還る>
―――時刻は30分程前に遡る。
今更何があったのか説明しても手遅れだが、信仰都市終末のきっかけとなったその瞬間を俺はここに記す。―――俺達が敗北したという事実を。
「...ここにもないか」
ネオと一緒に行動しながらウルペースが拠点としていた場所を探して回る黒羽、ウルペースが出入りしていたのは確かだが、この屋敷にも転移装置と思われる物は無かった。
ここで何件目になるか分からないが、今回も発見できずに終わってしまうと黒羽は大きく溜め息着いた後、気持ちを切り替えネオに質問を投げ掛ける。
「この街でウルペースが拠点にしていたのは他にもあるか?」
「ここで最後だよ。無いならまた別の街に行かないと...」
「これだけ探しても見つからないとなると、一体どこにあるのか...。ダオの収集があった時必ず使っているはずなんだ。広大な土地をわざわざ渡り歩くなんて非効率的なこと、改善できる方法があるならそれをあの人が実行していないはずがない」
ネオは信仰都市の中枢に住んでいた為、ダオの収集があれば直ぐ様駆け付けられる。しかし、遠くの土地に居るウルペースもその日は最低限の人員を残して一ヶ所に集められる。
収集が行われて僅か三十分後に話し合いが行われることを特に不思議に思ったことは無かったが、こうして考えてみるとどうして短時間で全員が集まることが出来たのだろうか、と思ってしまう。
信仰都市の守護神アマテラスは人の記憶を介して知らない場所に空間移動することが出来る。自分が知っている場所なら自分の意思でその場所に一瞬で向かうことも可能だ。
それを技術として再現できるのだとしたらガルナの言っていた空間転移をする装置があっても不思議ではない。
「...人に気付かれない場所に隠しているのだとしたら、地下か?それとも屋根裏か?」
少なくともそんなものを隠すとしたら秘密の地下室などしかないだろう。簡単に見つかるような場所に置いていないことだけは確かだ。
何せどんな距離もあっという間に越えてしまう人智を越えた代物だ。悪用されないように細心の注意を払ってそれは設置されていることだろう。
「決して見つからない場所、それとも探そうとも思わない場所か?」
考えれば考えるほど泥沼に嵌まっていく。昔から感覚で動いていた節があり、こうして考えながら何かをするというのはあまり得意ではない。
それでも今は頭を使って探す時だ。―――自分の目的を達成するにはこれは無くてはならない過程なのだから。
「...どこを探す。どこへ行く?」
「お兄ちゃん?」
様子が変わった黒羽に違和感を抱いたネオが疑問を言葉にしようとすると、背後で何かが動く。明らかに人為的な物音、ネズミや猫などではなく、人くらいの大きさか或いはそれ以上の大きさでないととてもではないが本棚が倒れるなど有り得ないのだから。
「...何だ、これは」
咄嗟に振り返った時にはその本棚を倒したと思われる存在は跡形もなく消え去っており、本棚が隠していた地下通路へと繋がる空洞がそこにあった。
「...罠だよ。行くべきじゃない」
「そうだな。一旦ガルナ達と合流すべきだ」
慎重かつ冷静に今起きた事態に対処する。誰かが落としたと思われる本棚と地下へ繋がる道、これを罠と言わずして何というのだろうか。
「どこかにウルペースが隠れている可能性もある。出鱈目に送った先に偶然俺達が居た、というのも無くはないしな」
「待って。本棚の角に何かついてる」
地下へ繋がる空洞を隠していた本棚の下側、その角に泥のようなものが付着しており、辺りを見渡す。
「泥...?そういうことか!!」
それが泥と気付くが早く、黒羽はネオの手を取って窓へと走り、二階にも関わらずガラスを破り、直ぐ様外へと脱出する。
「...くそ。読まれてたか」
しかし飛び出した先、着地する地面には泥が流れており、そこから無数の腕が黒羽達へと迫る。
待ち伏せだった。もしかしたら尾行をされていたかもしれない。ガルナ達と距離が離れた所で奇襲を仕掛けるというネヴ・スルミルの策は見事、黒羽を窮地へと追いやった。
「捕まるか!!」
泥の腕に捕まれる寸前、ネオは懐から短剣を取り出し地面に突き刺すと呪術を発動させる。
「お兄ちゃん、絶対に僕の手を離さないで!!」
「分かった!」
地面に突き刺さった四本の短剣を介して地面へ干渉する呪術による爆発、人間が食らっても死なない程度に威力を押さえて、しかしガルナ達にも届くよう出来るだけ大きく。
『呪爆』
短剣に囲まれた地面が紫色に輝き、泥の満たした地面ごと爆発を起こし、その衝撃波を使いその場から大きく離れた。
衝撃波によって宙を舞った黒羽、体は屋根の上に投げ捨てられ何度か回転した後減速する。頭を覆っていた手を離して爆心地からどれだけ離れたかを確認しようと痛む体に鞭を打って立ち上がる。
「なんて...無茶をする」
「ごめんなさい。方法が咄嗟にこれしか思い付かなくて」
「いや、いい。助けられたことに変わりはないからな。一旦距離を取って―――ネオ!!」
黒羽の安否を確認する為に近付いてきたネオの背後、下から無数の腕が華奢な体を包み込むように伸ばされネオに迫る。
「―――っ!!」
先程二人が居た場所からあまり距離を取れなかったとはいえ、それでもこの数秒で追い付ける程、泥の侵攻速度は早く無かったはずだ。
無防備なネオが泥の腕に捕まれ下に連れていかれると、黒羽はネオを連れ戻す為に走り出す。
連れ去られた先、屋敷の下にある地面を覗くとそこには既に人の膝元にまで迫る量の泥が街を満たしていた。
「どういう、ことだ。一分足らずで街を飲み込んだのか?そんなこと、出来るはずが...」
「それはこちらが全力を出していなかっただけのこと。残念だったな、情報収集が足りなかったようだ。―――黒羽勇也」
声のした先、悠々とこちらへ近づく狐の面を付けた青年の姿を見て黒羽は声を詰まらせる。
「どうしてお前がそれを付けている。ダオと協力関係に...?いいや、そんなことは絶対に有り得ない」
「さあ、どうだろうな。あいつは妻と娘さえ甦ればそれだけでいい。その為なら何をしても不思議ではないだろう」
「母さん達を死なせたお前と、あの男が手を結ぶ?有り得ないな。あの男は誰よりもお前を憎んでいる。そうだろう。英雄を気取る男、―――ネヴ・スルミル!」
青年の顔が崩れ落ちその下にあった本当の素顔が白日の下に晒される。大昔に死んだはずの人間、その遺体を食らって自身の体としたその男は遂に黒羽の前に姿を現した。
「ここまで散々手こずらせてくれたが、ようやくたどり着いたぞ。俺から鍵を奪い、地獄の機能の半分を封鎖。おかげで戦力をこちら側に来てから揃える羽目になってしまった」
「あぁ。お前に一泡吹かせられたなら言うことなしだよ。お前が今まで踏み台にしてきた人達もあっちで喜んでるだろうさ」
「愚かな奴だ。アカツキと逃げ回っていれば良かったものを。ダオは確かに動くことは出来なかった。ウルペースもだ」
「だからお前に頼んだ、か?そんな虚言に惑わされるはずがないだろう」
「いいや。俺は利用しているだけだ。さっきの体を持っていた人間を飲み込み、ウルペースとして振る舞っていた。おかげであの男がしようとしている事が分かったよ」
数百年もの間、素性を偽り、人々を洗脳し、狂気へと扇動してきた男ならばたった一人の青年の真似をするくらい造作も無かった。
「魂の選定、その場所に到達する為にアマテラスを使う。しかしその周囲を取り囲む結界は現代の呪術では解除することは不可能だった。それがまさか門を使うとはな。そうでもしなければ取り込まれなかった魂を呼び戻す事が出来ないとはいえ、仮にも神を物として使うとは、信仰都市が聞いて呆れる。これを冒涜と呼ばずして何と呼ぶ」
「開いてしまった地獄の門を操作する力をあの男が持っているのか?」
「もうじき分かるさ。この都市にある命は例外無く一つへ集められる。そうなればこの話も無意味なものだ」
黒羽との問答が終わり、ネヴが歩を進めようとすると黒羽は逃げるのではなく逆に一歩前に踏み出す。
「お前のおかげで詳しいことが知れたよ」
「逃げないということは。何か策があるらしい。やってみろ、正面から叩き潰してやる」
「―――雫!!」
黒羽がガルナの名前を呼ぶと同時に天空へ伸びる白光がネヴの真下から放たれ、あまりの眩しさに黒羽が両目を腕で隠している中、光の中心に居たネヴは避ける素振りも見せずに直撃する。
倒壊した民家から現れた雫は落ちる黒羽を空中で抱き抱えるとそのまま屋根から屋根へと飛び移りながらネヴとの距離を取っていく。
「すまない。ネオが連れていかれた」
「大丈夫です。あの子なら上手く逃げ切れる。それよりも今は自分の心配をしてください」
「...本当に成長したんだな」
「あれからどれだけ経ったと思ってるんですか。いつまでも子供じゃありませんよ」
黒羽を抱き抱えた雫はガルナと待ち合わせをしていた時計塔の上へ到着し、黒羽を下ろすと上から街を見下ろす。
「ほんの数分でここまで増えているなんて」
「どうやら相手は本気で俺達を潰しに来たらしい。街の外側を泥の化物と半端者が囲んでいる。それだけじゃない、この街を断絶する為に肉の壁が外からの侵入と中からの逃走を妨害している」
その場で待機していたガルナが現状を簡潔に説明すると黒羽は首を傾げる。
「肉の壁?それはどういうことなんだ」
新たな聞き慣れない単語に黒羽が疑問を呈するとガルナは淡々と説明を始めた。
「文字通り、人間の肉で作られた壁だ。それもこの都市の住民のな」
「...この街を覆える程のか?」
「ああ。鹵獲された人間の中で壁の素材になる者、人形として再利用される者とで分類されるらしい。あんなものは見ない方が正解だな」
まさかここまで非道なことをしてくるとは思わなかったが、ネヴ・スルミルからすればこの都市に住む人間はいずれ皆殺しにする存在、殺す過程で肉の壁にするも兵の増強に使うも、どうでもいらしい。
「このままだと八方塞がりじゃないか。この量の泥を雫が浄化するにも時間が足りない。途中でネヴの妨害を受けるのは目に見えている。どうしようもない」
「確かにどうしようもない状況だが、逃げることに徹するなら何とかなる。物理的に越えられないなら、空間を渡る」
ガルナの時空間魔法を使えば脱出をすることは容易だろう。だがそれをすぐしないのには勿論理由があるのだ。
「あと一回、良くて二回が限度だ。正直、魔力が足りなさすぎる。休む間もなく戦いに探索、十分に魔力を回復することが出来ていない」
この戦いが始まってから間もなく2日目、休息という休息を取れていないガルナは度重なる魔法の使用もあり、魔力はギリギリだ。
「便利だが、その分魔力の消費もバカにならないってことか。逃げた先でもう一度見つかれば今度はどうにもならない、そういうことでいいか?」
「あぁ。出来るなら敵に見つかることなく魔法も使わず逃げ切りたいが―――どうやら逃がしてくれないようだ」
信仰都市で崇められる神、アマテラスをその身に宿した巫女、雫の全力を持ってしてもネヴを消滅させることは叶わなかった。
「正面から叩き潰すと言っただろう。巫女だろうと例外無く、全てを踏み越える」
地面から伸びる大きな泥の手の上に立ちながらガルナ達を眼前に捉えたネヴ・スルミルの手から放たれた黒い弾丸は一撃で時計塔を半ばからへし折っていく。
時計塔の真下では何匹もの化物が闊歩しながら時計塔の上から落ちてくるガルナ達を今か今かと待ち受けていた。
「―――時間がないな」
そう言うや否や、ガルナは躊躇いなく時空間魔法を発動させ、壁の外に設置してあったポイントへの空間転移を開始する。三人を取り囲む空間が不規則に揺れ、徐々に姿が薄くなり、消えていく。
「空間、時間に作用する力か。確かに効果は絶大、切り札と呼ぶにふさわしいものだが」
ガルナが空間転移と同時に行った周囲の空間との断絶、あらゆる攻撃はガルナ達の空間に到達することなく相手からしたら透過したように見えるだろう。
「―――残念だったな」
ガルナ達の視界が空間を渡る影響で目まぐるしく移り変わる中、ネヴはそう言い残した後空中で泥となり姿を消す。
「諦めたのか?」
「あんなに強がっていてそれは無いんじゃ...」
何をするでもなく姿を消したネヴに各々疑問を抱く中、ガルナだけはその異変に気付いていた。
いや、空間を渡るなんてことを頻繁にしてこないと分からない以上、この異変を彼等に知っていろと言うのはあまりにも酷だろう。
「...やられた。空間への介入と行き先の改変、よもや都市そのものの空間まで掌握しているとは」
「え...?」
ガルナが抱いた違和感、行き先を指定した空間の跳躍、しかしそれは的を外れてガルナが当初していた場所とは別の場所に向かっている。
ガルナだけが気付くことが出来る空間への関与による移動先の改編、それは僅かな揺れだった。空間指定をした以上、真っ直ぐとそこに向かって進んでいく空間の跳躍は途中でねじ曲げられ、僅かな揺れがガルナの視界で確認できた。
「まさか、アマテラスの御神体も無しに空間を支配するなんてあり得るはずが...!」
途中まで言っていて、黒羽は一つだけ可能性を思い付いてしまった。
「―――門か!!一度地獄を経由させてネヴが指定した場所へ転移させたのか?」
「その門というものが何かは分からないが、あいつが現れたのは地獄というこことはまた別の空間にある場所だ。まさか、人の魔法を上から書き換えるとは思わなかったが...年季が違う。あっちは数百年も空間を行き来していた奴だ、俺なんかよりもよっぽど空間を渡ることに慣れている」
行き着く先は大方予想がつく。黒羽を奪いに来た以上、その理由は明確。
「途中で空間転移を止めれないのか!?そうしたら、どっか別の場所に転がり出るんじゃ...」
「そこまで甘くない。空間転移を中断すればメリットよりもデメリットの方が多い。俺が指定した場所は開けた場所。その理由は一つ、建物が少ないからだ」
完璧な魔法なんてものは存在しない。ガルナの時空間魔法の弱点、それは燃費は悪さと、空間の転移先には条件があること。
「空間転移の行き着く先が壁の中、或いは地面の中ではないという保証はない。渡っている間はあらゆるものを透過するのだから、地面の中、あるいは壁の中で解除してみろ。辿り着いた先で圧死する」
だからこそ、選ばれる場所は近くに建物が少なく、上にも障害物となるものが存在しない場所、あらかじめ指定した場所に必ず寸分の狂いも無く到着するというのは不可能。
多少なりとも誤差は生じる。だから、指定した場所よりも少しだけ高い場所にガルナは転移をする。地面の中で実体化して即死なんてことが起こらないようにするためだ。
「...じゃあ、何か方法は」
「相手は空間を渡るということに関しても俺より上手、仮に殆んど狂いなく指定した空間に辿り着けるとしたらそこは―――」
目で追うことも出来ないくらい目まぐるしく移り変わる景色が統一され始め、到着が近いことを知らされる。そこは開けた大地、眼下では氾濫した川のように勢いよく流れる泥がぼんやりと視認できる。
「構えていろ。実体化した瞬間、そこは相手の手のひらの上だ。どこから攻撃を仕掛けられても...」
―――それっきりだった。ガルナの言葉は何かを貫くような生々しい音がした瞬間、言葉は途切れその代わりに腹部に突き刺さったナイフがきらりと光り、血を吐く声と共に力無く倒れ、それと同時に実体化されたことによりガルナは流れる泥の中に飲み込まれて...。
「雫!!俺はいいから、ガルナを助けに行け!!」
「分かった!」
させない。こんなところで殺されてたまるものかと、黒羽と雫は同時に行動を開始する。
今ガルナを失うことは何があっても許されない。人が減るのもそうだが、状況を冷静に分析できる彼を失えば作戦は瓦解し、後が無くなってしまう。
どうやって空間を渡っていたガルナの腹部にナイフを突き刺したかは分からない。分からないが。
「最終的には俺を狙いにくる。そうだろう!!」
真下、濁流の如く流れる泥が一斉に跳ね、形を得ていく。数えきれない腕は黒羽を逃がすものかと迫る。
正直言うともうこの状況を打開する方法はない。どれだけ抗おうともあの男を倒すのは不可能だ。
―――今は敵わない。だから、後を託すだけだ。
「雫!!アマテラスを無理矢理起こすんだ!あいつなら選定から逃れることは出来る!!」
どこに居るかは分からないが、きっと聞こえている。ダオとネヴが手を組んでいるかはともかく、死者の蘇生に使われる魂の選定が始まる。
この都市で生まれ、育ってきた人間のみを生け贄として過去に死んだ者達を蘇らせる。その為にはこの都市にある命を一度一ヶ所に集めなければいけない。
「――――――ッ!」
上から聞こえてきた黒羽の声に従い、気を失ったガルナを抱えて雫は流れる泥の中に突っ込んでいく。雫が触れた部分から泥を浄化する光が溢れ、一時的に逃げ道を作り出すとその道を一直線に走り抜けていく。
振り返らない。彼がそう望み、この選択が最善だと言ったのなら。
「...二人は逃げたか。だが、鍵は手に入った」
遠ざかっていく人影、それが見えなくなるとネヴは泥の奔流に触れ、一瞬の内に吸収していく。干からびた川の痕、そこで意識を失う黒羽の服を掴みネヴは歩きだす。
だが、黒羽が意識を失ったということは地獄の門が開かれる契約になっている。―――だが。
「俺から逃れる為にこの男と契約をしたようだが残念だったな。門は開かんよ」
ネヴの前に現れた仰々しい門に向かってネヴは言葉をかける。その先で門が開くのを待っている一人の女に向けてだ。
「ハデスの意識が戻らない以上、管理者は俺だ。鍵に触れてさえ居れば門の開閉は俺の意思で出来る。俺の支配下から逃れ、地獄の半分を奪われたが、これ以上お前に好き勝手やらせる訳がないだろう」
裏切り者へそう言い残すとネヴは門に触れ消滅させる。
......。
「クロバネは」
雫に背負われながら近くの街へ運ばれるガルナは目を覚ますと現状を理解する為に幾つかの質問をする。
「ネヴに連れ去られました。恐らく今はお祖父様の所だと思います」
「あれからどれくらい時間が経った」
「まだ十分程です。あまり喋らないでください。一時的に傷を塞いだだけなんですから」
「俺のことはいい。俺の判断のミスだ。人手が足りないとはいえ、黒羽を連れていくべきじゃなかった」
「貴方は一緒に頑張りたいって言ったあの人の意思を汲んでくれたじゃないですか。悪くなんてありませんよ」
「いいや。もっと冷静になるべきだった。こうなることも予想した上で判断を...」
自罰的になるガルナを宥めるように雫は言う。
「ネヴ・スルミルがウルペースに扮していて、しかもお祖父様のやろうとしていることに協力しようとしてるなんて...そんなこと普通分かりませんよ。だから、仕方ありません」
「手を組んでいると、お前は思うか?」
その質問に対して雫は昔の事を思い出しながらはっきりと「あり得ません」と言い切る。
「お母さんを助ける以前にお母さんの命を奪ったあの人と協力するなんて絶対に有り得ません。だって、誰よりも後悔し、誰よりもネヴを憎んでいたのはお祖父様なんですから」
「だろうな。ならばネヴ・スルミルはダオが行う儀式を利用するつもりだ。そうなれば、被害はこの都市で生まれ育ってきた命だけでは済まないだろう。一度魂を集めるらしいが、そこを破壊してしまえば集められた魂は例外無く消滅する。お前達も―――俺達も」
他都市から来訪したアカツキやガルナ達は今まで魂の選定が行われたとしても命に危機が及ぶ事は無かったが集めた命を丸ごと消滅させるなら、そこに連れていかれた時点で詰みだ。
「貴方のことは私が守ります」
「あいつらは...」
「どこに居るかも分かりません。今から探しても間に合わないと思いますよ」
雫が一時的にアマテラスを身に宿すことであらゆる呪術に対応出来ても、その近くに居る人間しか安全を確保することは出来ない。連絡手段を持たないガルナ陣営とアカツキ陣営では、合流することはまず不可能という結論に至る。
「...また、俺は守れないのか。アレットも救えず、共に旅をすると決めた仲間すら守れない」
奇跡は起こらない。あるのは明確な仲間との別れだけ。一人だけ生き残り、また後悔をするだけだ。
一人だけになって、またどこかへふらりと向かう。弟の命を助ける為の手懸かりも得られず、やがて一年が経ち、また大切なものを一つ失う。
「...バカだな。俺は」
「.........」
その言葉に雫は返答しない。きっと声を掛けたところで彼の耳には届かない。大切な人との別れとは、そういうものだ。
「そろそろ街に着きます。空き家を借りたらそこで私はアマテラスを呼び覚ますので、貴方は絶対に私の側から離れないで下さい」
ガルナからの返答は返ってこないが、きっと自分から死にに行くようなことを彼はしないだろう。
「ごめんなさい。―――私にもっと力があれば」
私も後悔してばかりだ。己の不甲斐なさを何度も呪っては毎日を生きていく。母も、弟も、幼なじみも助けることが出来ずに自分だけのうのうと生きている。―――生きてしまっている。
燦々と輝く太陽が頂点に達する昼頃、一人の青年は黒羽を無理矢理起こしてダオの前に差し出していた。
「街の中に潜んでいるのを発見しました。恐らくアマテラス様の御神体を連れ出すことで儀式自体を無くそうとしていたと思われます。この男の他にもガルナを発見。その他にもネオ、雫様がこの街で潜伏しているのではないかと」
「...わざわざ戻ってきたというのか」
口には猿轡をされ、両手両足を鎖で縛られたまま黒羽は真っ直ぐと青年のことを睨み付けていた。
「ガルナと話をしているのを見つけ、同行していた三名と私でクロバネを優先して取り押さえました」
ウルペースの青年に扮したネヴの隣には肯定の意思を示すために頷く三人の狐の面を付けた男女。その面の下では恐怖に震えながらも、それをダオに知られてはいけないと顔を強張らせている。
『お前達の家族、親友など、大切な人間の目と両腕と両足がここにある。死んではいないが、俺が命令するだけでそいつらは泥に飲み込まれて仲良く死んでもらう。わさわざ、この都市から離れた場所に匿っていたんだ。お前達は彼等を守ろうとしたのだろう?だから、魂の選定からそいつらだけじゃなく、お前らも救ってやる。―――死ぬのは怖いだろう?』
そう言いながら冷徹に笑うのは大量殺人者の男だ。長らくこの都市の人間を洗脳し、騙し、ありもしない儀式で巫女を犠牲にしてきた一人の男、ネヴ・スルミルはやはりどこまでも非道な人間、いや化物だった。
『どれだけ訓練されていても死という恐怖からは逃れられない。考えるだけで怖いだろう?死んでしまえば何も食べられない、本も読めない、大切な家族にすら会えず、友人との何気ない会話すら出来なくなってしまう。―――怖いよな、俺だって怖いよ。だから、助かりたいだろう?大切な人を助け出して、一緒に生きたいよなぁ...』
考えた、考えてしまった。死ぬことへの恐怖、大切な人との別れを想像してしまった。
『だから、俺の言うことを聞け。そうしたら仲良く生きられる。な、最高だろ?』
馴れ馴れしく、屈託なく笑う男を前にして三人のウルペースは力なく頷き、ネヴ・スルミルの傀儡と化した。
「―――本当に、お前達がクロバネを捕まえたのだな?」
「はい。全ては僕らの過ちを正すために。ネヴ・スルミルに騙され、レイ様を失ったあの日からずっと後悔してきました。僕らは死ぬのだって怖くありません。この命で先代の巫女様達が甦るのならこの命、幾らでも差し出しましょう」
「はい。私達はその為に生きているのです。ダオ様から明かされた儀式、それを行えばレイ様達は戻ってくる。それならば恐れるものなんてありません」
「...分かった。お前達には感謝しかない。今から儀式を行う、お前達も付いて―――」
ダオの言葉を遮るようにして揺れる屋敷、外から聞こえてくる奇怪な鳴き声と民家が崩壊する音、それと同時にダオ達の居る大広間の扉が勢いよく開かれる。
「敵襲です!!泥が街の前方より流れてきています。それに乗じて無数の泥人形の確認、避難所のあちこちで被害が出ています!!」
「このタイミングで...!!ダオ様、ここは私達に任せてどうか儀式を執り行って下さい!!」
「私達も同行します。ダオ様の儀式に邪魔をする者が居るのならこの命に賭けてお守りします」
「...分かった。クロバネを連れてこい、直ぐにアマテラス様の下へ向かうぞ」
ダオと共に二人のウルペースが黒羽を連れて大広間を後にすると青年は満足げに笑い。
「ありがとう。君のおかげで上手く行きそうだ。これで大事な子供と一緒に居られるね」
「これで、本当にあの子を返してくれるんですよね。私の命なんてどうでもいいんです!!あの子だけでも生きてくれれば、それだけで...」
「大丈夫、安心してよ。子供も君も会えるさ――――――あっちでね」
「―――ぇ」
ウルペースの女の腹部を貫く泥の腕、その後青年の背後から現れた複数の犬に似た生物が女の右腕を噛み千切り、足を噛み砕いた。
突然の事態に呆気に取られ、成す統べなく女の頭部は噛み砕かれ何が起きたかも分からないまま絶命する。
残った胴体を貪る為に犬の形をした肉の塊はこぞって死体に集まっていた。
「人間の肉を使って犬を再現させてみたが...。無理矢理別の魂を繋ぎ止めている以上、体がまだ部分的に脆いな。まぁ、次に繋げるとするか」
女の死体を踏み越えて、青年はダオが向かった地下への階段へ向かう。
「誰一人生かすはずがないだろう。この都市に生き残りは必要ない」
遠い昔に正義や善などといった下らないものは捨てた。優しいままでは何も変わらない。力が無ければ失うばかりだ。 何かを得るには犠牲が必要だ、犠牲を生み出すにはまともな精神は不要。
自ら狂うことを選び、本当の顔さえ忘れて男はたった一つの目的の為に歩きだす。
屋敷の外、街を流れる死の泥は流れを強めて命を刈り取っていく。触れたものを狂わせ、飲み込み、生きているわけでもなければ死んでいるものでもない半死半生の化物を増やしていく。
そんな地上の惨状を知る由もないダオは長い階段を下り終わり、アマテラスがかつて寄り代としていた体が保管される場所へと向かっていた。
その後ろに二人のウルペースが付き添い、黒羽を運びながら暗い地下通路を無言で進んでいく。
「......」
黒羽は猿轡で言葉を発することを禁じられ、今度こそ逃げられないように両手と両足を鎖が縛っていた。
「もうここまで来たら良いだろう。猿轡を取ってやれ」
「...いえ。私達が連れてくる道中で舌を噛み、自害しようとしていたのでこれを付けました。ダオ様の話ではここで死なれては困るのでは?」
「黒羽が自害をしようとしたのか?」
「利用されるくらいなら死んだ方がマシだと言っておりました。それより、もう時間がありません。一刻も早く儀式を始めなければ地上に残された命が潰えてしまいます」
地上に残っていたウルペースから連絡を受けた女がその惨状を説明しながらダオの後ろを付いていく。
「泥の侵攻が想定よりも早いようです。ウルペースを総動員して民間人の保護に回っておりますが、逃げ場が殆んど無く、これ以守りきるのは無理だと報告が...」
「何かを察知したか。だが儀式を始めさえすれば後はどうなってもいい。出来うる限り最善を尽くせと連絡しておけ」
「了解」
地上と連絡を取り合う女を尻目にダオは一人思案に耽る。事態は切迫しているが結界を破壊する為の鍵は手に入れた。
「...」
だが、どうして今更黒羽を連れ街へ戻ってきた?
外で活動するのならこの街からウルペースが出られないこの状況でなら黒羽を付き添わせるのは分かる。しかし、わざわざ敵の手に渡ってはいけない重要な存在を敵の本拠地に連れてくるなど愚策、あのガルナという少年がそのようなことをするとは到底思えない。
「...いいや」
「どうか致しましたか?」
「何でもない。もうじき結界へ到着する。敵が潜伏している可能性もある。警戒は怠るな」
「はっ」
ダオは悟られぬよう、ちらりと二人のウルペースを脇目に捉える。
黒羽を連れてきたということは敵が油断を誘ってきているか、もしくは――――――全てが虚言か。この2つのどちらかだろう。
部下を疑うことは出来る限りしたくはないがあまりにも状況が好転しすぎている。つい数時間までは黒羽の奪取に、残る教会の残党の殲滅、地獄の泥の対処に頭を悩ませていたというのに、状況は一変し、儀式の発動間近まで来ている。
「(手のひらの上で踊らされている...か。だが、ここまで来た以上引き下がるようなことは出来ない)」
仮にこの状況が仕組まれていたとして、アカツキ陣営とネヴ陣営、教会、この3つの中で得する者が居るのならそれは―――。
「む...着いたか」
扉が融解し、その向こう側にある空間では光源となるものは一切置かれていないというのに光が部屋を満たし、祭壇ような体をしていた。
その中心で眠る少女の体は呼吸すらしていない魂無き脱け殻。その周囲を守っているのはダオでは解くことの出来ない術式で編まれた呪術によって生み出されている結界だ。
呪術の根源に関わり、それを武器として、技術として昇華させたネヴ・スルミルが考案し、それを補強する形でアマテラス自身が施した結界だ。
記憶を半分継承しているからといって、あまりにも複雑すぎる術式はダオですら再現することは叶わなかった。
「才能と努力の結晶、一般化した呪術ではなく原初の呪術。これを無理矢理こじ開ける為にお前が居る」
床に転がされた黒羽を見下ろしてダオは最後の言葉を送る。
「私は今度こそ自分の意思で選ぼう。全てを打ち明けることの出来なかったあの時のようにではなく、この都市を終わらせるという意思を私はここに示そう」
黒羽は諦めたように瞳を閉じ、迫り来る終わりを受け入れる。
心臓を穿っていく鋭利な刃物、心臓から血が外へ流れていく。急激に体から感覚が抜け落ちていき、息苦しさと一緒に嗚咽と涙が溢れそうになるのを堪えて―――暗闇に意識を手放した。
「さぁ、開け。冥府の門、この世ならざる場所、死した魂が収監されたこの都市の罪が集いしその場所より神を汚す泥よ」
黒羽の瞳から光が消え去ったその瞬間、心臓から流れる血がどす黒く染まり濁っていく。泥々しく流れるそれは地面を這い、何もない空間に紋様を刻み込んでいく。
―――そうして、それは現れた。
石造りの壁が瞬きと同時に泥に侵され、飲み込まれ、空間が急激に広がっていく。
それはあらゆるものを溶かして進み、その部屋を中心とした巨大な空間を作り出すと、空間に刻み込まれた紋様が黒く輝き、巨大な門がダオの眼前に姿を現す。
厳重に縛られた鎖が一秒経つ毎に一つ、また一つと千切れていき地面に落ちると泥となり消える。
「...こ、これが?」
「あの男が生み出したもう一つの信仰都市、こことは違う死したものが集い、もう一柱の神ハデスを信仰する場所。そこへ通じる正門だ」
鎖の千切れる音が木霊し、最後の一つが千切れると門は音を立てて開き始める。
重厚な門が何者かにより無理矢理こじ開けられ、奇怪な鳴き声と赤子の鳴き声が合わさった聞くに堪えない叫び声が扉の先から聞こえてくる。
「...頭が、割れる」
「極力耳に入れるな。声が聞こえても決して反応してはならんぞ。あれは関わってはいけない、本来ならば交わらないはずの終わった命の断末魔だ」
それは今も尚、生きていた頃の場所を想い、妬み、僻む者達が発する断末魔であり、歓喜する声だ。
―――もう 二度と 見 れ な い と 思っていた。
光のある場所、生を実感出来る場所。
―――良い な ぁ。
「ひ...」
必死に這いずりながら扉の向こうから現れる赤子の姿。だが、それは体だけで顔は年老い、しわがれている。目を持たず、眼球があった場所は窪んでいた。
服を来ておらず、体の至るところから骨が突出しており、這いずる度に激痛と歓喜に酔いしれて声を発する。
―――か 、 え れ 。る
――――――あ った か 。 。
い ば し よ
―――――――――もっ
と 。も っと 、 はやく はやく
いそ が ないと
「来たか」
死者の群れの後ろから何か水のようなものが流れてくる音が聞こえ始めるとダオは目を細める。
それに追い付かれまいと必死の形相で赤子達は這いずりながら門の外へ向かおうとする。
そうして、僅か三秒後。そんな努力を嘲笑うかのように門の外より暴れ出るように泥が凄まじい勢いで放出される。
泥に触れると赤子達は悲痛な表情で悲鳴を上げ、泥に飲み込まれていく。
ダオは迫り来る泥に何の対処もせずに立っているがその横では二人のウルペースがその場から逃げ出そうとしている。
「動くな。離れれば泥に飲み込まれるぞ」
「しかしダオ様!!泥はアマテラス様の御神体の下に迫っています!!その通路に居れば私達も...」
「何の対策もなしに地獄の門を開き、泥を利用するなどと思うはずが無いだろう」
ダオの肩にある痣のようなものが僅かに光輝くとダオの周囲を囲むように白い結界が発現する。
「これは...」
「奴から奪ったネヴ・スルミルの記憶にあった呪術の一つ、外敵から身を守る防御手段の中で最も堅牢な結界だ。ここで使うために今まで温存していたが、やはり地獄の泥すら防ぐか」
「温存...ということは何回も使えるようなものでは無いのですか?」
「ネヴ・スルミルが生きていたのなら容易く使うだろうが、考案者はかの英雄が一人だ。凡人である私では一度使用しただけでこの様だ」
あらゆる攻撃を凌いだと言われる結界を発動させたダオの表情は険しく、異常な程に流れ出る汗の量はダオの急激な不調を物語っていた。
「呪術を扱う者は呪いに飲まれるようなことはあってはならない。私達が使っているのは呪いだ、憎み、羨み、妬み、人を殺す原動力の源。それを制御できなければ守るものも守れず、掌から溢れ落ちていくのみだ」
ダオは苦しそうに胸を押さえながらも立ち上がり、泥が飲み込んでいった先、御神体が横たわる祭壇を見る。
神の力すらその泥は飲み込み、食い進んでいく。光輝く世界を飲み込んでいく泥は縦横無尽に地下を流れるが、一定のラインに到達すると同時に異変が起こる。
「見ていろ。これが私達が敵対する地獄と呼ばれる異世界の力だ。過去から現在へと紡ぎ、後世に繋いできた呪いとは違う原初の呪い。人の根幹にある醜さの象徴だ」
勢いよく流れる地獄の泥ですら傷つけることの出来なかったアマテラスの御神体を守る結界、今も尚神々しく輝くそれを取り囲むように泥が集まり、凝縮されていく。
「信仰都市が積み上げてきたもの。神にすら歯向かい、その威光を貶めるもの」
それは大きな人の形をした存在、かつて地上を闊歩していた巨人と呼ばれる種族にすら匹敵する巨大な人の形をした泥は大きく右腕を振り上げ、結界へ叩き付ける。
地を揺るがす一撃は絶対の防壁に亀裂を生み出し、その中心に眠るアマテラスの御神体を暴かんとする。
続いて振るわれた左腕の振り下ろし。結界越しでも伝わる振動と何かがひび割れていくような音。
「ダオ様、このままでは御神体が...」
それは羨み、妬み、奪おうとする。綺麗なもの、光るもの、―――取り戻すことの出来ない命の光を。
手に入らないのなら目障りなだけだ。まるで見せつけるように神々しく光る少女の肉体を破壊し、自分達と同じ地獄へ引きずり下ろさんとする。
「まだだ...」
巨大な泥の人形は何度も鉄槌を振り下ろし、結界を少しずつ破壊していく。一撃、また一撃と振るわれる度に辺りに四散する泥は地面を這いずり、亀裂の隙間から侵入しようと結界の綻びに集まり、子供の姿となり駄々をこねるように結界を叩き付けている。
「ダオ様!!」
それは決定的な一撃だった。幾度も振るわれた両腕はその質量からか再生が遅れており、辺りに散らばった巨腕を型どっていた泥が子供の姿を取ったことにより本体から離れた影響もあり時間がかかるかのように思えた。
しかし腕を再生させるよりも早くそれは前倒れになり、体の全体重を乗せて結界にぶつかっていく。
不浄な泥を祓うために光輝く結界に触れた胸の部分から徐々に形状を保てなくなり液体状に変化するが、無事で済まなかったのは結界の方もだった。
度重なる攻撃と不浄な泥による汚染はやがて結界を汚染し、全体を覆っていくと―――。
――――――砕け散る。
ガラスが割れるような音と地下だけでなく信仰都市全土に響き渡る遥か天空から聞こえる笛の音。
神を守る防壁は崩され、無防備となった少女の肉体へ向かい泥は加速する。―――だが。
『門よ。あるべき場所へと還るがいい』
ダオのたった一言の口上、黒羽に触れ命令を下すと門の中から無数の鎖が伸び、周囲に発生した泥の残骸から生まれた子供達を縛り門の中へと引きずり込んでいく。
次いで門は姿を変え、巨大な瞳へと変貌する。その瞳が辺りを満たす泥を認識すると同時に吸い込まれるように瞳の中に吸い込まれていく。
「まだこの結界から出るな。あれに認識されれば生者であろうと連れていかれることになる」
「見られただけで、ですか」
「今は既に忘れ去られた災厄の一つだ。深き場所より人を見つめる巨大で虚ろな瞳。この世ならざる場所へと強制的に連れ去る災厄を、捕らえた魂を逃がさない為の監視役としたのだろうな」
同時にネヴが現世に居ない間、地上を観測する為に用いられていたこともダオは知っている。それを防ぐ手段が現状数える程しか無い中、ここまで計画を進めるには多くの労力を割いてきた。
「認識したものを地獄へ連れていくのならアマテラス様の御神体は...!?」
「あくまで外敵から守る手段として結界を張っていたに過ぎない。アマテラス様が降臨する以前に英雄によって封じられた程度の災厄、仮にも神の宿っていた御神体を連れていくことは不可能だ」
ダオの言うとおりそれはアマテラスをまるで居ないもののように瞳を左右上下に動かし余すところなく泥を飲み込んでいく。やがて地下を流れていた泥が全て取り込まれる瞳はゆっくりと閉じ、空間に溶けていく。
「ダオ様、急ぎましょう。奴等が来る前に!!」
「焦るな。完全にあれが消えるまで待ってからだ。姿を消してからも一定時間その場に実体のないまま留まっている場合もある。一分後にこの結界を解除する」
求めていたものが直ぐそこまで迫っている時こそ慎重にならなければいけない。何よりも恐れるはここで失敗してしまうこと。
儀式が発動する瞬間まで気を緩めることは出来ないのだから。
「...時間だ」
ダオが張っていた結界が不鮮明になり揺れた後、光の粒子となり空中へ霧散していく。ダオの傍らで目から光が失われた黒羽の死体が横たわり、それを一瞥し瞳を閉じる。
―――後戻りも、後悔も必要ない。失われた命はやがて戻り、この世界に醜くも残った命が消費されるだけ。
この都市に未来は必要ない。始まりから最後まで汚れていただけの場所に今更愛着などあるはずもない。真実を知らなければ、幸せだったかもしれない。
だが、疑ってしまった。今まであった当たり前が当たり前のように感じられなくなり、やがてこの都市が醜い場所だと知ることになる。
二人のネヴ・スルミル、二人のシズク。始まりに立ち会った名は終わりに立ち会う。
この都市の人々を洗脳し、愛する妻と娘を奪うきっかけを生み出したあの男も被害者の一人だった。
父に見捨てられ、新しく得た友すら失い次第に闇にその身を投じていった悲しき青年。その後に同じ名を与えられ、あたかも自分が息子のように生きていた人間を見たとき彼はどう思っただろうか。
唯一の兄妹である妹の命もこの都市を救うための寄り代になり、天涯孤独となったその人間はやがて人であることを捨て、復讐を果たすための鬼となった。
「ダオ様」
「あぁ、分かっている」
祭壇に寝かされた御神体に近づき、ダオは右手を眠る少女の額に当て、声高らかに告げる。
『――――――反転呪術』
きっと多くの人に恨まれるだろう。甦った者達も決して喜びはしない。そんなこと分かっている。だが、私はそれでも今は亡き妻と娘に本来あるべきだった平穏を過ごし、自由というものを謳歌して欲しい。
―――この世界は悲劇に満ちている。
今までも、最後すらも悲劇で締め括られてしまうが、その悲劇によって甦った家族が生きていれば私はそれで良い。───それ以外、何も要らない。
『神無き世に現れた我等が光よ、我が願い、我等が悲願を叶え給え。我等は長い時を歩み、短き生を生きるもの。あぁ、我等が罪を許し給え。我等が、業を憎み給え。そこには何もなく、我等の軌跡は虚ろへ帰す』
『禁忌式反転呪術───リバース、発動』
反転呪術リバース、それは太古の英雄ネヴ・スルミルが編み出した反転呪術の最高峰。考案した彼ですら恐れた原初の呪術だ。
神への反逆、理からの完全なる離脱。神に見捨てられ、通常の理から外れたこの都市だからこそ成せる禁忌の呪法が遂に発動する。
空間が歪むほどの振動と鼓膜を突き破っていくような甲高い笛の音。その中心にて老人は叫ぶ。
『―――我等を見捨てし神、我等が見捨てし女神よ!!我等が人類の愚かさを許したまえ!!人は遂に奇跡に至った!!』
高らかな口上、それに同調するように幾重にも出現する光の輪。見つめることすら憚られるあまりにも美しき光輪は地下から地上へ向かい上昇していく。
ありとあらゆる物質を透過し、その後に光へ変換しながら頭上、今も尚燦々と輝き続ける太陽を囲むように展開されていく。
「これが...反転呪術リバース」
呼吸すらも忘れるくらいに美しい光景だった。今まで生きてきた中でこれほど美しい景色を彼等は知らない。彼方にて人を照らす太陽も、夜空に輝く無数の星々すらもこの光景には遠く及ばないだろう。
人智を超え、神の領域に踏みいった原初の呪いはこの都市に存在する命を光へと変換し、魂の回収を行う。
「あぁ。これで全て...」
反転呪術の発動は叶った。これから魂が一ヶ所へ集められ現存する一部を除いた命と引き換えにダオの望んだ者達の復活が行われる。
全てが終わり、ここから新たな世界が始まるのだ。
「――――――終わりだ。全ての希望、絶望はここで終わりを告げる」
呪術を発動させたダオの背後、護衛役として連れてきたウルペース二人の首から上が床に転がり、ダオの心臓へ鋭利な刃物が突き刺さる。
「―――がっ。ぅあ」
ウルペースの青年、の姿を模倣したネヴ・スルミルは呪術を発動させその光景に酔いしれていた二人のウルペースを殺し、遂にダオの心臓を捉えた。
「度重なる妨害と地獄の目より逃れながら企てた計画。僅か数十年で驚異に至るまで成長を遂げたお前に敬意を示そう。―――長く、苦しい戦いだったろう。それも今ここで終わりだ。奇跡へ至った賢人よ、ここで眠れ」
最初から最後までネヴ・スルミルという男に踊らされていたに過ぎない。
英雄であるネヴ・スルミルの亡骸を喰らい、本来得るはずだった唯一の兄妹である妹と過ごした僅かな平穏の記憶、ネヴ・スルミルという名前を取り戻し、信仰都市を終わらせる存在として長らく人々を扇動し悲劇を積み重ねてきた元凶は遂に姿を現し、横から全てを掻っ攫っていく。
失われていく血と意識、最早死にかけの体だ。
―――だが、終わらない。終わることをこの老人は許さない。
「待って...いたぞ。ネヴ......スルミル」
背後に現れた青年の手を掴み、ダオはゆっくりと振り返る。
「この――――――バケモノが」
ネヴ・スルミルが苦し紛れに笑ってしまう程の生に対する執着心を見せるダオ。
不意の一撃、それも決定的かつ、人間であれば死んでいるのが当たり前の心臓に穿たれた穴。それでも老人は不敵に笑いながら手を掴んだ。
「わた...しの目、は。『お前を...捉えた』」
「自身の魂と他者の魂の共有...っ。俺ごと道連れにする気か!!」
「考えて、みれば。おかしいことしか...なかった」
何故黒羽を連れてきてまで戻ってくる必要があった。何かしらのイレギュラーでリアという神の雷を真正面から打ち破ったあの女が居なかったとしても、黒羽が戦力の増強になるとはとてもではないが思えない。
一度発動すれば敵味方関係なく被害を及ぼす爆弾、しかも敵の手に渡ればその時点で敗北が決定する彼を連れてくるメリットがアカツキ陣営には存在しない。
―――ならばどうして黒羽は現れた。
ダオが行き着いた答えは結果だけを見れば合ってはいないだろう。
ガルナは黒羽を連れてきた事を自身の落ち度と認め、後悔したのだから。
───しかし、その過ちが、ダオに疑念を抱かせたのだ。それはまさしく、彼等が最も憎む運命であった。
「黒羽が...捕まって得をする奴は私と、―――お前だ、ネヴ...スルミル!!」
死者を甦らせる際に魂は一度同じ場所に集められる。そこから外へ連れ出す命とその場に留まる命を選び、外から招かれた命と同じ数の命が外へと戻される。
ならばその道を閉じてしまえばどうなる?
答えは簡単だ。集められた命は一つたりとも外へ還ることはない。この都市のありとあらゆる生命の消滅を願うこの男にとっては願ってもない好機だ。
「これまで、何もしてこなかったはずが...ないだろう」
知識を求め、力を求め続けた。その為に救うよりも多くの命が犠牲になり、人生を幾度もやり直そうと払うことの出来ない罪を重ねてきた。
願いに向かい、死に向かって歩んできた道のりで多くのものを失い、多くのものを得てきた。
「今更、心臓を貫かれたくらいで―――死ぬものか」
「その発言、人間とは到底思えないな」
彼を今動かしているの心臓ではなく、意思だ。願いを叶える為に人の理から外れ、遂に老人は復讐を果たす。
「私が人に見えるか?私欲にまみれ、己に課せられた役割すら放棄し、人を破滅へと導くこの悪鬼が人に見えるなどと笑わせてくれる」
胸を穿ち貫いた刃物を素手で掴み、顔を上へ向けて空に向かい叫ぶ。
『―――門よ、我が願いに応じて開き、生命の檻を開きたまえ!!人を終わらせ、人の始まりに私は立ち会おう!!』
ネヴは直ぐ様刃物から手を離しその場から逃げ出そうとするが、ダオに睨まれた途端体の自由が奪われる。
「言っただろう。私の目はお前を、お前の魂を捉えた。どこへ逃げようとしても無駄だ。この祭壇より離れれば体を置き去りにして魂はこの場に留まり続ける。―――諦めるのだな、お前の、私達の敗北だ」
そうして最後の口上が告げられる。アマテラスがこの都市に現れる以前に死した人の魂の収監し、円環の輪に導く生命の檻が開かれる。
『――――――天を見下ろし、地を見上げよ!ここに破滅を告げ、新たな人の始まりを告げよう!!』
悲劇に始まり、悲劇に終わる。なんとも見映えのしない結末だがこれにて信仰都市を取り巻いていた悲劇と幸せは終わりを迎えた。
人の不幸しか積み重ねてこなかったこの物語。
「―――それももう、終わる」
ダオの願いに呼応し、アマテラスよりも以前にこの都市に存在していた女神が遺した魂を収監する遺物が長い時を経て目を覚ます。
空高くで輝いていた光輪はその色を赤黒く変えて、一つの世界の終演を告げる。各地で命が光へと還元されていき、ダオの体も淡い光となって次第に空へ還っていく。
その背後で苦しそうに胸を押さえながらダオを睨むネヴの横顔を尻目にダオは満足そうに笑った。
「ふはは。最後に良いものが見えた。これで、もう悔いは、な......ぃ」
苛烈な激戦と最後の頭脳戦でネヴ・スルミルを討ち取ることに成功した老人は瞳から光を失い、祭壇の上で倒れると同時にその途切れかけの命が光になり、空高く舞い上がっていく。
「―――ダオォォォォォ!!」
最後の最後に煮え湯を飲まされ、挙げ句の果てに道連れにされたネヴ・スルミルは怨敵の名前を最後に叫びながら生命の檻へ収監されていく。
全ての命は一つへ集い、遂に数多の命は地上より消え失せる。人を失い、静寂が満たす信仰都市、その頭上で尚も太陽は輝き続ける。
――――――その太陽を見上げる者は誰一人と存在しないというのに。