<空っぽの魂>
その黒き柱から伸びる無数の腕は大地を抉り、空を切るとそこに空間の歪みが生まれる。最早、人では対処できる次元の話ではないその化け物は地獄にも届くような低い声で大地を揺るがす。
威嚇をする先は本来ならば数秒で体をバラバラにされてもおかしくないたった一人の人間。それにも関わらず、数時間にも及ぶ戦闘で息一つ荒げることなく、冷静に迫り来る腕を認識し、消し飛ばす。
人を殺すことだけに特化したような魔力を無効化する力を持った女は今に至るまで圧倒的な物量を捌ききって見せた。それだけで異常なのだ。
「また、隙が生まれましたよ」
サティーナの腕が柱に触れると魔力の流れが逆流し、根本から崩壊が始まる。消滅される前に上下左右から腕を伸ばすと、それを回避するために大きく後ろに下がる。
後方に下がるついでに辺りの腕を吹き飛ばし、追撃を許さない。
人としての知性が殆ど失われているが、ただ衝動に任せて暴れてるわけでもない。サティーナを殺すという明確な意思の下で繰り出された攻撃をことごとく無力化していく。
人を捨て、更に高位の存在となったヘキルと、その高位の存在の攻撃を一度も食らうことなくここに立っているサティーナ、既に人の次元に留まるような戦いではない。
ヘキルの腕は人々の呪いが形となった怨霊の腕、それに触れられれば体は悲鳴をあげ、即座に触れた部分から呪いが侵食し、体を分解していく。その腕は普通の一般人ならば目視するどころか、そこに何かあることすら認識出来ないだろう。
「―――――――――ッッ!!!」
ヘキルは地を大きく揺らすように叫び、束になった腕を空から地上に振り下ろす。地面が崩壊し、底の見えない大穴を穿つ...が。
「仕留めた...と思いましたか?」
大きく空に飛翔したサティーナが黒き柱の一際大きな瞳の前を落ちる瞬間、サティーナの体から白い光が伸び、前方にある大きな瞳ごと柱の半分を吹き飛ばす。
吹き飛ばされた部分は即座に再生するが、それでも再生は無限に続くわけではない。ヘキルは失敗作、それに変わりはない。この神にも近き力を持った柱の力の半分も制御できないこともだが、本来ならば滅びることのない肉体を再現することすら出来なかった。
所詮は出来損ない。ならば、再生することのない体という力を捨て、足りない部分を補えばいい。
体から絡み付くような感覚が消え、同時に体が倍に肥大化する。辺りを侵食しながら黒い柱は尚も体躯をスケールさせていく。
サティーナは瓦礫から瓦礫へと移動しながらその場から大きく離れ、辛うじて形を残っていた屋敷の上から地上を見下ろす。
更に肥大化した体から腕や足、果てには人間の頭部のようなものが生え揃っていく。更に禍々しくなった体から伸びるありとあらゆる形の闇は制御を完全に失い、無差別に辺りを破壊していく。
知性が少し残っていた時と大きく違うのは何をするのか分からないことだ。わざと隙を作りながら動き、攻撃を誘導出来ないとなれば、この物量を凌ぎきるのまず不可能だ。
「考えましたね。再生できないなら、吹き飛ばされないくらい大きくなればいい。そんなことが出来るなんて思いませんでした」
これだけ大きな闇を吹き飛ばすのは一撃ではまず不可能、巨大化した闇を全て消し去る方法は皆無に近くなった。
「―――っ...」
先程から続いている頭痛が更に激しくなり、サティーナにどんどん過去を思い出させていく。父親のこと、母親のこと、知りたくないことばかり記憶は思い出させることを強要する。
『おまえ...え...ければ!』
生まれることを否定する怒鳴り声、それでもまだ足りない。存在意義を否定されても、サティーナの絶望は底が見えない。
「私は...どうして...」
記憶が曖昧になっていく。大事に思っていた人の顔がどんどん父親の顔に塗りつぶされていく。大好きな人が大キライな人に変わっていく。
「くっ...」
どんどん頭痛が悪化していくサティーナを待つはずがないヘキルは時計塔の半分を侵食し、崩していく。
地上にまっ逆さまに落ちていくサティーナを飲み込むように地上にある闇は大きな口を開ける。
「消え...て!!」
周囲の闇が蒸発するように消滅すると、サティーナはその場で膝をつく。身体的な限界が来たのではない。それよりも精神的な部分で大きく変わろうとしている。人格を歪ませるような絶望の記憶。怨嗟の声は尚も止まらない。
「っあ...」
心臓が痛いくらいに凄まじい速度で鼓動している。頭の中に大声で怒鳴り続ける声が響く。
サティーナが前を向いた瞬間、すぐ眼前に迫った百を超える小さな腕がサティーナを捉えていた。回避することは不可能、こんなに大量の腕を吹き飛ばすのは一秒はかかる。足りない、小さくなった腕を全て認識し、無力化するために魔力を解読するには一秒があまりにも長すぎる。
「zi......ne」
サティーナに終わりを告げるような低い声が腕から聞こえる。
「あ...」
その瞬間、サティーナの意識は暗転する。
『死んじゃえ』
闇に染まった世界で、少女のような声が聞こえた。そして、数秒後、目の前には血だらけで倒れる父の死体と...。片手に持ったナイフで幾度となく滅多刺しにしている少女が居た。
『弱いね。人間ってこんなに簡単に死んじゃうんだ』
世界はもう一度移り変わり、今度はガムテープのようなものでぐるぐるに巻かれた老婆を熱湯の中に放り込む少女の姿。
風呂場に響き渡る声にならない絶叫と、それを見てもおよそ感情と言えるものを表さない少女。
「嘘つき。嘘つき。嘘つき」
ぼそぼそと何度も老婆に対して嘘つきという言葉を発し続けながら熱湯の中で息絶えていく老婆をただ見ている。
「サティーナ、ねえ。見ているんでしょ?」
こちらに対して質問を投げ掛けてくる少女、こちらへ振り返った少女は幼き日のサティーナ自身、過去の自分との邂逅により、消されていた記憶が全てサティーナの下へと帰還していく。
「殺しなさい。記憶が戻った時、目の前にいる存在を。それが例え人の形をしていなかったとしても、貴方の力の前ではただの玩具。触れれば簡単に壊れてしまう」
取り戻した記憶の中で、自分の目の前に居るのはサティーナにとって、全てとも言える存在。救いの代償として主従関係を結んだ時から、サティーナの中で人生の全てになったのだ。
「ねぇ、サティーナ。私はさ、どんな大人になったの?」
またも景色が変わり、何もない白い部屋で用意された椅子に腰かける現在のサティーナと、その対面に座る過去のサティーナ。
「お父さんが言っていた実験で、私はたくさんの人を救えてる?」
「......」
少女は忙しなく足をパタパタと動かしながら、サティーナに尚も問いかける。
「お母さんが言ってたように、優しい人になれたの?」
「......ごめんね」
「どうして謝るの?私は良い子だから、一回も謝っちゃいけないんだよ?だって、謝るのは悪いことをしてるってことだもん。お父さんに何度も蹴られた時だって、私は何も言わないで、良い子にしてたんだよ?」
俯き続けるサティーナを見て、少女は心配するようにサティーナの下へ駆け寄り、下からサティーナを見上げる。
「どうして、泣いてるの?私は強い子なんだよ?泣いたらお父さんが大嫌いな弱い人になっちゃうんだよ?」
「お父さんは、悪い人なの」
「違うよ。お父さんはたくさんの人を助けるために頑張っているんだよ」
「あの人は私とお母さんのことを一度も愛したことなんて無かった。ただの実験台としか思っていなかった」
「でも...。お父さんは、愛してるって...」
「それは全部嘘なの。あの人は確かにあの日私に向かってこう言った。『お前のことなんて一度も愛したことなんてない』って。だから、殺したんでしょ?私と貴女は」
「でも、お父さんは...」
「あんな男、死んで当然だと思ったから私達はナイフを握った。知らないふりをしていたおばあちゃんを熱湯に投げ入れて、私達のことを守ってくれたあの人も...!!!」
崩れていく。優しい人との記憶と、仮初めのサティーナの人格は次第に崩壊し、正しき姿へと戻っていく。
「私も貴方も、もう後戻りは出来ない。血に染まったこの手で誰かを愛することなんて出来ない。私はただの人形。感情も、何も要らない」
「けど...。アカツキはどうするの?確かに私はアカツキを...」
「黙れ」
「ううん。駄目だよ。アカツキはこんなところで諦めないんだよ?」
「うるさい。もう私の声で喋るな。私の顔をするな。もう何も知らない。何も要らない」
「けど...」
「黙れ―――っ!!」
サティーナは幼い少女を床に押し倒し、その華奢な首を両手で掴み、力を込める。
苦しそうに呻く少女の顔を見ながら何度も「死ね、死ね、死ね」と怨嗟の声を浴びせながら青白くなっていく少女を首にどんどん力を込めていく。
「誰も私のことなんて愛さない!だって、私でも自分を愛することが出来ないんだから!最初から感情なんて要らない。人間性なんて必要としていない!」
静かな部屋の中に鈍い音が響き、サティーナの手の中で少女は息絶える。過去の自分を殺して、今のサティーナは立ち上がる。
「私は...。サティーナ。ジューグ様の命令に従い、目標の殲滅を開始する」
サティーナの体から眩い光が発せられ、周囲の空間を削り落としていく。誰かに用意されたであろう過去の自分との邂逅により、本来在るべきサティーナとしての記憶を取り戻す。
アカツキとの出会いも、共に過ごしたあの日々もサティーナという人間の人生には必要ない。むしろ、敵と過ごした記憶など人生の汚点でしかない。
ただ、言われた通りに物事をこなせば良い。誰もサティーナを必要としなくても、ジューグが必要としてくれている。それだけでいいのだ、後は何も要らない。
「―――これは救えないな。下手をすればこちらが消されかねない」
時計塔の上に立っている黒い影、ラジエルは地上を覆い尽くす闇を消し去る程の魔力の逆流を目視する。闇を浄化する神々しい光、しかし、それの発生源となるサティーナの目には深い闇が落ちていた。
「過去の自分を切り捨てたか。ジューグの目的はこれか。神の出来損ないとサティーナを戦わせ、サティーナの力を神をも殺す力に昇華させた。その力の前では魔力のその上を行く力の原点すら意味を持たないだろうさ」
ラジエルは光に飲み込まれていく黒き柱を見つめながら落胆のため息をつく。
「これも失敗作か。あの男よりは完成されていたが、これはあくまでもきっかけに過ぎないということか」
空間を揺るがす彷徨と共に消滅していく黒き柱の前で、過去と決別したサティーナが立っていた。
「さようなら、ヘキルさん」
サティーナが闇の発生源となる柱へ手を置くと内部から光が漏れだし、空を貫く闇の柱が崩壊していく。最後の足掻きと言わんばかりに黒い柱から無数の腕がサティーナを消し去ろうとするが、最早認識すらしなくても、辺り全てのものを掌握したサティーナの体には触れることすら叶わない。
「感情がなくても、死を恐れる心はあるんですね。と言っても貴方には無駄なものでしょうが」
学園都市を飲み込もうとしていた黒き柱を単身で撃破したサティーナの下へ、今までただ傍観していたラジエルが天空から降りてくる。
「それ以上進めば戻れなくなるぞ。神をも凌ぐその力を有するということは、人という括りから外れた存在になること。その先に待っているのは明確な破滅だ」
「魔力とは違う反応、ということは貴方も人ではないんですね。ご忠告感謝しますが、それは出来ません。私はもう人に戻ることはしません。あんな屑と同じ人間なんて...」
「過去の自分が見たら悲しむだろうな。あぁ、そうだった。既に過去の自分はその手で殺しているか」
ラジエルの方へ振り向くことすらせずに、サティーナの体から白い光が漏れだし、これ以上関わるなと言う意思を示す。
「邪魔などしないさ。ただ、私は警告するだけだ。それでも選ぶのは君さ。君が望むなら進むと良い。その先は私も知らない地獄だ。暗闇だけの世界に何億年と閉じ込められている方がよっぽどマシに思えるほどのな」
ラジエルの最後の警告に耳を貸すことすらせずに、サティーナは前に歩きだす。もう、彼女を止めることは出来ないのだろう。既に心と言うものを捨てた彼女には、―――救いなんていうものは存在しない。
「...全く。ほんの数十分で面白いものを見てばかりだ。そうだろう?」
サティーナの姿が虚空の中に消えてから、数秒後。後ろから聞こえる人の足音。ラジエルはその足音の主を歓迎するように片手を挙げる。
「よくここまで来れたな。ガブィナ」
「今度こそ逃がさない。ここでガルナを返してもらうよ」
「あぁ、本当に飽きないな、この世界は」
ラジエルが片手を上げると背中から巨大な翼が生まれ、その漆黒の翼から弾丸のように黒い羽がガブィナの頭を狙い放たれる。
持ち前の超人的な運動能力でその場から咄嗟に離れたガブィナに間髪入れず次の攻撃が繰り出される。地面から伸びる黒い腕に足を捕まれそうになるが、それも大きく後退することで何とか回避する。
「この試練を乗り越え、兄を取り戻すが良い」
「―――僕は今度こそ誰も失わない」
これ以上誰かを失うのはもう耐えられない。だから、進むのだ。目の前にいるのが圧倒的な力を持った怪物でも足を止めることは許されない。
負の連鎖をここで断ち切り、もう一度あの平穏を取り戻すのだ。
あの、馬鹿野郎も見つけ出して、あの場所でもう一度皆で笑って、はしゃいで、楽しい生活を取り戻すのだ。
「往くぞ、怪物」
「来ると良い。勇敢な人の子よ」
黒い衝撃が大地を揺るがし、新たな戦いが学院都市で始まった。
ここからは戦いを書いていくだけ...。たぶん