<お母さん、先生>
初めて僕があの人に会ったのはどれくらい前だったろうか。
まだ幼い僕を抱き締めてあの人は泣きながら喜んでいた。
「やっと、やっと救えた...」
周りにはかつては人として機能していた肉塊が無数に転がり、感覚と呼べるものは痛みだけだった。
痛みはまだ生きているということを僕に教えてくれる唯一のもので、この痛みが続く限り自分がこの世界に存在しているのだと嫌と言う程思い知らされる。
痛みが無くなれば誰も苦しまないあの世にいる。
だから、嫌いな痛みに僕は縋った。
生きていたかった。
幼い僕を、右も左も知らないどこから来たかも分からない男の子を引き取った優しいおじさん、おばさん達は僕を逃がすために死を選んだ。
だけど、僕は弱かったから何も守れなかった。
約束も、おばあさんもおじいさんも。
二人は死んだのに僕は生きていたかった。
幼い僕には何で生きたいだなんて分からなかった。だけど、生きていたかった。
理由は無くても生きていたかったんだ。
まあ、そのおかげて僕は多くの人を救い、多くの人に恨まれる人間になれたんだけどね。
「お姉さん、誰?」
開口一番はそれだったね。
助けてなんて言葉よりも泣いているのに喜んでいたことが不思議でならなかったから。
「人一人も満足に救えない、ただのやぶ医者だよ」
そう言ってあの人は僕を強く抱き締めた。
さて、ここからは魔獣と戦ったり、激怒したインチキ霊媒師を撃退したりとあまり面白味も無い話が少しの間続いたから飛ばそう。
場面はそうですね。
神に嫌われた少年が生まれた、その時に。
「ところであんたの生まれ故郷ってどこなの?」
「え?うーん....。分かりません。物心ついた頃にはあの村でおじさんとおばさんと暮らしてました」
「そっか。あんたの名前と言い、わずかな記憶に残っていた景色とかから見て私の故郷と同じだと思うんだけどなぁ」
だらしなく肌着から肩を見せながら、先生はコーヒーを一気に飲み干し。
「あっつ!!」
猫舌のくせに一気飲みした先生は悶え苦しんでいました。
「あの、先生の故郷ってどんな場所だったんですか?」
「下らない場所さ、だけど今思うと理想の場所だったよ。争いも無意味な虐殺もなく、平和で変わらない日々を送れる場所」
「僕もその故郷で過ごしてたんでしょうか」
僕は幼い頃からずっとあの村で暮らしていた。
不便だと思うこともなかったし、母親と父親がいなくてもおばさんとおじさんがいたから寂しくはなかった、と言えば嘘になるけど夜に一人で泣くとかそんなことは無かった。
「だろうな。記憶が無いということ以外は私とあんたは同じだよ。だからさ、辛かったらまた一緒に寝てやるから、そんなに泣くなって」
「え?」
僕はいつの間にか泣いていたことに気づかなかった。
頬を伝う冷たい涙が無意識に流れていた、記憶に無い景色を僕の心は見ていた。
「すみませ..ん。かっ..てに..涙.が」
「うん。分かってる。ほら、深呼吸して」
先生は優しく僕を抱き締めると赤ん坊をあやすように子守唄を歌ってくれた。
透き通るような声は泣き虫で愚かな少年を寝かしつける。
僕が目を覚ますまで、先生はずっと僕の手を握ってくれました。
僕が大好きで、優しくて、でも悪いことをしたら怒ってくれる理想の母親みたいな先生。
「うん、うん。大丈夫、私が一緒にいるからね」
僕は先生に抱き締められながら眠りにつく。
幸せな日々はこうして過ぎていく。
....どこかで声がした。
僕の名前を呼ぶ、小さな声が。
「ば、あ...おば...!アオバ! 」
小さな声は次第に大きくなっていき、はっきりと聞こえるまでになる。
「アオバ!早く逃げなさい!おじいさんが表であの信者を止めている間に!」
声と共に景色が世界に反映される。
燃え盛る炎の中で僕は泣きじゃくりながらおばさんに抱きついていた。
「大丈夫、おじいさんもおばあさんもアオバの味方だよ。ちゃんと後で会いに行くから、この地下から...ブ、ぶ!!?」
幼い少年の視界は鮮やかな赤に染まり、目の前で愛していた、愛してくれていたおばあさんが魂を持たない脱け殻となる。
「おは..。おば、さ、ん?」
内側から破裂したように四肢はボロボロで、辺りにはおばあさんの瞳と、心臓が転がっていた。
「手間を掛けさせやがって。ったく、どいつもこいつもめんどくさいたらありゃしねえ。ガキ一人の為に村を焼いちまったじゃねえか。まあ、元々害虫みてぇな奴等だ。死んで当然ちゃあ当然だよな」
「おばさん!」
人のものとは思えない肉塊に必死に抱きついて、少年は泣き叫ぶ。
そんなことは関係ないと言わんばかりに愛していたおばあさんを殺した男は少年の頭を掴み、持ち上げる。
「なあ?てめえは覚えてんのか?自分がどんな人間か」
「し..」
「あ?」
宙に浮いた体を必死に動かして、少年は暴れる。
「死んじゃえ!死んじゃえ!おばあさんを殺した化け物!」
「おうおう、なかなか言ってくれるじゃねえか。だけどよ、残念ながら化け物は俺らじゃねえんだわ」
「うるさいうるさいうるさい!!」
じたばたと暴れる少年に舌打ちをして男は少年の左腕を掴む。
「―――アオバ、化け物はてめぇだよ」
瞬時に体は爆発し、視界は下に落ちていく。
痛みすら感じず、最後に言葉を残す暇さえなく、少年の体は無惨に弾け飛ぶ。
「ああああぁぁ!!」
同時に少年は叫びながら意識を覚醒させる。
それはそうだろう。
自分が見たものはかつての村と寸分違わない場所で自分が死んだことで、夢なのか現実なのかすら分からない中で少年の頭に声が響き渡る。
怨嗟。
罵り。
怒り。
呪いに近い言葉の羅列が脳内を支配する。
『許さない。化け物。人殺し。消えろ。二度と来るな。死ね。どうしてそんな簡単に人を殺せる!なんで腕が生えてんのよ..?やだ、やだ来るな!』
最後に聞こえた声は。
『お前なんて生まなきゃよかった...!』
妙に聞き覚えのある声に生きていることを、生まれたことを否定され、心の奥が死んでしまうほど苦しくなる。
嗚咽と共に呼吸は荒くなり、体が壊れてしまうぐらいに痛みが支配する。
「アオバ!落ち着け!」
すぐ近くで誰かが少年の名前を必死に呼び続ける。
しかし、そんな声は少年の耳には届かず、怨嗟の声だけが耳に残る。
何度も首を絞められて、僕は鍋でコトコト煮られて、腕は僕の食料で、僕はお母さんが好きで、大嫌いです。お父さんはいたけどいません。
お絵描きは大好きだけど、誰にも誉められませんでした。
言葉はお母さんが教えてくれたの!
何度も何度も死ねって、消えろって。
僕に言葉を教える為にお母さんは必死に僕の首を締めていました。
僕が喋れば皆が僕を叩きます。
だけど、それはしょうがないことで痛みが僕を育ててくれました。
僕が逃げれば悪いことをしたって言って、指から順に切られて最後は挽き肉にされます。
美味しい晩御飯だよ!
でも、しょうがないことなのです。
僕は僕が嫌いで、醜くて面白おかしい化け物だから。
だから、多くの人が僕を憎んで、恨んでいても当然のことでしょう。
「あ、ああ、ああああ!!」
自分ではない何かが頭の中で勝手に語っている。
諦めようとしている。
自分の境遇に、不幸の連鎖を当然だと言っている。
ああ、思考が、のま、れ、てい、ク。
「アオバ!」
突然意識は現実に引き戻され、柔らかな感触をした何かに顔が埋もれている。
「せ、んせい?」
苦しそうに呟くと涙を流しながら先生が僕を大事そうに抱えていた。
「怖い、夢を見ました。まるで、僕が忘れていたことを怒ってるみたいに」
「まだ、知らなくていいんだよ。アオバはまだ子供なんだから」
頭を撫でながら先生は知らなくていいと言う。
けど。
「神様は怒っているんです。なんで、気づかないんだって。忘れるなって」
「そんなの、馬鹿げてるよ。あんたはまだ子供じゃないか」
僕は子供。
先生はそう言うけど、もう僕は気づいてしまった。
あれから、僕が先生に救われてから数百年以上も時が流れていたことを。
「は?百年、って。え?どういうことだ?」
アカツキは語られるアオバの過去の話をどんなに酷く凄惨なものでも黙っていたが、このことには口を出さずにはいられなかったらしい。
「簡単なことですよ。僕は時を、年月を認識していなかった。人間が息をするのは当然です。それと同じように僕が百年間成長しなかったのも当然だったということ。僕はアカツキさん、あなたの言う異世界とは違う、また別の異世界から来た。通称」
「―――不死者です」
不死者、文字通りそれは不死の人間だ。
しかし、不死を認識することが出来る不死者はごく一部だ。
理由は死の直前までの記憶は無くなり、記憶の改変が行われることにある。
寿命で年老いて死んだように見えても不死者は死なない。
それは偽の死であって本当の死ではないのだから。
「異世界...。そうか、そうだよな」
この世界があるという時点で気づかなければいけなかったのだ。
地球という星に住んでいた紫雲ことアカツキがこの世界に存在する。それは実際に異世界が存在するという何よりの証拠だろう。
ならば、何故この世界にとっての異世界が地球だけだと思っていたのか。
異世界という幅はいまや無限に等しい。
少しでも違うところがあればそれは異世界だ。
何億、何十億、いくら異世界というものが存在するのか分からないが、たった二つの世界で異世界というものが完結するはずはない。
「つまり、どの世界からこの世界に来ていてもおかしくはない。この世界にとっての異世界という括りが一つじゃおかしいもんな」
「そういうことです。今のところ確認されている異世界の種類は七種類、その七つの内の一つに僕の世界が入っている。確認された来訪者は僕を含め確認出来た範囲では13人だけです。そのうち自分が不死者だということに気づいたのは」
今こうして不死者について語っているアオバと、そして。
「お前の先生も不死者か...」
「そうですよ。他の同郷者の皆は今もこの世界の住人だと思い込んでいる。それが本来存在するべきではない人間に与えられた代償です。そして、与えられた祝福は不死というものです」
「じゃあさ、今のお前とその先生は代償である思い込みが無い。それなのに不死?それじゃあ、おかしくないか。あの女神が作ったバランスが崩れる」
そう。本来であればデメリットである思い込みが存在しないアオバと先生と呼ぶ女性にはメリットである不死性が与えられるはずがないのだ。
「俺も神器を使ったから分かる。女神の奴はバランスを取ってる。力にはそれ相応の代償が課せられる。だから、代償を払ってないお前と先生には不死が与えられるはずがない」
「まあ、一度神器に飲まれたアカツキさんだから分かっちゃいますよね」
そう言いながらアオバは数枚の書類と思わしき紙束をアカツキの前に置く。
「これは?」
「考えても見てください。この世界にとって、いや違いますね。この世界の人間にとって最も忌むべきものは何ですか?」
アオバの質問にアカツキはすぐに思い当たる節があるのか、顔を上げて口をゆっくりと開く。
「突出した力と、人間の身に余る回復、再生だ」
「ええ。だから、彼らはすぐに対応した。不死者の迫害、火炙り、絶望、何度も殺害と絶望を与えた。しかし、不死者は記憶のリセットと共にいつの間にか世界に溶け込んでいく。何百年と繰り返された殺害方法の模索。そして、356年経ってようやく彼らは初めて不死者の消滅を確認した。殺害方法は自身の不死性に対する認知、たったそれだけでした。彼らはある少女に覆しようのない不死性の証拠を見せつけて、十字架に張り付け火炙りを行った。不死性を認識した少女は今までの記憶を全て思いだし、世界を焦がす程の怨嗟の声を彼らに浴びせ続けた。そして、その十分後、少女の体は黒く光り消滅した」
書類の中に乱雑に書かれた文字と多くの写真。
その中には大昔、初めて不死者を殺すことに成功した覆しようのない不死性の証拠が存在した。
それは百枚に渡る拷問の様子が写された写真の数々。
目玉をえぐり、心臓が三個並べられ、同じ顔の首がタワー状に置かれ、そして、少女を殺す要因となり得たあまりにも悲惨な光景が一枚、一枚綺麗に残されていた。
「ヴぇ...」
あまりにも鮮烈過ぎる、生々しい拷問の写真を見てアカツキは口を押さえて呻く。
「なんだよ..これ」
「拷問ですよ。彼らだけに許された特権でもある。粛清です。この首だけの写真などはある嗜虐家が家に保管していたものを写真に収めたものです」
自分のことではないにしてもあまりにも凄惨な光景の数々にアカツキの顔は蒼白になり、心なしか声も弱くなっている。
「ごめん。ちょっと気分が悪くなった。それを仕舞ってくれ」
「いえいえ。謝るのは僕の方ですよ。こんな写真を見せてしまった僕の無配慮さが悪いんです。こんなに悲惨な写真なのに、もう気持ち悪いとも感じませんから...」
慣れてしまった。つまりはそういうことだろう。
アオバは長い時の中で多くの凄惨な現場を見てきた。
――僕は人として当たり前の嫌悪感すらどこかで無くしてしまった。
さあ、それでは話に戻ろう。
自分という存在を知った、その時へ。
「先生」
あの悪夢から数年経ったある日、僕は自分の中で積もってきた疑問を確信に変えるために質問をする。
「どうした?今日は診療がないからどっかに遊びに行きたいのか?」
先生も長い年月を経ても30代前後の容姿のままだ。
当時まだ10歳にも満たない体の僕が言うのも何だが、こんな成長のしない体、若いままの先生にも疑問を抱いていた。
「ううん。最近、夢を見るんです。何度も、何度も」
「...夢の内容は覚えてるか?」
「覚えてます。ううん、違います。覚えてました。ただ、僕が勝手に記憶の奥底に見たくもないものを隠していただけで」
先生は、こっちに来いと手招きをする。
僕は先生に言われるまま先生の膝の上に乗る。
「そうか。もう、駄目か。知ったんだね、アオバ」
「...はい。ごめんなさい」
「いいんだよ。隠し続けるのもそろそろ限界かと思ってきたんだ」
先生は悲しそうに笑うと僕の頭を優しく撫でる。
この手の暖かさが、僕を守ってくれて愛してくれた証。
―――僕の母親は。こんな暖かさを見せてくれなかったのに。
「何度も僕が死ぬ夢を、本当にあった出来事が繰り返されました。僕のお母さんは僕が幼い頃から憎んできました。好きでもない男に生まされた、忌み子だって。この世に生を受けた瞬間に僕は一度死にました。お母さんは僕の体をナイフで串刺しにして」
『憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い。あの男が憎い。あの男に産まされたお前が憎い!!!!』
実の母親の怨嗟の声が今でも鮮明に聞こえる。
痛みが、血の暖かさが、ナイフに体を突き刺される感触が、冷たい母親の目と、首にかけた手に込められた体重が、全てが今も思い出せる。
「僕は死んでも、すぐにぐちゃぐちゃになった体は再生しました。先生の魔法のように魂も、体もこの世に呼び戻されました。まだ、死んではいけない、もっと苦しめと神様が言うように僕は数百、数千の再生と地獄を繰り返して」
アオバの目尻には大粒の涙が溜まり、今にも心のダムは崩壊しそうだった。
「うん。辛かったよね、大丈夫、私も一緒に聞いてあげるからもう全部吐き出しちゃいなさい」
「うん...」
目を擦りながら幼いアオバは話の続きを始める。
「お母さんはずっとずっと気分が悪くて、1日に何回も僕をナイフで串刺しにしたり、床に僕の頭を叩きつけたりして、僕を何回も殺しました。お腹が減ったと僕が言えばすぐに殺されて、いつの間にか僕の前には僕と同じくらいの子供の腕と足が並べられました」
「だけど、そんなお母さんでも僕は好きだったから、何回も何回もお母さんの気が済むまで殺されて。怒らせないように良い子でいました。お母さんの期限が悪かったら僕は自分の頭を何度も壁に打ち付けました。血が出ても止めないでぶつけてるとお母さんは笑ってくれました。だから、僕はいつの間にかお母さんを喜ばせるように自分を殺すことに工夫していました」
お母さんが喜んでくれたから僕は嬉しかった。
幼い僕は狂った思考をお母さんの為だと言い聞かせ当たり前に自分を殺していた。
なのに。
「どうしてですか、先生。僕はあんなにお母さんが好きだったのに...」
アオバの心は今まで押し込めてきた感情を、辛いという気持ちを全て吐き出す。
「今は、大嫌いなんですッ――!」
ようやく本当のことを言えたことにより、アオバの肩から重荷が降ろされた。
何百年も無意識に封じ込めていた記憶と、母親に対する嫌悪感。
同時にアオバの瞳からは大粒の涙が溢れ、幼い少年は涙を流したまま自分のことを本当に愛してくれた女性を見上げる。
「うん..。よく言えたね。アオバ」
アオバが見た先生の顔はまるで自分のことのように苦しそうに涙を溢す綺麗な女性の顔だった。
「うん。うん。アオバ、辛かったよね。よく頑張ったね」
ぎゅっと抱き締められた僕はあまりの暖かさに、恥ずかしいくらい泣きわめいて、先生にしがみついた。
何時間も涙を流し続けた僕と先生は、夜になると一緒に眠りに着いた。
先生は苦しいくらいに今までで一番僕を強く抱き締めてくれました。
―――僕を先生が大好きです。
―――僕はお母さんが大嫌いです。
―――僕の先生は僕が誰にでも自慢できる先生で...。
僕のお母さんです!
...ああ、幸せな話は終わってしまった。
ここからは僕が失うだけの過ちの出来事だ。
神様に嫌われた少年が、自分の行いによって大事な人も守れずに全てを失うだけの話だ。