<潰えた願い>
長い、長い時を生きてきた。
その間に何百、何千、何万もの人々を不幸にし、その命を奪ってきた。地獄に魂と呪いが蓄積すればするほど自身の力を増大させることに繋がるのだから、その命を奪うことに躊躇いは無かった。
ハデスが消えたあの日から彼以外の命など眼中にはない。ただひたすらにあの子を取り戻す為に非道の限りを尽くしてきたのだ。
あの日から年を取ることの無くなった体は人間にとって有限であった時間を永遠のものへと変えてくれた。
それが最後にハデスが残してくれた祝福であり、ハデスが居たということを証明してくれるものであった。
今も地獄の底で無数の魂に囲まれながら眠り続けているハデスを甦らせる方法を幾つか模索してきた。
人に信仰され、覚えられていることが神という存在を確立させるのだから、人に信仰されるということは抜きにしてまずは恐怖の象徴として教え込ませることにした。
その方法として幾つかの村の住人の半分以上を殺し、ハデスという名前を知らしめたのだ。
この都市の信仰対象がアマテラスただ一柱である以上、その信仰心を奪うことは不可能だと判断しての行為だった。
信仰心を奪えぬのなら覚え込ませればいい、そうすれば誰もハデスを忘れることは無くなる。そんな甘い考えをぶっ壊すように現れた英雄とアマテラスという神から命からがら逃げ出したのを今でも覚えている。
結局のところハデスを覚える人間が増えることで存在が僅かに確立しても神核を取り戻すことは不可能だった。
それにアマテラスという存在は当時の人間にとってはありとあらゆる希望の象徴であり、ハデスの名前など直ぐ様上書きされ、1ヶ月もする頃にはアマテラス様、アマテラス様と狂気的な信仰を取り戻し、1ヶ月前に村を襲った悲劇など忘れ去っていた。
彼等は悲劇に対して麻痺していた。長らく続いた厄災で身内が死ぬことなど当たり前で、自分達さえ生きていたのならそれでいいという考えが当たり前だったからだ。
だが、それ以上にネヴ・スルミルの名前を受け継いだあの男の政策が人々を狂気の信仰に駆り立てていた。絶対的な権力の誇示としてアマテラスを使った外敵の排除と新しく生まれた祭司という役割による反逆の芽を摘み取る粛清。
それはやがて彼等を従順な信徒に変え、一時は不必要な事を考えぬ人形にさせたのだ。
だが、それもある日起こった革命により人々に正常な考えを取り戻させ、ネヴという男の統治が悪辣で歪なものだと知らしめた。
従う者には何ももたらさず信仰だけを強いる、従わぬ者、少しでも政策に歯向かうものなら見せしめとして民の前で粛清として処刑を行った。
しかし、当時の信仰都市は僅か三年で食料問題、厄災と、それによって生じていた土地の汚染という問題を解決させ、人々に住居と仕事を与え、目に見える速度で文化とよばれるものを築いて行った。
それだけではなく、ネヴ・スルミルは英雄として迫り来る外敵、教会の人間を殲滅し、一定の層の支持は確保していた。
やがて民が離れていくのを見ると彼は次に力を持って人々を従わせた。まず反対派の代表格を処刑し、それでも衰えぬ反対派が住む村を焼き払うなどしてその冷酷さを人々に知らしめた。
あの男が非道であれば非道であればあるほどアマテラスという神の信仰と信頼は強くなっていた。
人の心を持たぬ悪魔のごとき祭司と言われるネヴ・スルミルとまさに人々を導く神に相応しきアマテラス。対の存在は片方が邪悪であればあるほど、もう片方の行う善い行いは際立つ。
あの男は強かった。心が弱くとも最後までただ純粋に目的を果たすために全てを犠牲にした。
だから、その姿を見て敵わないと思った。力もそうだが、ネヴ・スルミルという名前を奪ったあの男は自分よりも全てにおいて優れていた。
知識も力も、ありとあらゆるものがあの男の劣化品。そんな人間では出来ることなどたかが知れている。
あの男の作り上げた都市では英雄ネヴ・スルミル亡き後もハデスを甦らせるなど到底不可能だと悟り名も無き青年はまだ開発の及んでいない土地をただ歩き続けた。
何も出来ないと知っていても、八方塞がりでどうしようもないと分かっていても足は止まらなかった。老いは克服できても空腹は当たり前のように訪れる。
だが、喉を通るのは水ばかり。食事という行為すら忘れてただただ歩き続ける。
―――そうして、幾何かの月日が流れた頃。彼はある存在と邂逅する。
丁度、英雄ネヴ・スルミルが病によって表舞台から身を潜めた頃だ。
アマテラスの行っていた土地を侵していた呪いの浄化が唯一及んでいなかった都市の最南端で絶対的な存在感を放つ影と出会った。
影としか表現できないのはその存在の体が漆黒に塗りつぶされていたから、影と呼んでいる。
『ほう。人であれば住むことはおろか立ち入るだけで狂い死ぬ土地に人の身で訪れるとは...いや、その体は。クク、そういうことか。道理で生きていられる訳だ』
顔も黒に塗りつぶされ表情が見えない以上、確信を持って言える訳ではないがその影はきっと喜んでいたのだろう。
『―――何か、願いはあるか?』
『は...?』
『何でもよい。言ってみるがいい。願いを叶えてやるとはこの身では言えんが、願いを叶える為の手段くらいなら用意してやらんこともないぞ?』
正直な話、何を言っているか最初は理解できなかった。
影のように実体を持たないそれは突然願いを聞いてくるが否やそれを叶えることが出来るかもしれないと言っていたのだ。
『金か?名誉か?地位か?女か?国か?それとも―――もう会うことの出来ぬ存在を甦らせたいか?』
『......!!』
『そうかそうか。誰か、甦らせたい者が居るのか。言ってみよ。愛人か、家族か。それ以外か、何でもいいぞ?』
信じるべきではない。何も素性を知らない正体不明の存在の虚言だと思うのが当然だ。利用されるだけだ。
『もし』
だが。
『―――神を甦らせたいと、言ったら?』
幾ら下劣な方法であっても関係ない。この体が滅びるのならそれでいい、この体を差し出すことで取り戻せるのなら易いものだ。
『あぁ、出来るとも。私と契約を結べばその願いは叶うだろう』
『契約...?』
『何、契約と言ってもこちらからお前に求めることは何もない。その神とやらを復活させる為に私の望みは達成されるのだからな。お前は何の気兼ねなくただ純粋に、人間らしく自身の欲望に従っておればいい』
これ以上ない条件だった。対価を何も差し出さずに願いを叶えられるなど、都合のいい話どころではない。
『本当に、何もないのか』
『勿論だとも。私の願いは終末の柱を呼び出すこと。お前が目的を達成しておれば私の願いも自ずと叶っているだろう。何せ、お前はこの都市の人間を全て殺さなければいけないのだからな』
『全ての人間を...殺す』
『そうとも。アマテラスという神を信仰する人間が居るからこそ、アマテラスは神であり続けられる。ならばアマテラスを信仰する人間が誰一人居なくなればアマテラスは神ではなくなる。そうなればこの都市の神は唯一信仰の出来るお前が信仰する神になり、存在を確立させ、神核を確固たるものに変えるだろう』
信仰こそが神を神たらしめる。信仰を失った神はただの置物であり、いずれは世界から消えていく。―――あの子のように。
『その為にお前には一つの世界をくれてやろう。随分前に作ったものの一つだが、地獄という場所だ。あの英雄と教会の狂信者共に研究を邪魔されたが一応形にはしてある』
『それを手に入れたらこの都市の人間を一人残らず殺せるのか』
『時間はかかるぞ。カルヴァリア・スルミルの残した災厄により生じた空間の亀裂から創り出した場所が地獄と呼ばれる一つの世界だ。ここに人の呪いを蓄えることがお前の力を増大させることに繋がるのだからな』
生憎とこの体ならば時間に制限はなかった。ゆっくりと、気の遠くなるような年月を経て、ハデスを甦らせることが出来るのならそれでいい。
『力を手にしろ。その為に人を蹴落とし、不幸のどん底に叩き落とし、全てを奪い自分のものにするのだ。そうすることでお前の願いは――――――叶うだろう』
影は笑う。まるで結果が分かりきっているかのように。自分の目的が叶うことを確信して。
『詳しいことは中に入れば分かる。力の使い方も、化物の飼い方もな』
―――そうして得たのがこの力だ。
絶対だったはずだ。誰も手出しの出来ない場所にあり、何百という年月で蓄えられた力がたかが人間ごときに奪われるなど思ってもいなかった。
「もう何にも出来ないだろ、ネヴ。その体でまだ何をしようってんだ」
立ち上がった男の纏うローブの隙間から覗く骨と皮だけのあまりにも痛々しい体を見てグルーヴァは眉間に皺を寄せて無理解を示す。
「止まる、ものか。ここまで来て、諦められる筈がない!!」
「終わりなんだよ!立つのもやっとなその体で何が出来るってんだ!!」
何が出来なくても、何も出来なくても、たとえ無意味だとしても進み続ける。唯一の望みを叶える為に。
「終わりだと言うのならお前の手で殺してみろ。それで全てが終わる。お前達の勝ちだ」
「......っ」
「どうした、俺はこれまで数え切れない程の人間を虐殺し、悲劇を積み重ねてきた外道だ。何を躊躇う必要がある」
「んなこと、俺らが望むわけ――――――」
小さな、本当に小さな音がした。
唯一残された骨と皮だけの肉体を突き破っていく終わりの音。――――――人の死を告げる音だ。
「......は?」
「―――クハ。どうした?その腑抜けた面は英雄らしくもない」
「――――――てめぇ!!」
怒りに任せて飛びかかるグルーヴァを避ける為にネヴの心臓を貫いた手を引き抜き、突如現れた影は大きく後退する。
「ネヴ、おいネヴ!!」
ネヴの下へ駆け寄ったグルーヴァは止めどなく溢れる血を何とか止めようと必死に押さえるが、その努力も虚しくネヴの呼吸は次第に小さくなっていく。
「―――やはり甘いな。敵を目前にして目を離すなど」
グルーヴァの横へいつの間にか現れた影はその手を振りかざし、今度はグルーヴァの命を絶たんとする。
だが。
「――――――やらせない」
その凶手が迫る影を横から勢いよく蹴り捨て、ナナがグルーヴァを間一髪のところで救出する。次いで駆け寄るクレアとガルナとアマテラスが突然の事態の対処に当たる。
「ナナ、引き続きあの男から目を離すな。アマテラスはクレアを頼む。英雄、お前は早く立て」
「こいつを助けるのは」
「不可能だ。この場にそいつを治せる奴は居ない。それよりも目の前のあいつをどうにかするのが先決だ」
グルーヴァ無しでこの事態を切り抜けるのは不可能だと判断したガルナは勿体ぶった言い方をせず、無理だと断じた。
ガルナは魔力の枯渇で戦闘に参加するのは不可能。クレアは元々戦う術を持たず、まだ戦えるのはナナと力の殆どを失ったアマテラス、そしてこの中で最も戦力となるグルーヴァであり、この三人でどうにかしなければいけないのだ。
「よくやった、名を奪われた復讐者よ。貴様の存在があったからこそ祭司は終末の柱を呼び出し、遂に私の封印が解かれた」
歓喜に酔いしれた声で影はニタリと不気味に笑い、赤い口が大きく開かれ、空へ手を掲げた。
「―――忌々しい初代の英雄により封じられた我が肉体は遂に永き時を経て、再びこの世界に降り立とう。何も知らなかった愚かな人間どもよ。この都市が何たるかを最後まで知り得なかった愚かな巫女よ!!」
影の見上げた先、夜の空で瞬いていた星々がその輝きを失い、月のみを残して空からありとあらゆる光が消える。
それは異変の中心である信仰都市だけに留まらず、あろうことか信仰都市の外からも観測された。
創生の女神が見捨てた信仰都市、そこで何が起ころうと残りの都市に影響を及ぼすことは無かった筈だ。
だが、今この事態は信仰都市だけでなく、世界そのものの驚異になり得る。
この影が何なのかを誰も知らないのは当然であり、そうであるように仕組んだ組織がある。
―――世界に残してはいけない。そこに住まう者であれ、決して気づいてはいけない存在だからこそ世界そのものに干渉し、その存在を完全に抹消せんとした。
ならば、世界というものに干渉し、情報の抹消を謀ってまで隠蔽しようとした危険な存在を封印だけで止めておいたのか。その存在ごと無かったものとして消滅させなかったのか。
そんなのは簡単だ。
「―――ほら、言ったでしょう。忠告はしましたよ。記録の完全な抹消は出来ても彼という存在を滅ぼさなければ驚異は再び再来すると」
同時刻、教会本部最下層にて話し合いを行う者達が居た。
大司教と教会の創設者達に関係のある者しか立ち入ることを許されない大聖堂、そこに集うのは黒いベール越しに椅子に座る五人の老人と、世界で13しか存在しない神器の一つを持つ男だ。
まるで自分達が何よりも優れていると誇示するように設計された造りの大聖堂でネクサルは大きくため息をつく。
彼等が座る椅子が用意されているのは大司教達からすれば見上げなければいけない位の上部にあり、大司教に座る場所は用意されておらず、明らかに自分達以外の人間を下に見ている。
「大司教ごときが口答えをするな。貴様らはただ我等の言うことに従っておればいいのだ」
「お言葉ですが、今回ばかりは私のメモリアを持ってしても情報の統制を行うのは不可能ですよ。この時代で彼を封じる事の出来る人間は居ません。あれを封じることは出来たのは一重に彼の協力があったからであり...」
「そもそも、背信者と手を組むこと事態有り得ないのだ!!貴様はあろうことか信仰都市の英雄とやらと手を組んだのだぞ!」
この男の言い分が弁明や苦し紛れの言い訳ではない真実だからこそ、この老人達は更に声を荒げる。誰から見ても明確な世界の敵を排除するのではなく、封印するという形でしか対処できなかったこと、背信者の力を借りることでしかどうにか出来ないと知っていても尚彼等は選択をすることを躊躇ってきた。
それが教会の権威を維持し続ける為に仕方のないことだ、という建前を使っただけの保身に過ぎず、結局の所は我が身可愛さ故の沈黙である。
何故侵略者に対して何の手立ても用意せず、椅子の上で思考を放棄しているのかネクサルは理解できなかった。
だが、仮にもこの教会を統括する者達だ。人々を安寧に導き、世界に秩序と平穏をもたらすには彼等無くして成立しない。
「許可は頂きましたよ。今は席をお空けになっているようですが、創設者の子孫であり我等が神より信託を賜る聖人である、あなた方の一人に」
「あの男が決めたということが問題なのだ!!聖人とは名ばかりの裏切り者の考えることだ、どうせロクなことにならん!」
余程ここには居ない聖人の一人が嫌いなのか、老人は声を大にして叫んでいる。彼の素性を知る彼等からすれば確かに、今は空席になっている椅子に座る彼を否定しなければならないのだ。
「では、どうしますか。今度こそ私ではなくあなた方が決める番です」
「...何もしないとも。我等が考える必要も動く必要もない」
「―――それは、どういった理由で?」
ネクサルはどのタイミングでも神器を使用できるように準備をしておきながら、彼等へ理由を問う。返答次第では彼等と対立することになっても構わない。
彼等が本気で自己の保身の為に何もしないと言うのなら、元々飾りである聖人の命など不要。
そんなことを知りもしない彼等はまるでネクサルを嘲笑うかのように言った。
「―――警鐘が鳴ったか?奴が世界を滅ぼさんとするのなら世界意思により、全都市に音が響き渡る筈だ。それどころか我等に神は何も言わない。つまり、今の奴は世界の驚異にはなり得ない」
「それは現段階では、でしょう。彼はおそらく力を蓄えた後にこの世界を奪わんとする。今は驚異にならなくとも将来的には世界に混沌をもたらすのは明白だ」
「――――――お前は、我等が神の御意志を否定するのか?」
神は信託を下さなかった。それはつまり今ここで動く必要は無いということだ。そう判断し、聖人達はまたもや選択から逃げ出した。
腐敗しているのは知っていた。奴等が何もしようとしないことも。
「それよりも今はやるべきことがあるだろう。何故奴の封印が解かれたのか調べろ。そして速やかに我等に報告するのだ」
「―――かしこまりました。それが神の御意志であれば」
だが、神はそんな彼等に天罰を下さない。彼等が聖人であり、神より信託を賜り続ける以上、ネクサルは彼等に従い続ける。
大聖堂を後にしたネクサルが暗い廊下を一人で歩いていると、何もない暗闇から彼に語りかける声があった。
「相変わらず狂気的な信仰心だね。彼等が詭弁を弄しているのは明白だというのに、神が天罰を下さないから彼等を裁くことはしない」
「彼等が神の名を語り続ける以上私は従い続けますよ。それが偽りであっても、私という人間は神の為に動き続ける」
「そうかい。愚かなことだ。僕には君が一生理解できそうにないよ」
「理解も同意も得るつもりはありませんよ。私という人間を理解出来るのは私だけです。それ以外の人間に理解など―――されたくもない」
彼は紛れもない破綻者だ。思考も人間としての感受性も全てが狂っている。だからこそ、―――面白い。
「さて、それじゃあ僕は何をすればいい。君の手伝いをするのが僕、ナゼッタ・カルナイサの役目だ」
「...アカツキ達に関する情報を出来る限り集めて下さい。それと、信仰都市に飛ばしている機械で雫とネヴ・スルミル、アカツキとリアの映像を撮っていて下さい」
「分かったよ。それじゃあ通話を切るから残ったロボットは壊しておいてくれ」
ナゼッタからの通信が途切れ点灯していた光が消えるのを確認するとネクサルはその小型ロボットを手に取り、物言わぬ顔で握り潰す。
手の上で粉々になったロボットを水晶で覆い、痕跡の残らぬよう念入りに空中で爆発させ、それっきり何も話さずに地上へ向かう。