<ちっぽけな戦い>
僕の兄は子供の頃から楽しそうによく笑う普通の子供だった。同じ寮に住む友達と寮内を走り回りながら、一日をとても楽しそうに過ごしていたのを、僕は今も覚えている。
僕と兄はたまに帰ってくる両親と会うのがとても楽しみで、お母さん達が帰ってくると寮母さんに聞いた時には次はどういう方法でびっくりさせるかという、悪巧みをよくしたものだ。
両親か僕らを寮に残して、何をしていたかは知らない。今思うと両親が何をしてたかなんて知らない方が幸せだったろう。それを知ることを恐れて僕らを寮に預けていたことさえ、知る由もなかったのだから。
勿論、僕らは両親が外でクルスタミナを学院都市から追放するか考えていたことなんて露知らず、毎日をそれはそれは楽しく元気に過ごしていた。
僕は勉強もせずにお菓子ばっかり食べていて、よくナギサさんに怒られていた気がする。その点ガルナは勉強も出来たし、運動も出来ていた。面倒くさがりの僕とは違い、やることはやるしっかりとした兄だった。
ただ、本当に、ごく稀に怖い顔をするときがあった。何を考えていたのか聞くと、自分でも何をしていたか分からずに首を傾げていた。
子供の頃の僕は兄の異常に特に関心を持っていなかった。本当にバカな奴だと思う。
僕にとって世界とはとても綺麗で素晴らしいものに見えていた。ガルナはいつかこの学院都市を出て、世界を見て回りたいと言うくらいには、夢を持っていた。
ただ、そのキラキラとしていて、もう二度と戻ってこない一時の夢はあの日、終わりを告げた。最初はどこかで火事が起こったという一報だけ。
どうやら寮からそれほど遠くない所で火事は起きたようで、夜遅くにも関わらず外は慌てふためいていた。その慌てぶりは普通の火事とは思えないくらい喧騒が飛び交っていたのを覚えている。
ガルナは窓を開けて遠くで赤く燃える光を見るなり、顔を青ざめさせて、いきなり寮を抜け出した。そのことを僕はナギサさんに伝えると、ナギサさんも寮を飛び出していった。
僕はナギサさんの言いつけを破ってこっそりと寮の外に出て、外で話している人達が何を話しているのか盗み聞きをする。
その内容は家事の起きた場所に住んでいるある団体の話。どうやらその団体はクルスタミナの悪事を掴み、告発することで学院都市を追放しようとしていたらしい。明日にはその内容を新聞にして各地に伝えようとしていたようで、町の中で少し話題になっていたようだ。
その団体に属する人達の名前の中に、僕の両親と同姓同名の人が居た。何かの間違いだろうと思っても、心の中は不安でざわついていた。
ガルナが寮を飛び出してから三時間後、血に濡れながら放心状態になっているガルナを背負ってナギサさんが寮に戻ってきた。
急いで医者を呼び、ガルナを診療してもらったが、特に大きな外傷はなかった。ただ怪我や骨折するよりも、絶望と言う病気はガルナをとことん苦しめた。
何日も一人で泣き続け、彼がもう一度僕らの前に姿を現す頃には完全な別人となっていた。
あれほど輝いて見えた笑顔も淡白で何も感情というものを示さない無垢な顔に、世界がとても素晴らしいものに見えていたであろう瞳に宿っていた光は消え去り、、冷徹な黒瞳でどこか遠くを見ていた。
母さんも、父さんも、兄すらも僕から離れていく。何より僕を苦しめたのは母の死だった。父さんがガルナに構ってばかりいた為か、僕と遊んでくれていたのは基本的に母さんだった。
父さんとガルナの二人も何やら隠し事をしているようだったが、僕は何をしているのか聞くことはなかった。父さんとガルナが何かをしているように、僕と母さんは―――――――――。していたんだ
―――――――――ってなんだろう。―――――――――は―――――――――だろう。
そうだ、僕と母さんには――――――がある。
これは力だ。何者にも負けない、もうこれ以上誰も失わない為の、大いなる力だ。さあ、振るおう。この力は絶対にして、究極の力だ。
もう失わない。もう奪われない。
そうだ!!
―――僕がガルナを殺して奪えばいい!!
こうしてガブィナは破綻していく。歪んだ彼の思いを体現するはその身に宿した太古の存在。長い間引き継がれてきた上位者である天使だ。
「ハハハハハハハハハ!!実に心地よいぞ!世界の香り、世界の景色!触れれば簡単に壊れてしまう人間!!これが世界か!これこそが世界だ!!」
不可視の衝撃波がガルナを直撃し、建物を幾重も突き破ってガルナの体は遥か遠くへ放り出される。内臓がごちゃごちゃにかき混ぜられてもおかしくない攻撃だが、ガルナは自身の時間を停止させることでその攻撃を完全に無力化する。
しかし、その攻撃は―――だが。
自身の時を止めると言うことはそんな簡単に出来て良いものではない。意識があるなかでやるとなれば尚更だ。攻撃の威力自体は無力化できても、止まった時間分、心臓を再稼働させることになる。
これが時間停止のデメリット。ガルナは周囲の時間を止めることは容易に出来ても、自身に対する時間停止は得意としていない。何故ならば、加減を知らず、一度の失敗が自死の道に繋がるためだ。
止まった時間分だけ体にのし掛かる疲労感、痛む心臓を押さえガルナは立ち上がる。
『そのままでは身が持たんぞ。自身の時を止めるくらいなら周囲の時間を停止させろ』
「止めても意味がない。あの不可視の攻撃は必中だ...。天使だか何だが知らないがそういった事象を書き換えることが出来るらしいのは確かだな。何度か同時に時を止めてみているが、効果は無いに等しいだろうな」
『成る程。そういう体験した情報も提供してくれ、あいつの司る力に迫れるかもしれん』
本来天使と言う存在はとうの昔に滅びた種族の一つ。理由は定かではないが、それでも絶滅したと確認される要因は人間の増殖と、天使が司ると言われていた魔力の自由化。太古の人類は天使によって人口数を調整されており、人が扱える魔力にも制限があった。
天使にはそれぞれが司る何かが存在する。それを判明することが出来れば、ガブィナの体を支配する天使を追い出す術を見つけ出すことが出来るかもしれないのだ。
だが...。
「アは、ハハハハハハ!ほらほらほらぁ!!守ってばかりじゃ...ブ...ガァ...」
天使が力を行使する度にガブィナの体は悲鳴を上げている。常人では行使できない力の代償は存在しないのだ。しかし、力を行使すればするほど人間から天使への体に変化していくことになる。その際にガブィナの体は拒絶反応を起こし、何度も吐血したり、骨が折れていく。
その痛みを体験するのは現在ガブィナの体を乗っ取っている天使なのだが、当の本人はこの痛みすらも懐かしく、愛しいものなのだ。痛みは生きている証拠、苦しみは生を実感させてくれるスパイス、更には自分好みの体に仕上がっていくとなれば力を行使することに躊躇いはないだろう。
時間はない。これ以上ガブィナの体を天使のものへと近づけてはいけない。
『大分危険な手にはなるが、奴を追い出す方法が一つある。あいつのサーチをするよりも、そちらの方が手っ取り早いだろうが、お前次第だ』
「なんだ。あいつを追い出せるなら何でも...!」
『殺せ。心臓を、或いは頭を潰せ。ガブィナの意識が完全に塗りつぶされるよりも早く殺すことで、天使の肉体のみを表に引きずり出す。そのあとに殺すことでようやく奴に死を与えることが出来る。死んだあとにはあのアオバとかいう医者に任せるしかあるまい。天使の体を人間のものに戻せるかは分からんがな』
助言を聞いたガルナは一瞬、視界が真っ白になる。選択肢は二つ。精神世界の奥底で眠るガブィナの意識が消えてしまう前に天使を無理矢理権現させ、殺すか。いつガブィナが完全に死ぬかも分からないまま、天使を追い出す為の条件を揃えるか。二つに一つ、決めるのは...。
―――俺だ。
『...ガブィナの意識が消えるまでに時間はそうないとだけは伝えておこう』
「ガブィナが戻ってくるという確証は...。無いのか」
『お前の仲間に居るあの娘ならガブィナの意識がどれだけ持つか目視、或いは精神世界に入り込むことは可能だったろうな。だが、ここに居るのは...。―――私と、お前だ。他には誰もいない』
この世界で頼れるものはラジエルと、ガルナ自身。其以外に助けてくれる者は存在しないのだ。
―――遠くで天使の放つ光が輝きを強めていく。時間はガルナに味方しない。時間は刻々と流れ、ガブィナの死は近づくばかりだ。
「やるしか、ないだろう」
何もしないで考えるよりも、少しでも自分が正しいと思える道を選ぶ。それが今の自分に出来る唯一のことだ。
『お前が選ぶことだ。私は口出しはせんよ。精々、悔いのない道を選ぶことだ』
遠くから放たれる膨大な魔力を帯びた光の槍。目視した時には対象を射殺す、その一撃はガブィナの周囲で止まり、不規則に揺れ始める。それから数秒後、光の槍は完全に砕け、光の塵が周囲に散乱する。
遠くでその光景を見ていた天使は今起きた出来事を即座に判断する。空間を歪める人の身には過ぎた力を、あの少年は行使する。百回以上殺したと思える規模の攻撃をしてきた。それをことごとく無力化したのも空間と時間を司る彼だからこそ出来たのだ。
ならば、狙うのは魔力切れ。あの少年の魔力の底がどこにあるかは分からないが、いずれ終わりは来るものだ。人間に永遠など、存在しないのだから。
そんなことを考えていた天使が次の一手を打つ前にガルナは動く。時間の巻き戻しにより、吹き飛ばされる前の地点にガルナは立っていた。天使の背後を取ったガルナがしたのは...。
「ガブィナ、ごめんな。どうか、こんな兄を許してくれ」
「きさ...!!」
半分天使の体へと変異していたガブィナの体は、跡形もなく世界から消滅する。空間をごちゃまぜにし、空間と空間の狭間へと天使を吹き飛ばし、例え天使であろうと逃れられない虚無のなかで、ガブィナの体は粉微塵に吹き飛び、―――新たに生成される。
「アは、ハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハ!!」
天使が権現した瞬間、空間を制止させたガブィナを除いて、壊れつつあった世界が漂白される。何もない一面真っ白な世界。そこに立っているのは完全とは言えないが復活を果たした純白の天使と弟を救うために立ち上がった一人の少年のみ。
戦うのだ。これは、都市を救うための戦いでもなければ、世界を救うなんていう大それたものでもない。ただ一人の血のつながった家族を、弟ガブィナを救うためのちっぽけな戦いである。