私、凡人を自覚する
不世出の柔道家がいた。
木村政彦という柔道家だ。
その師をして、「木村の前に木村なく、木村の後に木村なし」と言わしめた、『鬼の木村』である。
その木村政彦がある年の全日本選手権で、試合場に上がったところ、対戦相手が逃げ出してしまったそうである。
全日本の舞台に上がって来るほど鍛練し、気力体力ともにあふれ出るほどに充実した選手が、である。
それほどまでに木村政彦は、『戦う』ということに対して鬼になっていたのだ。
『闘う』ではない。
これは個人が個人に対しての行為である。
だが木村政彦は、『戦う』だったのであろう。
闘気などという安っぽい造語が、安っぽく使われた時代があったそうだ。大人気コミックが使ったせいで広まって、今では『誰も使わなくなった』安っぽい造語だそうだ。
しかし『戦気』という言葉は、今から四五〇年前からすでに、存在していた。
戦気 其の澄めるところ水鏡の如し
かの剣豪、宮本武蔵の書が現存している。
いざ戦さ。
国家存亡をかけた戦いにおいてなお、剣豪宮本武蔵は心澄ませることを説いているのである。機に臨み、感ずるところ敏なれと。そのためには心を水鏡の如く澄ませるべしと。
木村政彦は選手権において、すべてを賭けていたのだろう。すべてを賭けてなどというと安っぽく聞こえるが、ありとあらゆる手段をもって勝ちに行った、としたらどうであろうか?
まさに戦さである。
自分存亡の危機である。
その急迫した心理が刃となり、対戦相手を退かせたのであろう。
置き換えて、ジャック先生はどうであったか?
ここで負けたら、日本剣術が負けたことになるのだ。少なくとも、彼の者にそう言わしめるだけの隙を与えてしまうことになる。
日本剣術、西洋剣術に敗れたり。
そんなことを喧伝されたら、ジャック先生は腹を切るかもしれない。
そんなことないだろ。
西洋剣術と日本剣術が一〇〇人対一〇〇人で対戦して、星の数を比べないと勝ち負けは決まらないじゃん。
そう思うなら存分に弁をふるい、君の負けを歴史の中から消し去るがいい。
そしてまた負けるがいいさ。
何度でも負けたらいい。
そのたびに君は、弁明するがいいだろう。
だが、君が死んだらどうなる?
弁解してくれる人間は、もういなくなるのだ。君が西洋剣術に負けたという事実だけが、残ってしまうのだ。
ショッペーな、日本剣術。
日本人が西洋人に勝てる訳ねーべや。
所詮達人なんて絵空事なのね。
伝統云々なんて骨董品と同じで使い道なんて無いさ。
おう、達人。戦ってみろや。笑ってやっからよ。
一事をもって全てを知った気になった者により、日本剣術は辱しめを受けることになろう。
君の恥は君の恥に留まらず、『日本武術全体の、永久の恥』になってしまうのだ。
だからジャック先生は木村になった。
我一人の闘いに非ず。
日本武術の『戦い』なり。
………と。
「気迫が違いましたな」
「勝てる訳ねーべや、鬼のジャックによ」
「試合中は観客も、さすがに静まり返りましたな」
「みんな飲まれたのさ」
老人と忍者が、いまの一戦に関して仲良く感想を述べあっている。
だが私は、そんな気にはなれなかった。
『戦さ』ということについてあれこれ述べさせていただいたが、私にジャック先生のような迫力を出せるとは思えない。そこまで剣や武にすべてを注ぎ切ることができないのだ。
しかしジャック先生はそれを当たり前に、まるで自分の仕事でもあるかのように、たやすくこなしてしまったのだ。
彼は剣術家。
私は剣術愛好家。
越えられない壁を、まざまざと見せつけられたような気がする。
「それでいいんですよ、マミヤさん」
ユキさんだ。
「ウチの父さ………ジャック先生が普通じゃないだけなんですから。大体にして、いまどき道場破りに対応してる剣術道場なんて、あり得ませんよね?」
「道場破り?」
道場破りというと、「頼もう!」なんてやって来て、試合に勝ったら看板をかっぱらって行くという………あの道場破り? いるのか、そんなの………いまどき?
「わざわざ稽古を中断して、今ここに道場破りが来たら、シャドウが対応しろ。ユキは出口をふさげ、なんて。本当に子供みたいなんだから」
うん、そうだね。ジャック先生なら普段から、そういうことするだろう、うんうん。
「おまけに古美術商から槍を買ってきて、どこに据えてると思います?」
「床の間かい?」
ユキさんは首を横に振った。
「道場の出入り口の上に。………これで私に出口をふさげって言うんですよ? それって道場破りが勝って帰ろうしたら、私に突けって言ってるんですよね?」
マジかよ、ジャック先生。
やるじゃん、ジャック先生。
その生きざま、やたらとロックだぜ。見習いたくはないけどな。
「聞いた話なんだけど、マミヤさん。よその剣術道場は、もう道場破りなんて発想は無いらしいですよ? なにやってんでしょうね、ウチの父さん」
こらユキさん、リアル情報がもれてるぞ。
というか、古流武術の現状、あるいは昨今。それが垣間見える話である。
「そういうことになると………」
コリンまで口を開いた。
「アタシが道場で生まれて初めて木刀を振ったとき、言われたわね。『斬ってなーーい! 斬れてなーーい! 斬る気がなーーい!』って。………考えてもみれば、普通は木刀の振り方から教えるわよね? ………アタシ、木刀の振り方なんて教わった記憶が無いわよ?」
「ははは………昔からそうでした。『小指で斬るんだ』とか、『物打ちから先に落ちてくるんだ』って、それくらいしか私も教わってないよ………」
ユキさんの笑顔が、ひどく寒々しかった。
ただ忍者と老執事は、腕を組んで納得したようにうんうんとうなずいていた。どうやらこの二人にとって古武術とは、そういうモノのようだ。