<悪い鬼>
私が殺そうとしている人は今も新しい仲間を作り、共に笑って、平穏とは言えないだろうがそこそこの暮らしをしているだろう。
私は、お姉ちゃんを助けるために必死になって自分の楽しみも幸福も捨て去ったというのに。
本当はこんなこと思いたくない。
私はお姉ちゃんを守る為に、言われた通りに殺す。
───私自信が望んでやっているわけではない。
それが私の心を紐一本で繋ぎ止めている。
私は悪くない。だけど、あの人が憎い。
私は殺したい。だけど、これは仕方ないのだ。
終わることのない一人問答を続けるイスカヌーサ学院の制服を着た少女は心の中で叫ぶ矛盾を圧し殺し、前に進む。
少女の手に握られたナイフは月明かりに照らされ、キラリと光る。
「ガルナ君、信じてるよ」
ナイフを持っていない左手で紙切れを握りしめながら少女は進む。止まることは、諦めることは許されない。
与えられた役割をこなせなければ少女の大事な家族は失われる。
───こんな化け物を受け入れてくれた世界でただ1人を守る。
だから...
「待っててね、カレンお姉ちゃん」
その手に握られたナイフのように少女の目が鈍く光る。
同時に黒いどろどろした液体がまるで意思を持っているのようにミクの体を取り巻いてく。
「呪いは、ここにある」
夜をも塗りつぶす闇が静かな町の中で動き出す。
...何時間にも渡り、蕎麦屋で駄弁っていたルナ達は外がいつの間にか暗くなっていることに気づき、そそくさと帰る支度を始めていた。
「おっちゃん、ありがとうよぉ。また来るぜぇ」
「毎度あり。ユグドさんも元気にな」
短い言葉を交わして、ユグドは料金を払い最後に忘れ物がないか確認していたセレーネが奥から戻ってくると外へ出る。
「.........」
「どうしました?」
外に出るとルナは一瞬何もない暗闇をじっと見つめている。その意味ありげな様子をセレーネは疑問に思ったようだ。
「ううん。少し用事を思い出しただけ。先に帰ってて」
「ですが...」
ルナを一人にすることを渋るセレーネだが、リリーナはどうせすぐに終わるだろ?と質問をする。
「うん」
そう短く返答して、屋敷とは真逆の方向へと歩みを進める。
「ルナ、気ぃつけろよ」
遠ざかっていく後ろ姿にユグドはそう言うと屋敷から持ってきた剣をルナに投げ渡す。
「ありがとう」
しかし、セレーネはやはり何か違和感を感じたのかルナの後を追おうとする。
「セレーネ、この後私達は屋敷でナルフリドを飲みたいからつまみを作ってくれない?」
セレーネを引き留めるようにリリーナはそんなことを口にする。
それに同調するようにアオバもよろしくお願いいたしますね、と言うので断れなくなり仕方なく屋敷へと先に戻ることに。
その四人と離れたことを確認していたルナは安心したように前を向き、暗闇に歩みを進める。
―――一歩、また一歩と歩みを進める度に感じるソレは大きくなっていく
凄まじい威圧感を与えるくせに、ソレはルナをその場所へと誘う。
そして―――。
「久しぶり、アカツキ君」
かつての親友であり、クラスメイトであるミクとの邂逅を闇に閉ざされた今にも崩れそうな廃屋で果たす。
「久しぶり、ミク。元気にしてた、って聞くまでもなさそうか」
一瞬覗かせる過去の憧憬。しかし、今となっては必要のない思い出に蓋をして、男は───否、彼女は前を向いた。
「アカツキ君は元気そうで何よりだよ」
今のミクはあの頃とは正反対の闇をその目に宿している、希望に満ち溢れていた笑顔は今や絶望を孕んだ微笑へと変わっていた。
「───今の私はルナってことになってるから、その呼び名は今の私じゃない」
「あはは」
「―――やっぱり嘘つきだね、アカツキ君は」
冷徹な微笑みの後にミクはルナのことを嘘つきだと罵る。
「周りだけじゃなくて、自分にもルナだと思い込ませて。それなのにあの頃みたいに笑ってる。そんなアカツキ君が羨ましくて、正直憎いよ」
「そうしなきゃ救えない人達がいるの。だから、私がどれだけ罵られようと構わないわ」
「私だって救いたい人が、誰にも変わることの出来ない大事な姉がいるの。だから、アカツキ君―――」
ミクはかつてユグドを殺しかけたナイフを取り出し、静かに次の言葉を紡ぐ。
「───ここで、死んで」
言葉を発すると行動を開始したミクはナイフを振りかざし、ルナとの距離を詰め、殺しに掛かるとそれに機敏に対応しルナは後ろへ大きく下がる。
「それは無理な話ね」
「だよね。やっぱりそう簡単には死んでくれないよね」
ルナの行動の早さに、ミクは大きくため息を溢すとナイフを月に翳して静かに呟く。
「霊鬼」
小さな呟きは大きな闇を生み出し、ミクとその回りを黒く染め上げていく。
そのドロドロとした闇は、ミクの体からポタリと落ちていき、地面に落ちた闇はまたミクに纏わり付こうと地面を這いずり回る。
その気味の悪い光景に2人は何の感情も見せない。
「霊鬼っていうのは、恨みを持った魂が形を変えたもの。それも霊鬼を生み出す魂は私が殺してきた人達のもの。私に恨みを持った魂を私は利用する」
鬼の形をした闇が形成されていく中でミクはその鬼を作り出す方法をルナに説明する。
「やっぱり、ミクも私と、アカツキと同じみたいね」
「───そうだよ。私の名前は未来。けど、今の私には失われてしまった未来は必要ない。だから、ミク。ただの、ミクだよ」
未来を捨て、自分を捨てた悲しい少女は生まれた鬼に殺せと命じ、目の前に無防備な状態で立つかつての親友でありクラスメイトである存在を殺そうとする。
仕方のないことなのだろう。彼女にも彼女の守りたいものがあり、その大切な人間を守るために彼女はナイフを持った。
理解は出来た。妥協も出来た。自分の心を凍りつかせることも、可能だった。
けど、───けど。
―――そんなの悲しいじゃないか。
誰かを救うために、大事な人を救うために、大事な人を大事に思っていた人だと思い込ませ、自分を殺す。
「だから、私は」
「―――あなたも救いたいと思っているの」
決意はルナに力を貸すことを躊躇わない。
握られた剣を鞘から抜き、ルナは迫り来る鬼に剣を向ける。
「待ってなさい、ミク。あなたを絶対に救うから」
...鬼の攻撃はどれも殺すことに執着しているために攻撃を躱すことは容易いが、それ以上に量が問題だ。
ルナに叩き込まれた技術と力は優秀な師匠のおかげか、神器を持っていた時よりは少し見劣りするが、それでも格段に動きは良くなっていた。
「さっさと、死んでくれた方が私は楽だし、苦しまないよ。だから、死んでよ、アカツキ君」
「嫌ね。死んでしまったらミクを救えない」
「私はそんなこと頼んでないよ」
わらわらとルナに集まっていく鬼はその勢いを落とすことはない。いくら斬ろうとも、次から次へと怨念は生まれ落ちる。
「私がこの百年で殺してきた人達の怨念はそう簡単には逃がさないよ」
きっと、この少女も残酷な運命を背負っているのだろう。
いくら望まなくとも、少女が要らないと言ってもその運命は少女を離すことはない。
「百年、本当に。地獄だった。私は世界に否定をされて、人に否定され続けてきた。だから、嬉しかったの。私を許してくれたその人が生きてくれるだけで...」
ミクを地獄から初めて救った人は友人にセクハラ紛いのことをするし、幼い容姿だったミクにも毎日のようにセクハラをしてきた。
それなのに、初めてこの世界の人間に殺意以外の何かを感じたことにミクは最初はその人物を嫌っていたものの、本当は心を許していたのかもしれない。
『もう、泣かなくて良いんだよ』
そう言って抱き締めてくれた人を私は世界の誰よりも慕うようになり、家族を亡くしていたその人の妹になる。
そんな幸せな日々を送ることも運命は許してくれない。
かつては友達の家族を殺すことに力を貸して、実際にこの手で殺した。そして、今に至る。
ようやく掴んだ安寧の日々を運命は容易く踏みにじる。
「もう、いいでしょ。ここで尽きてよ」
「だから―――!」
ミクを救うことを諦めないルナにミクはだめ押しとばかりに次なる呪いを発動させる。
「―――呪術付与、鬼童丸」
ドロドロの液体が一瞬氷柱のように尖り、天井を突き破ったかと思うと次にはミクの体に闇は纏わりつき、異形の姿へと変貌を遂げる。
「霊鬼、戻っていいよ」
ミクが今も殺すことだけを目的にルナを襲う鬼の群れに命令すると一瞬で水のようにパシャッと地面を闇で濡らす。
「やっぱり任せっぱなしじゃ駄目なんだね。ちゃんと私の手で殺して、私が罪を背負わないと」
ナイフはその形を長い刀へと変え、ミクの姿はまさに鬼。
頭に生えた二本の角がミク意思を体現したかのように曲がりくねっている。
「バイバイ」
瞬きは出来ない。相手の行動を常に先読みして、反撃の機会を探せ。隙はない。ならば作り出せ。
ルナは自信にそう言い聞かせ、ミクの最初の一手に全身全霊をかける。
しかし、ミクだけを見つめていたにも関わらず背中から鈍い音がなり、体はいつの間にか宙に浮いていた。
「ッ...!!?」
蹴られた。どうやってだ。今の状況で持てる全てを使え。
聴覚、視覚、嗅覚、全てだ。
「そういうこと―――!」
アカツキが集中して見ていたソレはミクの外見を模しただけの皮、先ほど自分がいた場所には穴が空いており空中に浮いたのはミクによる蹴りだ。
ルナは刃を天井に突き刺し、重力が反転したかのように天井で体制を立て直すと、動くミクの姿を今度こそその目で捉える。
「少しだけ、力を貸して!」
ルナが叫ぶと剣から少量の闇が生まれ、鎖を複製していく。
「甘いね、アカツキ君」
剣から生まれた鎖がミクの動きを止めようとするが、鎖はミクの手で簡単に引きちぎられ、闇に溶けていく。
「じゃあ、次はこっちの番だね」
ミクが手をルナの方へ向けると一匹の牛が地面を満たしていた闇から生まれ、ルナの至近距離で蹴りを食らわせる。
「――――――!!」
ルナは牛の蹴りを必死の思いで防ぐが、ミクが次に行った行動を予想することは出来なかった。
「伝説には、牛の皮を被っていたんだよ。鬼童丸は」
牛の体内から腕が伸び、長い刀がルナの左足を易々と貫いていく。
「あはは」
「これで終わ、───え?」
諦めきっていたミクの言葉とは裏腹にルナは貫かれた足に手で触れ、一瞬で傷を癒すとルナは容赦なくミクの頬を全力で殴り飛ばす。
その直撃を受けてミクの体は牛から引き剥がされ、地面に転げ落ちる。
「動かないで」
ルナは地面に投げられたミクの体に跨がると、持っていた剣をその喉元へ突き立てる。
「本当はこんな怖いことしたくないんだけど、今はこれしか方法がないから、ごめんね」
「本当に、アカツキ君と話していると私が悪者みたいだよ」
「悪者はどちらもよ。私はミクを無理矢理救おうとしてるんだから。けど、ミクも悪者だよ。どちらも悪人、さあ。今度こそ話をしましょう」
「あーあ。そんな簡単に自分を悪者だって言えるんだねアカツキ君は。───本当に悩んでいた私がバカみたいだ」
ミクが持っていた刀を手から離すと、戦う意志が無いと判断したルナも持っていた剣を鞘に収める。
「―――悪人は、悪人らしくだね」
意味深に言葉を発したミクの体が一瞬赤く光るとルナの体は反発しあう磁石のようにミクの体から引き剥がされる。
同時に廃屋だった場所が少しずつその姿を変えていき、ルナの立っていた場所も不安定に色とその形を変えていく。
「羅生門の鬼」
その全貌が姿を見せる。
大きな門の前に片腕だけで宙に浮く何かを従えたミクの姿がある。
『復讐はここで果たし、我が腕を返して貰うぞ』
「私の呪いは、終わらないよ」
地面は闇に染まり、空は黒を写したような黒雲が渦巻く。
目の前には正真正銘鬼となり、目の前には居る無力な人間を叩き潰そうと宙に浮く腕が振り下ろされる―――