ラストレター・ロストデイ
2017年7月20日
「先輩! 私今日から、一日一通先輩に手紙渡します!」
部室に来るなり、そいつは突然そう言った。
「いや突然何なんだよ。予告ラブレターか何かか?」
「まあそんな感じです! 一年間続けますね!」
「いや、意味わかんなすぎだろ……」
開口一番意味不明なことを口走ったこいつは、鳴瀬玲奈。俺、傍田晃太の唯一の部活の後輩であり、俺が一応部長を務める「ファンタジー研究会」、通称「ファン研」の唯一のメンバーである。
俺たちファンタジー研究会はその名のとおりファンタジー作品を研究する会。なのだが、実際の活動内容はファンタジーもののマンガや小説を読み漁る程度。たまに自分たちでも書いたりする。
ちなみに生徒会から予算は下りていない。
「なんで一年間も毎日手紙を渡してくんだよ」
「なんか、ファンタジーじゃありません?」
「ロマンチックの間違いだろ」
「むー、つれないですねぇ」
「お前が意味わかんないこと言うからだろ」
「夢がないですよ先輩!」
「論点ずれてねえか?」
とまあ、本を読んでいないときはいつもこんな感じだ。こんな鳴瀬でも、ひとたび本を読めば大人しくなる。
ということで、俺は鳴瀬の興味を読書へ向けるために、読みかけのファンタジー小説を取り出して読み始めた。まだ読み始めて二日だが、これが中々に面白い。
どれくらいそうしていただろうか。五時を告げるチャイムの音で、俺は一気に現実の世界に引き戻された。ふと向かいの席を見ると、鳴瀬も丁度意識を戻したところだったようだ。
「読んでたのか」
「先輩が読み始めちゃうからですよー」
「そうしないとお前永遠に話し続けるだろ」
「えへへー」
「褒めてないからな」
俺は本を閉じると、鞄の中に仕舞った。ふと、鳴瀬が俺に問いかける。
「ねえ先輩。先輩ってなんでファンタジー好きなんですか?」
「突然だな。うーん、始めた読んだ小説がファンタジーだったからかな。それで俺の中に「物語といえばファンタジー」みたいな固定観念が生まれてるんだと思う」
「ようは心が子供のままってことですね」
「馬鹿にしてんだろ」
「冗談ですよー」
「そう言う鳴瀬はどうなんだ?」
「私ですか? 私は、昔からこういう非現実にあこがれてたんですよ」
鳴瀬は閉じた本の表紙をいとおしそうに撫でながら言った。
「魔法が使えたり、不老不死だったり、仲間と冒険したり、楽しそうじゃないですか」
「ようは夢見る乙女のままってことだな」
「あ、先輩今馬鹿にしたでしょ!」
「冗談だ」
俺は席を立ち、部室の棚を漁った。確か書きかけの小説がここに残っていたはず。
「あと」
「ん?」
ギリギリ聞こえるか聞こえないかくらいの音量で呟いた鳴瀬の声を、俺の耳はなんとか捕らえた。
「先輩が好きだから。私も好きです」
「……は?」
予想の斜め上を行く言葉に、俺は反射的に鳴瀬のほうを振り向いた。夕陽、とは言えないほど明るすぎる西日を背に、鳴瀬はにっこりと笑った。
「なんてね、冗談ですよ先輩。本気にしちゃいました?」
「ったく、人をからかいやがって」
俺は棚に視線を戻し、棚漁りを再開する。いや、俺は何を探していたんだったか。忘れてしまった。
無理もない。あんな、「にっこり」なんて言葉が一番似合わないような笑顔であんな弁明をされても、信じられるはずもないだろう。
「先輩。手紙、楽しみにしてて下さいね」
その声は、泣いているようにも聞こえた。振り向いて確認しようとして、やめた。きっと振り向いても、逆光でわからなかっただろう。
「……おう」
こうして、俺と鳴瀬の奇妙な一年が幕を開けた。
2017年7月21日
「……」
「……」
「これだけ?」
「これだけですよ~」
昨日の予告どおり、俺に手紙を渡してきた鳴瀬。しかしいざ読んでみると、内容は手紙というよりはむしろ日記に近かった。今日から手紙を渡し始めるだの、昨日の夜ご飯が美味しかっただの、そんなことばかりが書かれていた。
「こんなのを一年もやんの?」
「こんなのを一年もやります」
「なんか肩透かし食らったわ」
「え、先輩もしかしてそういう風なの期待してたんですかー?」
「言ってろ」
俺は鞄からクリアケースを取出し、その中に手紙を入れた。
「何してるんですか?」
「保管だよ。何のつもりか知らねえけど、捨てるのは申し訳ないからな。とは言っても、家で親に見つかったら説明が異常に面倒くさそうだから部室に保管するわ」
「先輩ってそういうとこ微妙に優しいですよね」
「微妙って言うな」
俺は戸棚の中にクリアケースを仕舞おうとした、すると、何かが手に触れた。手に取ってみると、昨日探していた書きかけの小説の原稿だった。
「なんだ、こんなとこにあったのか」
俺は原稿を机の上に広げ、なんとなくさらっと読んだ。
「いや、面白くねえなこれ。またボツか」
「先輩いくつボツ作るんですか?」
「毎回後になって読み返すと面白くないんだよなぁ。書いてるときは自信満々なのに」
「創作ってそんなもんですよ」
「知ったような口を……」
「知ってますよ? だって私、中学のとき文芸部でしたもん」
「……噓だろ?」
「ホントですよ~」
負けた。まさかこんなところに先輩がいたとは。しかもよりによってコイツだとは。
「ふふん、もっと敬ってもいいんですよー?」
「ぜっっっったい嫌だ」
「先輩流石に傷つきますよそれは……」
「冗談……でもないな。なんとなく鳴瀬には負けたくない」
「先輩って負けず嫌いですよね。負けないように私に毎日手紙書きます?」
「なんでだよ。やらねえよ」
「えー」
とりあえず当面の目標は決まった。経験者の鳴瀬を一泡吹かせる作品を書き上げる。
やってやろうじゃないか。先輩として。
2017年10月9日
驚いたことに、宣言どおり鳴瀬はあれから毎日手紙を書いて寄越している。最近はよりどうでもいい内容が増えた気がする。
ちなみに俺はと言えば、二ヶ月少し前に決意した作品は全く進んでいない。
「せんぱーい、最近小説書いてばっかで全然本読まないじゃないですかー」
「別にいいだろ。今はとにかく書きたいんだよ」
「たまには普通に小説読んでヒント得たらどうですか? 私のおススメ貸しますよ?」
「どんなのだ?」
「異世界の話なんですけどね? 短命種族と長命種族が恋に落ちて……」
「俺、ロマンスというか恋愛もの苦手なんだよな」
「えー、なんでですか」
「さあな。なんでかわからないけど、肌に合わないんだよ」
「面白いのになぁ」
さびしそうに呟く鳴瀬を見て、俺の中の小さな良心が声を上げた。
「……やっぱ貸してくれ。たまには読んでみてもいいかもしんないしな」
「はい! いいですよ!」
すぐさま笑顔になって俺に本を手渡してくる鳴瀬。全く調子の良い奴だ。
「そうだ鳴瀬」
「はい?」
「いや、なんでもねえ」
出来上がったら読んでほしい。そう言うのは何故か恥ずかしかった。
2018年1月17日
授業が終わり、部室のドアを開けると、一時間早く授業を終えていた鳴瀬が机に突っ伏して寝ていた。暖房はついているが、上着を脱ぎっぱなしだ。
「風邪引くぞ馬鹿が……」
俺は鞄の上に放置されていた上着を手に取り、鳴瀬の背中にかけた。そこでふと、机の上に「1月17日」と書かれた手紙が置いてあるのが見えた。
「今日の分か……」
いつものように手に取り中身を読む。やっぱりいつものように、どうでもいい内容だ。でもどこか、それが鳴瀬らしいと思えた。
俺は棚からクリアケースを取り出し、今日の分の手紙を中に入れた。手紙を受け取り始めて約半年。クリアケースの中もそこが見えなくなるほどには溜まってきた。
「ほんと、よくやるよ」
最初は意味がわからず、とりあえず読んでは保管してを繰り返していたが、最近は楽しみにしている自分がいる。あと半年もあると思うと何となく面倒くさい気もするが。
「んぁ……せんぱい、来てたんですかぁ?」
「あ、おう。お前上着も着ないで寝てたら風邪引くぞ?」
「と言いつつかけてくれる先輩流石です」
「うっせえ。ほらよ」
俺は買ってきていたホットのレモンティーを机の上を滑らせて鳴瀬に渡した。
「ふぇ……?」
「好きだろ、それ」
「あ、ありがとうございます。ってあちち」
席について書きかけの原稿とシャーペンを取り出す。最近筆の乗りがよく、中々に執筆が進んでいる。
鳴瀬がじーっと俺の作業を凝視しているのを認識しながら作業をしていると、ふと思い出して俺は鞄から例の借りていた小説を取り出した。
「これ、読み終わったから返すわ」
「ああ、読み終わったんですね。どうでした?」
「鳴瀬の言うとおり面白かったよ。恋愛ものもまあ悪くはないな」
「でしょでしょー」
えっへん。とでも擬音が付きそうな表情で俺を見る鳴瀬。俺はそのまま原稿に視線を落とし、執筆を再開した。
「今どのくらいですか?」
「んー、半分くらいかな」
「結構進んだんですね」
「まだまだ、遅い方だろ」
「始めてまともに書き始めたにしては早いと思いますよ?」
「煽ってるようにしか聞こえないな」
「そんなつもりないですよー」
なんて話をしながら、終了時刻まで執筆を続けた。
2018年5月30日
「新入部員、来なかったな」
「来なかったですね」
「またこれで一年鳴瀬と二人きりかー」
「嬉しいですか先輩?」
「ちょっとな。これ以上曲者が増えられても困るし」
「素直じゃないですね先輩」
「お前はどうなんだよ」
「私は嬉しいですよ?」
「素直な奴」
「えへへー」
鞄を椅子の隣に放り投げ、椅子に座る。いつも通り原稿とシャーペンを取り出したところで、鳴瀬が手紙を渡してきた。
「はいこれ、今日の分です。あ、私ちょっと飲み物買ってきまーす」
「おう、いってらっしゃい」
慣れた手つきで封筒を開封し、一行目を読み始めようとした。その瞬間。
ガタン
部室の壁が揺れた。揺れたとは言っても、地震とかそういうのじゃなくて、もっと何か、人や物が倒れこんできたような揺れだった。
「なんだ?」
手紙を机の上におき、部室のドアを開ける。するとそこには。
「鳴瀬!?」
壁にもたれるように座り込んだまま、目を瞑っている鳴瀬の姿があった。
「鳴瀬っ!」
病室のドアを開けると、いつも通りの笑顔で鳴瀬がベッドに座っていた。
「ごめんなさい先輩。心配かけちゃいましたね」
「心配かけちゃいましたね。じゃねえだろ。なんで隠してたんだよ」
「……」
数秒前までの笑顔とは打って変わって、似合わない泣きそうな顔を浮かべる鳴瀬。
「ごめんなさい先輩。全部、話しますね」
「……何をだよ」
「実は私、余命宣告、されてるんです」
「……は?」
何となく、状況と文脈から察しはついていた。でも、そうだと思いたくなかった。だが、そうも行かないらしい。俺の推測は、当たってしまっていた。
「あとどんくらいだよ」
「あと三ヶ月……くらいですかね」
「……」
ぐっと、奥歯を噛み締めた。拳を握り締めて、耐えた。しっかりしろ。俺は、コイツの先輩なんだから。
「でも大丈夫です。ちゃんと手紙は書き上げますよ」
「当たり前だ。俺だってあの小説書き上げる。だから、一番最初に読め」
「最初で最後の読者、ですね」
「ちゃんと批評頼むぜ、センパイ」
「ふふ、先輩に言われるの面白いですね」
「普段言わないんだからもっと喜べ」
「わーい」
それ以降、俺たちは何も話せなかった。
2018年6月12日
「鳴瀬、来たぞ」
「あ、先輩! 今日もちゃんと手紙書きましたよ!」
「おう」
ベッドの隣の椅子に座って、手紙を受け取る。封を開けようとすると、鳴瀬が言った。
「先輩、私が何で手紙書いてるかわかります?」
「考えたこともなかったな。なんでだ?」
封を開け、中身を読みながら聞く。
「先輩に、覚えていてほしかったんです」
「こんなことされなくても、忘れるわけねえだろ」
こんな曲者、忘れたくても忘れられない。
「わかってますよ。でも、何か形に残したかったんです。一日一通、一年分の手紙があれば、少なくとも私の最後の一年間は形に残るじゃないですか」
「めんどくせえ彼女みたいなことするな」
「あはは、先輩からそんな台詞が出るなんて面白い」
「うるせえ」
まあでも確かに、昔なら絶対言わなかっただろう。鳴瀬に恋愛小説勧められたのが原因だ。きっと。
「だからね、先輩。先輩が捨てずに保管するって言ってくれたの、とっても嬉しかったんですよ」
「どういたしまして」
「ふふっ」
読み終わった手紙を閉じ、鞄の中に仕舞う。ちゃんとクリアファイルに挟む。
じっと窓の外を見つめて動かない鳴瀬の頭に、そっと手を置いた。
「らしくねえな。手紙の最後、滲んでたじゃねえか」
「あはは……書き直したほうがよかったですかね」
「馬鹿言え。あれでいい。ったく、無理すんじゃねえよ」
触れてみると意外と小さかった頭を、くしゃくしゃと撫でる。震えているのが、掌で感じ取れる。
「せん、ぱい……わたし……」
「わかってる。泣きたきゃ泣け。別に笑ってなきゃ鳴瀬じゃないなんて、誰も思っちゃいねえよ」
「うぅ……わたし、しにたく、ない……」
「……俺だって死んでほしくねえよ」
鳴瀬は上体を翻し、俺の胸に顔を埋めて泣いた。一瞬驚いたが、ゆっくり、優しく、頭を撫でてやった。
「ぐすっ、ひっぐ……」
「……」
数分そうしていると、疲れたのか鳴瀬は眠った。俺は鳴瀬を引きはがし、ベッドに横たわらせた。布団をかけて、病室を出た。
廊下を歩いていると、鳴瀬の母と会った。顔を合わせるのはこれで三回目だ。
「あ、傍田くん」
「こんにちは、鳴瀬さん。玲奈は今寝てます」
「そう。いつもありがとうね」
「いえ。俺のほうこそ、何度もすみません」
「ううん、あの子が幸せそうにしてるから大丈夫よ」
「そうですか、それは良かった。では僕はこれで」
「ええ、気をつけてね」
「はい。ありがとうございます」
鳴瀬の母の隣を通り抜けて、ロビーへ向かう。その途中で、頬に僅かな違和感を感じて、袖で拭った。
「くそっ、俺は泣いちゃダメだろうがよ……」
2018年7月19日
「明日で一年、ですね」
「だな」
手に持った手紙を見つめ、いつものように封を切ろうとして、止めた。
「読まないんですか?」
「帰って読むよ。なんとなく、今ここで読める気がしない」
「泣いちゃうんですか?」
「うっせえ」
一ヶ月前のアレが噓のように、鳴瀬は明るい表情をしていた。俺も極力、明るい表情を繕う。
「ちゃんと書き上げますね」
「おう。俺も、今日中に完成しそうなんだ。あとは二択で迷ってるオチを決めるだけだな」
「楽しみです」
「おう、楽しみにしてろ」
そんな話をしてると、看護師が病室に入ってきた。
「鳴瀬さーん、検査でーす」
「あ、はーい。じゃあ先輩、行ってきますね」
「おう。また明日な」
少し震える指を這わせて、手紙の封を切った。封筒を机の上に置き、デスクライトの下で手紙を読む。
『 先輩へ
今日で私が「一年間手紙書きます!」って言ってから364日ですね。そしてやっと明日で一年です!
なんとなく思いつきで始めたこれですが、やってみてよかったです! 先輩の色んな新しい顔を知れたし。
先輩。たくさん、言いたいことがあるんです。感謝の気持ち、謝罪の気持ち、それ以外の気持ち。書き始めたら止まらなくなりそうなくらいたくさん。
でもそれは、最後のお楽しみです。明日、全部言いますね。
先輩、また明日、です。
鳴瀬玲奈より』
「焦らせやがって、ほんとあいつらしいな」
俺は部室から持ち帰ってきていたクリアケースに手紙を入れ、原稿を取り出した。何となく、迷っていた二択が決まった。
「さあ、さっさと書き上げよう」
2018年7月20日
書きあがった原稿を片手に、病院の自動ドアを抜ける。いつもの病室へ向かう途中で、廊下のベンチに座ってすすり泣く鳴瀬の母を見つけた。
「鳴瀬さん……?」
嫌な予感がしたが、ゆっくりと鳴瀬の母に歩み寄っていく。
まさか、まだ大丈夫だってあいつも鳴瀬の母も医者も言っていたじゃないか。そんなまさか。
鳴瀬の母が俺に気づいて顔を上げた。その顔は、涙で濡れていた。
「傍田くん、玲奈が、玲奈が……」
「鳴瀬が、玲奈さんがどうしたんですか?」
恐る恐る尋ねる。大丈夫だ。だって約束したじゃないか。お互いに書き上げるって。あいつが、約束を破るはずが……。
「――――」
手の中から、原稿が零れ落ちた。フサリと音を立てて、病院の床に落ちる。
噓だ。ありえるものか。こんな、こんな結末なんて。
気が付けば、俺はその場を駆け出していた。
病院の駐車場の隅の開けたスペース。フェンスにもたれかかりながら、俺はじっと地面を見つけていた。
結論から言えば、玲奈は死んでしまった。でも、余命じゃない。事故でだった。
今朝いつものように日課の散歩に出かけ、そこで暴走車に轢かれてしまった。らしい。
「ふざけんなよ!」
フェンスを思いっきり叩く。手に跳ね返ってくる痛みは微弱なもので、俺の頭を冷やしてはくれなかった。
「くそっ、なんで……」
地面に染みができる。自分が泣いているのだと気づくのに、数秒かかった。
「おかしいだろ。なんで、なんで事故なんだよ……」
怒りと、後悔と、悲しみと、絶望と。色んな感情が頭の中で渦巻く。言葉にも表現できないほど、混沌とした淀んだ感情が、心の中を埋め尽くした。
「傍田くん」
鳴瀬の母の声だった。俺は咄嗟に涙を拭って、顔を上げた。目の前に、先ほど落とした原稿が差し出されていた。
「……ありがとうございます」
「さっきはごめんなさいね。もう少し、落ち着いて言えばよかったのだけれど」
「いえ、無理もないですよ。大丈夫です」
「ありがとうね。ああそれと、これ」
鳴瀬の母はもう一つ、俺に何かを差し出した。受け取ってみると、それは封のされていない手紙だった。
「これは……」
「玲奈のね、机の上にあったの」
封が開いたままで、中に便箋が入っているのが見える。裏返すと、封筒の表に「7月20日」の文字が躍っていた。反射的に、中の便箋を取り出す。一縷の望みを抱いて開いたが、そこにはたったの一文字も綴られていなかった。
「馬鹿が……全部言うんじゃなかったのかよ……」
「迷ったのだけれど、やっぱり傍田くんに渡すべきだと思って」
「……ありがとうございます。申し訳ないですが、もう少し、一人にさせてください」
「ええ」
鳴瀬の母は、去り際にこういい残して行った。
「お葬式、来て頂戴ね。きっと、玲奈も喜ぶわ」
「……はい、必ず」
鳴瀬の母が去り、一人になった俺はもう一度手紙を開いた。ふと、指に何か違和感を感じ、便箋を凝視する。
確かにそこには、一文字も綴られてはいなかった。でも、便箋の一行目。真ん中の辺りに、一文だけ。何度も書いては消してを繰り返したであろう痕が、残っていた。
『先輩、好きです。』
「ったく、これだから恋愛ものは嫌いなんだよ……」