第一章 母の記憶と謎の男達
私は戸籍をある組織に抹消されていた。丁度、父が死んだ頃。当時私は十五歳、中学校を卒業して間も無く、母から高校には通えないと言われた。
「どうして!内定ももらって、合格通知もある。何がダメなの? アキと同じ高校に行けるねって、話ししたばかりなのに…」
「よく聞いて、スミレ。あなたは戸籍がなくなったの。つまりこの世に存在している、本人の証明が出来なくなったの。本当にごめんなさい。」
母は涙を流し、私の腕を掴んだ。
「意味分からない。お母さん、なに言ってるか分かってる? もし本当にそうだとして、私は死んでるのと同じじゃない!」
私は母に掴まれた腕を振りほどき、家を飛び出した。役所へ行き、戸籍謄本を見て確認する為に。
「すみません。戸籍謄本を見たいのですが。」
私が声をかけると、役所の女性が出て来た。
「はい。お母さんはどこにいますか? 書類を書いてもらわないといけないのですが。」
「私一人で来ました。お願いします。身分証明書なら、生徒手帳があります。」
「んー、少しお待ちくださいね。」
その瞬間、ドアが開き、小走りで私の方へ向かって来たのは、母だった。座っている私の腕を掴むと引きずるように引っ張った。
「すみません! この子が先程お願いした事ですが、必要なくなりましたので、失礼します。」
そう言って、母は私を連れて家に帰った。私は抵抗する事を諦めていた。普段優しい母が、ここまで取り乱すほどの何かがあると思ったからだ。
家に帰ると、テーブルの上にある一枚の紙が置いてあった。私は何となく、それが何か分かった気がした。
「私も最初に言われた時は信じられなかった。だからあなたと同じように戸籍を調べたの。見てからも信じたくなくて、私も色々考えたのよ。でも結局、この事実をあなたに打ち明けるしかなかった。」
「ねえ、何で? 誰が何の為にこんなことするのよ…」
私は身に覚えのない内に、誰かから恨みを買っていたのだろうか。ごく普通の学校生活を送っていたつもりだった。訳も分からず、ただ涙が溢れて止まらなかった。こんなありえない話を淡々と話す母にも、死んだ父にさえ、怒りを覚えた。
「落ち着いて聞いてちょうだい。この期に及んで、あなたの為だったなんて言っても信じてもらえないだろうけど…お父さんがね、死ぬ前に調査していた事件があったの。かなり危険な内容だったみたいで、居なくなる一週間前くらいから、気をつけろと言って来たの。何に? って聞いても答えてくれなかったけれど、お父さんが居なくなってからその意味がわかった。突然知らない男達が数人で私の職場に押し掛けてきて、お父さんから預かったものや、何か聞いてないかと聞かれたの。だから何もないって答えた。実際何もなかったのよ。でもその人達は信じなかった。スミレ、あなたの命にかけて本当かと聞かれたの。」
「ちょっと待って、何その話。まったく聞いてない。」
(こんな突拍子もない話、信じられる訳ない。ドラマじゃあるまし。)
あまりにも現実味がない話だったせいで、いつの間にか涙も止まっていた。
「信じられなくても、これは事実よ。私は男達に問われた後、スミレに何かしたら許さないわよって言ったの。でもそんなの通用する訳なかった。本当かどうか知るために、スミレの戸籍を消すと言われたの。命は助けると。その代わり、私がもし嘘をついていたと分かった瞬間、スミレを殺すと言われたの。男達は去って行って、私はすぐ役所へ確認しに行ったけど、もうそこには…本当にごめんなさい。」
「お母さんのせいじゃないよ。分かってる。自分の目で見たし、信じるしかないもん…何だか冷静になって来ちゃった。どうしようもないんだもんね。あはは。私これからどうしたらいいの? 学校にも行けず、いろんな免許や資格も取れないんでしょう? 恋愛も結婚も…存在しないも同然じゃない…」
信じたくなくても、信じるしかない現実に、確かに私は混乱していた。一方で、どこか何かが今までと変わった部分があった。こんな話を冷静に考えられる程の何かが。
翌日、私はいつもと変わらない朝が訪れた様に感じていた。しかし、昨日の出来事は全て事実であり、母の表情が全てを物語っていた。
(全部夢だったら良かったのに…)
本来であればこの日、私は高校の事前説明会に参加する予定だった。友人のアキと新しい制服に身を包む自分を想像して涙が出そうになったが、いつまでも落胆するわけにも行かず、母と今後の事について話し合う事となった。
「おはよう、スミレ。昨日のことだけど、改めて話がしたいの。」
母の悲しげな表情が私をより苦しめた。母が悪い訳ではない事は理解しているが、今本当に辛いのは私なのではないか、と。こんな時、母の自責の念は私にとって負担でしかなかった。
「おはよう。うん、ある程度冷静になって来たから、大丈夫だと思う。でも正直なところ、何について話し合うのかすら疑問なんだけど。」
「まずは、昨日も話した通り、学校には通えません。だから、家で通信教育を受けたらどうかと思ってるの。私が教えてあげられたらいいのだけど、ほら、勉強はお父さんの方が得意だったから…」
母は父と結婚する前、実家がそこそこお金持ちだった。勉強よりも礼儀作法や習い事を厳しく学んでいた為、勉強は出来るが、人に教えるという事に関してはあまり得意では無い様だ。
「それはいいけど、わざわざ通信教育で勉強しないといけないの?義務教育は終わったでしょ。」
「スミレ、あなたには強く賢く生きて欲しいの。誰にも何にも負けないくらい。」
(この期に及んで、まだ私に期待するのね。お母さんは昔からそう。自分が親にされて嫌だった教育をいつも押し付けてくる。)
私は母が好きだ。昔も今も。だが、この時ばかりは親の期待と言うものが、憎くて仕方がなかった。親は分かって言っているのだ。子供が期待に応えようと必死になる事を。そして、その期待に押しつぶされる子供が大多数な事を考えた事も無いのだろう。
「私はお父さんでもないし、お母さんでもないから…でもやれるところまでやってみるよ。」
こうして私は、戸籍を奪われ、夢や希望を失い、家と言う名の檻の中で死んで行く覚悟を決めた。