<穢れの生誕>
侵略者。突然現れたこの影を例えるならそれが一番正しいのだろう。
大昔に現れたこの男は自分の住む世界とは違う技術、違う世界の在り方と魔法というものに心を惹かれ、かつて自分の住んでいた世界のように自身の手中に収めようとしていた。
この世界とは違うどこか、言うところの異世界から人が来るのはそう珍しいことではない。だが、この男は異世界からの来訪者、その中で史上三人目となる自身の住む世界への帰還を果たしている。
数多ある別時空、世界のページから自分の住んでいた世界、それも数ある分岐した同一世界の中から探し出し、見事自分のもとより住んでいた世界へ帰還し―――。
――――――再びこの世界に訪れた。
彼がこの世界に訪れることになった理由は不明。その後どうやって世界の検問を通り抜けて元の世界へ帰還したかも不明だ。
だが、彼のことで分かっていることは幾つかある。
それを知るのは今や神器メモリアによる世界干渉の影響を受けなかった教会を統括する聖人達と大司教達位のものだろうが、彼が目を覚ました以上、彼のことを思い出す人間が出てきてもおかしくはないだろう。
曰く、彼は王であった。
曰く、彼は世界そのものであった。
曰く、彼は。――――――神であった。
何を言っているか分からない。そう言われても当然だ。だが、それを事実だと認めざるを得ない災いがあった。
―――今はもう記録からも抹消された忌まわしき過去。
世界意思により人々の記憶に止まっていてはいけないと認定され、神器メモリアを介して行われた何度目かの世界規模の記憶の修正によって隠蔽された事象をここに記録する。
そして。
―――この記録を見る私が現れないことを私は祈り続ける。
「......」
「ねぇ、...ナ。―――ガルナ!」
耳元で叫ぶ少女の声によって手帳に書きなぐられた文字の世界から現実へと引き戻されたガルナ。
「すまない。少し、考え事をしていた」
「考えるのはあんたの仕事だからね、別に怒りはしないよ。それに、アレをどうにかする方法があるとしたら、それはあんたくらいしか思い付かないでしょ」
現在、地獄の主ネヴ・スルミルの心臓を背後から突き刺した謎の影と戦うことになってしまったガルナ達は迫り来る驚異に対して何とか対処している。
「あの野郎、まだ本気じゃないって言ってるくせにバカみたいに強い。あたしの魔法は牽制くらいにかならないし、あのおっさんの攻撃も全部躱されてるし...。どうしたもんかな」
目の前で繰り広げられるのは一進一退の激しい攻防戦―――だったら良かったのだが現状弄ばれているという言葉が正しい。
「ほんと、未来でも見えてんのかってくらいこっちの攻撃全部躱されるし、あっちは特に何もしてこないし。何か他の狙いがあるってことでしょ?」
「あぁ。普通に考えればあの影の本体、封じられている真体が戻るまでの時間稼ぎだろうが、その条件を満たす為の何かがあるはずだ」
影はあくまでも肉体を持たない影でしかない。本体は別のどこかに封印され、今も尚魂を失い眠り続けている。封印から魂だけになり抜け出した彼は影を媒体に一時的に姿を現しているだけだ。
「あんたが言うならそうなんだろうけど、正直何をしたいのか分からないね」
あちらがまだ攻撃という攻撃をしてこない以上どれ程の驚異となり得るか不明だが、ここまで一度も攻撃を受けていない事実を前にしてガルナは他に目的があると判断し、徐々に戻りつつある影に対する手帳の記述を読み漁っている。
「その手帳さ。私から見たら白紙なんだけど本当に色々書かれてるの?」
「記録者でなければ見ることのできない代物だ。しっかりとした手順で引き継いでいればもっと上手く扱えたのだがな」
学院都市を出て、見知らぬ都市での戦いを経験してガルナは自分の実力不足を痛感している。時間と空間に干渉する魔法という、一見強く見える代物も魔力の消費量が莫大な為、長期的な戦い、それも連続的に起こる戦闘を前にして途中でガス欠を起こしてしまった。
かといって作戦や敵に関する情報の収集を上手く出来ているかと言われれば否だ。
今回の戦いで何度か致命的な判断の間違いをしてしまい、奇跡のような偶然が重なってこうして生きているが、本当ならば何回か死んでいてもおかしくはないのだ。
だが、それでもガルナは諦めなかった。どれだけ失敗しようと常に打開策を考え、今自身の持てる最善の答えを探しだしそれを実行してきた。
「どうしたどうした。そんな攻撃では私に触れられんぞ?」
「気持ち悪ぃ奴だ―――な!」
影との間合いを詰め肉弾戦に持ち込むもグルーヴァの拳擊は悉く回避され、呪力が形となって敵を焼く呪いの炎も効いているようには見えない。
「この程度の炎、無いも当然だろう?」
現にこうして、彼が進んだ先の炎は歩くだけで掻き消され、グルーヴァの拳から放たれた高密度の呪いの炎も影に到達する前に消滅してしまう。
「もっと打ち込んできたらどうだ?この程度で私を殺そうなど...」
余裕ぶる影目掛けて放たれた氷柱、グルーヴァに合わせるように魔法を発動させるが、それを影は必要最低限の行動で回避し、続くグルーヴァの拳を蹴りあげ、氷柱に隠れて接近し足蹴りを食らわせようとしたナナの足を掴み、地面に叩きつける。
「無茶すんじゃねぇ!!」
「無茶でもしなくちゃ―――やってらんないでしょ!!」
地面に叩きつけられたナナは地面に手を付け、直ぐ様次なる魔法を発動させる。
割れた地面を隆起させ影に向けて放ち、先端の尖った土の塊が左右と背後から迫らせるが、それを影はナナの足を手放し大きく跳躍することで回避する。
敢えて作り出した逃げ場、それを察したグルーヴァは回り込み空中で無防備になった影へ向けて溜めに溜めた呪いの炎を放とうとする。
「あたしのことは構わないで!!」
「――――――あぁ」
覚悟を決めたナナの顔を見て躊躇いなくグルーヴァは今の呪術では比較にならない程の威力を持った呪いの業火を拳から放つ。
英雄である彼等にしか扱えない、太古よりこの地に蓄えられてきた人々の想い。呪術と呼ばれるものが発明され、普及する際にそれらの想いを呪いと断定したことにより今は呪いと呼ばれているが、この力の源は本来人の願い、思念から生じた祝福と呼ぶべきものだ。
「―――ナナちゃん!!無事ですか...!?」
「何とか...ね。ありがと、ミミ」
白銀の毛並みをした狼に襟首を噛まれながら間一髪の所でグルーヴァの放った業火から回避したナナが命を救ってくれた狼を撫で、爆心地となった場所を睨む。
「これでも...駄目なんだ」
どうやって回避したかも分からない。だが、グルーヴァが放った渾身の一撃は彼を倒すことは愚か傷一つ付けられてはいないようだった。
「最後の英雄がこの程度。やはり始まりの英雄の劣化品だな、お前達は」
グルーヴァがちらりと視界の端でガルナを捉え、まだ何とか打開策を探っている様子を見てまだ時間を稼ぐ必要があると考え、次の行動に移ろうとする。
幸い、相手は本気でこちらを殺すつもりは無い。何が狙いかは分からないが時間を稼ぐ事が出来るのなら――――――。
そう、考えた瞬間だった。
「お前に期待した、私がバカだったな」
グルーヴァの右腕が宙に舞い、鮮やかな血飛沫を上げながら腕が切り飛ばされた断面が露になる。
宙を舞った右腕が地面に生々しい音を立てて落ちると、グルーヴァはようやく自身の腕が欠損した事に気付き。
「――――――ッ!!」
「どうした?反応することも出来なかったか」
相も変わらず余裕な態度の影を右腕を押さえながら凝視する。
何をした、何をされた。今の一瞬で何が――――――。
「時間稼ぎをしているのが自分達だけだと―――そう思ったのか?」
黒い影がニタリと笑い、赤い口が見えると背後からガルナの叫ぶ声が聞こえ。
「―――グルーヴァ、避けろ!!」
そこでようやく自分に攻撃をした存在に気づく。背後に立つどこか見覚えのある少年。
数十分前にあの影に胸を貫かれ、止めどなく溢れる暖かな血と低くなっていく体温。確かにその死を見届けた筈の―――。
「何で、てめぇが」
生きている。いいや、甦ったのだ。息を吹き返し、見るも無惨だった骨ばった肉体に戻る人間らしい色と。
―――かつて見た、少年だった頃のネヴ・スルミルの姿がそこにあった。
「間に合――――――えぇぇぇぇぇぇぇぇぇ!!」
迫る死からグルーヴァを逃がしたのは少女の突進だった。グルーヴァを横から抱きつき、そのままの勢いで地面に転がり込むナナが突如息を吹き返したネヴからグルーヴァ引き剥がし、間一髪のところで救助した。
「助けられちまったな。ありがとよ」
「いいって。それよりもあの子供って...」
「あぁ、忘れる訳ねぇよ。あの日、英雄ネヴ・スルミルと入れ替わりに消えた、ただのネヴ・スルミル。その時の姿だ」
ナナの疑惑が確信に変わり、同時にため息が漏れる。
「どうしよっか。正直、もうこっちも疲弊しきってる。まだ雫も助けなくちゃいけないのによりにもよって...」
まるで意思を持たない人形のようにグルーヴァの右腕を奪った幼い姿のネヴ・スルミルはゆっくりと振り返り、赤く染まる目と血に濡れた体躯で笑みを溢した。
「本来の姿を取り戻したか、ネヴ・スルミル。その姿こそお前に最も相応しい。運命の分岐点、それに立ち会った時の姿がな」
「...クレア、ミミとロロを連れて逃げる準備を。お前とナナを乗せて出来るだけ遠くに離れろ」
ガルナすら予想もしていなかったネヴ・スルミルの復活に事態が最悪の方へ向いていることを悟ったガルナは一時的に体制を立て直す為に二人を全力で逃がそうとする。
「でも、そうしたらガルナさんとあの人は...」
「足止めが必要だ。その為にはグルーヴァの力が必要不可欠、それに今後の事を考えれば奴に死んでもらっては困る。お前達が無事に逃げ切れたらあいつと空間を渡る」
グルーヴァは右腕を失ったとはいえ、この場で最も戦力になり彼の力無くしてこの状況を打破することは出来ず、ここで彼を死なせないためにはガルナが逃げ道を用意する必要がある。
「最悪の場合、グルーヴァのみを逃がし、これを使って俺が足止めに回る」
右腕の欠損はグルーヴァにとってもかなりの痛手だ。先程のような戦いが出来ず、窮地に追いやられた場合、その役目をガルナが引き受けなければいけない。
「本当に、その石を信じるんですか。私にはとてもではないですが、その観測者っていう方を信用することは出来ません」
「最悪の場合だ。使わないに越したことはないが、リスクの方が大きいとしても使わなざるを得ない状況はある」
アカツキが自身の体を省みずに神器を使用していたように、ガルナも覚悟を決めてまたあの闇に身を投じる必要があるということだ。
自分の事を観測者などとこの石に宿る何かは言っているが、彼を受け入れた人間の末路を知っているガルナにとってはあまり多用するのは控えたい。だがしかし、切羽詰まった時にそんなことを考えていることは出来ないだろう。
使うと判断したのならガルナは躊躇いなく使う。誰かを犠牲にするのではなく、自分だけを消費するのなら考える必要は無いだろう。
「......俺も、あまりアカツキには強く言えんな」
彼がこれまでに無理をしてきたのは学院都市での戦いを経て十二分に分かっている。他にもクレア達から聞いた話では農業都市ニフラムでも彼は相当な無茶をしていたらしい。
今回、それと同じ事をガルナはしようとしている。命を失うのは誰だって恐ろしい。だが、魔力の欠乏は命を奪うのではなく―――削るのだ。
実際にどれだけの命の残量が減るのか分からない。見えない形で削られていくからこそ、命を対価として払う人間に躊躇いは無くなる。
それがどれだけ恐ろしいことかも知らずに。
「―――あは、ははは」
今、目の前で少年の姿となって再び死の淵より甦ったこの男も命の価値を知らない。自身の望みのためならたとえ自分の命であろうと差し出す。
「てめぇ、ネヴに何をした」
「何、本来あるべき形に戻したんだ。カルヴァリア・スルミルは始まりの呪いだが、呪いの王ではない。私と契約したのだ、私と同じ王であり―――神でなくてはな」
「ふざけてんじゃ...ねぇぞ」
「ふざけていると思うか?お前は英雄の方のネヴ・スルミルから聞いているだろう。この男しか知らぬ神を救うために―――神を名乗ったことを」
英雄のネヴから話は聞いていた。名前と本来あるべき家族、本来帰るべき場所を奪われた彼が何をしていたのか。
―――自分達が見て見ぬふりをして、居ないものとして扱ったかつての友がどれだけ世界に絶望し、ようやく出来た理解者も奪われ、狂っていくしか無かったことを。
人の信仰無くして神は力を持たず、人に覚えられずして神は存在できず。
彼は唯一の理解者であるハデスと呼ばれる神を消滅させない為に近くの集落を襲い、そこで自身のことをハデスと名乗りながら人々を殺して回った。
「肉体を失い、寄る辺を失ったハデスの神核はその名を名乗ったこの男に宿り、分離した魂はこの男の信仰と認知によって私の創り出した世界の底に繋ぎ止められている。―――だから、戻してやったのだ。本来あるべき神核と魂をこの男の体にな」
雫が人の想いから生まれた祝福であるならば、この男は人の想いから生まれた呪いであり、彼もまた―――神に至る素質を持っている。
『ねぇ、ネヴ。本当に君はそれでいいの?』
聞こえてくる懐かしい声。今は深い眠りにつき、かつての記憶を思い出すことでしか聞くことの出来なかった少年の声。
『ハ...デス?』
『うん。僕だよ、ネヴ』
『やっと、やっと。―――俺はお前に...』
この声を聞くために、この少年とまた会うためにネヴはこれまで生きてきた。決して簡単な道程では無かった。数多の命を犠牲にし、恨まれて当然の非道を尽くして、遂に辿り着いた。―――辿り着いたのだ。
なのに。
『どうして、泣いているんだ?』
『悲しいからだよ。僕のせいで君は幸せを手放してしまった。出来損ないだと親から否定され、捨てられた時に君は運命から解放されていたんだ。もう、向き合わなくて良かったんだ。呪われた血筋も気にせずに、君は少しの傷だけ背負って全て忘れてしまって良かったんだ』
英雄のことも、スルミル家としてのことも、かつての友や妹を忘れて彼は幸せを得るべきだった。
『それは、逃げてるだけだ』
『逃げて...良かったんだよ。君は十分な程に傷ついたんだから』
『確かにあの男は自身の息子である俺を毎日のように殴り続け、出来損ないだと罵倒した。それでも、止めてくれる友が居たんだ。俺が出来ない分、自分達が強くなり、この都市に神を降ろせるくらいに強くなるって言ってくれた』
苦しいこともあった。けれど、嬉しいこともあった。友人と話す時、妹と遊ぶ時だけは幸せだった。
その幸せを一日の半分を虐げられ続けることで得られるならば、安いものだと思った。
『けど、彼等は君を追わなかった。親に捨てられ、寒さと孤独に耐える日々から君を救いだしてくれなかっただろう!』
『あの時はどうして誰も助けてくれないんだ、って思ったさ。けど、考えれば分かる話だろう?俺は何者にもなれない、英雄は愚か英雄を支えることすらも出来ない。そんな人間に―――価値はない。そんな人間を救う必要があるか?』
また、彼は自分を傷つける。何度も鋭利なナイフで心を突き刺して、自分を出来損ないだと決めつけて今も、既に壊れつつある心に傷をつけるのだ。
『僕は、君と会うべきじゃなかった。こんなことになるなら、君から逃げ出してしまうべきだったんだ』
『俺は、お前に会うべきだった。お前という存在さえ居てくれれば、もう他に何も要らない』
ネヴ・スルミルはその出会いを肯定し、ハデスはその出会いを否定する。
ネヴ・スルミルには幸せを得る権利があった。定められた運命の輪から蹴り落とされ、何者でもなくなったあの瞬間に彼は同時に自由を手に入れたのだ。
だが、彼は傷跡と後悔を忘れることなく背負い続けた。
いいや、傷跡に残された幸せの断片を切り離してしまうことが恐かったのだ。あの苦しみを忘れればその後にあった暖かな時間を忘れてしまうから。
かつての友と唯一の妹の訃報を知り、最早何の目的を持って生きていくのかを見失っていた時にまさに運命の出会いを果たした。
『消えそうな程に微弱な力と、世界に見捨てられ、人の居なくなった路地裏で泣いていたお前を見つけた時、どうしても救わなくてはと思った。神様がどうとか、そんなことは関係なくな。お前は―――俺と同じだったから。その苦しみを知る者として、お前と共に生きることを望んだ』
ハデスを救うのは彼の為でもあり、自分の為でもあった。
『あぁ、君には感謝している。誰からも必要とされなかった僕に幸せな時間をくれたから。けど、もう十分だ。僕は消えるべくして消える。これ以上、罪を重ねないでくれ』
『お前は消させない。お前は言ったな、俺には幸せになる権利があると。ならば、それはお前にもあるんだ。ほんの一時の生しか享受出来なかったお前はもっと祝福され、幸せに恵まれるべきだ』
『―――僕は犠牲の上に成り立つ幸せなんて要らない!!他者の幸せを踏みにじって生き延びるくらいなら死を選ぶ!』
ハデスはネヴの願いを正面から否定する。それがハデスの為だけの願いであったとしても間違っているから。彼を除いて誰からも望まれなかった出来損ないの神であっても、それを言い訳にして犠牲を正当なものにしようとも思わないからだ。
詰まるところ、彼はどこまでも神であった。確かに呪うことはあった。しかしそれは自分の事を必要としなかった人々ではなく、己の不運とここまで絶望を強いてくる運命を、だ。
だが、それを受け入れることを選んだのも確かだった。
『僕は友として君に頼む。―――どうか、諦めてくれ。辛いとしても、僕の分まで...』
生きてくれ。その願いを口にしようとしたハデスを遮ってネヴは叫ぶ。
『――――――嫌だ!!』
『―――――――――ッ』
そこに居たのは信仰都市を脅かした男でも、地獄の主なんてものでもなく――――――たった一人の少年だった。
『もう、一人にしないでくれ。僕の事を忘れないでくれよ!!皆居なくなったんだ。僕ばっかり残して、皆どこかに行ってしまった。苦しいんだ、辛いんだ。もう―――一人ぼっちは嫌なんだよ!!』
子供のような、否まさに子供となったネヴは大きな声を出して、涙を流しながら本当の気持ちを打ち明けた。
『痛いのも我慢するから、出来損ないでも精一杯頑張るから。もう、居なくならないで...。誰か―――助けてよ』
幸せがいつまでも続かないことは分かっている。そうだとしても、あまりにも早すぎるだろう。もっと一緒に居たかった。憧れだった二人の友を支え、大事な妹が大切な人に出会い、そのまま幸せな式を迎える瞬間に立ち会って、それを兄として近くから見ていたかった。
贅沢なのだろうか。当たり前に生きていればいつか迎えられていた未来を思いながら生きることは。だというのに、そんな幸せは叶わなかった。
未来にあったのは二人の友人を生け贄として妹の体に乗り移った神の姿と、その横で立つ自分と同じ名前を持った青年の姿だった。
『苦しいだろう。涙を流す程に悔しいだろう。―――助けてやろうか?』
『―――お前...!!』
少年ネヴの横に突如現れた影は助けを求める少年に手を伸ばし、甘言と共にニタリと笑った。
『お前は間違っていない。間違っているのはこの世界とそれを創り出した女神だ』
『ネヴ、そいつの言葉を聞いちゃ駄目だ!!まだ、今の君なら戻れるんだ!』
『ネヴ、今更立ち止まるのか。お前は決めたのだろう。何を犠牲にしてでもこの可哀想な子供を助けると。ならば、お前は踏みにじって進むべきだ。人間性も、己の命も――――――何よりも大事な存在の思いさえも踏みにじってな』
そうだ。今更何を立ち止まる必要がある。泣きわめいたところで何も変わらない。そんなのはこれまで生きてきて嫌になるほど思い知っただろう。
『僕は―――』
『行っちゃ駄目だ!!』
『無駄だ、愚かな神よ。たとえお前の声であっても今の奴にはもう何も聞こえまい』
あの少年はもう止まる術を持たない。唯一彼を止めれたハデスの声も届かない今、彼は最後まで進み続け―――至るのだ。
『この地に封じられた異界の神にして王、そんな君がどうしてそこまでネヴに拘るんだ!!ここに君の望むものは無かった筈だ!既に創生の女神に見捨てられているんだぞ!?』
『違うな。虚ろなる神よ。私が見ているのはあの男だけだ。魔法も魔力も、呪術も呪力も、聖法も神法も今はどうでもよい』
ゆらめく影は次第に色と形を取り戻していき、ただの影でしかなかった存在が明確な情報と形を持って、真体を得ようとしている。
『自身の望みの為にありとあらゆる犠牲を許容する自己中心的な考えと、自分は救われなくていいという自罰的な考え。更にはその望みの根底にある他者を救うという考え。どれが本物のネヴ・スルミルという男だろうか。その答えは全てだ!!どれもが本物の思いで、お前を救うためならばお前をも蔑ろに出来るという矛盾!素晴らしい、今までの私の人生がちっぽけなものに見えてくる程に美しく、汚らわしく、――――――尊い!!』
この男は狂っている。いいや、元より狂っていた。
その矛先が世界という規模から一人の人間に注がれただけで狂人の望みは変わっていない。自分のしたいことをする、その望みは変わってなど、いなかったのだ。
『あぁ、見ろ。本物の破滅が訪れる。祝福によって呼び出された柱などではなく、呪いによって呼び出された本物の柱が』
ネヴ・スルミルの精神世界の外。突如として現れ、そして消えた幼少期の姿となったネヴと謎の影。警戒をしながらその場から撤退しようとしていたガルナ達の前にそれは現れた。
「―――今度は何!?」
「バカな...あり得ない。既に一度観測され、吸収された筈だ」
それは世界創生の折、神が自身の定めた決まりを定着させる為に設置した装置。新たな誕生と、いずれ来る終わりの時にのみ一度だけ現れる巨大な柱。
「逃げんのは得策じゃねぇな。どっちにしろ、逃げ場なんてもんは存在しねぇらしい」
グルーヴァが睨み付けた先、立ち上る漆黒の柱の中で形を保っていられる少年の姿を見て、彼は大きくため息をついた。
「構えろよ、ナナにガルナ。アマテラスは何があってもその女だけは守っとけ」
「だから、何が起きてんのさ!?」
事情を知っているらしいガルナが口元を押さえ、柱から現れる何かを待っているが、何も知らないナナは現状を理解できずに居る。
「お前らも一回見てんだろ。この時代の巫女が柱に飲み込まれて、その後に起こったことと同じだろぉが」
「用意された柱は一つだけの筈だ...。だが、今起きている事を説明するには」
「記録者、考えんのはお前の仕事だけどよ。―――来るぞ」
膨大な質量と魔力とは似て非なる神に近きものを内包する力の奔流である終末の柱は再び姿を現し、あの時と同じように一人の人間と重なり、飲み込まれていく。
「―――――――――――――――!!」
そうして夜空をも塗りつぶす闇の柱が消え去ると同時に訪れた死の瞬間。ナナ、グルーヴァ、ガルナ、アマテラス、クレアの五人全員に一斉に襲い掛かったのは、柱から現れた青年の背から現れた触手による攻撃。
今までとは比べ物にならない速度で迫る触手は制御すらされていないのか街中を縦横無尽に駆け回り、触れた地面や民家を一秒足らずで形を持たない泥にしながら五人に迫る。
有り得ない速度で街を蹂躙した触手はガルナ達へ迫り、死を届けんとする。それを間一髪のところで防いだのはアマテラスが張った結界と、その結界が用意した三秒で近くの触手全てを焼き払ったグルーヴァだ。
『ネヴ...っ!!』
現実世界で我を忘れ、破壊の限りを尽くし、かつての友にまで手を掛けようとするネヴを見てハデスは悔しそうに手に力を込める。
『無駄だよ。もう既に手遅れだ。あの男は止まることを知らない。お前の願いを否定した瞬間に、あの男を止めるものは無くなった。あとはただ―――進んでいくだけだ』
体に久方ぶりの感覚が戻ってくる。モノクロだった色覚に色がもたらされ、世界に色が溢れていく。心臓の鼓動が始まり、呼吸が開始される。
『ハァ――――――。懐かしいなぁ、世界よ』
この時をどれだけ待ち焦がれたか誰も知るまい。忌まわしき英雄に封じられ、世界を掌握するという望みが断たれて幾千年。その間に新たな願いと出会うことになろうとは露にも思わなかった。
『さぁ、お前の創り出す景色を私に見せてくれ。お前の破滅的な矛盾が行き着く先にお前は何を考え、何を為し、どこまで至れるのか。―――深淵より、私はお前を見ているぞ』
かくして、世界の異物は実体を取り戻し、自分の意思で観測する側へと堕ちていく。誰の干渉も受けない代わりに、自分からも干渉することの出来ない場所へと向かうことを選んだ。
『......思い通りになるものか。異界の王よ、ネヴはお前の望むようなことにはならない』
『ほざいていろ。所詮、ネヴ・スルミルを神の座へと至らせる鍵にしかならん虚ろなる神であるお前には、あの男は救えん』
現実世界、そこで破壊衝動に身を任せて暴虐の限りを尽くすネヴと無数に迫る触手からガルナ達を守るために最大級の結界で持ちこたえるアマテラス。
「......っ」
一撃一撃が骨身に染み渡る痛みとなって結界を殴り付ける。それを既に何分も受けているアマテラスの表情が歪み、頬を汗が伝っていく。
「もう限界だ!!一度ここから撤退するぞ!」
「んなことしたら、命が削れるでしょ!?」
「そんなこと言っていられる状況ではない!!ここで全員死ぬか、一人の人間の命を削るか。考えるまでもないだろう!」
「あんたのそれは特殊魔法の中でも飛びっきり魔法消費量が激しい!!差し出す命の残量が幾らになるか想像もできてないくせに、そんな簡単に決めんな!!」
ガルナの扱う時空間魔法は特殊魔法と呼ばれる派生した魔法のようなものだ。特殊魔法などとは言っても別物であると言ってもいい。
その中でも空間、時間に干渉するという常外な事を可能にする時空間魔法はその驚異性、利便性は他の特殊魔法の中でも頭一つ抜けている。
そのデメリットとして用意されていたのが莫大な量の魔力消費、ただでさえ特殊魔法は基本的な魔法と比べて使用される魔力の量が多いというのに、それをも越える時空間魔法を命を削って発動するとなれば一体どれだけの命の残量を払えばいいのか。
「だが...」
「だが、じゃない!!弟を――――――ガブィナを助けるんでしょう!?下手したら転移した先で死ぬんだよ。それであいつを助けられなかったら、ここまで来た意味が無いでしょ!」
尽きぬ問答、二人の話に割って入るようにアマテラスが言葉を挟んだ。
「一つ、方法がある。お前達の言う魔法の発動に足りない魔力を補う命の消費、それを防ぐ方法が」
「...え。そんな方法があるの!?」
「あぁ。本来であればこのようなことしたくは無かったが背に腹は変えられんじゃろ」
そうしてアマテラスが提案したのは。
「ガルナ、私と一時的に契約しろ。雫との契約を切り、契約を解除することで私はお前と契約をする。そうすれば、足りない魔力の融通をしてやる」
「今、この状況でか?確かにあんまりしたくはねぇ方法だが、若ぇ奴の命が減るよりはマシか」
「その方法で生じる不都合やデメリットがあるのか」
一件、この状況を打開できる唯一にして最善の提案に見えるが、巫女との契約について多少知識がある英雄グルーヴァとその当事者であるアマテラスにはこの状況でのみ発生するデメリットを知っている。
「まず、薄らとではあるが雫との間にある契約をこちらから切るのだから、今まで把握できていた雫の位置が分からなくなる。勿論、契約を切られた側もそのことを知ることになるのだ、そこで移動をされたらどこに行ったのか分からなくなるじゃろう」
だが、それだけならば大分苦労はするが、ウルペースなどの手を借りてこの信仰都市を洗いざらい探すだけで見つかる筈だから問題は大して大きくない。
「それだけじゃねぇ。契約ってのはお互い、何もしてちゃいけねぇ。つまり―――アマテラスは現状を維持している結界を解いて。契約を結ぶ間、俺達でこの攻撃を防がねぇといけねぇんだ」
全方位から来る攻撃、それもアマテラスですらそう何分も耐えきれるものではない威力と質量、それらを三人と二匹でどうにかするにはあまりにも無謀だ。
結界という四方を囲んだ防御でなければとっくに彼等は死んでいるのだから。
「時間は、どれだけ耐えれば契約を結べる?」
「約一分だ。どうにかなると思うか?」
状況は今尚劣勢かつ、絶望的。それでも、僅かに可能性があり、―――希望があるのならば。
「――――――どうにかしなきゃでしょ」
「―――良い答えじゃねぇか。そうだ、どうにかすんのが俺達の仕事だ。無茶でも何でも、やってやるよ」
「だから、ガルナ。―――お願いね」
どれだけ事態が緊迫していても、直ぐそこに死が迫っていてもナナは笑う。たとえ強がりでも、表面だけの薄っぺらいものでも、己と周りを鼓舞するために笑うのだ。
「あぁ。頼むぞ、ナナ」
「任せなって。よし、それじゃあ一分以内に作戦会議だ。アマテラス、まだ持つよね?」
「最低5分は持つじゃろう。もし、新たな攻撃や精神干渉があってもお前らを守り抜こう」
誰もまだ諦めてはいない。それぞれが、それぞれに出来る事をしてこの絶望を乗り越えようとするのだ。
『愚かだな。愚策極まりない。それもこの状況で契約などと―――笑わせてくれる』
『あぁ、そうだろう。お前は自分に興味の無い人間には何も期待しない。そういう風に生きてきたのだから』
その甘い考えに一度身を封じられて尚、彼は変わることを選ばなかった。その絶対的な自信を持つのは、絶対的な力を持つ証拠であり、彼が一度は世界を滅ぼしかけたという事実の上に成り立っているものだからだ。
「作戦内容は至って簡単だが、難易度は折り紙つきだ。俺とアマテラスが契約を結ぶ間、ナナとグルーヴァが主に防衛を担当し、クレアとミミとロロはその場で待機が最適解だろう」
「いいや、クレアも防衛に入れるべきじゃろう。ネヴから何かを受け取っているのではないか?」
「そんなに大したものじゃない、あくまでも護身術程度だと思ってくれって...」
「それでいい。それが英雄の言う護身術程度なのだからな」
仮にも英雄ネヴ・スルミルから譲り受けた力の一端、それも一度は奇跡は為し得たクレアなのだから、心配することはない。
「どれ、何を教わったか言ってみろ」
クレアとアマテラスが呪術の擦り合わせを行う横でナナが右腕を欠損したグルーヴァを見上げ。
「それ、本当に大丈夫?アマテラスに治して貰えないの」
「時間がねぇしな。それに、力の大半を巫女に移譲してんだ。もう昔のような治癒能力は持ってねぇだろうさ。それに、無くなったもんはしょうがねぇ、それが普通ってもんだろ?」
「―――そう、だね。失ったものは普通、戻らないんだった。アオバとかアマテラス見てて、感覚狂っちゃってたのかな」
「......」
どこか達観したように、諦めがついているかのように呟くナナ、それを無言で見つめ、グルーヴァは目を閉じる。
「―――それは俺の役目じゃねぇからな」
「...え?なんか言った?」
小さな声で独り言を言ったグルーヴァにナナが質問するが「ま、お互い死なねぇように死に物狂いで頑張ろうぜ」と盛大に質問を無視されてグルーヴァが持ち場につく。
「成る程な。お主がここで消費していい呪術は結界と炎刃じゃろうな、結界を張れる範囲は人一人分、それが2つまで。炎刃はお前を中心として半径10メートル以内の敵と認識したもののみを焼き切る。間違っても仲間を敵と誤認するなよ。乱戦になるのだからな、それを使うときは早急かつ、冷静にじゃ」
「わ、分かりました。頑張ります!」
「最後に、天雷を使う局面は自分で選べ。だが、そう簡単に使っていいようなものでは無いとだけ、言わせて貰うぞ」
「自分で...ですか」
「何、使い道は幾らでもある。常に先を見据えて考えるのじゃ」
約三分に及ぶ短い作戦会議、それが終わりナナが前面と右を、グルーヴァが後ろと左を主に守り、クレアが戦況を見てどちらかの助太刀をする。
彼等に囲まれながらガルナとアマテラスは契約を結び、完了した後にここから離脱する。それが唯一の策にして、最後の希望となる。
「では、結界を解くぞ。私のカウントダウンをよく聞いておれ、結界の解除と同時に奴等は命を奪いに来るぞ」
今も尚結界に膨大な数の触手が激突し、その衝撃が結界の内側にまで響き渡り、その攻撃がどれだけ致命的で絶対的な死をもたらすものだと思い知らされる。
「10」
だが、ここで怯えていても何も変えられない。
「9」
時間が過ぎればどうせ死ぬ命、ならば少しでも可能性のある選択をするのがきっと最善なのだろう。
「8」
まさか、アカツキの体を蝕んでいた謎の魔力を巫女の力を借りて治してもらうだけだと思っていたのに、一つの都市を救うなんていう大役を任せられるとは夢にも思わなかった。
「7」
手帳を見る。やはり、そこにはアカツキ達の名前なんて書かれていない。
「6」
未来、過去、現在を記した手帳。代々記録家が継いできたそれに書かれる筈の未来は少しずつ少なくなっている。
「5」
その手帳に未来が書き写される対象はかつてはクラスメイト、今は仲間である彼等、身近な人間のみだ。
ガルナが知らぬ人物の未来を知ることは出来ず、その人間を知っているからこそ未来を知ることができ、今まで上手く立ち回ってこられた。
「4」
せめて周りに居る人達だけは守りたいと、そう思っていた。
「3」
だが、次第に手帳は何も写さなくなる。学院都市で友が怒りの狂気に飲み込まれ、弟が呪われた血によってその命を蝕まれる事になった。
「2」
自分を取り巻く世界は変わりつつある。今まで保ってきたバランスが崩れ始めて、少しずつ未来というものが不鮮明になっていく。
「1」
しかし、分からないからこそ今を懸命に生き抜き、最善の未来を得ようと努力する。
―――それこそが、本来あるべき形であった。
そう、気付くのに少しだけ時間がかかってしまった。
「0」
ガルナ達を取り巻く結界が音もなく消失し、死をもたらす暴虐が迫る。ここで殺される可能性の方が高い筈だというのに、彼等は一寸の光明を掴み取る為に抗う。