<ただ一つ>
───始まりは、なんて今更話す必要もない。
この地獄がいつ始まったのかなんて既に語られ尽くしているのだから。
───であれば、終わりはいつだったのか?
あぁ、それもはっきりと分かっているとも。
それはネヴ・スルミルが死に英雄が生まれた日。
それこそが、終わりだったのだ。この物語を、この悲劇を、この惨劇を、この喜劇を語る上での転換点。
父が自身の子を捨て、どこかで生まれ、必死に生きていた英雄を我が子にすげ替えたその瞬間に運命の車輪は僅かにその軸をずらした。
結末は同じであれ、そこに至るまでの過程は如何様にも変動する。
───今になって思えば、父のその行為が無ければとうにこの都市は本来の役目を果たし、カルヴァリア・スルミルによって放棄されていたことだろう。
故に、信仰都市を存続させるという一点のみで言えば父の貢献は大きい。しかし、終わり方で言えばどうだろうか。
父の行為は大きく運命をねじ曲げた代償として失われるべきではない数多の命を散らし、その最期を惨憺たるものにしたと言っていいのではないだろうか。
───父のその行為が無ければ生まれなかった命ではあるが。
とまぁ、それらしい言い訳をしてはいるものの、この選択を良しとしたのは他ならぬあの男ではなく、自分自身であった。
願いも信念も、全ては焚き木でしかなかったのだ。シズクへの思いも、ハデスへの想いも、全ては父を憎むための下地でしかなく、ネヴ・スルミルの本懐は別のところにあったのだ。
であるのなら、彼は受け入れなくてはならない。
「───これが、俺の運命なのだろう」
全てを投げ打った先にある崩壊。この世界に渦巻く憎しみと深く同調したことで、体の主導権はあちらに移った。
全てを終わらせてくれるのであればそれはそれで問題はないが、最後がこれとはネヴ・スルミルという人間のたかが知れるというものだ。
「それで?朽ち果てた先にある残骸に今更何のようだ、英雄」
自身の踏み台となった命による復讐。それは正当な権利であり、この都市で復讐を果たすに足る最も最適な人物として妹はこの精神世界に押し入った。それは分かる、だがその傍らにある存在がどうしてそこに居るのかだけは分からなかった。
「...残骸、か。どちらかといえばそれは外にいるあの存在の方だろうに」
「ふん。確かにあちらも残骸だが、残骸と言うにはあまりに強大過ぎる。俺も予想だにしていなかったがこの世界は思っていたよりも終わっていたらしい。たかだが一人の人間の憎しみにつられて降りてくるなど、神もたまったものではないだろうに」
この世界を支える創世の神。恐らく、かの存在を持ってしてもアレの誕生を止めることは出来なかったのだろう。
ということは、外での運営に不備があるのだろう。そも、創世の神といえど万能ではないという証拠なのだろうか?
「いや、考えるだけ無駄だな。既に終わった命だ、今更思考をしたところで意味はない」
「僕は逆だと思うけどね。思考するから生きている、苦しいから生きている、楽しみを感じるから生きている。考えるのは無駄ではない。それ自体も十分生の証明さ。だから───今も君は生きているんだよ」
「英雄らしい達観した視点だ。だが、俗人がその言葉を言われたとて、妬みや恨みしか生まないだろうよ。その点、お前はよくやったよ。完成された英雄でありながら、不完全な人間達を繁栄させ、信仰都市を復興させた。あぁ、そうとも。───お前は英雄だ」
同じネヴ・スルミルの名を持ち、それでありながらもあちらの方が完成されている。父の判断は正しかった。出来損ないの息子をお払い箱に、あらかじめ選ばれて生まれた人間を人器メモリアルを用いて洗脳を行えばスルミル家の悲願の成就に大きく近づく。
何とも効率的で───反吐の出る選択ではないか。
「故に俺は、俺だけはそれが間違いだったとあの男に突きつけてみせよう。お前の行いが死ぬ必要のなかった多くの人間を殺し、スルミル家を貴族に再び返り咲かせることはなく、その名を地に落としたのだと地獄で語ってやる」
「...その為の自己放棄か。けれど、そうはさせないよ。君の目論見は打破される───他ならぬ、君の手によってね」
「...何を、言っている」
英雄の告げた言葉が理解できず、ネヴは訝しげに眉間に皺を寄せ目を細める。
その所作と時を同じくして、これまで無言を保っていた二対の捻れた角を持つ女性が一歩、前に踏み出してくる。
しかし、一歩、また一歩とその女性が歩を進める度にその姿はまるで時を遡るかのように幼く、かつての在りし日の姿を取り戻していく。
「───シズク」
「うん。やっぱりお兄ちゃんと話すならこの姿じゃなきゃ」
ネヴ・スルミルはその少女を見下ろし、やがて現実から目を背けるように目を瞑る。
「どうして目を閉じるの?どうして───私と話してくれなかったの?」
「...お前と語らうことも、懐かしむ権利も、俺にありはしない。俺は救えなかった、掬ったあとも、真に救ってやることは出来なかったんだ」
その行為が如何に残酷であったかを知っている。ただ見ることしか出来ない、かつての自分と同じように大切だった場所が蹂躙されていく様子を見ることしか許されず、その精神は摩耗していく。それを強いたのはひとえにネヴ・スルミルという人間の弱さにある。
「...お前は心の支えだった。お前との、お前達との記憶が無ければ、俺は父に捨てられたあの日に首を吊って死んでいた。今更許してくれとは言わない、だが、向き合うには何もかもが手遅れだ」
「...やっぱり難しいことを言うね、お兄ちゃんは。でも、それがネヴ・スルミルという人間なんだもの、そうでなくちゃ」
「何を...。───待て、何をしようとしてる!」
一瞬、疑問がよぎり開かれた二つの双眸に予想だにしていない光景が映る。少女の胸元、黒く輝く光はどこか懐かしく、そして遠のいていくような───。
「ハデスの神格...!?神降ろしを行おうとしているのか、お前が!!」
それをしてしまえば起こることは想像に容易い。その器たれと元来望まれて造られたが、彼女は失敗作だ。巫女のように同じ体に二つの魂を降ろすことは出来ず、神降ろしの際に彼女の魂が消えることでアマテラスの降臨は成ったのだから。
シズクには外部の神を取り入れることは出来ない。───出来たとしてもそれは束の間、彼女という存在は跡形もなく砕け散るだろう。
器としては大成していても、シズクの魂の性質が神と相容れる事が出来ないのだ。。その矛盾が故の失敗作、そうでなければ父は生前にシズクを巫女として完成させている。
彼女は巫女の金型ではあるが、巫女そのものではない。だというのに、ハデスを自身の身に降ろそうとしているのだ。
それを蛮行と言わずして何と呼ぼうか。
「これが私の罰。神を受け入れるための器でありながら、その身に宿すことが能わなかった出来損ないへのね。お兄ちゃんの罰は───これから分かるよ」
「今更それをして何になるというのだ!お前まで消える必要はない!!」
「ほら、やっぱり勝てるなんて思ってない。外での戦いは彼が勝利するってどこかで感じてる。何もかもを投げ捨てたなんて言っておきながら───グルーヴァへの信頼を捨てきれてないよ、お兄ちゃん」
ネヴ・スルミルの精神世界で少女が僅かに微笑み、その外側、あり得ざる黒白を宿した天使の残骸を前にその男が立つ。
───荒れ狂っていた筈の魂の奔流が落ち着いている。あれほど渦巻いていたエネルギーがまるで指向性を見いだしかのように、正しい流れに沿って動き出し、これまで自我を保つことさえ出来なかったグルーヴァがようやく自意識を渦巻く魂から表出させる。
アレほどのエネルギーと同一化しておきながら自我を完全に失っていなかったのはひとえにグルーヴァの異常なまでの精神の強さが起因している。
しかし、こうして自我を取り戻すことが出来たのには更に別の理由がある。
「...あの野郎。置き土産のつもりか」
これまで非効率的な働きで消費されていたウルペース達の魂が最大限の効率と最大限の出力を発揮しているのはグルーヴァ自身の素養もあるが、外部からの干渉。人の魂というものに最も近づいた彼による制御術式の譲渡によるものが大きい。
人器メモリアルという発想を用いて創られた記憶ではなく、経験の譲渡を行うことが可能となる新たな人器。
生前も、死後も呪いとそれを制御する術に向き合ってきた英雄ネヴ・スルミルの経験を詰め込まれた人器がグルーヴァの首元で淡く輝く。
グルーヴァであれば自我を取り戻さずともその獣性だけである程度の脅威には対抗できるが、その力を最大限に発揮させるには彼の自我は不可欠だ。
───それに、万全の状態で戦わなければいけない事態にまで陥ってしまった事を、この現状は示している。
「天使、ね。与えるしか能のない奴等に興味はねぇな」
ネヴ・スルミルの面影を僅かに残した天使らしき姿の存在にグルーヴァが憎たらしげな顔で睨みつける。
あれはただの破壊者だ。ただひたすらに人間を殺すだけの殺戮兵器。呪いなどと呼ぶのもおこがましい、ただの妄執だ。
「チッ...。なんだ、要は時間稼ぎって訳だ」
英雄のネヴとあの少女がネヴ・スルミル本体の精神世界へ向かったことは事前に察知できている。そこで何らかの方法でこの事態を収めようと画策しているのだろうが、その間外部でその存在を押し留める人間が必要であり、それにグルーヴァが選ばれたのだ。
「とは言ったものの...。天使の相手なんざしたことねぇぞ」
こちらを見向きもしない黒光に身を包んだその存在。それがかつてこの世界の頂点に君臨していた存在であることは知っているが、実際に彼等がどんな戦い方をしていたかなどは知っている訳もない。
元より外界との交流を絶ち、外部の情報をあまり知ろうとしていなかったあの時代に天使という単語や特徴は知ることは出来ても、その存在の内側、弱点や史実に伝わる殺し方など、そういった深いところまで知ることは出来なかった。
なんせその情報を持っている人間達がこぞって邪教許すまじと殺しにかかってきた時代だ。殺しに来た相手と対話するようなバカは1人を除いて存在しない。
「おーい、てめぇは話は通じる奴か?」
「險ア縺吶∪縺倩ィア縺吶∪縺倥?ゆココ鬘槭?鬆医i縺乗サ??縺ケ縺」
「...こりゃ、理解しようとするだけ無駄だな」
早々に見切りをつけてグルーヴァが臨戦態勢を取る、するとそれを待っていたかの黒白が煌めき───弾ける。
「───ッ!!」
敵意を検知、或いは様子見だったのか、天使の残骸はその行動を再開すると、瞬く間に周囲の空間を削り取っていく。
「黒い光が消えたところは消滅...。じゃああの胸元の白い光は何だ?」
全てを虚無へと返すような黒とは対照に、その身の中央には白く輝く光がある。恐らくあれも何かしらの意味はあるのだろうが───。
瞬間、グルーヴァの頬を黒い鎌が通り過ぎていく。正確には一瞬でこの距離を詰めてきた天使の残骸が振りかざした鎌を反射神経だけで回避した形になる。
「なんだ、随分ちんけな殺し方も知ってんだな。終末の音を鳴らすもんだからもっと派手にぶっ壊すもんかと思ってたぜ」
この存在は先刻、生まれた瞬間に世界を滅ぼす脅威と見なされ、都市全土に終末の鐘の音が鳴り響いている。つまるところ、これは個人同士の殺し合いなどではなく、世界を滅ぼすか、守るかの戦いである。
『...執着だ』
突如、グルーヴァの脳内に語りかけてくるような声がして顔を大きくしかめて右耳を手で覆う。
『それは天使の残骸と言えどもそのベースにはネヴ・スルミルという青年がある。彼にとっての世界の解釈は───どうやら君らしい』
「...あぁ?」
『君という存在が彼にとっての世界であり、討ち果たすべき敵なんだ。まぁ、彼個人の私怨でもあるが、ある意味でそれは正しいだろうさ。君が死ねば、それは信仰都市から解き放たれ、世界を滅ぼすんだからね』
一方的な情報の流れに痛くなる頭を押さえてグルーヴァは眼前を見る。そこにはやはり、こちらを睥睨する天使の残骸があり、今すぐにも殺しに来そうな雰囲気だ。───だが、やはりというか、様子がおかしいことに気づく。
世界の敵と見做されたにしてはあまりに行動が少な過ぎる。その黒い光が触れたものはどんな物質であれ消滅するというのに、それを用いた破壊の規模がこれでは世界の敵とはとてもではないが言い難い。
そして、ようやくグルーヴァはその違和感の答えを見出す。本来であれば存在しない黒き光、その中枢にある光が持つ何か、それが何者かの干渉を受けて光を強めている。
「...そういうことかよ。時間稼ぎなんて必要じゃなかった訳だ」
その黒き光が憎しみの具象だというのなら、その白き光はその対となる感情であった。
ネヴの父への憎しみが形となったのが触れるもの全てを塵芥へと化すその黒光であるなら、あの光はカース・スルミルに子を産む道具として使い潰されたネヴとシズクの母親が最後まで失うことのなかった光。
───子への惜しみのない愛情。
父への憎しみでネヴが燃え尽きる間際、母の愛が寸でのところでそれを妨害していたのだ。そして、それをシズクが利用することで本来であれば叶わなかった巻き戻しを行わんとしている。
「お兄ちゃんを救うのに預言者の魔法も、奇跡も要らない。簡単な事だったんだよ。お兄ちゃんが私達を大事に思っていてくれていたように、───あの人も私達を大事に思っていてくれてたんだ」
「あり得ない!あの男から実験を受け続け、望んでもない子を2人も産まされたんだぞ!あの人が俺達を愛してる訳がない!!」
子を産む道具としてか見られてこなかったネヴ達の母親。ネヴは生まれた直後、母と会うことを禁じられ、次に母と出会ったのは母が屍になった後だ。その傍らに置かれた血まみれの赤子、それに憎たらしげに手を伸ばしながら絶命していたその光景を見て、ネヴは筆舌に尽くしがたい感情を覚えた。
けれど、それはあくまでネヴの主観によるものだ。
その人は父を憎みはすれど、最後まで腹を痛めて産んだ二人の子供には無償の愛を抱いていた。
───ネヴ・スルミルが知らずとも、その母の温もりを、惜しみのない愛情をシズクは覚えている。
母が私を生み落とし、それが出来損ないだと分かるや否や父は母を出来損ないと罵りその首を掻き切った。しかし、生まれたばかりの赤子の瞳には確かに映っていたのだ。
喉を切り裂かれ、息も絶え絶えの中、泣きじゃくる我が子に手を伸ばし、その女は大事そうにシズクの手を取り、笑う。
ボロボロの布切れ、その裏側に刻まれた無数の傷跡など意にも介さず、死ぬ間際でもあるにも関わらず、生まれてきてくれた我が子の事だけを考えて。
『ど、う...か。シア...わ、せ...に』
現実世界、ネヴの体に異変が起こる。カース・スルミルが生み出したスルミル家の第二の汚点となるべき黒き光、それを一人の女が残した一粒の光が凌駕する。
「私のやるべきことは終わったよ、ハデス」
シズクの隣に現れた黒髪の少年。それはネヴ・スルミルがその生涯で唯一の親友と呼んだ幼神ハデスが在った。シズクの神降ろしによって束の間の顕現を成し、彼女の消滅と共に彼もこの世界から消え去るだろう。
───それまでに、話しておきたいことは幾つかあった。
「久しぶりだね。って言ってもベルメリヨンの手による神格融合の時にちょっと話したんだったっけ。でもまぁ、あの時は話し合いと言うにはちょっと違かったし...」
「ハ...デス?」
「うん。僕だよ。こうしてまた会えるなんて思わなかったけど、会えて良かった」
そう言いながらハデスは膝を降り、呆然と立ち尽くしていたネヴに近づき、
───その頬に思いっきりビンタをする。
「え......?」
バチンと、鈍い音が響き渡ってネヴの頬に痛みが走り、戸惑いと共にネヴはぶたれた方の頬を手で覆う。
「馬鹿野郎...」
ずっと、ずっと言ってやりたかった。けれど、実体を持たないハデスが彼とベルメリヨンの手によって起こされたあり得ざる再開の時にはそんなことをする暇も無かっただけの話だ。
───しかし、今は違う。彼等が、その身命を賭してまでこの束の間の会話を叶えてくれた。
と、同時に今までずっと押し留めてきた数多の感情がハデスの内から湧き上がる。
「───何であんなことをした!!!どうして、罪のない人々を虐殺してまで僕の存在を確立させようとしたんだよ!!」
「───っ。そうしなければ、お前は消えてしまう。消えて欲しくなかったんだよ、ハデス!!」
「そんなことをしたって延命措置にしかなり得ないのは知っていただろ!!それに、君にそんな事をさせてまで僕は生き延びたくなんて無かった!!ただ、君が新たに幸せを見つけて、苦しくても、大切な人を見つけて...そうして、穏やかに、生きてほしかった...っ!!」
怒りはやがて悲しみに、悲しみはやがて苦しみへと変わっていく。ハデスの言葉に涙と感情が乗り、より悲痛な声をあげる。
「───僕は、君に幸せになって欲しかったんだよ」
ネヴの肩に何度となく拳を打ち付けるが、それには微塵も力は乗っておらず、その動作もやがて緩慢になっていき、諦めたようにその小さな拳が彼の胸元で止まる。
「何で、僕なんかを助けようとしたんだよぉ。なんでぇ」
「うぇーん」とまるで幼子のように泣きじゃくるハデスとそれを受けて唇を噛み締めるネヴ。しばしの慟哭のあと、意を決したようにネヴが口を開いた。
「あの時の俺にとって。お前が全てだったんだ。他の何を捨ててでも、ハデス。お前さえ生きてくれればそれで良かった。けれど、お前は居なくなった!家族を失い、友を失い、お前までも失ってしまったら、俺は...!!」
あぁ、それは違う。それは違うだろうネヴ・スルミル。この期に及んでまだ隠すのか、ハデスは全てを打ち明けてくれたのに、お前は最後まで偽ったまま死ぬのか。
英雄が、こちらを見つめている。偽るなとでも言うように。
「──────俺は、一人ぼっちになるのが怖かった。怖かったんだよ、ハデス」
何が初代祭司を装う道化だ、何が地獄の主だ、何が怪物だ。どれだけ役を羽織ったところで、お前は、
「───君はどこまでも人間だったんだ、ネヴ」
英雄であれと望まれたのだろう。スルミル家の悲願を叶えるべしと望まれたのだろう。───しかし、彼はただの人間に過ぎないのだ。
英雄ではない、ただの凡人がその運命に抗うために手を尽くした。その結果がこの都市の惨状なのだとしたら。
「お兄ちゃんは帰るべきだよ、あの都市に」
───光が強まっていく。憎しみを包み込むような母の慈愛がその恩讐を連れ去り、この世を去ろうとしている。元来であれば抵抗にしかなり得なかったその光はそれに連なる存在によって強度を底上げされ、かの天使の残骸を形作る黒光を凌駕する。
その代償として支払われたのは二つの命。完全ではないとはいえ神格を有するハデスと、それを身に下ろすことで欠けた力を補完した巫女であるシズク、両者の覚悟を持って光の門が開かれる。
「───これで、良かったんだよね。シズク」
「うん。今度はちゃんとお別れが言えるね」
その門の向こう側にあるのは今や忘れ去られた白き檻。本来罪なき魂を収監する場所として生まれたもう一つの概念。───天国と呼ばれる異界だ。
「とんだ暴論だ。そこに至るのが罪なき魂であるというのなら、───そこに連れて行かれた時点でその存在に罪は無くなる」
故に、シズクはカース・スルミルの妄執を母の愛情を通じて回収し、その目を欺く形で天国へと導く。本来犯してはいけないタブーである罪人の魂を連れて行くのだ、それに際してペナルティーが生じるのは目に見えている。
───罪を背負った魂をそこに連れていくことで、世界はその魂を拒絶する。しかし地獄の力を持ったシズクもそれに付いていくことで互いに互いを受け入れず、やがて対消滅し、そこにある全ては白紙へと化すだろう。元々、何もなかったかのように。
それに、真に罪のない人間なんて存在しない時点で天国なんて有って無いようなものだった。
けれど、地獄という場所が生まれてしまったのなら、その場所が生まれるのも必然だった。後の世には幾分か解釈を変えて、客観的に見て比較的罪のないもの、或いは生前に罪を払拭したものが導かれる天国に似通った性質を持つ空間が生じたけれど、それもクレアによる奇跡とダオの執念が既に瓦解させている。故に、残された異界はあと一つだけ
信仰都市に渦巻く数多の問題、その解決策としてはなかなか良いアプローチだったのではないかと我ながら自画自賛している。
「───だから、これで終わりだよ。お父さん」
ネヴの首元、失われた筈の人器メモリアルが黒く胎動する。しかしそれは存在を奪われることへの忌避感が故の鼓動だ。よもや、スルミル家の恩讐がこれほどまでとは思ってもいなかったが、それはそれであの人らしいと思うことも出来る。
「記憶を後世に受け継ぐ神器の贋作。であるのなら、───その人格も後世に引き継ぐことが可能だったんでしょ」
それも完全とは言えないが、ある意味での不老。如何にも生みの親であるカルヴァリア・スルミルらしい悪辣な手法と言う他ない。その恩讐と人格を次なる人器の所有者へ引き継がせることで、偽りの到達点が歪まぬよう矯正し続けてきたのだ。
「───ふざ、けるな」
そして、消え去ってしまう刹那。これまで蓄えられてきたスルミル家の恩讐が遂に顔を覗かせる。
ネヴの首元から広がった黒い痣がその体を奪わんとし、カース・スルミルの意識が目覚める。そうして男は怒りを顕にしてネヴの魂の侵食を始めながら叫ぶ。
「出来損ないの生娘が何を勝ち誇った顔をしている!!貴様に理解など出来はしまい、我等が誇り、我等が夢を!!スルミルの名すら持たぬお前に───」
しかし、その凶行をこの場に居合わせた英雄が見逃すはずもない。元より、その為の保険だ。こと呪いに関して彼に比肩するものは最早この世界には存在しないのだから。
「───ネヴゥ!!!」
「それは僕の名ではない、君が貶めた人間の名前だろう。僕は英雄だ、君の知る都合の良い存在としての僕はもうどこにも居ないよ」
「何故だ、何故なのだ!貴様も仮にも人器を引き継いだのならば分かる筈だ。我等の一族は選ばれている、───神に、人に、運命に!!」
「逆、だ」
この期に及んで世迷い言を謳う存在に思わずハデスは口を挟み、それを英雄が補完する。
「───僕等は呪われている、神に人に、運命にね。故に、歪ませたものとして責任を取るべき時が来たんだ、それを受け入れなければ君は最早人とは呼べないな」
冷え切った英雄の視線、これまで良いようにされてきたことへの仕返しのように突き刺さった冷ややかな視線に尚も動じずその妄執は口を開く。
「我等スルミル家は唯一この世界で不老を体現した一族だ!!ヴィーテス・ゼッタのように異界の種族と交わるでもなく、歪な人格で生を引き伸ばす教会の大司教共とも違う、純粋な不老。何故、それが特別なことだと分からない!!」
「...特別?民を犠牲にし、国を滅ぼし、世界の平和を揺るがしてまでして得た不老が特別だと、お前は本気で言っているのか?違うね、それは特別なんてものじゃない。───傲慢だ」
その傲慢がこの悲劇を生み出した。仮にも、歪まされた側である筈の人間であろう。スルミル家などに生まれなければもっと違う生き方を見出していたとは思わないのか。
───違う。思えないからこそ、ここに居るのだ。
「だからこそ、その凶行をここで終わらせましょう。彼の神が魂を浄化したことで既に道は示された。私達はその軌跡をなぞるだけ、けれどそれだけで貴方は滅びる」
それがこの男にとって如何に屈辱的な言葉か知っている。故にこそ、挑発するような物言いをシズクはした。
「───待て!本当にお前はそれでいい...」
「くどい!!お前に既に道はないと知れ。これまで積み上げてきた数多の愚行、惨劇の数々を悔いながら消える時だ、スルミル!!」
シズクの掌、そこに凝縮された力が宿る。ハデスの神格を溶かし、純粋な力の結晶とし───それを飲み込む。
それを持って新たな神がここに束の間の降臨を果たす。地獄の正しき主、長い時を経て導き出した終わりの刻。それを遂行するために少女は命を差し出した。かつてのように投げ打つだけではない、自身の手で、自身の因果に決着をつける為に。
───空間が戦慄く。それは歓喜しているようにも、恐怖で震えてるようにも見え、溢れ出す泥の奔流に攫われた魂がその内でもがきだす。
「───お兄ちゃん!!」
「勿論、彼は責任を持って僕が現世に帰そう。と言っても外では今頃正気を取り戻したグルーヴァが居る、結末は僕にも分からないよ」
「...うん。それで大丈夫。これは私のエゴ、私は数え切れない程の罪を犯したお兄ちゃんに、それでも生きていて欲しいと願ってしまった。打算でも計算でもない、私は私の心に従ってこの結末を選んだんだよ。だから───ごめんなさい」
「謝ることはない。それは人であるなら持っていて当たり前の感情だ。僕は兄として、───家族として君を誇らしくと思う」
その言葉を受けて少女が荒れ狂う地獄の泥を浴びながら微笑んだ。兄とはもう少し話したい事があったが、それは過ぎた願いだ。後にも先にも私には後悔しかない。
───けれど、それが生きているという証だったのです。満足のいく最期なんて決して訪れない、けれどもやれることはやって、帰路につく。そんな当たり前を私は受け入れて前に進む。
「ハデス、ありがとうね。私の我儘に付き合ってくれて」
その力の殆どを失い、今度こそ消滅しかける幼神の手を握りながら感謝の言葉を伝える。彼が居たからネヴ・スルミルは生きていられた、彼が居たから、この結末を用意できた。その全てに感謝をして。
「...僕も、君と君の兄に会えて良かった。楽しいばかりの記憶ではなかったけど、それでもこの世界での出会いは素晴らしかった。お互い、満足のいく答えは出せなかったけれど、こうして終わりに向き合えた。僕はそれがただただ嬉しいんだ」
あの時のように、消えたくないと泣き叫ぶのでなく、誰かを思って消えることが出来る───それの何と美しいことか。
───あぁ、そうとも。この世界は、この世界での出会いは美しかった。
泥に飲み込まれ、魂が消える刹那そんな事を思いながら二人の少年少女は瞳を閉じる。やがて、全てを押し流す泥はその内から湧き上がる光に飲み込まれ、温かな光に包まれながらネヴ・スルミルの精神世界に集った数多の因果の尽くが浚われていく。
───そうして、最後に一つ残った魂だけが現実へと回帰する。
崩れ果てたクレーターの端、もう会うことはないと思っていた運命に向き合い、男は短く息を吐く。
「やはり、最後はお前なのだな」
「───あぁ、そうだぜ。死ぬ準備は出来たかよ、ネヴ」
「とうの昔に済ませてたさ。誰も、死なせてはくれなかったがな」
グルーヴァがその手に炎を宿し、それに相対するネヴがそんな事を言いながらも生き延びるために僅かに残された力を糧に一つの剣を生み出し、握りしめる。
───この期に及んで、やはり男は生きたいなどと願ってしまう。今度こそ、全てを失ってしまって尚、生にしがみつくことの何と醜いことか。
だが、それこそが───俺への罰なのだ。死ぬことすら生ぬるい、生きて、望まれぬまま生かされて、その罪に向き合えと何度も、何度も生かされる。
生きて、生きて、そして死ぬ。───それこそが、ネヴ・スルミルに許された唯一の生き方であると悟り、男は最後まで醜く抗うことを受け入れたのだった。