<呪われた血と祝福された血>
きっと僕がここに来るのは彼には分かっていたのだろう。白々しく驚いた素振りを見せてはいるが、辺りに黒く大きな羽が広がっていく。
やはり正確にあの存在を認識することは出来ない。全身が黒く塗りつぶされ、かろうじて人の形をしているであろうことだけが分かる。
「さて、警告しよう。―――君の足元はやがて崩落する」
ラジエルのその一言により、地面に大きな亀裂が生まれていく。異変にいち早く気づいたガブィナは跳躍し、近場の民家へ逃げ込む。
これはあくまで感でしかないが、さっきの口ぶりとその直後に起きた異変から、ラジエルの言葉は実際の出来事となる。しかし、それも完璧ではないはずだ。
どこかに弱点がある。ならば、まず頭に浮かんだのは認識されないこと。彼が局地的に言葉を実現させることが出来るのなら、自分がどこにいるのか分からなければ...。
「次の警告だ。君のいる民家は崩れ落ちる」
「っ...!」
そんな適当な口上でいいのか...!
ガブィナの勘は外れていた。自分がどこに隠れていようと、彼がガブィナという存在を認識してしまったその時から、視覚外に居ようと、言葉を実現させることができる。
ガブィナが民家を飛び出ると、目の前からラジエルが飛び込んでくる。
その手には黒い刃のようなものが握られており、それを素手で受け止めようとした瞬間、全身が寒気立つのを感じ、咄嗟に回避へと舵を変える。
後方で民家が崩れ落ちる音を聞きながら、ガブィナはラジエルの下に潜り込む。そのまま流れるような蹴りを顎目掛けて放つが、これは間一髪で避けられる。
首を大きく後ろへ曲げて回避したラジエルはガブィナを見ることなく、正確に刃を振り下ろす。
「この...化け物がっ!」
「酷い言いようだな。私からしたらその超人的な運動能力のほうが化け物じみていると思うが?」
ガブィナは地に着けていた手を使い、ラジエルの足を払う。足元が一瞬不安定になり、軌道がずれたことによりラジエルの振るった刃は頬を掠ることもなく空を切る。
「君に魔法が与えられなかったよく分かるな。君は今の状態で完成している。それ以上を与えては天秤が狂ってしまう」
「...どうして知っている」
「この体が体験したことは全て知っているさ。私はガルナと同化している。だが、私が彼の記憶を知っているように彼も私の記憶を見ていることだろう。しかし―――彼は私のことを君らに話さないだろう。そういう人間だからな」
ガルナのことをよく知っているのは今の言葉で理解できた。ガルナは多くを知っている。クルスタミナが行ってきた悪事、そして、両親が殺されるに至った経緯も。きっと全部知っているのだろう。
知っていても彼は他人にそれを話すことはしない。弟であれば尚更だろう。
「さて。これは私の力で起こすのではない。故に、これから起きることを君に伝えておこう。それを知っても尚私の前に立ち塞がるのであれば、私も全力で君の相手をしよう」
「何を言ってるんだ」
ガブィナの問いかけにラジエルは答える。
「―――あやふやだ。君はこの都市に居る人間と根本からして違うのだ。クルスタミナとの接触により引き起こされた過去の改竄が今まで続いている。本来であれば君は魔力の循環が止まり、魔法と言われる類いのものは使用できないのだが...。私から見たら君の周りに漂っている霧のようなものは魔力にしか見えない。つまり、君は世界から外れている。本来起きるはずのない事象が今まで続いている」
「......」
薄々気づいていた。今の自分の動きといい、確かに運動が得意だったとはいえ、ここまで思い通りに体が動くことはなかった。
であれは、何かしらの要因で運動能力が強化されていると言わざるを得ない。リナがここに居ない今、それが出来るのは自分だけだった。
「閉じ込められていた魔力が体に満ち溢れている。君の中だけで成立していた魔力の循環はいまや外界と繋がっていることになる。自分で言うのも何だが、私は常世の存在ではない。そんな私と戦っていれば君のあやふやな立ち位置が更にあやふやになり、別世界の存在になる。簡単に言えば君は誰からも忘れられるぞ。何せ、ここには居ない存在になるのだからな」
「...なんだ。―――そんなことか」
ラジエルの警告を聞いてガブィナは怖じ気づくでもなく、笑って見せた。
「なら、僕はここで死のう。ガルナを助けるために死ねるなら、僕はそれでいいよ」
その覚悟の言葉を聞き、僅かに影が揺れ。
「―――気に入った。お前は誰にも殺させはしない。例え世界の理であろうとな。お前を殺すのは私だ」
ラジエルの頭上に黒い輪が出現し、背中から生えていた黒き翼が不鮮明に揺れ始め、体から発せられていた黒い魔力が更に禍々しさを増していく。
正直に言って僕は戦うのが怖い。目の前にいる存在は人間に理解できるものではない。
「それでも、やらなくちゃいけない」
ガブィナが覚悟を決めると薄かった霧のようなものが光を帯び始める。体に纏っていたのは魔力で間違いはない、しかし、それはガブィナの意識外で行われていること。であれば...
「...ああ、そうか。お前の狙いはこれだったのか」
ガブィナにまとわりついていた魔力は大きな人の形へとなり、ガブィナを優しく包み込む。
『本当に...。いいのね?』
「うん。僕はガルナを助けたい、今度こそ家族を失わないって決めたんだ」
ガブィナに話し掛けてくれたのはもうこの世には居ないはずの家族の声。誰よりも自分を愛してくれていた母親のものだった。
『うん。お母さんがついてるから、精一杯戦いなさい。お兄ちゃんはすぐそこよ』
───光が、道を指し示してくれる。
そこに行けば、きっと僕は戻れないのだろう。けど、それでも僕は───。
「───お兄ちゃんを助けられれば、それでいいんだ」
どこか遠くの景色。白に染まった世界で少年はそう言って笑う。
「...来るか」
ガブィナの体から溢れる魔力は既に魔力と言われるものではなくなっていた。それはミクの扱っていた呪いのようで、しかしその性質は明らかに呪いとは対極にある。
これは遠い過去からの贈り物。いつも自分を見守ってくれていた母親の愛情が形になったもの。本来であればこうして形になることはあり得なかった。しかし、クルスタミナの記憶の改竄はガブィナという存在をあやふやにした。だからこそ、あり得ない事が起きるようになってしまった。
「―――つくづく面白い兄弟だな。兄は時間と空間を支配し、もう片方はこれか」
ガブィナの瞳には強い光が宿り、体に纏っていた魔力は神々しくなっている。ガブィナから感じられるその異質な力はこの世ならざるもの。
ガブィナは選んだのだ。この世界の枠組みから外れることを。
対価はどれだけ必要とされるか分からない。この世からガブィナという存在は消え失せてしまうかもしれない。けれど、それを受け入れることは容易い。
もう、諦めないと誓ってしまった。ここから逃げ出すことは誰でもなく、自分が許さない。
「死を恐れぬなど難儀な性格だ。人間は欲に忠実に生きる生物だ。お前に欠けていたものの中でもそれが一番だろうよ」
言葉の後にラジエルは魔力を掌に集中させる。
そのわずが一秒後、掌から全てを飲み込む闇が溢れ出す。コップから止めどなく溢れる水のように闇は全てを飲み込んでいく...。と思われたのだが、結果は違った。
底の見えない闇を前にしても一切怯むことなくガブィナは歩を進める。ガブィナが闇に触れた瞬間、シャボン玉のような闇の球体となって空に浮かんでいき、音もなく割れる。
そう、全てを飲み込むはずの闇がそれだけで終わってしまったのだ。
「...出ていけよ、その体から」
ガブィナが掌をラジエルの方へと向けると、一瞬学院都市全体が光で包まれる。同時にラジエルの背中から生えていた羽と、宙に浮いていた闇の輪が砕け散る。
「......内部からの崩壊。体には一切傷をつけずに私を追い出すには最適解だ。...ガブィナよ、最後に忠告するぞ。誰も傷つけたくないのならすぐにここから離れろ。お前の母親は半分天使、半分人間の出来損ないだった。ガルナに天使の血が受け継がれることはない。それよりも最優先にすべき血がこの男には宿っているからな。弟であるお前に受け継がれたのは不完全な天使の血。人間の身には余る天使の血はやがて、理性を失った破壊兵器を生み出す。ここには守るべきものだらけなのだろう?どことも知れぬ場所でお前は破壊の限りを尽くして、やがて器が耐えきれなくなり―――体は蒸発する」
......ああ。そうか、きっとそれが僕の最後だ。
だが、やりたいことは全て終わったからこれでいいと思う。
「送ってやろうか?私が消える前に、お前を誰もいない空間へ転移させることくらいは出来るぞ」
「...それで誰も傷つかないなら」
「...さらばだ。勇敢なる人の子」
ラジエルが残っていた魔力を使用し、目の前のガブィナを壊れかけた空間へ吹き飛ばす。半ば強引な転移方法だが、人の枠から外れた存在である今なら死ぬことなく空間を渡ることが出来るだろう。
その場に残されたラジエルは崩壊の始まった部分を切り離し、黒く輝く輝石となる。
『見ていただろう。お前に任せると失敗しかねなかったからな。私の方で済ませておいたぞ』
ラジエルに意識を奪われていたはずのガルナは何事もなかったかのように地面に落ちた輝石を拾い上げる。
「どこで知った。お前には手帳を読む資格はないはずだ」
『お前のことを見てきたと言ったろう。過去に閲覧したページの内容は把握している』
「.....」
『悲観的になるな。あいつは少なからずどこかで血が暴走する可能性があった。そうなれば、被害は学院都市に留まらなかったはずだ。ならば、今目覚めさせる必要があった。この異常事態だらけの時にな』
ガルナは最初からラジエルがしようとしていたことは知っていた。文字通り一心同体になっていたのだから、ガルナの思考がラジエルに伝わりもすれば、ラジエルが考えていることはガルナにも筒抜けだったのだから。
だが、それを止めることはしなかった。抗議をするなり、体を奪い取るなりすることせずに、ラジエルに従った。
『少なからず力の制御は出来ていた。だが、このまま待っていてはガブィナは確実に理性を失う。天使の血は最早呪いだ。力は僅かしか衰えないというのに、それを制御するだけの器が小さくなっていく。魔力が自閉していたのもその影響だ。どこかで爆発しないように死後も母親がガブィナの魔力を制御していた』
「母さんはまだガブィナの中に居るのか」
『居るとも。直に消滅するだろうがな。そうなればガブィナは死を迎えるまで神の破壊兵器として暴虐の限りを尽くすことになるだろう』
ガルナはいつも身に付けて離さない手帳を取り出し、ペラペラとページを捲っていく。
途中途中に見知った名前が見られるが、それを気にせずにガブィナと書かれたページを開く。
そこにはガブィナが生まれてから今日に至るまでと、この数分後に起きる出来事が記されていた。
「あと三分で暴走が始まる。そのあとは...何も書いていない」
本来ならガブィナの未来が書かれているはずなのだ。この戦いの先にあるはずの平穏な日々のことがたくさん...書かれていて欲しかった。
『そうだろうな。お前が私を宿すとは格が違う。あれは宿すのではなく成るものだ。成るといっても半端な存在だ、人でありながら天の使いへと昇華することは禁忌のそれだ』
「...ああ。それも知れた。お前の記憶が教えてくれたからな」
「なら話は早い。―――行くのだろう?」
この手帳にはこれから先のことは記されてはいない。密接に関わっている存在の過去と現在を写し出し、未来に起きるであろう出来事も断片的に記される手帳。
そこに記されていないということはその者の死を表す。だが、これは筋書き通りに行けばの話だ。
「―――足りない部分は書き足していく。運命など、乗り越えて見せるさ」
「道はまだ繋げてある。相手は不完全な存在とはいえ、天使に変わりはない。あいつらは私ほど甘くもなければ、手加減などしないぞ」
「...そうか」
目の前に空間を渡る歪みを作り出し、ガルナは歩を進める。この先にはどうしても助けなければいけない存在がいる。
ガルナにとって、学院都市を取り巻く大事件、最後の戦いになる。正念場はここからだ、わざわざ弟をクルスタミナと接触させたのも、全てはこのためだ。
終わるはずの物語を終わらせないための戦い。
ガルナが初めて運命に抗う、最初の戦いである。