一場の春夢 Ⅰ
…
………
…………
……………
「…ねぇ」
………。
「ねぇってば……!」
………………。
「早く起きてよ!お兄ちゃん!」
「…………⁉︎」
強く体を揺すられ、闇の中にあった意識が覚醒する。
「もう8時ぴっただよ!早く支度しないと遅刻するよ!」
「あ、あぁ…………」
人に起こされるという久しぶりの感覚に、歯切れ悪く俺は答え、ベッドから重い体を起こす。
「お兄ちゃんは重要ポジなんだから、しっかりしないとでしょ!」
体を動かす度に、それにつられて揺れるツインテール。
若い果実のように弾んだ声。
鼻腔をくすぐる慣れ親しんだ柔軟剤の香り。
もう何度も見て、もう二度と見れないと思ったその表情――。
「文……那……?」
「どうしたのさ、ジロジロと。どっか変?」
徐々に寝起きの感覚が薄れ、意識がはっきりしてくると、脳裏に今までの記憶が強烈な勢いでフラッシュバックする。
「文那……!お前どうして……⁉︎」
何故死んだはずの文那が生きている⁉︎
「ちょ……ちょっと近すぎ!シスコンにしても世間体考えて!」
布団から飛び退き肩を掴むと、それを文那が拒絶した。
感覚がある。触ることが出来る。熱を感じられる。
今目の前にいる二階堂文那は、たしかに生きていた。
「どういうことなんだよ……夢なのか?」
「何でもいいから、取り敢えず離れる!」
「あ……ごめん」
強い口調で言われ、俺は文那の体から手を離した。
次に俺は、夢かどうかを確かめる為にテンプレである頬をつねるという行為を試みた。
「痛い……」
予想通り痛覚はあった。夢では無い、という事らしい。
「早く支度しなよお兄ちゃん。今日から文化祭の準備するんじゃなかった?」
「文化祭……?何言ってんだ。そんなのこの前終わっただろ」
一ヶ月前に行われた霞ヶ浦高校の文化祭――俺が*音の提案を打ち負かし、宮*由**を呼んで……それだけじゃなくて神*って奴が俺と同じ生き返りで色々あって――。
(鮮明に覚えてる……。やっぱり文化祭は終わってる……)
「…………」
文那を見る。
俺の今の発言に小首をかしげ、眉をしかめていた。ふざけている様子は無い。
まるで“間違っているのは俺の方だ”といった様子だった。
「文那……今日って何日だ?」
もしかしたら、と思い当たる節があり、俺は玲美にそう問いかけた。
「そんな事も忘れちゃったの?最近たるんでるんじゃない?」
「答えてくれ」
頭の整理がつかない苛立ちに、少々強めな口調になる。
だが文那はそれをあまり気に留めた様子は無く、平然と答えてくれた。
「7月7日だけど」
「何年のだ?」
「……何?なんかふざけてる?時間ないんだけど」
「いいから……答えてくれ」
今度は流石に呆れたようで、文那は大きなため息をついた。
そして、やれやれといった仕草をしながら答えてくれた。
「2019年――。今日は2019年の7月7日です」
「20……19年……」
2019年の7月7日。それはあの文化祭が行われるよりもずっと前――ちょうど俺が続*に殺される一年前だった。
「そうか……やっぱりそうなのか」
どういうことかは理解出来ないが、俺はどうやら一年前にタイムスリップしてしまったらしい。
別段不思議ではない。
俺も異能力で物質を反射させる事が可能だった。
*木は物を燃やし、凍らせる事が出来たし、*倉は人に乗り移る事が出来た。
蘇った人間の中にタイムリープを可能にする能力者がいたところで、なんら不思議な事はない。
それに昨日、俺を殺したあの魔女という女は言っていた。
“俺は何度も殺されている”と。
あの言葉から推測するに、俺は続*とあの女に殺された上で、誰かを絶望させるために過去へと戻され、また殺されてるということを繰り返していたんだろう。
何故今回だけ、前の世界線での記憶を保持しているのかは定かではないが。
まぁともかく、だ――
「文那ああぁぁぁーーー‼︎」
「ぎゃあああッッ⁉︎なにさ抱きつくなバカ兄貴!」
俺は目の前の文那をきつく抱きしめた。
突然のことに文那は顔をたこのように真っ赤に染めあげ、叫んでいた。
タイムリープをした理由も、俺が記憶を保持している理由も、今はどうだっていい。
文那が生き返り、またこうして話すことが出来る。
今はその事実が分かれば、充分だ。
「愛してるよーアイラブユー文那ー」
「だああぁぁキモいっつーの!離れろシスコン!」
顔面に正義の鉄拳をお見舞いされ、俺は無理やり引き離される。
「私先に学校行くから!さよなら!」
がるるるる……と虎の威嚇のような声を出し、文那は睨む。
「待ってくれ!一緒に行こう!」
「待つわけないでしょ!このシスコン!」
怒り心頭といった様子で文那はそう吐き捨てると、勢いよく扉を開け、家を出て行ってしまった。
「…………くくっ」
しばらくぼーっとした後、突然腹をくすぐられる感覚があり、俺は唇の端を綻ばせた。
「あはははは!やった!やったぞ!」
戻ってきたんだ。文那が、俺が、殺される前の時間軸に。
理由はどうあれ、俺はまた文那と一緒の時を過ごす日常へと戻ってこれた。
その喜びが、体の奥から俺に喜びを告げていた。
だがそう喜びに浸っていたところで、ピピピッと8時15分を告げるスマホのアラームが鳴る。
「ま、殺されるまでは一年もある。早く行かないとな」
寝巻きを脱ぎ捨て、制服へと着替え始める。
「さもなきゃ……予定よりも早く、あいつに殺されちまう」
そういえば、他のみんなの記憶はどうなっているのだろう。
その疑問が、俺の頭をよぎった。
前の時間軸で死んでいたせいで、文那は記憶が無いだけだろうか。だとしたら、他のみんなの記憶はあるということになる。
だが、そんな上手い話は無いだろうことは、心のどこかで分かっていた。
「まぁ、またやり直せばいいだけさ」
昨晩の面々の顔を思い出し、繋げた絆の強さを思い出すと、俺はそう希望に満ちた言葉を呟いていた。
xxx
校舎に入り、下駄箱で靴を履き替える。
と、しようとしたところで、今まで使っていた『235』の番号には既に誰かの外履きが入っていることに気付いた。
「そういや1年前だから、下駄箱の位置も教室も違うのか」
その事をすっかり忘れていた。
「えぇっと……一年の頃はたしか1年A組で、下駄箱はC館の168だったっけか」
呟きながら、隣の校舎へと走る。
正直なところ、学校では眠りにいっていたようなもので、文化祭などの行事にも積極的では無かったし、一年前の自分のクラスがどこだったかすら、曖昧なのだ。
「お、あったあった」
予想通りの場所にあったその棚から中履きを取り出し、履き替える。
一年の中頃から三日*がしつこく俺の怠惰加減を注意してくれるようになってくれたのが、功を成したらしい。
タイムスリップをした時に、まさかこんな知識が役に立つようになるとはな。ありがとう三**。
そう心の中でお礼を言うと、俺は急いで3階にある一年A組の教室へと向かう。
3階へと登り廊下を曲がると、1-Aと書かれた教室の前に、遅刻した生徒を取り締まるために立つ委員長のシルエットが見えた。
なんて話しかけようか。
俺のように彼女も記憶を保持していたのなら、どこから話をしようか。この摩訶不思議な現象を、彼女だったらどう対処すればいいか分かるかもしれない。そうしたら、一緒に次は俺が殺されない方法でも考えてもらおうか。
もし覚えてなかったのなら、明日からはきっと真面目な生徒になると彼女に約束しよう。そして俺は教師を目指すために頑張るからお前の力を貸してくれって、そう頼んでみようか。
俺の心は、期待で満ちていた。文那とまた暮らせ、自分が本当に生きていることに舞い上がっていたんだと思う。
だからこそ、目の前に現れたその少女は、俺の心を一瞬にして粉々に砕いたのだ――。
「10分の遅刻ですね。二階堂さん」
腰のところまで伸びた黒髪、優しそうな人柄を思わせるとろんと垂れた瞼、冷淡というよりは温厚を感じさせる空気感。
俺を叱咤した人物は、予想していた人物とは全くの別人だった。
「お忙しいのは理解していますが、遅刻は流石にあなたの立場上厳禁ですよ」
可愛らしく頬を膨らませる。どうやらこれで、少女は怒っているようだった。
「だ、誰だお前……?」
思わず口をついたその言葉に、少女は分かりやすく顔をしかめる。
「そう戯ければ許してもらえるとお思いですか?そうはいきませんよ」
出会ったことのないその少女は、俺とは対照的に知り合いであるかのような態度をとった。
「釈明は聞き入れますよ。何か言い分があるのでしたらどうぞ?」
(どういうことだ、こいつは一体誰だ)
三日*は、あいつはどうしたんだ……。
あいつは一年の頃、俺と同じクラスでこの一年A組の委員長だった。そのあいつに、俺はよく遅刻や居眠りで叱咤されていた。
この記憶は、間違っていたいはずなんだ。
たしかに俺には、その記憶があるんだ。
「二階堂さん、流石に無視は如何なものかと思いますが!」
黙り込む俺に、少女は少しムッとした様子で顔を覗き込んだ。
その怒りの表情にちょっとした危機感を感じた俺は、
「わ、悪かったって白草……つい寝坊してしまってな。今度購買の焼きそばパン奢ってやるから許してくれ」
白草つゆぎ――この高校に入学して、一番初めに友好を築いた少女。
その彼女にいつものノリで好物を話題に出し、それとなくやり過ごすことを考えた。
(何だ……今の)
意識せず自分が発したその言葉に、思わず息を飲む。
(俺は……こいつの事を知ってるのか?)
目の前にいる高貴な花を連想させる少女、彼女が“白草つゆぎ”という少女であることが、突然頭の中に浮かび、俺はその名を口にしてしまっていた。
そして紡いだ言葉は、まるで今まで共に時間を過ごして来た友人に向けられるようななだらかなものだった。
分からない。
何故自分が彼女の名前を知っていたのか、俺は理解することが出来ていなかった。
「ま、全く……そんな物で私はつられたりしませんよ。私は、意志の強い女なんです!」
「二つで、どうだ?」
だが俺の思考とは関係無く、口は言葉を垂れ、顔は張り付いたような笑みを浮かべた。
「……いちごオレのセットを希望します」
「乗った。交渉成立か?」
自分では無い何かに体を乗っ取られるような感覚――何か別の意思が、今俺とは違う思考をし、この白草と話している。
それは、気持ちの悪いとしか表現の出来ない感覚だった。
「もぅ、しょうがないですね……今回だけですよ。もし、一千万が一にもまたこのような事があった場合、その時は今の倍の倍の要求をするので、お覚悟よろしくお願いしますよ二階堂さん」
「ははっ、分かってるよ。ちゃんと用意出来るよう貯金しておくよ」
「遅刻をしないという選択をして下さい!」
「悪い悪い、冗談だ。そう怒るな白草」
ぷりぷりと可愛らしく怒る彼女を、俺は笑ってなだめる。
俺は思考を止め、体をこの奇妙な感覚にすり合わせ、この白草という少女との会話を、自然と紡がれていく言葉に身を委ねることにした。
そうしてみると、何故だかそれは自然と体に馴染んでいて、気持ちの悪い感覚が、消えていくようだった。
「全く……副委員長の私にここまで注意されるなんて、情け無いと自分をしっかり恥じめて下さいね」
「副委員長……?」
白草の何気なく発したその言葉が気にかかり、問い掛ける。
「白草が副委員長って、じゃあ他に委員長がいるってことか?」
「もちろん、いますけど……」
何故だか心配そうな瞳で、白草は俺を見つめた。
(そうか、すっかり忘れていた)
この霞ヶ浦高校にはクラス委員長と、それを支えるための副委員長を決めることになっている。
だから一年の時にも、委員長であるあいつを支える、副委員長が存在していたはずなんだ。
委員長のあいつがあまりにも仕事を完璧にこなしていたせいで、副委員長の仕事など無いに等しく、影の薄いものだったから、すっかり忘れてしまっていた。
元より一年の時のクラスメイトなど、仲の良かった数人しか覚えていない。この白草という少女が副委員長である事を俺が忘れていても、当然のことだった。
「なぁ、委員長はどこにいるんだ?なんで副委員長の白草がこんな事をやってる」
「二階堂さん、今日は頭でも打ってしまったんですか?」
「何だよ、そんな変な質問だったか?遅刻者を取り締まるのはクラス委員長の仕事だろ?」
「そうですが……」
歯切れ悪く白草はそう言ったあと、予想だにしなかった言葉を、俺に投げた。
「このクラスの委員長は――二階堂歩夢さん、あなたじゃないですか」
「は……?」
白草から投げられたその言葉に当惑した俺は、開いた口を塞ぐ事が出来なかった。
「俺が……このクラスの委員長?ははっ、悪い冗談は――」
瞬間。針で脳を刺されるような痛みが頭に走った。
耳鳴りがし、気持ちの悪い感覚が脳を支配していく。
意識の底、真っ暗なその深淵の中からまた新たな記憶が蘇ってきた。
三ヶ月前の入学式。
ホームルームの中でこの一年A組のクラス委員長と副委員長を決める運びとなった。
委員長に課せられるその激務からクラスの誰も立候補するものは現れず、教室は静閑としていた。
だがその中で、意気揚々と手をあげる者がいた。
それが、俺だった。
『彼女に応えられる人間であるために』
その時の俺は、そんな使命感のようなものを感じていたと思う。
その彼女というのが、今の俺には誰なのか、名前すら思い出すことができない。
そして委員長に立候補した俺は、隣にいた白草つゆぎを推薦し、半ば無理やり副委員長とした。
「くっ……」
頭痛が引いていき、薄らと視界が開けていく。
「今のは……また、思い出したのか……?俺が、本当にあんなことをやったっていうのか?」
殺人鬼のレッテルを貼られた俺が、委員長だって――?
そんなの……。
そんなのは……。
「ありえない!」
無我夢中で、目の前の白草の肩を掴み、壁へと叩きつけた。
「ひぇっ⁉︎」
甲高い悲鳴をあげ、恐怖の表情を白草は浮かべる。
「白草、お前だって俺が過去に何をしたのかぐらい知ってるだろ⁉︎俺がどういう人間なのか分かっているんだろ⁉︎」
思い出したその事実を否定するように、俺は怒号を飛ばした。
「……もちろん二階堂さんの事は知っていますよ。ですが……私は副委員長として二階堂さんをずっと近くで見てきました。過去はどうあれ、今の二階堂さんとは何の関係もありません!」
真っ直ぐに俺の顔を見据え、一切の曇りのない瞳で白草は俺にそう告げた。
白草から返ってきたその答えは、俺が委員長であるという事実を、更に根拠づけるものだった。
「そんな……」
弱々しく白草の肩から手を離すと、俺は魂の抜けた人形のように、項垂れ、白いタイルの床を見つめた。
「だって……このクラスの委員長はあいつじゃないか。俺なんかじゃ……俺は委員長なんかじゃ……」
俺がクラス委員長なわけが無い。
俺みたいな飄々とした人間がそんな職務に向いているはずが無い。
委員長っていうのは、あいつみたいに厳格でみんなを想える人間がやるべきなんだ。
そう、あいつみたいな――。
「あいつ……」
そこで俺は気付いた。
あいつと呼ぶ、その彼女の名前を思い出せないでいる自分に。
「そんな……!」
恐怖で狂いだしそうになるのを抑え、必死に記憶を辿る。
つい昨日の夜あった、彼女との思い出を。
『私の名前はな、――月が――で******』
隣にいた彼女は、優しい微笑みと共に俺に自分の名前を語ってくれていた。
その彼女の名前の物語は美しく、夜空に流れる星のような輝きを放っていた。
けれど――そうだというのに、その感覚はあるというのに、思い出せなかった。
ぐぉん――。
イメージの中に唸るような渦が現れると、さっきまで思い出せていたはずの彼女の顔にはどんどん白い霧がかかっていき、記憶も曖昧に感じられてきた。
まるで今までの出来事が、夢だったとでもいうように――。
「どうしてだ……どうして思い出せないんだよ‼︎」
渦はどんどん大きくなっていき、俺の記憶を消し去っていく。
悪友だった彼女の事も――
苦難を乗り越え友情を深めた彼や唯一無二の大親友――
ガサツだが優しかった彼女とその家族――
ずっと一緒だったみんなの顔も名前も思い出も、全てが夢だったとるにたらない思い出だとでもいうように、消えていった。
「思い出せない……俺の記憶が、思い出が……消えていく」
「あぁ……あぁあ…………」
失意の念が、情け無い擬音となって記憶と共に俺の口から零れ落ちた。
「本当に大丈夫ですか委員長?」
心配そうな顔つきで、白草が項垂れる俺の顔を覗き込んだ。
「あ、あぁ……大丈夫だ」
必死で取り繕い、俺は教室の扉へと手をかけた。
俺が委員長だというのなら、ここで倒れては皆に迷惑がかかる。
「……昨日ちょっと徹夜で勉強しててな、そのせいで少し頭痛がするだけだ」
その言葉に、白草がまた頬をふくらませ俺を注意する。
「いつもそうやって無理なさるんですから。頑張るのは結構ですが、体が資本ですよ!」
「ははっ……分かってるって」
冗談で言ったはずの言葉に、何も躊躇することなく返す白草に、乾いた笑いが出た。
俺が徹夜で勉強など、いつもなら笑って返されてもいいはずの事なのに。
だが不思議と、きっと俺はそんな事をする人間なのではないかと、それが自分の本来の姿なのではないかと、そう思ってしまう自分もいた――。
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「今日もこれといって、連絡事項はありません……」
見るからに覇気の無い、痩せた中年の男性教師。
新たに思い出した記憶によれば、このクラスの担任で間違いなかった。
だが薄らと映る忘れたく無いもう一つの世界――。
そこにいる先生はもっと輝いていたはずだった。
「何なんだ……何なんだよこの世界は……」
教室に入ってみたが、知っていたはずの、存在していたはずの人物は誰一人としておらず、その人物達がいたはずの場所は、違う生徒達が存在し、談笑していた。
あれは夢であったのか。
それとも、こっちが夢なのか。
当惑し、ただただまとまらない思考を、小さな机の上で抱え込むしかなかった。
「では……これでホームルームは終了と致しますので、みなさんはくれぐれも、他の先生方に迷惑をかけないように……」
生徒には目もくれず、ずっと手にした名簿に向けてボソボソと独り言のように話を終えた担任は、教壇を降りて教室の前扉へと手をかけた。
その時だった――。
「作道くんか……。今日は来たのか、偉いぞ」
担任と入れ違いになるように、一人の女生徒が教室へと入ってきた。
肩のところまで伸びた赤毛。
繊細な面立ちの顔。
白いワイシャツの制服の上から黒いパーカーを羽織ったその少女の姿を瞳に映した刹那、
「玲美……!」
俺はその女生徒の姿に、曖昧だった記憶の断片にいる女の子の影を見出した。
無我夢中で席を立ち、その女生徒の肩を掴んだ。
「玲美……お前、作道玲美だよな⁉︎」
作道玲美――今まで闇の中へと溶け込んでいたその名前と容姿が、一気に俺の頭へと流れ込んできた。
記憶の中の作道玲美という少女は小学生だったが、今目の前にいるこの作道と呼ばれた女生徒には、たしかにその少女の面影があった。
「な、何⁉︎何だよお前⁉︎」
少し勝ち気な声色で、玲美が叫び、俺の手から逃れようとする。
「忘れたかのか玲美、俺だよ!二階堂歩夢だ‼︎」
困惑する玲美の顔が見えたが、消えかけていた記憶の少女と出会えた俺はそれを顧みず、興奮気味に話を続ける。
記憶が完全に消える前に、この女生徒と話が出来れば――。
この女生徒だけが、消えかけていく記憶が真実であることの証明だった。
「ど、どういう事だよ玲美。何でお前が高校生で、俺と同じ教室に――」
瞬間。
「ぐっ……」
腹部にに強烈な痛みを感じ、俺は思わず手を退ける。
遅れた、女生徒に蹴られたのだと理解した。
「気安く触ってんじゃねぇ!」
ぎろりと腹を抱える俺を睨み付け、恨みを孕んだ声で怒鳴りつけた。
「く……玲美……お前、どうしてこんな――」
ガンッ!と女生徒は威圧的に床を蹴り、音を鳴らすと言葉を遮った。
「何だよ玲美、玲美、玲美ってさ!関係無い奴が私の名前を呼ぶんじゃねぇ!」
女生徒はそう、俺へと怒りをぶつけた。
やはりこの女生徒は作道玲美という名前の少女であることは、間違いなかった。
だからこそ――今の彼女の俺に対する態度は、疑問であった。
「関係無いって……俺とお前は……」
そこで俺は、言葉を止めた。
頭の中に浮かぶ顔の無い二人の少年……そして小学生の玲美と文那と俺の五人で食卓を囲む風景。
だがこれは、本当に真実だったのか。目の前の高校生となり、荒れた性格となった玲美を見て、俺はその疑問を払拭出来ず、言葉にする事が出来なかった。
ただ彼女の幼い姿を、夢の中で偶然見ただけなんじゃないかと、そう思えた。
「お前と私が、何だったていうんだよ⁉︎」
黙る俺に、玲美が激昂する。
(躊躇している場合じゃないか……)
呟き、震える口先をゆっくり動かす。
ここで止まってしまえば、本当に今までの記憶が、嘘のように感じられてしまう気がした。
「聞いてくれ玲美、信じられないかも知れないが俺とお前は――」
言い終えるよりも前に、強烈な蹴りがさっきと同じ位置に加えられた。
「がはっ……!」
「だから……気安く名前を呼ぶんじゃねぇって言ってんだろ‼︎」
玲美のその憎悪に満ちた怒号が、教室にこだまする。
「私の名前を呼んでいいのはお姉ちゃんだけなんだよ!お姉ちゃんだけが……私を玲美って呼んでくれてたんだ!」
(お姉ちゃん……)
そうか、そういえば作道玲美という少女には、たしか姉がいたな、とそこで微かに思い出した。
「お姉ちゃんだけが……お姉ちゃんだけがッッ……‼︎」
そう叫んだ刹那「うぐっ……」と悲鳴を玲美はあげ、急に頭を抱えた。
その拍子に手に持っていた半開きの鞄が床に落ち、中に入っていた教科書や黒い布に包まれた拳ほどの物体が散乱した。
「お姉ちゃんだけ……お姉ちゃんだけが……うぅ……ううぅぅ」
苦しそうに、玲美は震える声でそう呟いていた。
「大丈夫か、玲美?」
声をかけるが、玲美の焦点が合わない。ただ「お姉ちゃん、お姉ちゃん」と壊れたレコードのように同じ言葉を繰り返しているだけだった。
そして――
「うええぇぇぇ……」
玲美は嘔吐した。
黄泥色の吐瀉物が床に広がり、教室から悲鳴が上がる。
記憶の喪失、そして思い出した少女の記憶との乖離――。
自分もこの現実に耐えられず、今にも吐き出しそうだった。




