<貴方という存在が消えるまで>
この日、学院都市は闇に包まれ、町を歩いていた者、職場で働いていた者、仲間を守るために立ち上がった勇敢な少年少女、忠誠を誓い自ら育てた生徒を戦士と呼ぶ男も、学院都市に住まうありとあらゆるものが三十分弱気を失っていた。
やがて、ある少女達は目を開けると覚えもない洞窟の中に居り、優秀な生徒を育て上げた男は愛すべき生徒達と林の中で目を覚ました。
他にもこの都市の理事長であるクルスタミナ・ウルビテダの屋敷で見覚えの無い女性達と目を覚まし、また、学院でハチャメチャなクラスとして、注目を浴びている生徒達も移動中の出来事だったのか、多くの民衆の大人達に起こされていた。
そして...。
「いてて...。あれ?俺はあの野郎を追っていたはずじゃ...?」
アカツキは林の中で雨に打たれながら目を覚ました。少し離れた所には見覚えのある少女が頭を押さえながら立ち上がっていた。
「おい!!カナ、大丈夫か?」
顔色の良くないカナスラを心配したアカツキはすぐに駆け寄る。
「あれ?どうして私はここに?」
「頭でも打ったのか?」
アカツキが心配して、顔を覗き込むと、うわ!!と驚き二、三歩後ずさる。
「あ、いきなりごめんなさい。心配しないで下さい、少し寒いくらいですから」
何だか他人行儀な口調でアカツキにペコッと頭を下げると、そのままパタパタと駆け出すが、途中で木の根に足を引っかけ、盛大に転ぶ。
「おい!!本当に大丈夫かよ?」
アカツキが駆け寄り、手を差しのべるとカナスラはその手を借りて立ち上がる。
制服は雨が降っているせいで、泥まみれになっていた。
「すみません...」
「良いんだよ、そんなことより...」
さっさと副理事長の野郎を見つけようぜ、とアカツキが口にしようとした時、カナスラは意味不明な言葉を発した。
「『見ず知らず』の人を助けてくれるなんて、優しいですね」
「...え?」
アカツキはその言葉に戸惑いの声を上げる。
それを見たカナスラは?と首を傾げ、どうかしましたか?と疑問の言葉を口にする。それもやはり他人行儀で、いつものカナスラらしくないものだった。
「やっぱり転んだ時に頭を打ったのか?」
「多分そうなんですよね...。どうして私が林の中に居るのか分からなくて....」
「うーん....」
アカツキは一時的なものなのだろうか?と思案に耽るが、カナスラはもう一度礼を言って、立ち去ろうとする。
「あ、ちょっと待て」
「はい?」
アカツキは立ち去ろうとした、カナスラを呼び止める。
「どこからどこまでの記憶が無いんだ?」
「えーとですね...。私服だから、間違いは無いと思うんですけど、林間合宿の課題が終わって、四組の皆と観光名所を回っていたんですよね」
ここで初めてアカツキはあることに気づく。
話の内容が意味不明なのもそうだが、それ以上にあるはずのない異変に。
始まりの事件の夜、カナスラの記憶を事細かに説明したガルナは、依存の儀式という脅威に対しての打開策を一番に考えた。カナスラが受けた依存の儀式により、カナスラから情報が漏れると思ったからだろう。
副理事長と遭遇しなければ大丈夫だろうとも考えたが、その万が一も潰しておいた方が作戦成功率を少しでも上げることが出来る。そして、アカツキの過去を聞いたガルナは常闇の儀という魔法をよく分かんないけど、パーって消したということに興味を持った。
もしかしたら、アカツキが所有していた人神器には魔法を打ち消す効力を持っているのではないか?と。
アカツキの体には神器の破片が生命活動を支える為に魔力循環のサイクルの中に組み込まれている。
ならば、一時的にその破片が持つ力を使えることが出来れば、副理事長の持つ神器にも対抗出来るかもしれない。その希望を信じ、情報収集の合間に魔法の基礎を勉強することを飛ばし、魔力の操作、魔法の使用を教え込んだ。
3日で何とか少しは使えるだろ程度になり、魔法の打消しをカナスラに行った。
結果は依存の儀式、一部の記憶消去を打ち消すことには成功したが、魔力の注ぎ込み過ぎにより、魔力が枯渇しそのまま倒れた。
そこで知ったのは魔法の使い方、そして副理事長の所持していた神器が放つ魔力の性質だ。
人の記憶というデリケートゾーンに易々と介入することの出来る神器が放つ魔力は禍々しく、とても神様の武器という神々しいものには思えなかった。
それが、目の前に居るカナスラから更に禍々しくなって感じるのは何故だろう。
「どうしたんですか?何か顔についてます?」
「...いや、制服は大丈夫かなって」
アカツキは気遣っているように見えるが、どうにかこの状況を飲み込もうと必死だ。
「なあ、覚えてないのか?」
「ええ、ここ一時間の記憶がすっぽりと」
「いや、そういうことじゃなくて」
「....?」
少しずつアカツキに焦りが見え始めてくる。
ようやくこの、考えうる限り最悪の事態に気づいて。
「ごめん、俺も何も覚えて...。ないんだ」
アカツキはそっと目の前の少女から目を反らすと、少し間を取る。
覚えてないはずがない。
「貴方もなんですか?一体何があったんでしょう?」
「ああ、本当にな」
忘れるはずがない。
「貴方にも家があるんですよね?一先ず家族の安否も確認しないと」
「引き留めて悪かった。じゃあな」
アカツキは遠ざかっていくカナスラの姿が見えなくなると、全力で走り出す。
あの闇が都市を覆う前にガルナから聞いた話では、この近くに地図にも乗っていない洞窟があり、クレア達を逃がすためにその道を使って逃走をすることになると。
「はぁ...。はぁ...」
アカツキは何度も転びながら、脇目も振らずに走り続ける。
きっと、ナナなら覚えてくれている。クレアなら...!!
いつも通り笑ってクレアは出迎えてくれて、ナナは嘘をついたことで怒って殴ってくるはずだ。
それで良いんだ。たったそれだけで良い。
5組の皆には迷惑をかけたから、謝らないといけない。ガルナ達も今頃屋敷で俺とカナ....。
いや、俺が帰ってくるのを待ってるはずだ。
やっと副理事長の悪事の証拠も掴み、副理事長との戦いも俺達が勝った。
これで終わるんだ。
【終わるはずなんだ】
アカツキの顔は何度も小枝にぶつかり、小さな切り傷が出来ている。
血が雨に濡れながら、口の中に入ってくる。
鉄に似た味が口の中に広がっても、魔力が尽きかけており吐き気を催してきてもその足を止めることは無かった。
戻ってくることを待っている者が居た。
戻ってくることを待っている者が居るはずなんだ。
戻ってくることを待っている者が居て欲しい。
戻ってくることを待っていて欲しい。
戻ってくることを待っている者が...。
「クレア...」
アカツキはようやくその足を止める、同時に体を物凄い激痛が走るが、そんな些細なことは気にも止めずに前を歩いている見慣れた寮の仲間の下へと、ふらふらとした足取りで向かう。
「...大丈夫?」
アカツキはボロボロの体で近づいていくと、アレットと一緒に悪ふざけをしていた友達、ガブィナが居た。
「貴方、傷だらけじゃない!?」
そして、その面倒なクラスをまとめ上げる委員長、サネラが心配するように声を掛けてくる。
しかし、それは慣れ親しんだクラスメイトではなく、傷だらけで林の中を歩いている浮浪者のような青年に対して言っている。
「あんたさ、さっきからじろじろクレアのことを見てるけど、誰?」
その言葉を発したのは、会って数日なのに、バカみたいに喧嘩して、たまに子供みたいに人形を見たりしていて、仲間のことを大事にしているはずの。
ナナだった。
「クレア、こいつと知り合いなの?」
「ナナちゃん!!『初対面』の方に失礼ですよ」
それはいつも通りの光景だった。
口も素行も悪いナナをまるで保護者のように面倒を見るクレア。
そのあと、少しの間クレアと揉めるが最終的には敵わなくて、ごめんなさいとちゃんと謝る。
そんな日常、普通の光景なのに。
そこにはアカツキという男の存在が欠落していた。
まるで、最初から誰も居なかったかのように、全てに忘れ去られていた。
「はは...」
もう、それしか言えなかった。
ただ、乾いた笑い声を上げることしかこの場で言えることが無かった。
「...?」
この少女達から見れば、アカツキという男に会ったことも、話したことすらも無いのだ。
アカツキは覚えているのに、この少女達は覚えていない。
理解せざるを得なかった。
もう、誰も自分を覚えてないのだと。
一緒に過ごした時間も、バカみたいにふざけて遊んだ時間も、誰かの悪意が引き起こした記憶の改竄により、仲間だということも、クラスメイトだということも忘れ去られてしまった。
知ってしまった。
自分が唯一救えた少女と二人っきりで話した少なくて幸せな時間と記憶、全てがこの世界から忘れ去られたのだと。
そうは分かっていても、手を伸ばさずにはいられなかった。
自分の記憶には確かあるのだ。この世界に来て、多くの犠牲の上に立ち、孤独と不安で押し潰されそうになっていたアカツキに手を差し伸べてくれたクレアの顔が。
旅に出る以上、常に危険がつきまとう。
折角救ったのに失いたくは無かった。だが、心の拠り所はクレアにしか無かった。
アルフとは花火大会の夜以降、顔を合わせることは無かった。それは、アカツキがアルフのことを妹だなどと親しげに接している風に見えるが、あの小さな少女の母親的な存在であるキュウス、兄と慕っていたウズリカを死なせてしまったことによる、申し訳なさのせいだろう。
クレアがアカツキのことを依存の魔法によって慕ってくれていた。
クレアの優しさが依存の魔法による嘘の優しさだと心で分かっていても、心は拠り所を欲していた。
今にも壊れて、簡単に崩れてしまいそうな心の弱さが、この事態を招いた。
依存していたのはクレアだけでなく、アカツキもだったのだ。
最悪の結末を作ってしまったのは、自分だということを思い知る。
「ほらー!あんたら遅れるなよー」
アカツキが手を伸ばして、確かめようとした時、ナギサの声が少し遠くから響く。
それに反応した、クレア達は目の前にいる誰なのか知らない人物にもう一度問いかける。
「えっと...。どこかでお会いしたでしょうか?」
クレアも目の前にいる男に、そう問いかける。
それだけを見ればいつものクレアだが、その瞳から、不信に思っているようだ。
そう、誰も待っている者など居なかった。
アカツキという存在を忘れ、こうして話しているのに、名前も顔も知らない男に対しての不信感が積もるばかりだ。
「クレア、こんなのに構ってたら風邪引くよ」
何も言わずに手を差し伸ばしていたアカツキの手をクレアに見られないよう、強めに叩き押し返すと、ナナは
ここは任せて、と言ってクレア達を先に行かせる。
「...はぁ」
クレア達に声が聞こえない距離になると、ナナはため息をつき、アカツキを見つめる。
しかし、それはアカツキを待っていたというものではなく、不信な人物に対しての嫌悪感が含まれていた。
「あんたはクレアの何なのさ?クレアが知らないって言っているのに、あんたは近づくだけじゃなく、手を伸ばしてたよね。もし、クレアに何かしようっていうなら、ここで不安の種は摘んでも良いんだよ」
ナナは初対面ということもあってか、いつものように直球で厳しい言葉を言うことは無かったが、遠回しにクレアに危害を加えるなら殺すと言っているのだ。
「ナナ、良く聞いてくれ」
「容易く呼ばないで。あんたと親しくなった覚えなんて無い」
ナナはこれが最後の警告だと言わんばかりに、厳しい視線で。
「クレアの過去を知っててこんなことをしてんなら、私は許さないよ。どうせ誰かに雇われたんでしょ?クレアを拐えって。今回は見逃すけど、今度クレアに近づくことがあったら、そん時は容赦しないよ」
そう言い残すと、ナナは後ろに振り向き、クラスメイトの後を追っていく。
移動中、ナナはふと考える。
あれ?
もし誘拐しようとしてんなら、ここで潰しておいた方が良いのに、なんであんなこと言っちゃったんだろ?
まだ引き返せば、あいつは居る。
でも...。
どこかで...。見た?
しかし、どこにもそんな記憶は無い。なのに...。
「いや、疲れてるんだ。早く帰って休まないと」
...そして、一人残されたアカツキはかつての仲間の言葉が心に突き刺さり、少しずつ心と体が崩壊していくのを感じる。
「分かっていた」
ガルナの予想には、学院都市全体に神器による記憶の改竄が行われることがあり得るという考えも上がっていた。しかし、それは所有権を持っていない副理事長には不可能だと思うが一応最悪の結末として手帳に記録していた。
その理由として、そんなことをしているならとっくの昔に実行しているはずなのに、副理事長に対する不信感も理事長という存在も記憶に残っている。
仮に副理事長に貸し与えている組織が居るとしても、自分達の都合の良いように記憶の改竄を行っているはずだ。
こんな大それたことが、終わり方が呆気なかったから遊びたいからという理由で行われるなどと考えられるはずが無かった。戦いを、大勢の人が関わっている事件をそんな理由で行っていると考えられる方がおかしいとさえ言える。
「これは俺の責任だ。俺が一人で来ていれば...」
クレア達が神器による被害に遭うことは無かった。
そして....。
人に忘れられるというのがこんなにも辛いなんて、知ることも思うことも無かったはずだ。
最初から一人であれば、誰も巻き込まずに済んでいたかもしれない。
それ以前に、この都市に来ることが無ければ、少数の被害者がいるだけで、残りの大多数の人は副理事長に関わることもなく平和な日常を過ごせたかもしれない。
「いや...」
アカツキは否定する。
それは、過去の過ちを繰り返さないという意思なのかは分からない。
だが。
「そんなのを平和なんて言えない」
傷つく人が居るのに、それを見過ごしてはいけない。
アカツキは壊れかけていた心をなんとか修復しようとする。
「一人でもやらなくちゃな」
そう、これがクレアの言っていたアカツキという男だ。
アカツキは一度大きな失敗をした。
自暴自棄になり、自分の役割を投げ捨てて、死ぬことを選んだ。
その結果、アカツキを救うために多くの犠牲者が出たのだ。
ここで投げ出してしまうのは簡単だ。だが、投げ出してはいけない。自分自身の為だけではない、記憶を失った皆を助けるためには、アカツキ一人で解決するしかない。
たかが、数日程度の付き合いだった口の悪い少女に殺意を向けられただけじゃないか。
アカツキという存在を最も認めてくれ、信頼してくれているクレアに忘れられた。
たかが、その程度の...。
「割りきれるはずがねえよ」
あの二人との付き合いをたったそれだけのことと割りきれるなら、どれだけ楽なのだろうか。
忘れられたことを大したことないさ、と言えるはずがない。
いや、言ってはいけない。その行為はあの二人との出会いを、思い出を軽んじることになるのだ。
「大丈夫、一人で...。俺だけで、解決すればいいんだ」
今のアカツキには大切な記憶がある。
こんなところで諦めてはいけない。そんなことを思うぐらいなら解決策を考えろと自分に言い聞かせて、歩き出そうとした瞬間だった。
「...え?」
体が前に歩き出そうとした。
しかし、体がその命令を実行することは無かった。
なんとか覚悟を決めたアカツキに襲いかかったのは、その覚悟を消してしまいそうな程の苦痛。
体を消失感が満たしていき、内側から襲い来る刺すような痛み、感覚がおかしくなっているのか、体を焼かれる程の熱と、極寒の地域を裸で歩いているような、今までに感じたことのない寒さが交互に襲ってくる。
そして、同時に猛烈な飢餓感が生まれ、何でも良いから食いたいと体が悲鳴をあげる。
この感じに似た経験を一度したことがある。
農業都市でグラフォルに救出され、移動を開始しようとした時に起こった魔力の欠乏により倒れた時と似ているが、今の痛みはその比じゃない。
この苦痛は前回の百倍にも千倍にも感じる。
魔力欠乏の原因は分かっている、クルスタミナの屋敷に潜入した時に現れた5組を正気に戻す為に、三人の魔力と残った僅かな魔力で神器の影響を無効にしたせいだ。
当時のアカツキ達はここで終わらせるつもりだったのだろう。この事件が解決すれば、生命活動に必要とする魔力を補給できるからだ。
だが、何者かによる記憶の改竄により、希望と魔力の補給ルートは絶たれた。
もし仮に誰かがアカツキを発見しても、原因が分からずに病院につれていこうとするだろう。
ここから最寄りの病院までは最低でも2時間は掛かる。それだけあれば、生命活動が停止するのに十分だ。
「くそ...」
アカツキは絞り出すような声で呟く。
それは余程近くに居なければ分からない程小さく、か細い声で誰にも届くことはないだろう。
「誰か...」
助けて、と言う前に喋ることが出来なくなり、アカツキは地面を這いずり、息が出来ない苦しみに飲まれながら、死を覚悟する。
考えることさえ出来ないため、最後に何かを考えて死ぬことすら許されない。
考えていると言っていいのか分からないが頭の中を無数の死、という言葉が反響し続けるのみ。
アカツキは僅かな希望を抱くことも許されずに目を閉じる。
ただ、最後に誰かが自分を見下ろしていたように見えたが、きっと幻覚でも見たのだろう。
死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死
誰かが自分という存在が消えるまで恨みのこもった声が頭の中を駆け回り、やがてそれすらも聞こえなくなり、暗闇が目の前に広がった。




