<貴方に愛を>
そこは、誰も居ない一人っきりの世界だ。
誰に望まれたでもない。頼まれたわけでもない。けれど、やらなければいけなかったのだ。
変えなければいけなかった。こんな理不尽な世界を。矛盾に満たされたこの世界を、もう一度再構築しなければいけなかった。
もう戻れない。もう、引き返せない。
―――幸せな世界。憎くてしょうがない世界。
僕は、それを全て―――破壊した。
「......!」
アカツキは暗くじめじめした病室で目を覚ました。
背中は冷や汗でびしょびしょになっており、いつもとは違うあまりにも鮮明な夢を思い出す。
炎で埋め尽くされた町、高い所から見下ろす自分の視線の下には無数の死体で埋め尽くされていた。
「これが...。お前の記憶なんだな、サタナス」
覚えている。あの夜のことも、女神との出会いも、自分がしようとしたことも。
「...くそ」
頭を押さえてアカツキは踞る。一人っきり。誰も居ない病室でアカツキは嗚咽をこぼし、ひっそりと泣く。
......。
次の日、いつもの定期検査でアオバはアカツキの病室へ訪れる。そこで、ようやくアカツキが目を覚ましていたことに気付き、誰よりも先に彼女を呼びに行った。
「―――アカツキさん!」
扉が勢いよく開き、クレアが部屋に飛び込んでくれる。それから遅れてくるようにアオバが到着した。
「あぁ、久しぶり。元気にしてたか、クレア」
「私は元気です。けど、どうして...」
クレアはアカツキの疲れきった顔と、光の灯さない瞳を見て、彼の心境を察した。
「アカツキさんが、元気じゃないと。...私は悲しいですよ」
いつもの彼ではない。普通なら笑顔で迎えてくれたはずだ。そして、また何事もなかったかのように笑顔で―――。
「ごめん。来てくれて悪いけど、三日くらい一人にしてくれ」
それは、あまりにも傲慢すぎたのだ。いつも通りの彼を望むのはあまりにも酷というものだろう。
「戻りましょう、クレアさん。今は...一人に」
アオバでさえ、何も出来なかった。彼には治す術がなかったのだ。
体がいくら傷付こうと、腕がもがれようと、腹に大穴を開けられようと治してきた彼でさえも、心の傷を治すことは叶わなかった。
静かに扉が閉じていく。
最後にクレアが見た彼の顔から、大粒の涙が零れていた。
「最低だな、俺は」
薄暗い明かりが灯った部屋で、アカツキはポツリと言葉を溢した。
「知ってた。忘れてた。ぜーんぶ。俺が忘れてただけなんて」
約束も、交わした言の葉も、全てを忘れてしまっていた。
「お前は、本当に救われただろうか」
記憶に残り続ける少年の変わりきった姿。神器と呼ばれ、古から恐れられていた武器にも、人と同じ心を持った誰かが住んでいた。少年は、草原を駆け回っていた。
太陽に照らされながら、それはもう楽しそうに。
その横には、共に笑顔で走っている、少し背の大きい少年の姿、おそらく幼き日のサタナスの姿。
「俺が選ばなかった。だから、お前が選んだ。あいつのことを救うことを、メモリアが望んだ救済を」
また、こうだ。
1日経っても感傷に浸ることしか出来ない。
体はあまりにも重々しく、今にも潰れてしまいそうだ。
耳元では、今もクルスタミナの声がこびりついて離れない。
誰かに認めてほしかった。比べるばかりではなく、一人の人間として見てほしかった。
そんな彼の言葉を聞いて尚、俺は自分のために命を奪った。取り戻すには、クルスタミナを殺すしか方法が無かったから。そんな理由に甘えて、この剣を使って。
アカツキは手を伸ばし、ベッドの脇に立て掛けられた剣から鞘を抜こうとする。
「.........ヴォェ」
僅かな隙間から刃が覗いただけで、嘔吐感が込み上げてくる。抗えない気持ち悪さに身を委ね、袋の中に空っぽの胃から絞り出すように酸っぱい何かを吐き出す。
数分間、苦しみに悶えながら吐き続ける。
こうして、二日目も苦しみながらアカツキは過ごした。
「やぁ、こうして面と向かって話すのは初めてだね。僕はイロアス・イスカヌーサ、不出来な学院都市理事長さ」
「...何か」
「いや、そんな大した用事じゃない。君には本当に辛いことを背負わせてしまった。その詫びと、学院都市を守ってくれた君に対するお礼さ」
「詫びも礼も大丈夫。俺がやりたかったからした。殺したのも、クルスタミナと戦ったのも、俺が...。やらなくちゃいけなかった」
「...本当にすまない。僕には、どうしてもクルスタミナを殺すことが出来なかった。決定打にならないことを知っていて、彼を逃がしてしまった。僕の落ち度だ」
三日目、イロアスがアカツキの下を訪ね、彼に頭を下げた。
「よしてくれよ。俺には感謝される資格も、謝られるようなことなんて尚更...」
「いいや。この都市を救ってくれた英雄に対し、無下な扱いは出来ない」
「俺は殺したんだ。聞いちまったのに...。あいつが苦しんでた理由も、狂ってしまったことも知ったのに、俺は―――!」
「やるべきことをやれなかった人間が言うのも何だけど、君は正しいことをした。やるべきことを最後までやりきったんだ。例え、彼が狂ってしまった理由を知っても、彼は極悪人に間違いはない。君が苦しむ理由なんてこれっぽっちも...」
「初めてじゃない」
アカツキはイロアスの言葉を遮るように涙で濡れた顔で、苦しそうに呻くように言った。
「俺は、農業都市で、何人も殺してる。あのときはどうして何も思わなかったのか分からないけど、何の感慨も抱かずに、それこそ、高揚感すらあった!!自分が優位だから、選ばれていると錯覚して!」
感情が溢れ出す。溜めていた心の膿が外へ吐き出されていく。
「そして、俺は殺したんだ。自分すらも!クルスタミナと同じように、―――この心臓を貫いて!」
諦めたはずなのに、もう戻れないと知っていても選んだのは誰でもない、アカツキ自身だ。
「...すまない。こんなことになる前に、もっと早く到着していれば」
予想以上、しかし、当たり前だった。
まだ二十歳にもならない少年が背負うにはあまりにも重すぎる。過去の思い出したくない記憶すらもほじくりかえして、アカツキに更なる絶望を与えていた。
「...ごめん」
アカツキはハッとしたように我に帰り、顔を伏せた。そしてアオバやクレアを部屋から出したときと同じように。
「......一人に、してくれ」
静かに扉が閉まる。もう一度一人きりの時間が始まる。亡者の声が耳鳴りのように甲高い声で耳元で騒ぎ続ける。
――――――あれから、どれくらいの時間が経ったのだろう。
一週間か、それ以上か。
毎日三食のご飯も喉を通らず、アカツキの目には眠れないのか暗く深い隈が溜まり、明らかに衰弱しきっていた。
アオバの部屋にはクレアとナナが訪れていた。
「今朝の検診の結果です。やはり、目に見えて疲労が溜まっています。健康状態も少しずつですが悪化しています」
「...ったく。どうして一人で悩んでんだよ、バカ」
珍しくナナがアカツキを心配している。それくらい今のアカツキは見てられないのだろう。
「誰か来ても知り合いでない限り殆んど口を聞きませんし、必要最低限の言葉しか話しません。僕が会話をしようとしても、部屋を出ていってくれと。一人になったら自問自答か、泣き続けるか。精神的にも大分危険かと」
「どうにか出来ないのかよ。あんたは一番の医者なんだろ、あいつがまた、バカみたいにはしゃぎ回るくらいに...」
「期待に答えられなくて申し訳ありません。僕には彼を治すことは出来ません、本当にすみません」
「...言い過ぎた。あんまりにも人任せだった」
ナナは少し熱くなりすぎたのか、外で頭を冷やしてくると言い、部屋を後にした。一人残されたクレアは、俯いていた顔を上げて、アオバに告げる。
「私がもう一度会いに行きます。今度は一人で」
「中に入るのは簡単ですが、すぐに追い出されてしまうと思います。彼は自分の弱いところを誰かに見られたくないみたいなんです 」
アカツキが泣くのはいつも一人になってから、看護師やアオバなどが訪れると何事も無かったかのように感情のない顔で最低限の話しかしない。
自分が弱いと分かっているからこそ、誰かに弱いところを見られたくないのだろう。
「会って、話をするんです。いつもみたいに」
「...分かりました。その時間は誰も入らないようにしておきます」
「ありがとうごさいます」
クレアは一秒も惜しいようで、礼だけ言うと部屋を後にした。
アカツキの病室へと繋がる通路は夕焼けで赤く照らされていた。その中をクレアは一人で進んでいく。やがてアカツキの名前が書かれた看板が立て掛けられた部屋に到着する。
コンコンとノックをして、クレアは部屋の中からの応答も無しに入り込んでいく。
「...クレア?」
そこにはやはり、アオバの言うとおり一人で泣いていたアカツキの姿があった。少し痩せたのか、鎖骨のラインがはっきりしていて、目には隈と泣き腫らした痕が残っていた。
「―――アカツキさん」
そのあまりにも疲れきった体をクレアは優しく包み込む。一瞬ビクッと驚いて拒絶しようとしたアカツキだが、その引き離そうとして上げた手を弱々しく下ろす。
「...駄目だな。こんな姿を見せちまうなんて」
悲しそうに、苦しそうにアカツキはそう呟く。彼はいつも強くあろうとした。心配させたくなかったのだろう。
「いいえ。いいえ。私も間違っていました。いつも通りじゃなくたって良かった。こうして、向き合って、辛いことや悲しいことを受け止める。それが何よりも大事なんです」
クレアの頭の隅っこには昨夜の話で聞かされたことが今もちらついている。
『彼はいずれ抱え込めなくなった闇を爆発させる。それはやがて世界を飲み込み、大切なものを奪い、果てには自分という存在すらも消してしまう。そんな危険性を孕んだものなんですよ』
そうなってしまわないように支えよう。
『守るという思いは時に狂気です。守るための手段を選ばなければ、それはただの虐殺にしかならないのだから』
狂ってしまわないように寄り添おう。
『そして、彼の中に潜む破壊者。彼の全盛期の力を持ってすればかつての地獄を再現するのは容易い。今は多くの束縛により、かつての力を持ちませんが、アカツキの持つ神器や深淵を司る魔法を持ってすれば、かつての地獄以上の絶望が世界を満たす。体を奪われ、意思を奪われば世界は変わる』
奪われないように共に過ごそう。苦しいことは吐き出してしまえばいい。憎しみに囚われないように―――愛してあげればいい。
『それでも、まだ貴方達は彼の味方であり続けますか?』
あり続けよう。たとえ、世界に歯向かおうとも私は最後までアカツキさんを信じよう。苦しい時こそ、共に居よう。また彼の笑顔を見れるのならば、私はそれでいい。
「たくさん、一人で抱え込んでしまいましたね。今は泣いていいんです。もう、アカツキさんは一人じゃありません。私が、―――私達が一緒に居ますよ」
クレアに抱き締められているアカツキから僅かに嗚咽の声が溢れる。耐えてきた、こんな体でたくさんの悩みや不安を押し止めながら戦ってきたのだ。
優しくアカツキの背中を撫でる。
「―――大丈夫ですよ。側に居ますから」
アカツキの耳元で優しく声を掛ける。それを聞いたアカツキは今まで溜まっていた多くの葛藤や不安を打ち明けながら、涙を流し続けた。
一時間程経った頃だろうか。泣いていた顔はとても穏やかで、泣いていた声は寝息に変わっていた。
「お疲れ様です。今はたくさん休んでくださいね」
アカツキは変わっていく。この世界でたくさんのことを知り、たくさんの出会いで良くも悪くも、どんどん変わっていくだろう。だから、私が悪い方向に行かないように支え続けよう。そして、いつか打ち明けるのだ。
今は語れない自身の過去や、この胸の内に秘めた想いを。
「......どうやら私達が来るまでも無かったみたいだね」
「アズーリいいんだな。行かなくて」
「やれることはもう無いみたいだからね。さ、戻ろっか」
満足げに歩を進めるアズーリとそれに付いていくアラタ。二人もまた、あの大司教の警告を聞いても尚、アカツキを信じると誓った者だ。
いや、そもそも、あの場でアカツキを見限る者は誰一人として居なかった。確かにアカツキは危険な存在だ、だからどうしたとさえ言い切る者も居た。
アカツキは一人ではない。たくさんの仲間が居るのだ、それにアカツキが気付いていないだけ。
「あれ。さっき病院に向かったって聞いたんだけど」
農業都市から派遣された兵達と合流したアズーリ達の前に、今回の戦いでまたも腹に大穴を開けられたグルキスが戻ってきていた。
「もう行く必要が無くなったんでな。もう傷はいいのか」
「流石に二度も腹に風穴開けられると参っちゃうけど、アオバさんのおかげで何とかなったよ」
自分の腹をさすりながらグルキスが苦笑いで答える。どうやらまだ完治しているという訳ではなく、あくまで動ける程度には回復しただけらしい。
「複数箇所に大きな欠損を負うと再生力が分散されるみたいでね。それでも、農業都市の時に比べれば傷の治りはとてつもなく早いよ」
どうやらグルキスはミク、アカツキと続き三番目に危険な容態だったようで、アオバはその三人を重点的に治療を専念したらしい。
「それで?僕はもう大丈夫だけれど、戻るのかい」
「えぇ。私達もいつまでものんきにしてはいられないから。一先ずやることはやったので、これから農業都市に帰還することにする。一足先にグラフォルとアスタは戻ってるから、大丈夫だと思うけど、まだ不安定な都市を纏めるには私達が居ないといけないから」
アラタ、アズーリの二人が抑止力となり、それを支えるようにグラフォルやアスタ、裏での補助を死んだことになっているグルキスやアラタが行っている。
そんな彼等が総出で居なくなる訳にはいかないので、何人かは農業都市に残していたけれど、そう長い間留守にしておくわけにはいかないのだ。
「さ、行こうか」
こうして、少しずつ学院都市からアカツキを守るために参戦した人々が去っていく。
アズーリ達もそれぞれ様々な思いを抱きながら学院都市を後にする。あれほど人で溢れ出す町の中はひっそりと静まり帰り、ただ暗い闇が町を埋め尽くしていた。