私、坂をのぼる
とんでも訓練が始まった。気を付けの姿勢から動くなと命じられている。わずかでも動けば連帯責任で、腕立て伏せの懲罰が待っているのだ。しかも返事すら許されていないのだから、なんの拷問だと訊きたくなってしまう。
それでも私たちは直立不動。身動ぎひとつしない健気さだ。
鬼将軍が立っている。
ジャック先生も立ったまま。
偉い人も若い者も、忍者の指示を一途に守っている。
忍者は私たちをチェックするように、隊列の中を古参の軍曹のように歩き回っていた。美人秘書の御剣かなめもだ。道場の中は緊張感と、静寂だけが支配している。
突然忍者が口を開く。
「魚屋のおっさんが屁をこいたってね」
おっさんかよ。
屁かよ。
屁をこいたって、お前。うら若き乙女が口にする言葉じゃねーだろ。
いや、いかんいかん。これは忍者の巧妙な罠だ。私たちを笑わせて「動いたな」と難癖つけて、それで腕立て伏せをさせる積もりだろう。そうはイカンぞ、コンチキショーめ!
すると御剣かなめが忍者に返答した。
「………鰤っ」
鬼将軍、陥落。
同志ダイスケくんも崩れ落ちた。
堰を切ったかのように、次々と沈没してゆく。もちろん、この私も………。
「よし! 全員腕立て伏せ用意っ!」
「1っ! 2っ!」
「ちょ………ちょっと待ちたまえ、いずみ君! 今のはちょっと………いや、かなり汚いだろ!」
「やかーしー大将っ! とっとと腕立て伏せだっ、腕立て伏せっ!」
「さあみんな、張り切っていきましょうね! 陸奥屋のために!」
「「「陸奥屋のためにっ!」」」
「陸奥屋のために!」
「「「陸奥屋のためにっ!」」」
本日、六〇本目の腕立て伏せである。
なかなかにキツイ。
「いいかみんな! 隠蔽の基本は、岩場なら岩になりきること! 森ならば樹になりきることだ! わかったかっ!」
「「「ハイッ!」」」
「それではふたたび………気を付けーーっ!」
静寂と緊張感の中では、駄洒落さえ有効に働く。もしかしたら三条歩のステルスを破る手段は、こんなとこにあるのかもしれない。
御剣かなめが前に出た。
忍者も前に出て、隣に並ぶ。
仲良く腕を組んで、真顔のままラインダンスを始めやがった。
文章ではこの『笑い』は伝わらないだろう。しかしこの手の経験がある方には、辛抱たまらん状況というのが御理解いただけるはずだ。
フィー先生が撃墜された。ホロホロとコリンも駄目。言語ではなく視覚に訴える笑いは、右脳をメインに用いる女子にはかなり堪えるようだ。
陸奥屋のために。腕立て伏せ三〇本追加。
「………なかなか上手くいかないわね、いずみ。ここは先生がお手本を見せてあげたら?」
「ちょ、待て! かなめ姉、なんでそんな流れになる!」
「口ごたえしないのいずみ、気を付けーーっ!」
口ごたえどころか、美人秘書の号令には操り人形のように従順な忍者である。ビシッと気を付けの姿勢をとり、御剣かなめからの試練に対抗するようだ。
静かに時は流れ、忍者は見事なまでに樹になりきっていた。なるほど、ここまで気配を消したならば、立っていても目立つことは無いだろう。隠蔽技術の基礎の基礎である。
しかしふと気がついたのだが、美人秘書も気配を消しているではないか。何故だ? なんで気配を消したまま、忍者の背後に回り込んでいる?
御剣かなめはポツリと呟いた。
「………なまこ」
弾けるように吹き出して、忍者沈没。
まったく話にならないダメっぷりでしかなかった。
「忍者の言いたいことはわかるけど、これじゃ隠蔽技術修得まで時間がかかりすぎるねぇ」
いつもの拠点に戻って来ると、ホロホロはそうもらした。
「どうだろ? 私たちも独自に隠蔽技術を研究してみない?」
というと?
「忍者の教えでは、『消える』というよりも『見えにくい』とか『わかりにくい』。あるいは『見つからない』って感じだから、私たちなりに『わかりにくい』を考えてみるの」
もちろん忍者の技術は練習しながら。その教えを基礎にしながらである。
「すでにホロホロの中では、方向性が見えてるみたいだね」
「うん、すごく単純なステルスだけどね」
席を立つとホロホロは、ベルキラの背後に回り込む。大柄なベルキラと小柄なホロホロ。当然その姿は見えなくなり。
「これが単純なステルス。ほんの些細な技術だけど、こういうのって大事だと思うの」
「それならすぐに応用できそうね」
コリンも何かひらめいたようだ。
「マミヤとホロホロは遠距離攻撃だから除外。アキラはアタッカー、突っ込み役だからこれも除外。………すると、すぐにベルキラの陰に隠れられそうなのは」
「コリンとモモ………中でもコリンだな。まさに奇襲攻撃要員ってやつだ」
ベルキラは言う。
「それだけじゃないですよ、マスター。敵陣に指環を放り込めば、たぬきが急に現れて大混乱です!」
アキラのアイデアも採用だ。
「拙い技術かもしれないけど、私たちにはこれだけの隠蔽が使えるってことだね」
もちろん練習次第ではあるが。それに忍者や三条歩のように、『隠蔽技術前提』の戦いにはほど遠い。
が。
「ここでポイントがあるんだけどね、みんな未熟な隠蔽しか使えないのに一人だけ、本物の隠蔽が使えるってことなんだよ」
「む~~………それは見落としてましたねぇ~~………」
「使い所によっては一撃必殺………カラフルワンダー相手でも、目にモノ見せてやれそうだな………」
モモ、ベルキラ。目が怖いぞ。
「さあ、そうなるとマミヤ。アンタに色々託されてることになるんだからね」
「私かい? それは責任重大だね」
「なにトボケたこと言ってんのよ。アンタのことはこのコリンちゃんが、無傷で敵陣に送り込んでやるんだから!」
しっかり働きなさいよ。
そう言ってコリンは、私の背中をバシバシと叩く。
だが、ここでふと気付く。
いつの間にかみんな、カラフルワンダーとの一戦を前提に話をすすめているのだ。
まだ早くないか?
中年の私は、そう考える。
だが若者たちは違う。
今がまだ早いなら、いつ挑むのか?
………そうだ。私たちは今カラフルワンダーに対して、隠蔽技術で一本先んじているのだ。いま挑まずに、いつ挑むというのか?
いやいや待て待て。冷静に考えろ。
魔法の防御技術に関しては、いまだ手付かずではないか。
それこそ大車輪で稽古しなきゃ。
コリンの声が聞こえてきそうだ。
………夏が去ってゆく。
まるで『ひと夏の体験』を済ませたかのように、重苦しい現実がまとわりついて来る。
若者たちの眼差しは、明らかに燃えていた。
打倒カラフルワンダー。
そして私の目の前には………。
手の届かなかった『坂の上の雲』が、私の前に立ちはだかる。