<内側にあるもの>
痛い。痛い、痛い、痛い、痛い。
どうして、こんなに苦しくて、辛くて、痛いのだろう。これは自分の物ではないと分かっているのに、心が少しずつひび割れていく。
―――守れなかった。
違う。
―――間に合わなかった。
違う違う違う!
―――どうしてだ。
そんなの...決まっている。
...駄目だ。奪われる。声に反応するな、きっと戻ってこれなくなる。
『仕方がなかった』
声が、鮮明になっていく。体の中から、誰かが自分という存在を塗りつぶして外に出てこようとしている。
「マズイな...」
「ガルナ、あんたも感じてる?」
「あぁ、最悪だ」
アカツキが心の中で必死に何かを押し止めている間、外ではガルナとナナの二人がいち早く最悪の事態になっていることに気づく。
「―――囲まれてる。この速度に付いてこれるとか、余程馬鹿げた身体能力をしてるか、そういう風に造られてるか。どっちかだろうね」
「それだけじゃない。アカツキの魔力が変異してきている。既に半分別物だぞ」
アカツキの容態は急激に悪化している。そもそも二つの魔力が混在するなど、殆んどあり得ないのだ。しかもそれが両方とも逸脱した魔力を持った神器ともなれば、簡単にアカツキの器は壊れてしまうだろう。
「どうする。優先すべきは進路の確保だが、その間アカツキの容態が急変した場合、最悪の事態になるのは免れないぞ」
「―――簡単なことだ」
ガルナの選択を迫るような質問に、即答したのは以外なことにこの男、黒羽であった。
「何か策があるのか、クロバネ」
「何故選ぶ。何故迷う。俺達が進む道はとうに決まっているというのに」
「勿体ぶるな、さっさと言え」
アカツキの容態が悪化していることもあり、今のガルナにはあまり余裕が見受けられない。
しかし、クロバネは迷わぬ口調で空へ包帯のついた右腕を掲げる。
「―――両方やればいい。その為の力も、知恵も、我等は身に付けているのだから!」
「何を馬鹿げたことを...」
ガルナは知らない。彼の持つ手帳にも記されていない、会ったばかりの存在が、ガルナの思っている以上の力を持っていることを。
「―――同感だね!!」
ナナはそう叫ぶと、二頭の狼の頭上を越え、風を遮る加護を持った荷台から飛び出し、その上へ足をつける。テントのように覆われている荷台の中から出れば、そこは暴風のように吹き荒れる風を浴びることになる。
だが、その吹き荒れる風をナナは自身の周囲に宿らせた風の障壁で防ぐことが出来る。
「道を阻む奴が居るなら、全部退かせるまで!」
一条の閃光と共に、周囲から感じていた殺気と、人の気配が消滅する。
「―――掛かってきな。こちとら、大人しくしてるタマじゃないんだ」
あまりにも予定外過ぎる。実際、クレアも本気のナナを見るのは初めてとなる。前回は守りに徹していたこともあり、クルスタミナと対峙した時でさえ、彼女は周りに気を配らせていた。
―――ある程度制御を効かせた無差別な攻撃。
次々と放たれる空間を駆け抜ける閃光と、荒れ狂う暴風が夜空の下を駆け巡り、進路を塞がんとする敵を撃ち漏らすことなく撃退していく。
「なんという魔法の制御だ...。だが、確かにこれなら何とかなる」
ガルナだって二つのことを同時に出来るのならそれで良いとは、思っていた。
しかし、この中にここまでの戦力が眠っていることに気づかなかっただけ、片方のことならどうにか出来る自信はあったが、どうやらその必要もないらしい。
「多少強引だが、魔力のリソースを上書きすることで危険に晒されるなら、この方法が最適解だろう」
ガルナがアカツキの体へ手を翳すと、呻くアカツキの体を今のままの時間軸に固定する。
「体に対する負担は大きいが、死ぬよりはマシだ。持って一時間、その間にどうにかなるのか」
「ガルナさん...。前を、見てください」
クレアの震える声の指し示す先にはあまりにも強大な何かを持った、何かが立っている。一体何なのかすら理解できない。しかし、あれは人が戦って良い相手じゃないことだけが確かだった。
「―――来たか」
その瞬間、クロバネの瞳の色が明らかに変わる。何かの強い意思を宿している。それが一体何なのかは分からない。しかし、この状況で諦めていないのはクロバネだけであった。
クレアは恐怖に打ちのめされ、ガルナでさえ冷や汗を滲ませる。
「人間、今引き返せば命は取らん。それとも」
その何かの忠告とは裏腹に、あまりにも強大な力と共に、明確な殺意がガルナ達を圧倒する。立ち上がるという術すら奪うように、選択を迫っていながらも、答えは一つだけ。
「―――死ぬか?」
空間が震える。時間という概念すら感じられなくなる。恐怖が勇気を、決断を、全てを塗りつぶしていく。
「利口な奴も居れば、愚かな人間も居るということか」
あまりに唐突すぎる絶対的な存在の出現により、ガルナの魔法は僅か三分足らずで解除されてしまう。魔法の維持にまで手を回すことが出来なかったことにより、アカツキの体は遂に―――。
「―――貴様、一体どっちだ」
溢れる。溢れ落ちる。流れていく。闇が、全てを塗りつぶしていく。
その瞬間、目の前に居た何かが―――爆ぜる。何の予兆もなしに、空間から現れた闇の結晶が、爆発し、目の前の何かを粉々に...。
―――することはなかった。
「あまりにも歪な有り様。己とは別物の魂をそんなに抱え込んで、よくもまぁ壊れないものだ」
その声に反応することはない。言葉を交わすという必要性を持たないアカツキは、ただ無意識に、無差別に、攻撃を続けるのみ。
「人間の予言など、当てにならんと思ったが...。存外馬鹿に出来ぬな。のう、人間。―――お主はここで死ね」
今、この何かは目の前にいる少年を敵として認知した。そのあとは、あまりにも一方的な試合であり、蟻が人間と戦うように無謀なものであった。
「―――終わりか」
人影は地面に倒れ伏し、大量の血を流すアカツキの体を背負いあげる。
見ていただけだったが、その実力の差は一目瞭然。アカツキが何か行動を起こせば、それは知っていたかのようにあしらわれ、その何倍の威力もある攻撃のカウンターを受け、アカツキが敵に対して傷はおろか、触れることすら叶わずに敗北した。
「ガルナといったか。俺の話を忘れるな。そして、必ずたどり着け」
いまだに立ち上がる為の勇気を奪われ、身動きの取れないガルナにクロバネは何かを告げる。
彼にだけ聞こえるように言われた言葉、それを聞いたガルナは僅かに口を動かし。
「あ...いつを。た、のむ」
「あぁ。任された」
何故話が通じるのかは疑問ではない。ガルナだってあれが演技だったくらい、とうに見抜いていた。だが、このクロバネという男には力が備わっていない、あの自信満々な口調に見合うだけの実力が無いのもまた、感じ取っていたのだ。
だが、それでもいい。アカツキをどうか助けてくれと、そう願うしか、今のガルナには出来ない。
「やはり来ていたか。あの者が珍しく隠し事をすることだからそんなことだろうとは思ったが...。力無き貴様がどうしてここに居る」
「約束だ。ずっと、ずっと昔にした。それを果たすために、ここまでお膳立てしたんだ」
「...この状況を作り出したのは自分だと、そう言いたいのか」
刹那、クロバネの首筋に鋭い何かが当てられる。首を切り落とすには十分すぎる速度で振るわれた何かは、その首を地に落とすことなく、小さな切り傷を作るだけに留まる。
「そこまでして、何を望む」
「何度も言っているつもりなんだが、もう一度言うぞ。俺は、―――お前を救うために居るんだ」
「救う...?救うと来たか!」
大きく笑い出した影は楽しそうに乾いた声でひとしきり笑い終えた後にクロバネの首に当てていた鋭利な刃物を離す。
「面白い。お前に興味が出てきた。あの者達を招くことは出来んが、貴様とこの者なら連れていってもやらんぞ?まぁ、宿というには薄暗く、窓の代わりに鉄格子がある部屋だがな」
「そうか、なら早くしろ。お前にとって渡ることくらい造作もないだろうに」
「そこまでお見通しか。良いだろう人間よ」
その影はクロバネと気を失っているアカツキに歓迎の言葉を口にする。
「―――ようこそ、信仰都市へ。あまり退屈させてくれるなよ、人間」
そして、あまりにも唐突すぎる出現と同じようにその影はアカツキを背負い、クロバネを連れて姿を消す。それと共に体を支配していた重圧感が消え、クレアとガルナは生きた心地のしない体で大きく息を吸う。
「ナナ、無事か」
その後、荷台の上で見張りのように立っていたナナの安否を確認する。
「少なくともあんたらよりはマシ。あの狐の仮面の奴等が接近したら撃退できるくらいにはね」
「個人差があるのか」
ガルナの横に居たクレアは、ガルナの比にならないくらいに震え、涙すら滲ませていた。当のガルナは考えるくらいしか許されておらず、ナナは残っていた残党を倒すくらいには自由が効いていた。
「耐性のようなものがあるのか?」
個人差、というよりも場数とかそういうもので決まるのだろうか。だとすれば、不完全な権現だったとはいえ、一度は天使を相手取ったガルナですら、動くことが出来ない中で、どうしてナナだけは...。
いや、今それを知る必要はない。聞いたところで答えないであろうというとも。
「成る程な。道理で教会が手に余している訳だ」
たとえ信仰心がそのまま自身の力に変わるという特異な力を持った教会の人間であれど、あれに敵うとは到底思えない。
下手をすれば、いや、最早実際に見たのだから疑うまでもない。
―――信仰の対象、神という人間とはかけ離れた上位の存在に人間が敵うはずがない。
「...まだか」
懐から取り出した手帳を捲っていく。もしかしたらこの一日でアカツキ達のことも記すようになると思っていたが、そこまで現実は甘くないようだ。
記憶の手帳というガルナが深く関わった人間の未来を断片的に文字として写し出す一種の未来視のような力を宿した代々ガルナの一族に伝わる秘された手帳。
クレアやナナはともかく、一時期は行動を共にしていたアカツキならばと期待したが...。
「やるしかない」
最後にクロバネから伝えられた言葉だけを頼りに、ガルナは二頭の狼に命じる。
「お前らには世話になってばかりだが、もう一走り頼むぞ」
ガルナ達同様に、圧倒的な恐怖に打ちのめされていたにも関わらず、二頭の狼は大きな雄叫びを上げながら、進行を開始する。
「どこに行くつもりー?」
見張りとして荷台の上に座るナナから言われた当然の疑問に、ガルナはクロバネから伝えられた言葉をそのまま口にする。
「信仰都市の中にある小さな神社だ。一目見ればそこが巫女が居る神社だと分かるらしい」
「んで?どうやって侵入するのさ。あいつらは斥候っぽいし。あんな化け物が率いる直属の部隊で来られたら流石に全滅するよ」
ナナは決して自分の力量を見誤ることはない。数と、ある程度の質を備えた人を殺すことに特化した部隊に囲まれれば、自分だけではどうにもならないことは知っている。
「なに、入るためのパスならそこら中に転がってるだろう?」
「―――本気?」
「本気さ」
周囲に倒れ伏す人影が身に付けている衣装、それを身につけることで部隊内部に侵入しようと言うのだ。
「けど私達の身代わりはどうするの?見た限りこいつらは殺すか捕らえるかしか命令されてないみたいだけど」
「なに。策は考えてあるさ。分かったらさっさと準備を開始するぞ。クレア、お前もそれでいいな?」
「あ...。はい」
あの恐怖がまだ抜け落ちていないのと、アカツキを失ったショックで大分滅入っているようで、クレアの顔色は蒼白であった。
「アカツキは死んでいない。こんなところで死ぬような奴ではないのだろう?」
そんなクレアを励ますようにガルナは遠くを見ながら見ながら誰よりもアカツキを信頼しているような口調で言う。
「それに事態は悪いことだけじゃない。アカツキが連れていかれた先に巫女が居るとすれば、きっとアカツキの中にあるメモリアの残骸は取り除かれるさ」
昔、クルスタミナとの戦闘に備えていたアレットから聞いた話では、巫女と呼ばれる少女は正義感の塊のような人間で、傷ついている人間には分け隔てなく手を伸ばしてたという。
敵の本拠地に連れていかれたとすれば、いくら敵であろうとアカツキの容態を心配した巫女が、治すことは十二分にある。優しさ、それ故の危うさを補う為のこの狐仮面の部隊。
「身ぐるみを剥いだらそいつらも荷台に詰め込め」
「はいはい。...私に合うサイズあるかな」
そう言ってナナは自身が気絶させた人間の中から、自分のサイズにあった服と仮面を着けている者を探す。
それから十分程経ち、一行は和服と狐の仮面に身を包みながらミミとロロを引き連れて歩き出す。
「ミミ、ロロ良い?また悪い奴等が来たら暴れる振りをするんだよ」
その言葉を肯定するようにナナの顔を舐めると、くすぐったそうに笑いながらナナは二頭の頭を優しく撫でる。
「さあ、行くぞ。時間は少ない」
ガルナの合図と共に、三人は闇夜の中を進み出す。