<願いの行く末>
───ソラを、お星さまが照らしている。
暗雲渦巻くこの都市であっても、夜空に瞬く星々は例外なく大地を照らし、かつて母と眺めた満天の夜空が雫の精神世界で広がっていた。
天間雫は過去に囚われている。それは紛れもない真実で、雫にとっての全てと言って良かった。母と弟と幼馴染と、お祖父ちゃん。全員が揃っていたあの時間はかけがえのない思い出に他ならないのだから。
『雫、どうしたの?』
記憶の中でその人は不思議そうに空を見上げる愛娘に問いかける。神社の縁側、寝静まった寝室から抜け出して母と共に夜空を眺める私は現実よりも幾分か小さく、───されども、もうここには居られないのだと知っている。
『ううん。何でもないよ、お母さん』
幸福な夢はいつか終わり、耐え難い現実に引き戻される。それを知っているからこそ、私はその夜空と母の横顔を少しでも長く、より深く記憶に残るようにこの目に刻み続けるのだ。
『ねぇ、お母さん』
『なぁに、雫』
そんなことを記憶の中の貴女は知らない。私が内側に内包した精神世界で再現された母は、私の記憶の中にある通りの行動しかしないのだから。
「───私ね、幸せだったよ。お母さんに、お祖父ちゃんに、ネオに、クロバネに、狐の面の人達に出会えて、とーっても幸せだった」
子供らしからぬ発言に戸惑いを見せながら、母は固まる。そう、所詮は記録が生み出しただけの虚影。私が目覚めるまでの合間、私が見る幸福で不出来な夢。
―――だから、返答何て期待していなかったのに。
「―――私も幸せだったわよ、雫。あなたが私の娘で」
しかし、違ったのだ。ここに居る母は記録によって構成されたものでも、私が生み出した都合の良い幻影でもない。
あの光に連れられて去っていく中、寄り道をするかのように私に出会いに来てくれたのだろうか。
驚く私を横目に、母もこの幸せな時間を噛み締めるように空を見上げながら言葉を続ける。
「お友達が出来たんだってね」
「え...」
「ほら、貴女に何度も会いに来てくれたあの子...。そう!ナナちゃんっていう名前の可愛い女の子よ。私達以外には人見知りして話せなかった雫がお外でお友達を作ってくるなんて、私驚いちゃったわ」
...なんて、酷い事を言うのだろうかこの人は。
あぁ、でも、それがお母さんの愛情であることは私はもう知っている。少しデリカシーが足りなくて、けれども子の成長を喜べる、そんな人であることを、他ならぬこの人の愛娘である私が知っているのだ。
「ナナちゃん...。うん、そう。私の友達...じゃないや、―――私の初めての親友なんだ」
そうはっきりと告げた雫を愛おしむようにその女性は柔和な笑みを見せる。
「大きくなったのね、雫」
背丈はあまり変わらずとも、その内面はこれまでの道のりを経て、大きく変化した。苦しむこともあったろう、悲しい事もあったろう。それと同じくらい、楽しかったことがあったのかしら。
聞きたい事は山ほどあった。けれども、私に残された時間はもう少ない。彼等が起こしてくれたこの泡沫の夢はあの子の為に使うと決めていたから。
「お母さん、本当に楽しかった?辛くなかった?私達のせいで苦しくなかった?」
「ふふ、またこの子は心配して。勿論、楽しいだけじゃなかったわよ。生きていれば苦しい事も辛いことも訪れる。でもね、雫達のせいで苦しいなんてことは一度も無かったわ。貴女達と過ごす時間はいつも楽しくて、面白くって―――愛おしかった」
「雫が食器を割った時は勿論心配で怒りもしたし、ネオが夜泣きをした時は大変だったし、勇矢が最初あんまりお話をしてくれなかった時は悲しかったけれど。それも含めて私は貴女達が愛おしくて仕方なかったの。七年と言う短い月日、巫女の任期の終わりが訪れるまで部屋に蹲っていただけの私をあの人が連れ出してくれて、ネオが生まれ、雫に出会って、勇矢と出会った。―――私の周りに居る人全てが私にとってはかけがえのない大切な人間達で、誰一人として欠けては、天間零という人間は生きていけなかった」
全ての出会いが少しずつレイを変え、多くの別れがレイを強くした。喜びも、悲しみも、苦しみも、全てが私を構成する要素の一つ。そこに不必要なものなど一つもない。
「だからね、雫。人との縁は大切にしなさい。貴女はしっかりとナナちゃんに思いを伝えて、ネオに謝って、―――黒羽と向き合うの」
置き去りにしていた過去を取り戻す時が遂に来たのだ。雫も、かつてのレイのように悲しみに打ち震えるのではなく、前を向いて、少しずつでもいいから進まなければならない。
―――その背中をもう、押してくれる人間が居たのだから。
『―――他の誰が否定しても、私だけは雫の味方だからさ』
ここには居ない少女の声が聞こえた気がして、雫は振り向く。勿論そこには雫の求める人間が居ることは無い。ナナは今現実世界で生死の境を彷徨い、アマテラスとクレアがその命を必死に繋ぎ止めているのだから。
夜空に瞬く星々が明滅し、消えていく。
アマテラスによって解放された人々の魂が信仰都市を駆け巡り、本来在るべき場所へと帰ろうとしているのだ。この逢瀬は雫に送られた信仰都市に生きていた人間達からの贈り物。後の世に生きる者達へのエールだ。
背後の襖の向こう。そこに行けば現実世界へ戻ることが出来ると直感的に理解する。そうなれば本当の意味でのお別れ、母は私の中ではなく、創世の神が創り出した機構の中へと還っていく。
そうなれば―――もう、会う事も出来なくなる。
そんなことを考えてしまった時、瞳からポロポロと大粒の雫が一つ、また一つと流れ落ちていくのを感じた。
止めようとしても止まらなくて、そればかりかますます落ちていく涙の勢いは増していくばかり。最早、感情を押し留めることなど、私には出来ようもない。
「―――お母さん!!」
その寂しさを紛らわすように母の名を呼び、雫はその胸の内に飛び込んでいく。レイはそれを優しく受け止めて、それ以上に優しく雫を抱きしめた。
「なぁに、雫」
「───大好き。ずっと、ずーっと大好きだよ」
レイを抱きしめる腕に僅かに力が込められる。それは別れを惜しむようにも、最後にレイという存在のすべてを刻み込もうとしているようにも見えた。
「うん。私も雫がだーい好き」
赤子をあやすような優しい声色でレイも愛娘へ偽りなき本心を伝える。
「もう会えなくなっても、どれだけ時間が経っても、皆がお母さんの事を忘れても、私だけはずっとお母さんの事を覚えてる───思ってるから」
「───だから、お母さんも私の事をずっと覚えていてね」
「ふふ、どうかしらね。来世でも貴女の事を覚えていられたら―――いいなぁ」
雫と話している中でレイの瞳からも涙が零れ落ちていき、木製の床に二人の涙が小さな染みを残す。
───それはきっと証だった。二人がここに居たんだという、二人の愛がここにあったという紛れもない証左。
少女の涙ぐむ声と、母の嬉しいような、悲しいような嗚咽。
しばし二人はお互いの熱を感じ合い、脈打つ心臓の音を聞いた後、惜しむように両の腕を離し、雫は襖の向こう側へと一歩後ずさり、零はそれを見送るように境内の縁側に座りながら微笑えむ。
「最後にお話ができて良かった」
「うん。私もお母さんとまた会えて嬉しかった」
そこには幼き日の少女の姿はなく、今を生きる天間雫が立っていた。彼女は自分の意志で前に進むことを選んだ。その心の成長がこの精神世界で形となって現れたのだろう。
「雫」
───最後に、レイはこれまで言いたかったけれど言えなかった言葉を口にする。今回はあの時のように呪いを背負わせるのではなく、その行く先に祝福あれと祈るように。
「───いってらっしゃい」
その言葉を受けて、雫も今度こそ笑顔を見せて応える。
「うん、いってきます!」
それは悲劇の別れなどではなく、未来へ進む事を決めた来るべくして訪れた別離の時。あの時できなかった本当のお別れを終えて、雫は光の中に身を投じていく。道中、多くの記憶、多くの見知らぬ人達の記憶を見て、―――天間雫は目を開ける。
「目を覚ましたか、雫」
地面に寝かされていた雫を介抱していたアマテラスが雫の左手を握りしめながらその両の瞳に安堵を浮べ、その名前を呼ぶ。
「...アマテラス」
その手から伝わる温もりは無機質な神のものでは無く、彼女が一介の存在。すなわち有限の生命へと変わったことを指し示す。アマテラスは遂にその役目を終えて、彼女が憧れていた人間へとなったのだ。
それはきっと喜ばしい事、嬉しい事なのだろう。―――けれども、それ以上に残酷なことでもあることをアマテラスは知らない。
「ごめんね」
握られていた手がするりとほどかれ、雫は立ち上がる。―――その目に揺るがぬ決意の光を灯し、相対する全ての人間に別離を言い放つ。
「信仰都市に住まう全ての人間へ告げる。今この時を持って、神アマテラスは消滅し、その代行者たる巫女もその役目を放棄した。―――故に、罪深き全ての民へ私は復讐を開始することにしました」
天から轟く雷鳴のような音が聞こえ、各地に点在する避難地で民が空を見上げ、呆然と立ち尽くす。それは彼等信仰都市の民にとって最も受け入れがたい事実であると同時に、来るべくして訪れた当然の帰結。
「悪しき風習、先代の巫女を食らわせ、その力を実の娘へと引き継がせる巫女継承の儀。その悲劇を喜劇として消化し、その凶行を執り行ったネヴ・スルミルとその惨劇を嬉々として眺めていたお前達に人間に―――天間雫が罰を下します」
その身に眩いばかりの光を宿し、信仰都市全土へその権能を用いて宣戦布告を行う。既に失われた筈の神の力。それと似て非なるモノを宿した彼女の瞳が、―――赤く染まる。
「...そうか。あの者達を、消えゆくだけだった巫女達の集合体を取り込んで、再統合したのじゃな」
「はい。私は私の為だけにあの人達の残した無垢な願いを利用して、この都市に復讐を果たすことにしました。母を殺した愚かな民を、その元凶たるネヴ・スルミルを殺して、私は私の運命に終止符をつけるんです」
それは真の意味での祝福の力。全ての呪いが浄化され、巫女達の集合体に蓄積されていた負の感情が取り払われ、そこに残ったのは歴代の巫女達の祈りと信仰。神を内包した魂はその性質を僅かに神と近しくなり、同様とまではいかないがそれに近いだけの力を持っている。
禁忌反転術式リバースによって精神の奥底に閉じ込められ、アマテラスの大魔法によって神格を失い、消えていくだけだった巫女達。―――それを再び取り込み、今度こそ完全に同化を果たしたのだ。
「それがお前のやりたかった事なんだな」
倒れ伏すナナとその傷の治療を行いながらこちらを見つめるクレアを庇うようにガルナがその間に立ち、問いかける。ナナが命を賭して伝えた言葉を、雫がしっかりと受け止めたのか否かを。
「...はい。私は私の意思で彼等に罰を下すことにしました。あの人達がネヴの洗脳下にあったことは知っています。―――それでも、母を殺したことだけは許せない。私はお母さんを愛していた、だからこそ怒らなきゃいけないと思ったんです」
「...証明か」
天間雫が真に母を愛していたと言うのなら、その母を殺した男を、その扇動に突き動かされ、雫が零を食らう瞬間を喜んでいた民を許してはいけない。そういうことなのだろう。
「―――やっと、お前と言う人間が分かった気がするよ」
「......」
その手に光の剣が握られ、空を煌々と照らす月が青く染まる。同時に星々はその光を一層強め、天間雫の存在を祝福する。その光景を見て、アマテラスとのリンクを失い、十分な魔力も持たないままガルナは尚も雫の前に立ちはだかる。
「逃げないんですね」
「必要が無いからな」
見透かしたようなガルナの言葉に雫は苦手な食べ物を見た時のように苦笑し、同時に確信を持ってその剣を空に掲げる。
夜空を瞬く星々から齎される光。それを一つに集約させた天ではなく、星の裁き。あの不気味な赤い髪をしたジューグという女性と通じ、かつて信仰都市に反旗を翻した裏切りの巫女の記憶。
―――そこには祈りがあった。
これ以上、私という存在を生み出さない為に。利用されるだけの人生を歩むものが出ないようにする為に彼女は悪魔の手を取ったのだ。
「星は、私達の運命を悲観する。けれども―――今の私に同情は不要」
それを受けて、雫の左目が赤く染まる。星による悲観と、それによって齎された力はまさしく別次元の力と可能性を秘めている。ガルナに宿る観測者と呼ばれる存在と、アマテラスと言う神を持ってしてようやく止めることが出来たのがその証明だ。
だが、ソレには不純物と何者かの思惑が孕まれている。故に雫はその何者かの意思に反するようにその力を手放すことを決めた。
―――この力もまた、返すべき場所へ返す時が来たのだ。
「裏切りの巫女よ。これは誰よりもこの都市の未来を憂いた尊き貴女への餞別です」
彼女は民衆に掛けられた人器メモリアルによる洗脳を解くことに何よりもこだわっていた。それが自身のような存在を今後生み出さないように繋がるのもあったが、その願いの根幹。最も強き願いは束縛からの解放だ。民を縛り、巫女を縛り、ウルペースを縛る全てを解き放ち、この都市に在るべき形を取り戻そうとした。
この都市を終わらせることを選んだ雫のように、奪うのではなく奪われた平穏を取り戻さんとした彼女の勇気を、その努力を人々は思い出すべきだと雫は断じ、その力を本来の用途とは違う形で利用する。
「―――ッ。これは...」
雫がその力を解き放つ瞬間、クレアは体が一瞬熱くなるのを感じた。正確には英雄ネヴから僅かに譲り受けた力が全身を駆け巡ったことで起きた体内での魔力循環の不和を。
同時刻、眠りにつくアカツキに寄り添うアニマもまた、主の異変に気付いていた。穏やかな眠りにつく筈のアカツキ、その体内で渦巻く魔力とはまた別の力。英雄としてのネヴが眠る魂の深奥が何かの干渉を受けて表出しているのを。
「アカツキ...」
その首裏に浮かび上がった魔方陣のような痣は神器と似通った性質を持つ何者かの力の一端。アニマはそれが何であるのかは知らないが、―――爆発地にてグルーヴァと相対するネヴにはその異変が何なのかを理解できた。
立ち上る爆炎が視界を埋め尽くし、次いで現れるグルーヴァの拳を泥の障壁で防ぎ、その間に造り出した泥の鎌をその首元目掛けて振るう。しかしそれは彼の首を切り落とすことは敵わず、しかし衝撃を殺しきれなかったグルーヴァがのけぞると首元に手を置き、その熱を感じ取る。
―――父にその人生を歪められた英雄が受け継いだスルミル家に伝わる人器メモリアル。本来であれば自身が受け継ぐ筈だったその力を英雄の遺骸を取り込むことで我が物とし、代々スルミル家が受け継いできた実験の記録や、その者の人生を閲覧する力が創造主の意思も関係なしに外界からの干渉を受け、消えようとしている。
カルヴァリア・スルミルの用意した装置。人間に寄生する力が今、たった一人少女の手によって消えていくのだ。
「それが、お前の決断か」
先程の言葉を聞いた限り、自身の母親の為に復讐をするということは分かったが、その始まりがこれとはどこまでも甘いと言わざるを得ない。自身の願いを優先するのなら、このような行為をせずとも良いと言うのに―――。
「―――ケハハハハハハ!!」
僅かに隙を見せたネヴに狂喜的な笑みを浮べて飛んでくるグルーヴァがその途中で指を鳴らし、パチンと軽快な音が鳴り響くと夜空を赤い稲妻が駆け巡る音が聞こえる。
「天雷か!」
咄嗟に空を見上げたネヴ、しかし雲間を貫き放たれたのは雷などというなまなかなものではない。
―――空気すら焼き焦がし直進してくる炎の稲妻、それは最早ネヴすら知り得ない呪法として形を変え、地上を業火が埋め尽くす。
「ガッ―――」
咄嗟に泥を寄せ集め防御形態を取るが、全身を守るべくして伸ばされた泥の盾は真正面、迫っていたグルーヴァの全力の攻撃を防ぐことが出来ず、泥を突き破って彼の拳が腹部に命中する。瞬間、体は爆ぜたような衝撃を受けて直進的にネヴの体が吹き飛んでいく。
空を舞いながら、ネヴは自身の命が遠ざかっていくのを感じ取る。自身の瞳に映る光景全てがスローモーションになっていき、抉られた腹部から伝播して感覚が消え去っていく。
―――死ぬのか。こんな呆気なく。
信仰都市の願いを背負って立つ英雄と、それに相対する人の業を煮詰めたような悪の根源。多くの物語に語られるように、常に正義は勝ち、悪は滅びる。その結末を良しとした筈だ。理解されない事も、承知の上で全てを掛けると誓った筈だ。
―――だというのに、死の間際になって、名残惜しいと。俺は思うと言うのか。
なんという傲慢、何という身勝手、何という、―――喜劇だろうか。
愚かな道化は、最後まで道化でしかなく、何も為すことは無い。ハデスを救うという願いも、この都市を終わらせ、全ての運命を狂わせた男を殺すという誓いも果たすことなく...。
「違う」
グルーヴァの生み出した爆発によって生じたクレーターの端、その岩壁の中に体がめり込み、ひしゃげてしまう一秒前、白目を剥き、血反吐を吐いていたネヴの口が否定の言葉を紡ぐ。
急速に色を取り戻していく視界、それが鮮血に染められてしまう前に、感覚を取り戻し、その痛みすら忘れてしまう直前に、男はようやく一つの結論に辿り着いたのだ。
それすらも、不要だったのだ、と。
――――願いも、誓いも、望みも、何かを果たすには余分なモノでしかない。あの少女は自身の運命に決別を告げる前に、自身に連なる数多の運命に決着をつけることを望んだ。
母への思い、捨て去った意思との対話、過去に置き忘れ、誰からも忘れ去られた巫女の悲願の成就。自身の望みを果たす為に、心に残った残骸に寄り添う事を選んだのだ。全てに決着をつけて、ようやく彼女の望みは果たされる。
しかし、自分は違う。ネヴ・スルミルという人間には何も残されてなどいない。愛していた妹も、唯一の親友も、自身の名前すらも奪われてきたというのに、この期に及んで俺は躊躇っていたのだ。
―――何かを果たす為に、何かを捨て去ることを。
ただそれが、特別な人間にとっては選択肢があって、そうでない人間には一つしか無かったと言うだけの話だ。
脳内を駆け巡る数多の光景、それに別れを告げるように亀裂が走る。愛しい妹と、二人の仲間と過ごした日々、自分と同じ運命のもと呼び出された異界の存在。―――自身を生んだ女と、憎たらしい父の顔。
次第に虚ろになっていく記憶の中でその男の顔だけは確かに覚えていた。そして、その憎しみだけを頼りに暗がりの中、一握りの光を秘めた外灯の下で男は気づく。
『―――そうか。俺は、憎かったのか。あの男が』
全てが消えてしまう直前、ようやく自身の持っていた最も深い憎悪に気づいた男の体がクレーターの端にぶつかり、―――直後その一帯が音も無く消失する。
「...そんな、呪いは全て濾過され、消えた筈なのに」
その異様な光景を眺めていたアニマの視界、そこには本来存在しない筈の光が映っている。アマテラスが手放したのはこの都市を支えてきた力の根幹。その中で最も歪に、そして強大だった呪いの力。
人々の負の感情を寄せ集めて生じた発生したそれは呪いと言う名前を与えられ、明確な指針を得たことで存在を確立し、後にそれを補強する形で多くの魂が注がれた。
―――この光景こそ、呪術の開祖である英雄アシャが最も恐れた最悪のもしも。
仕方の無い事だと割り切り、一時の繁栄を願った一人の人間が生み出した業の結末にして、世界を滅ぼす可能性を秘めた信仰都市に唯一生まれ落ちる終の具象。
―――鐘の音が響き渡る。
世界の終わり、その間際に鳴るとされる世界の警鐘。呪いの神を謳うベルメリヨン・セレーノスの復活ですら鳴る事の無かった終末の福音が齎され、男は立ち上がる。
その身に黒き光を宿し、その光に触れた物質が一瞬にして塵と化し、その胸の中央、黒い光の中に輝き続ける一粒の白。それが心臓のように大きく胎動し、空気を震わせる。それに乗じて辺りには黒い霧が散布されたかのように漂い始め、その存在が急速に形を帯びていく。
―――頭上に出来損ないの光の輪を携え、その背部には漆黒の翼を生やした天使と見紛うような人型の存在。彼の神が真に望んだ器としての資格を持って、遂にその存在は誕生する。
「...タイムリミットだ。すまない、神器アニマ・パラトゥース。君の主の体を少し借り受けるよ」
それを受けてこれまで沈黙を保っていた存在が目を覚ます。深い眠りに落ちたアカツキの体。それがその内側に宿っていた英雄によって呼び起こされ、少女の傍らで立ち上がると、眼前に広がる景色を見て僅かに目を細める。
「待って!アレだけは駄目。13の神器が揃わないと人類ではあの存在に太刀打ちできない」
そして、その歩みを阻むようにアニマの叫びが響き渡る。
「...そうか。僕にはあの存在が何なのかは外見でしか推測できないが、君は他の神器とは違い、記憶を保持しているんだったね」
各地に点在する民謡、お伽噺に語られる太古の存在。かくいう自分自身もその存在が何なのか分かる程度には知見を得ており、かつての廃れた都市にも響き渡る程の存在と似た姿を彼は形取った。
その存在の規模だけを話すのであれば、あれに匹敵するものはそうないだろう。神という存在は形を持たないが故に多くの地域で信仰され、時代に関係なく、祈りを受けてきた。しかし、それ故に神は明確な形を持たず、その特徴は各地の気候、人間の思想によって異なるが、天使という種族にはそれがない。
神秘でありながら既知。この世界で最も旧き種族がどうして彼の体に降りてきたのかは知らないが、恐らく彼の深層意識に眠るベルメリヨン・セレーノスの存在に依る所が大きいのだろうか。
「───でも、大丈夫だよ。君の言う程の事態にはまだ陥っていない。見れば分かるだろう?アレはまだ不完全だ」
終末の鐘の音が鳴ったということは明確な世界の敵として彼は世界に認められた訳だが、対処法が無いわけではない。
───否、本来であれば不完全とはいえ、天使が顕現した時点で僕には対処などしようもなかった。そも、イレギュラーにしてはあまりある事態だ。
ベルメリヨン・セレーノスの事もそうだが、この都市に根付く問題は思っていたよりも深く、どうしようもなく暗い闇の中に佇んでいる。
スルミル家が代々引き継いできたメモリアルに記録されている知識は12代目からスタートし、その時点でこの都市は既に終わっていた。だが、在るはずなのだ。滅びるよりも、この都市の物語が終わってしまうよりも前の、信仰都市に連なる前身の物語が。
───それを知ることが出来なかったことだけが、心残りだが、人生の終わりですら未練と後悔しか残っていなかったのだ。死後、そこから続いた亡霊にはお似合いの結末だろう。
「...何を、しようとしてるの?」
何かを決したような顔をする青年へ、アニマが問いかける。それは不安と困惑を秘めた少女らしい顔で、どこか記憶に残る大切な存在を彷彿とさせた。
「───再現だよ。ネヴが何と深く結びついたかは知らないけれど、それをそれをどうにかする手段は既に提示されている」
「提示...?そんなの、どこに。───ぁ」
否、見ているではないか。その奇跡から私という存在は生まれ、アカツキと共にあることを許されたのたから。
しかしそれは大預言者クラヴァー・リストロミアだから可能だっただけの話で、彼でなければ一度混ざり合ってしまった魂を分けるなどという奇跡に近い魔法を行使することは出来ない───筈だ。
「不可能です。あの人の魔法は誰かに再現できるようなものじゃない。大預言者という役目を与えられた人間だから行使できる権能...の筈」
そう言ったは良いものの、言い切るだけの確信をアニマは持てていない。しかし同時に、それが一朝一夕で為せるようなものではないことも知っているからこそ、歯噛みするように口を噤む。
「そうだね。僕も内側から観測することしか出来なかったが、預言者クラヴァー・リストロミアが起こした一連の出来事は奇跡と呼ぶに相応しい。本来であれば混ざり合い、一つの人格となった太古の人間の呪いに取り込まれたアカツキ、ハデスを取り込んだことで神格を得たネヴ。両者を救うことは不可能だったのだから」
それぞれが別々の形で保存されているなら良かったが、アカツキ側は、精神世界で会った時に彼等は既にアカツキの姿を模しており、その存在を同一としていた。
しかし、クラヴァーの手によって彼等を構成する存在の一つに成ったアカツキだけが抽出され、それ以外は何らかの形で完全にアカツキの内から消失...否、エネルギーとして消費されている。
本来肉体を持たない神器がこうして形を得ていることがそうなのだろう。彼等はアマテラスが手放した光によって洗い流され、その存在を悪性から善性へと反転させた。
そして、ネヴ・スルミル側の問題は力の根幹であるハデスの核と、ネヴ・スルミル本人の人格が混ざり合い、一つの神格を成していること。
同一の問題を抱えていたであろう天間雫とは訳が違う。彼女は最後まで混ざり合うことなく、神として確立していながらもその出力は半分にも満たず、不出来も良いところだ。
しかし、ネヴ・スルミルは違った。遠い昔に意識を失った幼神ハデスの核をベルメリヨンの手によって魂に組み込まされ、それを自身の魂と完全に固着させることで神格を形成した。
完成度で言えば比べるまでもネヴの方が上である。共存ではなく、吸収を持って自己を手に入れた彼に、救いの道など無かった───無かったのだ。
「しかし、それを彼は再び二つに戻した。原理も、その魔法の出自も知らないが―――再現だけであれば僕でも可能だ」
「......一度見ただけで、あの魔法を理解したの?」
「言っただろう。あくまで再現であり、学習じゃない。見て真似る程度の猿真似だよ」
「ありえない!!あの一瞬で、そんな事が可能な人間なんて───」
「───人間?」
一瞬、空気が冷えついていくのをアニマは感じ取る。しかしそれは瞬く間に融解していき、まるで諦めたように英雄ネヴ・スルミルは笑った。
「───僕は『英雄』だよ。グルーヴァー程の力もなく、アシャ程の知見も持たないが、唯一、何かを真似ることだけは得意でね」
呪術も考案したのはアシャであるが、それを信仰都市に普及させたのは英雄ネヴ・スルミルである。彼は彼女の手記や研究記録を元に呪術を完成させ、その力の格を一段階上げている。
それは従来の魔法とも、自身の魂を犠牲とすることで発動する呪法とも、また別種の呪術という新たな力の枠組みを形成し、信仰都市の繁栄に大いに貢献した。
そして、先の戦いで見せたアカツキによる時間の停止。世界そのものに干渉するほどの力を持った神器メモリアを所持するある男と戦った記録から、世界の時間という枠組みへの干渉を可能とするだけの術式をアマテラスの魂に封じられていた長い時間で考案、それをガルナの時空間魔法を目の当たりにしたことで世界の時間に数秒干渉する事が出来るだけの呪術を完成させた。
───グルーヴァが力、アシャが知恵であれは、英雄ネヴ・スルミルの強みは適応だ。
無から何かを生み出すことは出来ないが、元から在るものに即座に適応し、それを自身の手で調整し、数多の奇跡の再現を可能とするある種の到達点。
「―――父は一度も僕を人間とは呼ばなかった。英雄、不可能を可能にする稀代の傑物だと褒め称え、その眼下に転がる死体になど目もくれず研究に没頭した。神降ろしを行う為のありとあらゆる失敗を自身の手で成し、成功に繋がる唯一の道を僕に提示し、死んだんだ。僕が迷ってしまわないようにね」
最後にあの男は微笑んでいた。これまでの数多の非道など覚えても居ないのか、安堵したように。それを受け継ぎ、僕が神降ろしを為さねばいけない条件も揃えて、その行いを強制した。
あぁ、そうか。とアニマは悲しそうに眼を伏せる青年の姿を見て思い至る。
―――その才能を、誰よりも憎んでいたのは彼なのだ。
「...さて。語らいは終わりのようだ。彼が世界に放たれる前に僕達は止めなければいけない。その為に必要な事全てに僕は目を瞑る。―――だから君は、何も悲しまなくても良いんだよ、アニマ」
涙を流し、こちらを見つめる少女へ優しく話しかける。彼女の力の一端である他者との念話。種族の垣根を越えて行えるのであればそれは念話と言うより共感だろうか。
お互いが、お互いの考えを話さずとも理解できる。その奇跡のような事象を為す事が出来る彼女だからこそ、他者への共感能力が人より何倍も秀でているのだろう。
「僕の生まれはスルミル家では無かったけれど、その在り方は酷く似通っていた。何故ならば僕は妹がアマテラスの依り代となる為に自死した時、悲しくもあり―――安堵しても居たんだ。ようやく、神降ろしに必要なものが全て揃った、と。あれほどシズクを愛していながら、その最後に悲しんでやる事が出来なかった。あれほど父とは同じにならないと思っていながら、同じ道を歩むことを是とした最低な男なんだ」
晩年、満足したように死んだ男を僕は許せない。自身の意にそぐわない人間を信仰都市の為と排斥し、共に同じ道を歩んでいた同志すら手に掛けて、呪いの言葉を残し死んでいた最低の人間。
―――英雄はどこまでいっても英雄でしかないのだ。
「―――けど」
全てが無に帰してしまう前に、何もかもが台無しになってしまう前に僕は、僕達は彼を止めなければいけない。
英雄ネヴの頭上、虚空より現れた地獄の門。そこから手を伸ばして現れた存在に男はその手を取り微笑んだ。
「―――家族の問題は、僕達で何とかしなくちゃね。シズク」
そうして繋がれた両の手から溢れんばかりの泥が生まれ、周囲に在るもの全てをこの世のものでは無い泥が呑み込み、唯一そこから逃れることを許されたアニマの体が門を通じて外へ放り出される。
―――光の剣を携えた少女と相対するように腕に巻かれた包帯を解き、その背後に先程巨大な地獄の門を開き、そこから生まれ落ちる無数の腕を率いた少年。全ての因果が巡り、終わる瞬間に、私は立ち会った。