<英雄達>
止めどなく続く炎と泥の激突、その光景はまさに世界の終わりに相応しく、炎が泥を包み消滅させたかと思えば、その炎が新たに溢れだした泥に飲み込まれを繰り返す。
誰が地獄と名付けたか知らないが死んだ人間の魂を捕らえ、負の感情を蓄積させてきた異空間に存在するこの泥は触れた生者を狂乱に堕とす人の心が生み出した呪いの一つだ。
それを真正面から迎え撃つのも呪術と名付けられる以前から存在した一つの力、呪いと呼ぶのも間違いないだろうが、英雄が人を守る為に行使することから、祝福と呼ぶ方が正しいだろう。
この都市では蓄積された人の願い、感情、心を消費していくことで魔力とも違う、独自の力を生み出した。だが、力の根幹が同じであるものの、それを人を脅かす為に使うのか、人を守る為に使うかで呪いか祝福かが決まると言っていい。
「こんなもので俺が今まで積み上げてきたものを崩せると思うか。所詮は寄り代を使っているだけのお前らではかつてのように無尽蔵の呪力を持っている訳ではあるまい」
「寄り代がどうした。俺が譲り受けたこの体の持ち主は誰よりも気高い英雄だった。己が犯した罪を償えるならと、言っていたが、死ぬってのはそんなもんで受け入れらるもんじゃねぇ!!」
この体の持ち主は先代の巫女であるレイが生きていた当時からウルペースの一員であり、巫女継承の儀式に参加した人間のものだ。
雫に母であるレイの血肉を捩じ込み、そうすることでしかこの都市が存続することは出来ぬと心を鬼にし、巫女継承の儀式の後にダオと共に隠された真実を暴いた者達の一人。
あの一件で女と男、二人を残して自死の道を選んだ同胞を想いながらこの都市の歪な歴史と正しいものを探求し、最後には英雄の寄り代になることを望んだ誰よりも辛い道を歩んだ勇敢な人間達だ。
「てめぇが勝手に作り出した有りもしねぇ儀式で生み出されてきた犠牲者の一人であり、俺よりも強ぇ奴の体で負けるようなことがあって...たまるかよ!!」
男の感情と共に爆発する紫色の極炎と衝撃波がネヴの体を僅かに焼き、周囲の泥を一気に消滅させた。
だが、泥の消失を確認したネヴが次に呼び出したのは新たな厄災、見たものを地獄へ引きずり落とす巨大な瞳がグルーヴァの目の前に現れ、その虚ろな瞳で目の前の人間を観測する。
「そんなもんで俺達を止めれる訳ねぇだろうが」
巨大な虚ろなる瞳は男を捉え、魂を地の底へ叩き落とさんとするが、男を認識することは出来ても、瞳は鈍く光るだけで何も異変が起きない。
「俺の魂を連れていこうってか。やれるもんなら、やってみろや」
地獄の瞳は男を引きずり落とす為に何度もその目を点滅させるが、魂は肉体に強く結びつき、何度目かの干渉でようやくその魂を表面に引っ張り出すことに成功する。
―――だが。
奥底から引きずり出された男の魂はあまりにも巨大だった。その大きな肉体の何倍もある魂を連れていくことなど、かつての厄災の中でも人によって祓われたその瞳には不可能だった。
瞳は男の魂を誰の目にも認識出来るようにしただけで、限界に達し、ひび割れ崩れ落ちていく。
「何だよ。俺の魂を見ただけでぶっ壊れちまったじゃねぇか」
「仮初めの肉体であるというのに、その結び付きは異常だ。相性とかそういう次元ではないな。かつての肉体と同等と言っていい」
「英雄の魂が宿った時点でその肉体も英雄の肉体になる、だったか。俺には理屈は分かんねぇが、そういうことらしいぜ」
「魂を固着させた際に体の再構成も行われたか。英雄の魂を一瞬であれ降ろした事に変わりはないが、その負荷によく体が粉微塵にならなかったな」
英雄の魂のスケールは規格外だ。並大抵の肉体では降ろすに足りず、アマテラスが英雄ネヴ・スルミルを甦らせる時に肉体が存在しないことで、エラーが生じたのもそれが理由である。
英雄ネヴ・スルミルの骸は現在、地獄の主であるこの男に取り込まれ人器と共にかつての肉体を再現されている。だからこそ、ダオは命懸けでこの男を生命の檻へ道連れにしたのだが、そこに連れていかれたのは人器で記憶を消去し、泥で擬態させたウルペースの一員だった。一時的に魂と体を切り離すことに躊躇いもあったが、それ程のリスクを冒さなければダオという男を上回ることが出来なかったのも、また事実である。
魂を降ろすための寄り代が無いならば、今回のように他者の体に降ろせばいいと思うだろうが、普通の肉体では英雄の魂が降りた直後に破裂、または跡形もなく弾け飛ぶなどして肉体の再構成が行われなくなる。
肉体が英雄のものへ再構成されるまでの間、その莫大な負荷に耐えることはたとえウルペースに所属し、鍛えてきた彼等と言えどもまず不可能だった。
「だがな。こいつらは違った。何度も絶望と苦悩を乗り越え、お前に一矢報いる為に常人では考えられない呪いと向き合った。その結果魂の成長と共に肉体も強化された。お前を倒したい一心でな」
男の口調が次第に熱を帯びていき、辺りを燃やし続ける紫色の炎は更に勢いを増していく。
「...相変わらず出鱈目な力だな。自身が有利になる異空間を創りつつあるか」
炎が囲む空間は次第に移ろい始め、現実味のない歪んだ空間が広がっていく。本来ならば存在しない男の心を具現化したかのような異空間に繋がっていく。
「これは俺達の怒り。この都市で犠牲になってきた者達の怒りの具象化だ。てめぇをぶっ倒す為に力を貸してくれてんだよ」
炎にくべられる薪は人々の呪いと希望だ。今まさにこの都市に生きる人間達を守ろうとする過去に死んだ者達の魂が呪いをグルーヴァに託した。
「この都市を守る為に呪いは強さを増していく。このきっかけを作ったのはお前だぜ、クレア。聞いた話じゃ一番鈍くせぇ奴だと思ったが―――最高な女じゃねぇか。生きてた頃だったら間違いなく抱いてたな」
「おいあんた!うちのクレアにそういう下品なネタ使うな!!」
ナナの問いただす声に「ああーうるせぇうるせぇ」と言いながら聞き流す男は「だが」と言葉を続ける。
「───それも無理な話か。俺の入り込む余地なんてねぇくらいに好きな奴が居るんだろ?」
「...............」
男の言葉に照れぎみに押し黙るクレアを見て、男は愉快そうに笑う。
「はっはっは。わりぃわりぃ。もしかして隠してたか?つっても他の奴等も気付いてると思うけどな」
「グルーヴァ、ふざけてる暇があるなら構えなさい。彼がいつまでも黙っている筈がない」
アシャから少しだけ強めに言われ、グルーヴァは笑みを戻さないまま、ネヴの方へと向き直った。
「わりぃな、ネヴ。待ってもらってよ」
「は、隙だらけの振りをして誘っていたというのによく言う。その会話も、隙に見える動作に騙されて死んだ奴等を知っているぞ」
「何だよ。ならもう少し話してても良かったじゃ...」
「グルーヴァ」
アシャの鋭い目に睨まれ「冗談だよ。怒んなって」と諌める男の姿は遠くから見てもどこか板に付いたやり取りに見えるが、そんな少しだけ情けない姿とは裏腹に世界は次第に業火に包まれ、ネヴは厄介そうに目を鋭くさせる。
「鬱陶しい炎だ」
「お前だけを焼き焦がす怨嗟の炎だぜ?こいつらの気持ち、きっちりと受け止めてくれや」
「呪術の元素にしかならない既に死んだ人間の心など、受け取りたくもない」
泥は呼び出した先から辺りを満たす炎によって消滅し、産み落とされた怪物は例外なくアシャが朽ち果てさせる。残るのはネヴとその後ろで佇む地獄へ繋がる門のみ。
流石のアシャであってもネヴの集大成であるこの門にまでは干渉できないようで、先程からしきりに視線を門へ移しているのが見て取れる。
「正直な話、驚いている。ここまで追い詰められるとは思ってすら居なかったからな」
「なら、潔くぶっ飛ばされてくれや。それで俺達の役目は終わりだからよ」
「残念だが、止まる気など毛頭ない。俺はこの道を選んだ時に最後の最後まで進み続けると誓ったんだ。自分自身に、そして―――ハデス、お前にも俺は誓った。絶対に目覚めさせてみせると、もう消滅の恐怖に怯えることのないようにすると!!」
門の奥底から轟くのは無数の悲鳴と絶え間無い絶叫、精神を汚染する死者の叫びにクレアやナナが頭を押さえる中、ガルナとアシャ、グルーヴァは訪れる何かを捉える為に視線が門へ集中する。
―――そして。それは姿を現した。
「アマテラス!!結界でそいつらを守れ!!」
現れたそれを見て、グルーヴァとアシャは咄嗟にその場を離れ、ガルナはナナの手を掴んでアマテラスを抱えるクレアに近づくと、アマテラスは手を前に突き出し不干渉の結界を作り出す。
「良い判断だ。だが、お前達はどうする」
門から現れたのはタコのような触手と、巨大な人の腕だ。
タコのような触手にある吸盤と思わしきそれは人の顔であり、歓喜に酔いしれる者、怒りに支配されるもの、悲しみに嘆く者と様々だ。
それと同じように現れた巨大な一つの腕は、木の枝のように腕から腕が生え、燃え盛る炎を異ともせず、辺りを縦横無尽に腕から派生した腕が駆け抜けていく。
「異界の知識と掛け合わせた化物の一部、これはカルヴァリアとの戦いまで隠して起きたかったものの一つだが、―――仕方あるまい」
「随っ分と悪趣味なもん使いやがって!!」
正面からは派生する腕が迫り、逃げ道を塞ぐように左右から触手が伸びる。
「アシャ!!」
「えぇ」
グルーヴァがアシャの待機する場所まで触手と腕を誘導するとアシャの杖に灰色の光が灯る。
杖先から生じた光を迫る二対の腕へ向けると触手と腕の動きが鈍くなっていき、アシャの下へ到達する前に完全に静止すると触手の先端から徐々に干からびていき、腕は萎れ、一気に崩壊が進んでいく。
「この世ならざるものも例外ではないか。だが―――これはどうだ?」
成す統べなくアシャの前で朽ちていくと思われた触手にあった人の顔が一斉に割れ、そこから一斉に人の腕が伸びる。それと同じくして、巨大な腕は泥となり、辺りに飛び散ると近くに居たアシャとグルーヴァを泥まみれにする。
「クソ、それが狙いか!」
体に付着した泥を炎で掻き消そうとするがもう遅い。直ぐ様泥はアシャとグルーヴァの精神を汚染し、僅かの隙を生み出す。
「先程のような流れる泥とは違い、その泥は特別製だ。何せこの化物の体内で生成されたものだ。だとしても、お前らを狂わせるには足りないがな」
泥によって精神を汚染された二人の眼前に広がるのは全く同じ光景。英雄に選ばれた異世界からの漂流者が必ず見る悪夢。
天衣無縫、一騎当千、恐れるものなど無いとまで言われた英雄の始まりにして、根源的な恐怖の象徴。
逃げても逃げても追ってくる腕から逃げて、逃げて、逃げ続ける。
何で逃げるのか、そんなのは簡単だ。人間というのは目前に死が迫った時、本能的に逃げ出してしまうだろう。
そう、あの腕は死のようなものだ。人間としての本能があれには触れるなと告げているから逃げるのだ。
そうして暗闇の中を逃げ続けている内に追い込まれ、やがてそこに光が訪れる。
だが―――今回だけは違った。記憶にある出来事は起きず、光は世界を照らすことなく、その腕は最初に右腕を掴んだ。
そうして、右腕が引きちぎられる。流れ出る血と共に少女の悲鳴が響き渡り、グシャリと左腕が潰され、次に腹の中を腕が掻き乱していく。
耐えようの無い苦痛と絶望がない交ぜになって、幼かったかつての自分が泣き叫ぶ。
殺される。このまま玩具のように弄ばれて。
少年少女の嘆きは誰にも聞き届けられぬまま、ここで英雄に選ばれることなく死に―――。
「...がう」
「違う。違う。―――違ぇ!!」
少年は叫び、内蔵を掻き乱す腹に突き刺さった腕を掴み、獣のような笑みを浮かべた。
女は考える。こんなものは偽物だと。有り得たかもしれないが、有り得なかった光景だと。
男は武を持って、女は知を持って幻想を打ち砕く。
「あぁ。そうだとも、お前らは原初の恐怖すら克服する。俺とは違う―――英雄だからな」
自嘲するかのように呟いた後、これから起こる光景を焼き付ける為にネヴは門の前から二人の死に際を見届ける。
「だが、恐怖を克服した先にあるのは死だ。英雄であろうと、―――殺せば死ぬ」
朽ちゆく運命にあった触手から現れた小さな腕は幻想から帰還した二人を出迎える。
グルーヴァの心臓を貫き、アシャの心臓を穿つ。それで終わりだ。腕と二人の距離は僅か1cmにも満たない。ここまで来れば常人を越えた反射神経を持つ英雄と言えども回避することは不可能だ。
「――――――な」
英雄に死をもたらせる腕は確かに英雄の心臓を貫いた。だが、もう一人、死ぬべき筈の男の頭蓋を潰すことは叶わなかった。
「アシャ!!」
自身の心臓を貫く腕を無視して、アシャはグルーヴァの頭部に迫った腕を杖で弾き、僅かに時間を稼いだ後に隣に居た巨体を蹴り飛ばし迫った死から逃がすと。
「ネヴ、貴方は知らない。貴方の代わりにあの子が現れた時に私達がどんなことを誓ったか」
ある日、いつもの鍛練の日に現れたネヴ・スルミルという少年はネヴ・スルミルではなかった。戸惑いを隠せない二人の頭を撫でながら無機質に笑った男の顔がそういうことなのだと告げた。
この男は血の繋がった我が子を捨て、この都市のどこかで生まれていた最後の英雄を見つけ、ネヴ・スルミルという人間に仕立て上げたのだ。
本来の名を忘れた目の前の少年と、本来の名をネヴ・スルミルという少年、二人の人生を踏みにじった。
「―――貴方を救う。私達はその為だけに運命とあの男に従ってきた」
「なに...を」
「呪術なんてものをあの子に教えてと頼まれた時はこんなものの何処が良いのか、なんて思ったけれど」
アシャは杖を空へ掲げる。それは今は当たり前のように普及した呪術であり、アシャが使用する呪法から派生した謂わば劣化品のようなもの。
自身の心を消費する呪法ではなく、この都市に積み上げられてきた人々の思いを消費することで発動する呪術。
それを考案したのはアシャであり、この都市を支えている死した人々の魂から生じた思いを呪いと断定することでしか発動することの出来ない悲しいだけの力。
これは間違いなく彼等への冒涜であり、彼等が呪いと決めつけられ、将来的に呪術が普及した時にこの都市の礎になってきた人々の思いが道具として扱われること、良くないものとして忌み嫌われる対象になるというデメリットに対して得られる恩恵が当時は感じられなかったことから中断した研究。
簡単に説明すれば、高位の呪術はそれ相応の呪いが必要になるが、それに見合った出力になる。しかし、下位の呪術は一人を殺すとして、その時に消費される思いを命に換算するとおよそ三人分。
その非効率さと数多くのデメリットから、彼女は呪術を見限り、当人の心を対価にして発動させる呪法の研究に明け暮れた。
心を対価にするということは感情を失っていくことだと言っていい。英雄である彼女でしか扱えないものであり、もし他人が再現しようものなら心は浪費され、廃人となるか心を失った人ならざるものになるかのどちらかだ。
「人の身では到達することの出来ないと言われた奇跡を人であり続けながら体現したのは魔法でも呪術でも聖法でもなく、呪術だった」
「―――お前、まさか!!」
徐々に低下していく体温と失われていく感覚。復活して久しいがまさかこんなにも早く死ぬとは思っても居なかった。───しかし、あの時に比べれば、幾らか心は晴れている。
全てが狂い、終わってしまったあの日から葛藤と後悔だけを積み重ねる日々。誰かの為に行動しても褒められることはなく、満たされることもない。
けれど、───今は彼等に託すことが出来る。未来ある子供達に。そして、───3人目の親友に託すことが出来る。
『ぼ、僕の名前はネヴ・スルミル。よ、よろしくね、アシャ』
...あぁ、でも。一番は、貴方を救いたかったのよ。
始まりの日。私が英雄として生まれ落ち、運命を仕組まれたその日に出会った1人目の親友。私は、きっと彼のことを───。
あぁ、いけない。それは、最後まで隠してなくちゃいけない記憶だ。今となっては私だけが覚えている───大切な、大切な思い出。
「あの子にもお礼をしなくちゃ、ね」
相手が地獄と呼ばれる異空間を手にし、私ですら届き得なかった死した人間の魂の保管と管理を可能としたネヴ・スルミルということで、戦闘を得意とするグルーヴァが甦るのは理解できるが、短期間しか活動できない私が甦るのは少しだけ疑問だった。
けれど、私の前に現れた彼女は私にその身を差し出し、この都市を救ってくれと頼み込んできた。あの子からは君にしか出来ないことがあるからと言われたが、それがこれとは、随分と期待されたものだ。
「私って、病弱で戦闘もあまり得意じゃないから不安だったけれど、最後の最後に約束は守れて良かった。感情が無いくせにって思うかもしれないけど、嬉しいの。ちゃーんと、約束を守れて、ね」
地獄の主ネヴ・スルミルは咄嗟に門を閉じることで現世からの干渉を防ごうとするが、呪術は既に発動している。どんなことをしようと無駄だ。
「アシャ」
男は名前を呼んだ。何年も共に過ごしてきたのだ、それだけで何を言いたいかなんて分かっているんだろう。
あの時は共に逝けたが、どうやら今回は彼女が先に逝ってしまうらしい。
「えぇ、グルーヴァ。後は任せるから、全部終わらせてから帰ってきて」
女は男の方へ振り返り変わらない声音で答える。
「分かってらあ。少しだけ一人にさせちまうけど直ぐに戻るからよ、待っててくれ」
男の言葉を最後まで聞き届けて女はネヴの方へ向き直り、最後の大仕事に取り掛かる。
「さようなら、ネヴ。その門も連れていくね」
「やめ――――――」
異界と現世を繋げる門はアシャの呪術により朽ちていく。正確に言えばアシャの死が訪れると共に門にも終わりが訪れるのだ。
ネヴでは殺すことは出来ても命を繋ぎ止めることは出来ない。それこそが彼を追い詰めるための鍵であり、アシャの役目だったのだ。
アシャの瞳から光が失われ、地面へ倒れると共に門に亀裂が生じ、英雄の躯が光へ還元されるのと同時に門は大きな音を立てながら崩れ落ち、ネヴの前で黒い光の粒子となって消えていく。
「やめろ、消えるな。行くな―――ハデス!!」
男は彼との別れを何よりも恐れる。彼と自分とを繋げる鎖にして、異界に向かうための正門である、それは英雄と共に朽ち果て、それによって地獄とのパスも途切れることになる。
本来であれば裏門を用いて再度道を繋げることは可能だ。しかし、それは黒羽という男の手によって堕とされ、人のものに成り下がった。
確かに彼女が英雄だとしても、この門に干渉をすること自体が不可能だった筈だ。アレは言っていた。この門はこの世界ではないどこかで製造され、この世界の法則では壊すことなど出来ないと。
「―――そういう、ことか」
この門の破壊は彼の3英雄であるアシャだけでは不可能だ。前提条件としてあの女神の統治する世界の法則では破壊は愚か干渉することすら不可能だ。
しかし、――――――この世界ではない場所に連れていけば?
新たな空間と法則の創造を可能とする人間が居た。いいや、最早彼女は人ではなく、第3の神としてアマテラスを凌駕する力を持ってこの都市に降臨し、アシャの手助けをした者。
燃え盛る炎の世界、グルーヴァの心象風景が具現化された別空間だと思っていたが、ここは新たな世界として確立させた者の正体こそ。
「どこから見ている天間雫ぅ!!」
ネヴ・スルミルは辺りを見渡す。そうして見つけた。この空間を新たな世界として確立された、燃え盛る紫色の炎に囲まれて一本だけ隠された桜の木。
それこそが雫がグルーヴァの創り出した空間に干渉した証拠であり、ここを揺るぎなく新たな世界として確立させた彼女の力の一端だ。
「雫が...?」
グルーヴァの心を形として具象化する空間の拡大に乗じて干渉した雫はアシャのやろうとしていることに気付き、僅かに助力した。
この都市を守るという意思を形取ったような英雄の復活は今や信仰都市の神と言っても差し支えない雫も当たり前のように感知しており、アシャの意思を汲んでの干渉だったのだろう。
「何もかも筒抜けって訳かよ。俺らがてめぇの邪魔をすることを分かってても助けるたぁ―――狂ってんな。だが、感謝はするぜ」
だが、そのお陰でアシャは役割を果たすことができ、地獄の主をただの人間へと引きずり落とすことに貢献してくれた。
「地獄との繋がりが途切れた今、お前には何も残ってねぇ。これで終わりにしようぜ、ネヴ」
グルーヴァの創り出した世界から炎が一斉に掻き消え、一人の男の拳に炎が灯る。心の内で燃え続ける意思と同じように決して消えることのない炎は一点に集まり、凝縮され、そして―――。
「――――――くそ」
放たれる。
英雄の放った業火の一撃は万物を焦がし、泥で出来た体を余すところなく燃やし尽くす。
後方に居たアマテラスの結界にすら衝撃波と熱量が伝わり、その規格外な力は余波と衝撃で結界に亀裂を生じさせる。
「こっちへ向かって放った訳ではないのに、この威力。あいつマジで化物だね」
たった一人の人間の手によって放たれた一撃が作り出す圧倒的なまでの力を感じさせる光景にナナが苦笑するが。
「確かにあの男の力は規格外だがアシャと言ったか。あの術者は何者だ?雫の協力があったとは言え、あの門を破壊するなどそう簡単な事ではないだろう?」
それが地獄と現世を繋ぐ門であろうと、それがネヴ・スルミルの構成する力の本質である以上、そう簡単に破壊されることのないように多くの保険が掛けられていた筈だ。
仮に前提条件である別の法則が働く別世界への誘導が成功したとしても魔獣、いや、それ以上の力を持つ龍と同格の怪物を飼い慣らし、その一部を呼び出すどころかその気になれば本体を呼び出すことが出来るのなら、内側からの負荷や干渉破壊は不可能。
そうなれば外側から干渉するしか無いが、あれは魔力や呪力でどうにかなるものではないだろう。それこそ女神の生み出した神器と同じようなものを破壊したのだ。
「私が生まれる以前に死んでいたあの二人のことはよく知らないが、ネヴが言うにはアシャは呪術の開祖であり、病弱でなければ過去から現在に至るまでに存在した英雄の中で最も強かったであろうとネヴは言っておったぞ」
門の破壊が可能ということは相対的に神器の破壊も可能ということだ。何せあの門は別世界の神々が生み出したかもしれない代物なのだから。
「あくまでも、そうであったらの話だがな。真に歴代最強の英雄と呼ぶに相応しいのは―――あの男じゃろうな」
炎によって赤く彩られる世界の中心、その燃え盛る灼熱の発生源であるグルーヴァの拳から溢れ出ていた呪いの炎は勢いを弱め、その先にあったのは体の殆どを炎で焼き尽くされ、泥による再生も行えずに倒れているネヴの姿があった。
「まだ残ってたか。しぶてぇな」
ネヴに残された体を潰す鈍い音が聞こえ、今度こそ仮初めの肉体を失ったネヴ・スルミルの本体は遂に姿を現す。
「......ひでぇな」
地獄の主、ネヴ・スルミルは不老を手にすることは出来たが、完全な不死を得ることは叶わなかった。その為に自身の肉体をアマテラスのように最も安全な場所に保管し、魂を泥に憑依させることで擬似的な不死を再現していたに過ぎない。
「あいつの言うとおり、魂が宿る核を潰せばてめぇの肉体は契約に従って現実に引きずり出される。門が破壊されなければ不死身は永久に続くが、門が破壊されればそっからは簡単だ」
目の前に倒れる青年の体は遠い昔に見た友の面影を僅かに残しているだけだった。
栄養不足で今にも死にそうな程に痩せ細り、体を動かすことすら出来ないのか生気の無い瞳でグルーヴァを見上げていた。
「ここまでだな。今のお前には何も出来ねぇ。――――――俺達の勝ちだ」