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遥か彼方の浮遊都市  作者: 神羅
【信仰都市編】
153/185

<置き去りにしてきた過去>

今回鬱要素とグロ要素強いので苦手な方は気をつけて下さい。

始まりは、辺り一面白に包まれた凍えるような冬の夜だった。


淡い光を湛える街灯、その下でボロボロの服を着た一人の少女が寒さに体を丸めて、必死に凍える夜に耐えていた。


この都市では珍しくもない捨て子の一人、それが私。―――この世界に肉親など居ない時点で、捨て子とは言えないかもしれないが、私が一人で居たことだけは確かだった。


暗い所に居ると過去のことばかり考えてしまう。暖かいベッドの上、痩せこけた体で眠る私の周りには友達やお父さん、お母さんが涙を流している。


どうして泣いているのかと聞くことは出来なかった。だって、体は言うことを聞かないし、喉も掠れた声すら出すことは出来ない。当たり前だ、―――もうその体に魂は入っていないのだから。


私の亡骸と、その周りで涙を流す大勢の人を私は上から見ていた。齢7にして原因不明の病により死んだ少女が私、天間雫だ。


医者は尽力した。持てる技術、知識を駆使して最後まで諦めることなく私を助けようとしてくれた。だから、私が死んだって誰もその人を責めることはしなかった。


遠ざかっていく愛しい人々の姿、魂が輪廻の輪へと導かれる。―――けれど、そこに割り込んでくる白い光があった。


詳しいことは今でも思い出すことは出来ない。唯一覚えていることは私の目の前に紫色の長い髪の女性が居たことだけ。


どのような会話をしたのかも覚えてはいない。しかし、気付いた時にはそこに居た。見覚えの無い風景、体の奥底で主張する謎の違和感の塊。


何をしていいのか分からない。当たり前だ、五歳まで何不自由なく生きて、五歳の秋に突然意識を失って以来、ずっとベッドの上で眠り続けていた少女に、生きていく為に必要なものは何ですかと聞いても困った声が帰ってくるだけだ。


だから、最初は家族を探した。どこかに居るのではないかと、もしかしたらさっきまでのは悪い夢でなのでは無いかと、ありもしない空想に浸りながら三日間、何も知らない都市を歩き続けた。


空腹だった。喉が乾いていて仕方がなかった。人肌が恋しくて仕方なかった。―――愛が欲しかった、誰かに助けて貰いたかった。


しかし、私が三日間歩いてたどり着いた場所は目が覚めた時の華やかな町とは違い、古びた家屋が立ち並ぶ小さな村だった。


一日を生き延びるのに必死な彼等はどこから来たかも分からない子供に貴重な食料と寝床を提供することは無かった。だから、何日間もこの村唯一の街灯の下で、泥水をすすって、地面を歩く蟻や虫を必死に頬張った。―――涙を流しながら。


1ヶ月くらい経った頃、体に異変を感じた。止まらぬ頭痛と吐き気、体の内側が焼けるように熱く、その場で一晩もがき苦しんだ。


そして、降りしきる冷たい雪に耐えながら、ボロボロの服で私はそこに寝転んでいた。


冷えていく体温とは裏腹に、何故かとても眠くなってきたと感じた私はその睡魔に抗うことが出来ず、意識を手放そうとした時、目の前に誰か立っていると気づく。ぼんやりとした視界、だがその声だけは鮮明に聞こえてきた。


「...酷い。こんなことになってるなんて」


そう言った女性と思われる人の周りには屈強そうな大人が何かの面を被って立っていた。


「レイ様、まさかこのような場所にいらっしゃるとは思いませんでした」


「このような場所なんて言わないで。ここは私の故郷です」


「それは失礼しました。ですが、神降祭の前に家出をされては困ります」


その言葉に女性は深々と嘆息して、私の前に座り込む。


「私の意思で逃げ出したのにこうなるなんて、お父さんの言うとおりね。結局、私は私の意思で生きるなんて出来ない。ごめんなさいね雫。私は、貴女に会ってしまった」


そう言って汚れた衣服で隠された痩せこけた私の体を女性は優しく抱き締めてくれた。


「せめて、一時の平穏を過ごせるように私頑張るから」


「レイ様、そのような小汚ない子供を連れて帰るつもりですか」


先程と同じ男の声、私のような子供を連れていくことを許さないといった若干の怒りが含まれた言葉にレイという女性はゆっくりと振り返り、返答する。


「言葉を慎みなさい。この子は巫女の後継者となる子です」


「まさか。貧民街、いや、今は街ですらないこの村の捨て子を後継者とするつもりですか...?」


「これは既に定められていた事です。貴方の主張よりも私の主張が優先されます」


幼い私では分からない話が交わされ、渋々といった感じで男は私を連れ帰ることを許可した。


「あら、起きてたのね。今はゆっくりと休んでいなさい。大丈夫、私は貴女の味方だから」


その暖かい言葉と、温もりを信じて私は眠りについた。



......。



目が覚めるとそこはまたも見覚えのない景色、というか天井があった。そして、私の横では涎を垂らしながら小さな赤ん坊が幸せそうに眠っていた。


「......」


その赤ん坊を起こさないようにゆっくりと体を起こす。そうして辺りを見渡すと昨夜私を抱き抱えてくれた女性がリンゴの皮を剥いていた。


「あら、起きたのね。おはよう」


「お姉さんは...」


「私?私はね、レイっていうの。貴女の名前は?」


「しずく。天間雫っていいます」


皮を剥き終わったリンゴを食べやすい大きさに切ったレイはそれを器に移して雫の前に差し出した。


「食べる?お腹減ってるよね。一応雫ちゃんの知ってる食べ物を選んでおいたの」


「.........」


1ヶ月ぶりのまともな食べ物に私は人に見られていることを気にせずに必死そうにむしゃぶりつく。


「あはは。良い食べっぷりね、まだあるわよ。食べる?」


雫はリンゴを口一杯に含んだまま顔をぶんぶんと前後に揺らしておかわりを求めると手際よくリンゴの皮を剥いた女性から渡されたおかわりのリンゴも頬張る。


「......っ!ッホ、ゲホッ...!」


「あ!喉につまっちゃったのね。ほら、急がなくても逃げたりしないから、ゆっくりと食べなさい」


雫の口元に水の入ったコップを近づけて、水を飲ませながらレイは背中をさする。


「―――ッ。うぅ...」


苦しそうな咳が次第に収まると次は別の何かが込み上げてくる。次第に咳は嗚咽に変わり、あんなに貴重だった水分が涙となって頬を伝っていく。


「...苦労したのね。大丈夫、大丈夫。これからは私が貴女を守ってあげるから」


「あ...り、がとう―――っ」


顔を涙と鼻水で汚しながら雫はゆっくりとリンゴを食べ進めていく。暖かい部屋、美味しい食べ物、昔は当たり前だったものがこんなにも幸せなものなのだと気付きもしなかった。


「リンゴ、美味しかった?」


「うん。うん...!」


涙を流し続ける雫の背中に手を伸ばしてそのまま引き寄せられるようにレイの胸元に顔が埋まっていく。


こんなにも暖かい体温を感じるなんて、一体どれくらいぶりだったろうか。1ヶ月の孤独はまるで何年も一人ぼっちだったかのように感じていた。誰かが助けてくれるだなんて思っても居なかったから、これからずぅーっと一人で生きていかなきゃならないんだと思っていたからこそ、この暖かさが胸を締め付ける。


苦しくなどはない。この胸を締め付けているものは幸せだ。こんなにも幸せだなんて感じたこと、今まで一度も無かった。きっと、これからの人生でもこの喜びを越えるものは現れないだろう。


―――それすらも忘れていた私が、薄情者で最低の人間が言えたことでは無かった、と今は付け加えておこう。


私が運ばれた先は信仰都市の中枢にある大きな神社、歴代の巫女達は天照神社と呼んでいたらしいが、そう呼ぶことを彼女は嫌っていた。


巫女という定められた時を歩く私が唯一出来る抵抗はそれくらいだと言っていた。神様にすがるのは一度だけで十分だ。後は自分の手でどうにかする、それをモットーに今まで生きてきたらしい。


「巫女って言うのはね、立派な役職とかじゃなくて、奴隷の一種だと私は思っているの。この都市に住まう人々が願ったことで生まれた負の遺産。巫女としての務めは七年、その後は次期候補に巫女を後継することで巫女のお仕事はおしまい。私はあと五年、そのあとは貴女が...」


そこでレイは言葉を詰まらせる。何もおかしいところなどない。それどころか当時の私は巫女であるあの人に救われたことで巫女というものに憧れていたのだ。それは誇るべきことではないか、誰かの為に頑張っている立派な人だと。


「ごめんなさいね。私には貴女を見捨てることは出来なかった。たとえ一時の平穏を過ごせても、その先は辛いことが待っているというのに」


「巫女って大変なの?じゃあ、私も頑張るね。―――お姉さんみたいに」


その言葉にレイは悲痛な顔で雫の体を抱き締めた。せめて今だけは幸せだと言えるように。その後に続く、地獄のような日々を生きる力になって欲しいと願って、彼女は雫の母親になると決意した。


「突然だけど、私のことはこれからお母さんって言ってね。跡取りの貴女はそれはもう私の子供みたいなものだから」


やや強引な手法、だがそれに何の違和感も抱かなかった雫は笑顔でレイのことを呼んだ。


「お母さん?」


と。


「......以外と破壊力高いわね」


まだようやく一歳になった彼女の子供はあれほど騒いでいたというのに未だに爆睡している。実の子供にお母さんと呼ばれる前にまさかこんな可愛い子供に言われるだなんて思っていなかったから、その言葉にレイは頬を赤らめた。


「そう。私が貴女のお母さんになってあげる。雫はお姉ちゃんだからね、―――ネオのこともちゃーんと面倒見て上げてね」


「お姉ちゃん...?えへへ、頑張るね」


これが私の始まりだった。そして、新しいお母さんと、一人の弟との出会いだった。


「この子が...。新しい巫女になる子か」


レイの紹介で仕事中のダオの下に訪れた雫を見て、やはりダオも少しだけ悲しそうに話していた。


「レイ、良いのか。確かに私はお前に予言の内容を伝えた。お前は言っていたではないか、誰かに整えられた道を進むなんて御免だと」


「うん。お父さんの言うとおり、私はこの子を見捨てることは出来なかった。私が拾わなかったとしても誰かに拾われて、幸せな日々を取り戻すかもしれないと分かっていても、見捨てられなかったの」


「分かった。お前がそれでいいなら、私は口出しをしない。せめて、その子を大事にしてやってくれ。私も休みが出来たらそちらに戻るようにする」


「うん。ありがとね、お父さん」


レイとの話を終えたダオはその後、ずっとレイの足元で立っていた雫の前にしゃがみこんで笑顔で挨拶をした。


「初めましてだね。私の名前はダオ、レイのお父さんだから、君にとってのおじいちゃんだ」


「おじいちゃん?」


「そう。これからは私とレイの二人で君のことを育てることになるだろう。よろしくね」


「うん!!よろしくおねがいします」


そう言った元気な雫のことを見て、ダオは少しだけ安堵したようで先程まで固まっていた表情を崩して微笑みを浮かべた。


「さ、私はもうすこし仕事がある。お前達は先に帰っていなさい」


「分かったわ。無茶はしないでね、お父さん」


「お前の父なのだから多少の頑張りは見せなくてはな。あぁ、そうだ。雫のお守りに何人かそちらに送ろうか?」


「大丈夫。この子もネオも私がちゃんと面倒を見ているわ」


レイの腕に抱かれてすやすやと寝息を立てるネオと足元でこちらを見上げている雫の顔を交互に見て、レイは母親としての務めを果たすことを決意した。


たった五年という短い時間、それを取っても余りある思い出を作っていこうと、この先訪れる別れがどんどん苦しいものになっていくが、この五年間が雫とネオの記憶の中で輝き続けるものとなることを祈って。


「さぁ、おじいちゃんはお仕事があるみたいだし帰るわよ。雫」


「はーい」


遠ざかっていく新しい孫と、娘の姿を見送った後にダオはゆっくりと溜め息を吐いて、目を閉じた。


「レイ、すまない。お前にそのような負担をかけたくはないが、そうでもしなければこの都市を守ることは出来ない。巫女という象徴が無ければ、簡単に崩れ去っていく脆い平穏を私は守らなければいけないのだ。一人の父親としてではなく、127代目の祭司として、それだけは見過ごすことは出来ない」


今まで長らく継がれてきた巫女と同じ時を生きた祭司という役職は年に一度の神降祭の下準備だけでなくこの都市全てを管轄する。時には外界から訪れる敵を撃退することは勿論、内側で生まれた反乱の芽も潰すのが仕事だ。


「...お前か。教会に情報を流した愚か者は」


暗く深い場所にある死の牢獄に投獄されたのはこの都市の情勢などを教会に流した犯人として捕まった男だ。


「久しぶり、お父さん」


「お前にそう呼ばれる筋合いはない。どうしてこんなことをした。レイは、ネオは、どうでもよかったのか」


「逆だよ、僕はあの子達に幸せになって欲しかった。縛られた定めから解き放って、異国の地でゆっくりと過ごしたかった。僕はこの先訪れる結末を看過することは出来ない」


私は手を下さねばならんのだ。客観的に、冷徹に、この都市を守るための選択を選び、たとえその男が愛娘が愛した夫だとしても、この都市の守護者として。


「明日、お前の死刑が決まった。後一日、ここで過ごすのだな。もし仮にお前が己の行いを反省するのならば私が止めることも...」


「それから先の言葉を言わないでください。僕がこの都市に災いをもたらそうとしたことは事実なのです。裏切り者は許さない、それが僕らウルペースの掟でしょう。私は裁かれるべくして、裁かれます」


―――救えない。娘が愛した男の命を守ることなんて、私には不可能だった。ならば、やれることはせめて苦しまずに送ってやることだけだ。


「明日、最後の迎えに来る」


踵を返して地上へ戻ろうとしたダオの足は、またも男の声によって止められた。


「お父さん、レイを、ネオを、―――雫を頼みます」


「...っ!!お前、どこでその名前を」


「......あれ?どうして僕は知らない人の名前を呼んだのでしょう」


三日前から捕らえられているこの男にとっては知るはずもない、新たな孫の名前。本人も自分の言葉に疑問を抱くというあり得ない事態だ。


「私の知らない何かがまだあるというのか」


ある一つの目的の為に祭司という役職に就いたダオすらも知らない何か、それはこの都市の始まりに関係することなのかもしれない。


この都市にある謎は多い。まずは人間の祈りに呼応して神、アマテラスがこの都市に舞い降りたという伝承に違和感の感じる箇所が幾つも存在した。


始まりからして、全てが間違っているのだとしたら?


この地獄のような今を切り開く鍵はもしかしたらそこにあるのかもしれない。



......



新しい雫の生活はとても幸せなものだった。何不自由なく毎日を弟や母親と過ごす雫の顔には常に笑顔があった。


「ネオ、朝だよー!」


「お姉ちゃんうるさい」


「朝なのー。朝御飯の時間です、起きろー!」


あの日、凍えるような夜から三年が経った頃、新しい転機が訪れた。


今日もいつもと変わらぬ日常、四歳になったネオの手を引いて雫は居間に向かうとそこには美味しそうな朝食をレイが運んでいる最中だった。


「あら、起きたのね二人とも。おはよう」


「お姉ちゃんに起こされた」


「起こして貰ったんでしょう?ネオったら起こさなかったらお昼まで寝てるんだもの」


「お姉ちゃんに感謝してね!」


「お姉ちゃん、そういうのを恩着せがましいって言うんだよね」


「お母さん、お母さん、ネオがお姉ちゃんの知らない難しい言葉覚えちゃった...!」


そんなやり取りもつい最近から始まったいつもの日常の一環だ。誰も起こさなかったら昼まで眠っているネオのことを起こした雫が居間に連れてくる。


そうして、他愛もない言葉を交わしあうのだ。


「お母さん、私も運ぶー」


「はいはい。落とさないでね」


レイからサラダの盛られた皿を渡された雫はテーブルの上に運んでいると、その後をネオがてくてくと付いていく。実の母親であるレイも驚くくらい雫とネオは仲が良くて、ネオはとても物覚えが早い。


「ネオはあの人に似たのかしらね」


レイが初めて愛した男との間に生まれたのがネオ、子供を身籠ったと聞いた時の彼の笑顔は今でも忘れることはないネオが生まれると何故か姿を消してしまったが、今もどこかで元気に生きてくれているだろうか。


ネオのことを見ているとそんなことを考えてしまう。無事で毎日を過ごしているだろうか、またいつか会えるだろうかと。


「あと二年、最後くらい会いたいなぁ...」


女手一つで雫とネオのことを育ててきたレイが時折見せる悲しそうな顔、それを知っているのはそれをこっそり覗いている雫だけだ。


「お姉ちゃん、どうしたの?」


「ううん。何でもないよ、ほら。お母さんのこと呼ぼうかなーって」


幼くて、鈍感な私でも薄々分かっていたのだろう。あの顔だけは自分にはどうすることも出来ないと。だからこそ、悲しいことを考えてしまう暇すら無いくらいに笑わせてあげようって、ずっと思っていた。


「おかーさん!ご飯、ご飯」


「あ、今行くから先に座っててー」


「はーい!」


その後は三人で食卓を囲んで、朝食を食べ終えると食器を片付けて境内に向かう。


「お掃除、お掃除♪」


最近になってようやくレイと境内の掃き掃除を手伝うことが出来るようになった雫は箒を持って外に出る。すると今日は珍しい来客が一人、なんとそこに男の子が立っていたのだ。


「ねぇねぇ、こんなところでどうしたの?」


「えぇっと、ダオさんにここに行けって」


年は自分と同じか一つ違いだろうか。黒髪に黒い瞳の男の子。


「お母さん、お母さん!!お客様だよ!ちーっちゃい男の子がお外に来てる!」


「あら、お昼に来るって話じゃなかったかしら。待っててね、着替えたらすぐに行くから」


「はーい」


その後走って外に戻るとそこにはネオとさっきの男の子がコマを回して遊んでいた。


「ねぇねぇ、もう一回!もう一回やって!僕も上手くなりたいの」


「こうやって、こうして、こう!」


「わー!綺麗に回ってる!お姉ちゃんは下手くそなのにお兄ちゃんは上手だね!」


「(ライバルだ!)」


雫の心に小さな闘争心が灯る。弟の称賛を受けていいのはお姉ちゃんである自分だけ、そんな我が儘な考えが雫の体を動かしてコマを回そうとするも、呆気なく失敗し撃沈した。


「ま、まぁ。練習すれば上手くなるから」


「...悔しい!ネオにお姉ちゃんの威厳を見せるはずだったのに」


「お姉ちゃんの下手くそー」


撃沈した雫に更にネオが追い討ちをかけると、雫はパタリと地面に倒れて、その場で踞る。


「くぅ...。ネオにバカにされたぁ」


「え、えぇ」


突然小さな男の子にコマを回してとせがまれたかと思ったら、その姉を名乗る人物に突然勝負だと言われて、勝負に負けたと思ったらその場に倒れる姿を見て、ただただ困惑することしか出来ない少年の下にレイが到着して。


「えっと...。これはどういう状況なのかしら」


地面に倒れて踞る娘と、その横でコマを回して遊ぶ息子と、その光景を見て困惑した様子の少年、大人のレイでもこの状況に至る経緯を察することは出来なかった。


「全く...雫達は。あぁ、本当に子供達がごめんなさいね」


「い、いえ。大丈夫です」


境内の掃除の前の来訪に再び居間に戻った雫は、名前も知らないライバルの横に座り、こそこそとネオと話をしている。


「ねぇねぇネオ、あの人どう思う?」


「かっこいい...」


「お姉ちゃんとどっちがかっこいい?」


「お兄ちゃん!」


こそこそと話している、風な二人の会話はその隣に座る彼だけでなくレイにも筒抜けだ。


「あはは。まぁ、いつもこんな感じなの。どう?上手くやれそう?」


「いえ。孤児の僕を引き取って下さっただけで感謝しています。それに、ここに居ると...何故か安心するんです」


「うん。なら良かった。じゃあ、私の娘と息子を紹介するわね。雫、ネオ、ほら自己紹介するの」


「ネオです。よろしくお願いします?」


「雫!よろしくはしないよ!ライバルだからね」


バチバチとこちらに熱視線を向けてくる少女に若干戸惑いながらも少年も自己紹介をした。


「どうも、黒羽勇也です。独特な名前かと思いますがこれからよろしくお願いします」


「クロバネユウヤ?かっこいい...」


「それ言ったらお姉ちゃんは天間雫なんだよ?かっこいいでしょ」


「かっこよくなーい」


仲が良いのか悪いのか分からない姉弟だが、黒羽はこの光景が何故か懐かしく、それなのに届かないようなものだと感じていた。自分の心の中に芽生えたこの違和感、それを知ったのはそう遠くない未来だった。


「それじゃあ、今日から黒羽も新しい家族の一員です。二人とも、仲良くしてね」


「うん!よろしくね、クロ兄ちゃん」


「ねぇ、どうしてネオはお姉ちゃんのことを差し置いてお姉ちゃんのライバルと仲良くなろうとしてるの?」


「かっこいいから!」


惜しみのない称賛に若干照れている黒羽を見て雫は頬を膨らませる。


「雫、さん。今日からよろしくお願いします」


「...はぁ。うん、今日からよろしくねクロバネ、さん」


差し出された手を雫は渋々と言った顔で握って挨拶を交わして、またいつもの日常に戻っていく。新しい家族の増えた、新しい日常に。


「はい。お掃除終わりです。黒羽君もありがとうね」


「いえ。僕にお手伝い出来ることがあれば言ってください」


「じゃあ、私の肩を揉んで。疲れちゃった」


「お姉ちゃん、おじいちゃんみたーい」


騒がしくも幸せな日常、二人の姉弟に振り回されながらも時間はゆっくりと、―――お別れに向けて進んでいく。


「雫、来年で貴女が新しい巫女になるの。だから、雫専用の巫女装束も用意してあるから、黒羽と一緒に頑張るのよ」


「うん!お祭りの舞も頑張って覚えたんだよ、だから安心して!雫頑張るから」


「あはは。それは楽しみね、雫の舞、お母さんも見てるから頑張るのよ」


「えへへ。任せてね」


あと一年後に控えている巫女の継承と雫にとって初めてとなる神降祭で見せる舞、それを考えて笑っている雫に、笑顔の娘を見て微笑む母親、幸せは何時だって一瞬だ。


知りもしなかった。知りたくなど無かった。巫女というものの意味を、それを継承するための―――地獄のような儀式も。


「黒羽、ネオ、ごめんなさいね。折角の雫の晴れ舞台なのに」


「いえいえ。ウルペースの皆さんの仕事を見たいと言ったのは僕達ですから」


「お姉ちゃん、頑張ってね。僕もウルペースの人達のお仕事を覚えてお姉ちゃんのお手伝いするから」


「任せて!お姉ちゃんが立派な巫女様になるのを見せられないのは残念だけど、お姉ちゃんの為に頑張ってくれるんだもんね。うん、本当にほんのちょっと、少しだけ、大分残念だけど、仕方ないよね」


狐の面を付けた人達が度々神社に訪れては巫女であるレイの手伝いをしていると知っていた黒羽とネオの二人は少しでも雫の助けになればとウルペースを率いているダオの推薦もあって、仕事の一日体験をすることになっていた。


その日が偶然、巫女継承の日に被っていた為に雫の晴れ舞台を見ることは出来ないが、きっと帰って来た時には立派な巫女としてこの都市の象徴としてなっていると信じて二人は馬車に乗る。


「黒羽、どうかネオをよろしくね。あの子ったら私に似てたまに一人で抱え込む癖があるから」


「...?はい、分かりました」


「あ、それとそれと。雫はたまーに抜けていて貴方に心配かけてしまうかもしれないけど、雫が巫女になったら貴方があの子を支えてあげてね」


「...レイさん?どうかしたんですか」


そんなこと、自分に言ってどうするのだろう。雫が巫女になってからもその隣に居たいとは思っているが、その役割はきっと先代巫女であるレイの役目だろう。


だからこそ、裏方などで支えていこうと思いネオと共にウルペースの一員となることを望んだのだ。


「ううん。何でもない。ねぇ、黒羽。最後にお願いしてもいいかしら」


「えぇ。僕に出来ることなら」


「貴方ったら恥ずかしがってか私のこと今まで一度もお母さんと言ってくれなかったじゃない?どう、ここで言ってみない?」


「...え、ええっと」


黒羽は雫達と二年間一緒に過ごしてきて、大分よそよそしい感じは抜けたが、それでもレイのことをお母さんと呼んだことは無かった。


それは黒羽が自身を卑下していたから。捨て子である自分が拾ってくれた人のことをお母さんと呼ぶなんてあり得ないと常日頃から思っていたからに他ならない。


「ま、また今度!帰ってきたら言いますから、もう少しだけ時間を下さい!!」


「あはは。ごめんね、無茶言っちゃって。うん、じゃあ行ってらっしゃい」


「はい。行ってきます」


馬車に乗り込み、ネオの隣に座った黒羽を確認した後二人を乗せた馬車は走り出す。


遠ざかっていくレイの姿を見て、黒羽は無性に不安感に駆られる。だが、今更戻ることなど出来はしない。それに、ネオを置いてきぼりにすること出来るはずがなく、その不安感を心の奥底に押し止めることしか出来なかった。


「行っちゃったね、ネオと黒羽」


「あの二人なら大丈夫よ。さ、私達も行きましょう」


レイの大きく温かく、柔らかい手に引かれて雫も歩きだす。神社へと戻る最中に多くの人が笑顔で雫とレイに話し掛けてくれて、雫は飴などを貰い、祭りの気分に浮かれたまま神社へと帰る。


「きつくない?大丈夫?少しだけ寒いだろうけど、我慢してね」


「うん!私、精一杯頑張るから。寒いのなんてへっちゃらだよ!!」


「強い子ね。雫」


娘の晴れ装束を見て、レイは瞳を少しだけ潤ませながら雫の少しだけ大きくなった体を抱き締める。


「お母さん?」


「ごめんね雫、もう少しだけこうさせててね」


「...うん」


暗い部屋の中で愛娘の体を抱き締める。最初はあんなに痩せこけていた体は五年間で平均的な体重に戻り、12才ともなれば次第に体も大きくなってくる。


その成長をここまで見れただけで十分だろう。幸せだった、とても満ち足りた日々だった。


「雫様、レイ様、もうじき日が暮れます。ご準備を」


「えぇ。雫の準備はできました。先に連れてって下さい」


「かしこまりました。雫様、ダオ様がお呼びですのでこちらへ」


「はい」


レイの抱擁から離れて、雫はてくてくと狐の面の男の下へと向かっていく。


「お母さん、行ってくるね」


「えぇ。行ってらっしゃい」


一人、一人だ。今思えばこの寂しさも久しぶりだった。―――私も捨て子だった。親の顔も覚えておらず、あの町で死にかけていた私を拾ってくれた人が先代の巫女とその夫であるダオ、つまりはお父さんとお母さんだった。


当時の巫女はとても強く、優しい人だった。見ず知らずの私を拾ってくれて、最初にリンゴを食べさせてくれた。あの時の味を私はいつまでも忘れることはないだろう。


あの時の思い出が私の巫女として生きてきた七年間を支えてくれた。そして、私、神成澪(しんじょうれい)の人生に意味を与えてくれた。


当時、巫女を継承したばかりの母さんに七年間育てられ、二十一のこの日、私は巫女を継承した。


お父さんは今年で58歳、母さんは()()()()()()32歳だ。何と26も離れているなんて、と私は思ったけど人を愛して初めてその理由が分かった。


「ねぇ、貴方は今も元気にしてるかしら」


結局、最後まで再会することは叶わなかった。あれほど恋い焦がれて、愛し合って、ネオが生まれたというのに。その子供を見る前に――――――旅立ってしまうなんて。


あの人はいつも私と一緒に居てくれた。だから、私の所に帰って来ないとは()()()()()()()()()


心配してくれた、愛してくれた。だから、ここに帰ってこないと知った時点でもうあの人は死んでしまっていることに気付いていた。それなのにいつまでも帰りを待ち続けるなど...。


「バカだなぁ...私」


しかし、それも今日で最後だ。悲しいこともあり、未練もたくさんあるが、あの人の下に行けるのなら、そう悪いことではないのかもしれない。


「...あれ?」


知らぬ間に頬を冷たい何かが通り抜けていった。それが涙だと気付いた時には、もう遅かった。


「なん...で。こうなることは、分かっていたでしょう...。こうなると知っていて、私...私は...っ!!」


それでも、それでも、あの子達の笑顔が見れないと思っただけで胸の奥底が苦しくなる。黒羽の時折見せる困った顔、ネオの可愛い寝顔、――――――雫の笑顔を思い出すと、どうしようもなく胸が苦しくなる。


「死にたく...ないなぁ。もっと、あの子達と一緒に過ごして、ご飯を食べて、一緒に寝て、一緒に笑って、皆が大人になって、私にも孫が出来て、年を取っておばあちゃんになって、たくさんの人に見守られながら死んでいくなんて。ワガママかなぁ...」


けれど、それに勝るとも劣らない多くの思い出を貰った。ネオとは七年、雫とは五年、黒羽とはたったの三年しか一緒に過ごせなかったが、数えきれない宝物を貰ったはずだ。


私よりもこれから雫達の方がもっと悲しむだろう。それなのに、こんなところでみっともなく泣いてどうする。


―――最後の巫女装束に身を包み、神成澪は部屋を出る。先に雫と話しているであろうダオの下へと向かい、歩いていく。



......。



「雫、立派になったな。あまりお前達の側に居てやれなくてすまなかった」


「ううん。大丈夫、それにおじいちゃんがたまに帰ってくる時にくれたお菓子美味しかったもん」


「そうか、それは良かった」


話したい事はそれだけじゃないはずだ。ダオ、お前にはやらなくちゃいけないことがあるはずだ。


「雫、これからの巫女継承の儀式についてだが...」


「うん。私、頑張るよ。お母さんみたいに立派な巫女様になるから!!」


「あ、あぁ。そうだな、あの子のように」


言え。言え。最初からそのつもりであの子は拾ってきたんだ。だからお前が言わないでどうする。――――――巫女を継ぐということは先代巫女を食すること。骨すら残らぬくらいにその全てを喰らうことなのだと。


お前が先延ばしにしてきたんだろう。いつか言おうと思っているだけだから今日まで言うことが出来なかったんだろう。


―――神は細部に宿る。この都市にそんな言葉を遺していった奴が居たから生まれた、そしてその迷信のような言葉を信じた愚衆共が神を介する巫女が死ねば、神をこの都市に縛り付ける事が出来ぬと焦った者達により生み出された負の歴史、それが巫女継承の儀式だ。


だから、お前が言うのだ。最後まで隠しても辛くなるだけだ。


「...あぁ、頑張ってくるんだぞ。雫」


―――言えなかった。また、言えなかったのかお前は。あの子と同じような絶望を、お前はこの子にさせるというのか!!


「ダオ様、そろそろお時間です」


男の言葉につい大きな声で叫びたくなる自分を抑えてダオは雫の手を取って立ち上がる。


「雫」


「うん。行ってきます」


「あぁ。行ってらっしゃい」


雫の手を引いた男が居なくなり、静かに扉が閉じる。ダオはふらふらとした足取りでソファーに座り、白髪の混じった頭を押さえる。


「すまない。私はまた過ちを...」


そうして、誰も居ない空間にただひたすらに懺悔し続ける。―――そうして、最後の別れが訪れる。


「お父さん、居る?」


ドアがノックされて、聞き馴れた声が向こうから聞こえてくる。


「あ、あぁ。レイか、入っていいぞ」


扉が開かれ、白を基調とした巫女装束に身を包んだレイが部屋に入ってくると、ダオは再び顔を俯けた。


「もう、お父さんったらいつもみたいにシャキッとしてよ」


「私は、また見送ることしか出来ない。愛した妻を、娘が愛した夫を、愛娘が死んでいくのを見送ることしか出来ないのだ」


そのダオの言葉にレイは一瞬驚いた顔をして、その後薄く微笑んだ。とても、とても幸せそうに。


「あーぁ。やっぱりあの人ったら無茶したのね。大体考えてることなんて分かるわよ。私たちを外に逃がしたかった、でしょう?」


「言い訳に聞こえるかもしれないが助けようとした。また、お前の下に帰れるように」


「でも、あの人はウルペースだから規律違反を重んじた」


全て、全てレイにはお見通しだった。愛した夫のこと、大事な父親のことも。


「お父さんごめんね。私が言えれば良かったのに」


「いや。元より儀式の内容を伝えるのは祭司の役目だ。言えなかったのは私の弱さだ。かつてのお前にも言えなかった...。私は、最低な男だ」


どこまで行っても祭司も巫女もこの信仰都市という場所の奴隷でしかない。長らく続いてきた風習、町に住まう巫女とは無関係な人々にとっては当たり前に行われるべきものとして巫女継承の儀式は七年という周期で行われる。


どれだけこの儀式を取り止めようと思ったか分からない。しかし、都市を守る役目を担うダオにはそれをすることが出来なかった。一を救うために全を捨てる覚悟が無かったのだ。


「神を宿した巫女の体はどれだけ足掻こうと八年しか生きられない。神を宿す器が小さければ神を降ろすことは叶わず、太古の昔は八年と待たずその身を他の者に喰わせたのだという」


「うん。お母さんも私も器が小さくて、結局声を聞くことすら叶わなかった。だからお父さんはあの神社に人が立ち入るのを禁じて、昔から行われていた年に三度の神降ろしによる占いも廃止した。神を降ろせないと知った民衆が先走らないように」


「それくらいだよ。お前達に平穏を過ごしてもらう為に出来たのは」


最初は反感だらけだったがダオの根回しにより巫女を一般人では見られないように神格化することで、民に納得させ買い出しなどは常にウルペースに任せて、巫女の生活範囲を神社のみにさせることでそれを防いだ。


「巫女になってからというもの、あまり外を出歩けなかったろう。お前はあんなに外で遊ぶのが好きだったというのに」


「それもお父さんの優しさだって知ってたよ。だから辛くなかったって言ったら嘘になるけど我慢できた。たまーに外に出たくてウルペースの人に一芝居打って貰ってネオを預けて外に出てたけど」


「そうだったのか。まさかウルペースの中にそのような奴が居たとは」


「あ、その人を怒らないでね。私のワガママを聞いて貰っただけなんだから」


いつもと変わらぬ娘の姿、その姿を見るのも今日で最後になってしまうのだ。辛くない訳が無い。それでも娘が我慢しているというのに、父親である自分が泣いてどうする。


「......あはは。駄目ね、私。また、泣いちゃって...さ」


――――――その必死の抵抗も、娘の見せた笑顔の前に崩れ落ちた。


綺麗な蒼を湛えた瞳から涙を流して、レイは笑顔でダオの体に飛び付いた。


「ありがとうね、お父さん。こんな私を愛して、育ててくれて」


「......っ!」


一度目の妻との別れを体験して尚、二度目の別れが霞むことなど無かった。むしろ、別れを繰り返せば繰り返すほど蒸し返してきた過去の記憶と共に心を打ち砕いていく。


「あいつにも、お前のお母さんにも言われたよ。こんな愚かな私に...。愛してくれてありがとう、と」


「出来ることならお父さんともっと一緒に居たかったよ。あの子達と一緒にピクニックに行ったりもしたかったんだよ。でも、私は今までワガママばっか言ってきたから我慢するね」


「あぁ。そんな幸せな日常を私も過ごしたかったよ、零」


「じゃあ、行ってくるね。お父さん」


「...行ってらっしゃい。また、あの世で会おう。大事な娘よ」


それっきりだ。これ以上二人の間に会話は交わされなかった。それだけでもう十分だった。


意識があるままでは苦しいだろうとダオが開発した魔力の循環を緩やかに停止させ、心停止させる薬品をレイの体に投与して、その遺体が運ばれる。


「お母さん、まだかなぁ。それに何だろう、この大きな机」


頑丈に作られた鉄製の大きな机が雫の前に用意され、その周囲には多くの人が立っていた。その顔は祭りで浮かれているとはいえ、張り付いたような笑顔でこれから起こる巫女継承の儀式を心待ちにしていた。


「大丈夫、私は強い子だから我慢する」


その光景に身震いしながらも雫は来るべき巫女継承の儀式に備えて心を落ち着かせていた。


「―――聞け。信仰都市に住まう民よ。準備は整った」


「「「「お、おおおおおおおおおおおおおおおお!!」」」」


そして、時は訪れた。


神社、境内から現れた一人の男の言葉により民衆のボルテージは一気に最高潮に達する。


「えぇっと。おじいちゃん、じゃないよね」


着ている衣装はダオと殆んど同じものだが、その声は若くダオには失礼だが年を取っている彼には出せないものだ。


「じゃあ、あの人が」


「―――今宵、巫女継承の儀に馳せ参じた。初代祭司のネヴ・スルミルと申します」


この都市の設立に関わり、神降ろしの功労者としてアマテラスとの間に交わされた契約により七年周期で甦る半分人間半分死者の男の名前、それがネヴ・スルミルだ。


「大変長らくお待たせ致しました。我ら信仰都市に住まう者にとって節目となる巫女継承の儀式、是非歴史の変わる瞬間をその目で見ていただきたい!!」


その男の言葉に更に観衆は熱狂して、理解不能な言葉が雫の周囲を満たしていく。


「それではお出でいただきましょうか。先代巫女、神成澪をこちらに!!」


「あ、レイってお母さんだよね。どこだろう。えへへ、一人で待ってたよって言ったら褒めてくれるかな」


観衆が左右に別れ、その間を六つの箱を持った狐の面を被った男女が通りすぎていく。


「何だろう、あの箱。それにお母さんも来ないし」


そして、その箱は雫の前に用意された机に並べられ、それぞれが箱の上部に備え付けられた取っ手に手をかける。


「準備が整いました。それでは、巫女継承の儀式を始めましょう!!」


「―――待って!!」


レイが来ないというのに巫女継承の儀式を始めようとさるネヴ・スルミルに雫が叫ぶ。


「おや、どうか致しましたか?我らが巫女になる雫様」


「え、えっと...。お母さんがまだ来てないよ?」


その言葉にネヴ・スルミルはポカンとした顔の後に狂喜的な笑顔に変わり、大きな笑い声が上から降り注いでくる。


それと同時に狐の面を付けた男女を除いた観衆の全員がその笑い声に同調し、今度は場違いな笑いが辺りに響き渡る。老若男女、誰一人として笑わない者は雫とウルペースを除いて存在しない。


「いやいや、失礼致しました。それでは感動のご対面と行きましょうか...。開きなさい、ウルペース!!」


雫が振り返るとそこに用意されていた箱が一斉に開かれる。それは一瞬の内に開かれたにも関わらず雫の目にはゆっくりと開いていく。


不自然に下から漏れている赤い液体、次第に開けられていく箱の中に見える謎の物体。


脳裏を過った最悪の光景、見たくない光景はもしかしてから、現実へと変わっていく。


「―――――――――え?」


露になったそれは、誰よりも雫が慕い、愛していた自分の命の恩人であり、最愛の母。―――その、肉塊だ。


「きゃああああああぁぁぁぁぁ!!」


甲高い叫び声が広場を駆け巡り、雫がその場に崩れ落ちる。そして、目の前に広がる惨状から目を背けてその場に踞る。


「嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ」


独り言のように見たくもない現実から目を背けて「嘘だ」と言い続ける雫にまたも頭上から声が聞こえてくる。


「どうか致しましたか?」


その憎たらしい程に澄みきった男の声に返答すらせずに雫はその場で踞り、現実逃避し続ける。もう起きてしまったことは変えられないのに。


「仕方ありませんね。ウルペースの皆さん」


そして、静かにその現実逃避は終わりを告げた。雫の体が持ち上げられ、並べられた食卓に無理矢理座らされる。


それと同時に黙りきっていた民衆が歓喜するように叫ぶ。早くしろと、この都市を守るために巫女を継承しろと。


「神は細部に宿る、さあ食らいなさい。そして受け継ぐのです。出来損ないの巫女から、その血をすすり、その心臓を食らい新たな巫女として我等を導くのです」


食卓に並べられた地獄のような光景を見て、雫は椅子から転げ落ちてその場で胃の中にあったものを全て吐き出す。それだけに止まらず胃の残留物すら出せなくなり、込み上げる嘔吐感に抗えず、胃液と共に辺りに撒き散らされていく。


「胃の中を空っぽにしてまで食べたかったのですか?流石は新たな巫女だ」


黙れ。今すぐその口を閉じろ、聞きたくない。人殺しめ、私の母さんを返せ。


心の奥底で怒りが蓄積していく。


あぁ、そうだ。町の人と協力すれば、あの男の黙らない口を閉ざすことが出来るはずだ。お母さんは言っていた。町の人達は優しい人達だと。


「―――――――――ぁ」


だが、そんなことは偽りだった。町の人間が自身に向けるのは同情などといったものではない。そんな、優しい眼差しでは無かった。


「早く」


「我らを導いてくれ」


「食え」


「食え」「食え」「食え」「食え」


「「「「「「「「「「「食え」」」」」」」」」」」


どうしようもなく、救いようのないごみのような妄言がその腐った口から言い放たれた。その瞬間、視界に映る人間が一瞬で鬼のような形相へと変貌した。


「早くしろ!!神が居なくなってしまう」


「何のために自分が生まれたか理解しているのか!!」


四方から罵倒に似た言葉と共に敵視され、僅かに後退りするもその背後からも同じような罵倒を浴びせられ、目を閉じて、両手で耳を塞ぐことで言葉から彼等から必死に逃げようとする。


「うーん。これでは埒があきませんね。多少暴れても無理矢理食わせなさい」


その言葉と共に静観を決め込んでいた。ウルペースの男女が雫の体を無理矢理椅子に縛り付けて、その口元にスプーンで掬った肉の塊を差し出す。


「やだ、やだ...!!やめ...やめてよぉ...。悪いことしたなら謝るから...!!お願いします、お願いします。やだ、やだぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ」


口に捩じ込まれた物体が喉の上下と共に食堂を通って流されていく。生臭さが鼻腔を犯して、感じる匂い全てを腐らせていく


「ヴォ...」


凄まじい吐き気が再度込み上げてくると共に涙が両目から流れていく。


―――助けて。助けて、誰か。


それでも、彼女の味方はここに誰一人とて存在しない。今か今かと新たな巫女の誕生を心待ちにしている。その為にいかに非人道的、当たり前の論理から外れたことすら雫に強要する。


「時間はまだまだあります。ゆっくりとお食べくださいね、我等が巫女よ」


―――助けて、おじいちゃん。


――――――助けてネオ。


―――――――――助けて黒羽。


――――――――――――助けて、お母さん。


祈りは届かない。どれだけ良いことを積み上げてきたとしても、今の雫の願いを叶えてくれる神様なんてこの世には存在しない。


何故なら今まさにその神様を身に宿さんとしているのだ。巫女としての責務、永遠に逃れることの出来ない定められた道を進むだけの人形として、私は必要とされている。


だから、それを悟った私は抗うことをやめた。どんなに反抗し、並べられた母の遺体を食うことを拒んでも、それを肯定してくれる人は居ない。


私に人間性など、必要無いのだ。この先、次の巫女が生まれるまでこの都市の奴隷として生きていく。それしか選択は許されていない。神様も、愚かな民も、ウルペースも、誰一人として私を助けてくれない。


ここには私を救ってくれる人はもう、居ない。その人の眼球はもう胃の中だ。優しく、暖かった指も口の中に詰め込まれ、喉の上下に合わせて胃の中に落ちていく。


次第に、抵抗する力が弱まり、洗脳されたように虚ろな瞳で、その人に届くことのない懺悔とともに雫はかつて母親だった肉の塊を、骨を噛み砕いていく。


骨を噛み砕いている時点で少しずつ人間からかけ離れた存在に成っていく事を自覚し始める。少しずつ、心の中から暖かい何かが外に流れていく。


―――最後に、その心臓を喰らうことで、巫女の力は完全に雫へと引き継がれた。


どこまでも愚かな民衆が歓喜に溢れ、辺りで抱き締めあい、踊り始める。虚ろな瞳の雫を背負った狐の面を被った女性が歩くとその回りに人だかりが出来て、雫に感謝の言葉を伝えていく。


「ありがとう」

「あり がとう」

「あり がと う」

「あり が とう」

「あ りがと う」


不揃いで、不出来で、救いようのない民衆から浴びせられた感謝の言葉は今まで聞いてきた如何なる罵詈雑言よりも醜く、憎たらしく聞こえた。


「...ごめんなさい。ごめんなさい」


熱狂的な民衆から離れたところで雫を背負っていた女性の口から懺悔の言葉が紡がれた。


―――もう、そんなことしても意味がないのに。


「...本当に、雫ちゃんにレイさんを食わせて、俺達何してるんだろうな」


次第に周りから苦しむ声が漏れ始める。どうしようも出来なかった。そうやって彼等は己の罪を正当化し続けるのだろう。


彼等ウルペースを率いるダオですらその呪縛から逃れることが出来なかったというのに、その配下である彼等に何が出来ただろうか。


巫女が居なくなること、それはすなわち神の祝福がこの都市から失われることに他ならない。そうなればかつてのように外界からの侵略行為や、教会にいつ殺されるかという恐怖に怯えて暮らしていかねばならない。


それだけではない。かつてこの都市を頻繁に襲っていた天災がまた起ころうものなら、この都市から平穏は失われていく。最初に犠牲の元に平穏が築かれた時に選択肢は剥奪された。


もしここで巫女の継承を放棄すれば、その礎になってきた彼女達の命はどうなる。だから、彼等はその失われた命に意味を与えるためにこれからも多くの死体を信仰都市を支えるために積んでいかなければならないのだ。


多数の平和は、少数の犠牲の上に成り立っている。


そんなこと、もっと前に知っておけば良かったのに。そうしたら、この苦しみも、少しは楽になっただろうか。


「生きたくないなぁ...」


ポツリと、誰にも聞こえないか細い声が雫の口から零れ落ちた。


このままでは誰かに自分と同じ思いをさせなければいけなくなる。あの愚かなゴミ共のことなどどうでもいい。いっそここで舌を噛んで死んでやろうか。


―――――――――。


脳裏を多くの思い出が駆け巡っていく。弟との他愛ない話と、黒羽とのコマ回し勝負、ダオから貰った美味しいお菓子の味、―――お母さんの柔らかな抱擁が、雫に命を絶つことをさせてくれない。


「死にたく、ないなぁ...」


死にたくて、けれど生きたい。どれも正しくて、どちらも間違っているとはいえない。多くの犠牲を出さない為には少しの犠牲を積み上げていかなければならない。


私達は、そんな矛盾だらけの世界に生まれてきてしまった。


知らなければ良かった。あんなにも美味しいリンゴの味を、家族と元気に過ごすことの喜びを。僅かに残っていた遠い世界の平穏の記憶はもう全て頭から不必要なものだと消されてしまった。


私にはあの平穏だけあれば良かった。毎日が笑顔で満たされて、たまに喧嘩をして、けれどちゃんと謝って。そんな、当たり前がいつまでも続けば良いと思っていただけなのに。そんなことすら許されないというのか。


季節は次第に移ろっていく。


ウルペースの一日体験から戻ってきた黒羽は雫の側にレイが居なかったことを疑問に思い、自室で引きこもり、涙を流し続ける私の姿を見て、今まで見たことのない怒った顔で外に飛び出した。


平穏は次第に私の下から離れていく。


ネオはあの夜起こったこと全てを伝えられ、母の喪失に耐えられず発狂して、母親を食った雫の首を絞めて殺そうとしたところをウルペースに止められ、ダオの保護下の下、隔離病棟に連れていかれた。


最後まで尽きることのない怨嗟の言葉が雫に浴びせられ、最後に見せた顔は自身のやってしまったことに気付き、涙を流して母と雫の名前を叫びながら去っていく悲痛な顔。けれど、そんな言葉すらも雫の心には響かなかった。


私から、家族が失われていく。


顔に大きな傷跡、右腕は千切れて小さな黒羽の体躯の近くに投げ捨てられていた。その隣に立っていた男の顔、声。それは忘れもしないあの夜、雫の母の命を奪って、無理矢理喰わせた男、ネヴ・スルミルだった。


「ダオの奴に殺しておけと命じていたというのに。あの男は無駄な私情で手間ばかりかけてくれる。そろそろ祭司の代替わりが必要か」


その時、私から最後の兄弟が失われ、唯一残った家族が罵られた瞬間、あの時ですら私を助けてくれなかった神様が私に力を与えてくれた。レイと出会ってから潜めていたとはいえ、稀に心臓の近くにあった違和感が完全なものとなり、雫の体に得体の知れない力が注ぎ込まれた。


雫の髪はストレスと神降ろしの莫大な負荷に耐えきれず、一度全て抜け落ち、その長く白い髪が異常な速度で生え揃っていく。おれほど透き通った青い瞳は怒りを体現するかのように赤へと色を変える。


「お前、アマテ...!!」


男の言葉が紡がれるよりも早く、男の体が得体の知れない力により壁へと叩きつけられる。


気づけば私が抱えていた黒羽の体は無くなっていて、その変わりに、憎たらしい男の顔が私の赤く濡れた右手に握られていた。


―――あぁ、死んでくれたんだ。ようやく、殺せたんだ。


殺したという罪悪感も、悲しいという気持ちも微塵も感じない。それどころか、心が晴れていっそ晴れ晴れしている。心地良いくらいだ。


―――このまま、母さんを見殺しにしたあいつらも...。


「雫、お前...。殺し、いや今はそんなことはどうでもいい。どこも痛くないか!?成熟しきっていない器で天照様の力を引き出したのか。そんな莫大な力を使えば体に負担が...!!」


ダオが息を切らしながら扉を勢いよく開けて、目の前に広がる惨状よりも雫のことを最優先に心配する。


辺りには血と臓物が飛び散り、雫の血に汚れた手を取ってダオは怪我をしていないか確認する。


「あはは。大丈夫だよ、おじいちゃん。何だかね、とーっても調子が良いの。それに気分も良くって。―――今なら、何でも出来る気がする」


この惨状を作り上げた少女は恐ろしい程に屈託なく嗤った。その異常ないつもの笑顔を見たダオは衣服が汚れるのも無視して雫のことを抱き締めた。


「すまない。お前達にばかり、こんな思いをさせてしまって。私はどこまで行っても愚かな人間でしかない。―――こんなことでしか、お前達を救えないのだから」


雫の額にダオの指が触れると、視界を淡い光が数度点滅して雫の意識を眠らせていく。そこから記憶がシャットアウトした。


気付けばそこで寝ていて、体を起こすと頬を冷たい何かが流れていった。その涙の意味を知らない私はゆっくりと立ち上がる。


「あれ、私。何してたんだっけ」


そうしておじいちゃんの優しさによって、狂っていくはずの私は、また天間雫として生きていくことになった。


「この写真、何なんだろう。写ってるのは私とネオと、おじいちゃんと...。このお姉さんと男の子、誰だろう?」


かつて家族全員で撮った写真、かつての幸せな記憶ごと私の中から失われたことに、何の疑問も抱かないまま、見ていると心臓の辺りが痛くなるという理由でその写真を戸棚の奥底に閉まった。


これが巫女の歴史と私、天間雫の全てだ。

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