頭に当たる直前、突如刻まれてバラバラになってしまう。ぼくの顔には、サイコロ程度の破片が降り注いできたばかりだった。
寒気がして、隣を見ると、恐ろしい形相の怪物が佇んでいた。
引きずり込まれそうなほど黒く、形の定まらない体。影が浮いているようで不気味だった。顔は、白く丸い目が二つあるだけで、そのさまが、なんとも言えず恐ろしかった。幽霊の恐怖ではない。本能的な屈服ゆえの恐怖。
「死神……」
と、口をついて出た。
見れば、父はひどく狼狽した様子で、わけのわからぬことを口走っている。俺はよくやってきた、俺はよくやってきた、としきりに叫ぶ。
ぼくは、ふと、自分が先程から楽しい予感を得ていることに気がついた。胸が躍っていた。なにかに期待していた。生きていけるような気がした。
「君は、どこから来たの?」
体の痛みで震えている手を、死神に向けて伸ばした。彼の腹部に口のようなものがあいて、肘まで飲み込まれた。ぼくはもう、怖いとは思わなかった。救われるような気がした。ぼくは殺されないと確信を得ていた。
「グ……グ……」
死神は言葉が使えないらしかった。腹の底に響く昏い声。ぼくは、これまで、こんなにも心地よい声を聞いたことが一度もなかった。
「助けてくれたの?」
「グ……」
ぼくは、父を一瞥した。いまだに何かぶつぶつと言っていた。
「殺さないであげて」
死神は、ぼくを見つめた。
「殺さないであげて」
再度そう言うと、死神の姿が薄れていって、ついには消えてしまった。しかし、なにゆえかぼくは、彼にいつでも会えることを確信していた。ずっとそばにいてくれる、と信じていた。
父はいつの間にか気を失っている。こっそり蹴りを入れてやろうかと思ったが、恐ろしいような気がしてやめた。
嫌悪の対象。父を避け始めたのは、この時からだった。
――――――
少し月日が経って、ぼくは高校生になっていた。親を避けるようになった。一度殺されかけてから、殴られることさえ嫌になってしまった。今日は、入学式である。親に来てほしくはなかった。あのみっともない刺青を人前で見せびらかさないよう祈るばかりだった。
「よ! お前どこ中?」
教室で大人しく座っていると、快活に話しかけられた。短髪の、よく日に焼けた男である。ぼくは、一瞥して、努めて冷たく顔をそむけた。
「え、ちょ、おーい、聞こえてる? おーまーえ! どこ中!?」
「…………」
良心が痛んだ。怒らせるのではないかと恐ろしかった。怒らせたらきっと殴られるのだろうと覚悟した。ぼくは、決して目を合わせなかった。
「せっかく話しかけたのにそれだと嫌な気分なんだけど。口下手にしても、もう少しさぁ……」
「眠い」
ただ一言、それだけ。ぼくが自分に許した言葉は、そればかりなのである。
「ん……あー……そっか、ごめんな。わかったよ。じゃ」
短髪の彼は、別の人に話しかけに行った。小声で何か言っている。ぼくのことだろう。ぼくは、寂しかった。
悲しい気持ちで外を眺めていると、今度は女子が話しかけてきた。ぼくが、いかにも自分が可哀想という顔をしていたので、同情してくれたのだろう。気を使わせたことが苦しい。今すぐ謝りたい衝動に駆られたが、それでもぼくは、決して口を開かなかった。
「ねーねー、ねえってば! ねーえー!」
「…………」
「おーい! おーいおーいおーい! こんにちはー!」
「……眠いから」
「これだけ近くで叫ばれてて眠いの!?」
明るい人だ。とても眩しい。なんだか、泣きたいような気がした。
「…………」
ごめんなさい、という、例のあの軽薄な謝罪が、喉元までせり上がった。ぼくは、あの殺されかけた日から、殴られるとしきりに謝るようになっていた。無論、それは親の癇に障るらしかった。
乱雑な思考。なんでも、ぼくは発達障碍だそうで。恥だ。
改めて眼前の女子に注意を向けた。どうにも不思議な顔の人だ。しばらく見ていたいような顔だ。
ふと、向こうもぼくの顔を見つめて、そうして、口を開く。
「そんな可愛い顔して無愛想なんて、もったいないよ!」
褒められた。照れくさかった。
ともかく遠ざけねばならぬ。
「……ぼくといないほうがいいよ」
「なんで? 私より可愛いから?」
「え、いや、それはないと思うけど」
「あ、普通に喋ってくれた」
「あ」
失態。ぼくは慌てて口を塞いだ。我ながら馬鹿らしいと思った。
「かわいいね」
自分の情緒がわからなくなって来た。顔の熱いのが自覚せられて、なんだかひどく悔しい気持ちがする。思いきり、顔を背けてやった。
「かわいいんだってば! そういうのが!」
声が大きい。人を遠ざける努力で一生懸命なぼくが、いまさらそう人目を気にするでもないが、いまのぼくたちの印象はどんなものだろうと思って、ちらと周囲を見た。あたたかい目線はひとつもなかった。
ああ、この子は、きっと本来、暗い性分なのだろう。
「ねえ、なんで君といないほうがいいの?」
この子には、いくらか、親切にしなければならない。そんな気がしはじめていたぼくは、少しの会話、それも、遠ざけるためであれば問題あるまいとて、答えた。
「死ぬよ」
「え、中学卒業したよね? ここ高校だよ?」
多感な年頃、それゆえの演技的言動と思われたらしい。
「ほんとに死んじゃうってば」
「なんで?」
「んー……」
それこそ、ぼくの答えは中学生の妄想にしか聞こえぬものである。自分でも、ときどき、考えすぎのような気がする。しかしそれは、ぼくの自分に甘い性格のゆえと思う。
初めて死神を見た、その翌日。ぼくが人付き合いを避ける羽目に至ったのは、この日からの度重なる事件が原因である。