その2
とりあえず、コリンの住む北海道釧路市について、ネットを駆使して調査する。
「ふむ、水揚げ日本一とあるね?」
「そうよ! 釧路は漁獲高がものすごいんだから!」
べつにコリンが漁師をしている訳ではないので、大きな顔をされる筋合いは無い。しかし郷土の誇りというやつを刺激されて、せっかくいい気分なのだ。わざわざ水を差すこともない。
だがしかし、水揚げ日本一の次に目に飛び込んできたものが、またエキサイティングだ。
クジラ料理。
うん、さまざまな意味合いで血わき肉おどる、というやつだ。この御時世、クジラを食らってやろうという、その意気やヨシ! と讃えるべきか? はたまた「やめなさいよ、バカァ!」とツッコむべきか? 大変に難しいところではある。
そんな大人の葛藤を知らず、平気な顔で禁忌に触れたがるのが若者というもの。アキラは無邪気に、「いま時クジラを食べるなんて、すごいチャレンジ精神だね」と、禁忌に手をかけた。
「いいのよ、クジラが賢いんだかなんだか知らないけど、あんなものは海で泳ぐ『お肉』でしかないんだから」
なかなか勇敢なことを言う。
「それにね………ちょっといいかしら、マミヤ。水揚げ第二位の年………そう、そのぺージ読んでみて?」
「なになに? イワシが減ったために、漁獲高が落ち込んでしまいました、とあるね?」
「クジラどもが食べ尽くすのよ、イワシを。まったく馬鹿馬鹿しいったら無いわ。北海道じゃエゾシカ保護のために、しばらく禁猟にしてたらしいわよ。その結果どうなったと思う?」
「農林業に被害が出た?」
それは聞いたことがある。というか、どこの地域でも農林被害は深刻なものだと聞く。
「その一歩手前を言うとね、『手もつけられないくらいエゾシカが増えた』わ。法律を変えたのかなにかして、猟期を延長までして駆除駆除駆除駆除! それと同じバカを海でやらかしてんだから、馬鹿馬鹿しい限りだわ!」
「ずいぶんと詳しいねぇ」
先程はコリンが漁師という訳でもないのにと断じてしまったが、実際には親御さんもしくは親戚にリアル漁師がいるのかもしれない。
ずいぶんと詳しいねぇ、という私の問いに、コリンは答える。
「全部現地の言葉、その受け売りよ。私の知識じゃないわ。だけど当たり前にこうした声があがってるの。子供が耳で聞いて、スラスラ暗唱できるくらいにね」
大人の私はわかっている。これは何が悪いのか?
クジラを保護したい団体はいる。保護したいという気持ちに、制限はかけられない。思想の自由、良心の自由というものには、制限をかけることはできないからだ。
ならば実際にクジラを保護しようとする、その行為に問題があるのか? それも違うだろう。クジラを保護して問題が生じたならば、それを修正すればいい話だ。
では、何が悪いのか?
もう答えを出したようなものである。
クジラを保護したあとの世界に、誰も責任を持っていないのが悪い。
あくまで一方的、かつ証拠となる資料もない言い分であるコリンの意見だったが、クジラ保護とイワシの減少に因果関係が認められたなら、クジラ保護の団体は自分たちの主張を取り下げるだろうか?
良い例が、コリンの持ち出したエゾシカである。
現実に農林業の被害が深刻であるというのに、有害駆除や合法的な狩猟に対したアンチは未だに存在し続ける。もちろんアンチ思想はかまわない。だがアンチ思想を主張する者たちは、有害駆除や狩猟の消滅した世界に、どのような責任をとってくれるというのであろうか?
「シカさんが可愛そう」
「クジラさんが可愛そう」
もちろん動物が殺められるのを見て、可愛そうと思う気持ちは大切なことだ。それは心にゆとりがある証拠。ネット上での悪口としての「ゆとり」ではない。食糧があふれ返った世界にあり、飢えることがないならば、他者に慈しみや憐れみの感情を持つのは当然のこと。だが、飢えることがない世界というのは農林業が確立していなければ、実現不可能なのだ。
「食べ物が採れなかったら、輸入すればいいじゃない」
そんな話ではない。
自国の食糧は可能な限り自国で賄わなくてはならないのだ。
それは最低限、『国家が独立』する条件なのだから。
「すまないな、コリン」
「なんでマミヤが謝るのよ?」
「大人とは、そういうものだからだ」
「アンタの責任じゃないわよ?」
「だが、謝らなければならないのだ。こんな世界にして、ごめんなさいとな」
そうだ。
こんな世の中になるなんて思ってなかった、などという言い訳は通用しない。私は関わりないと、逃げることも可能だ。だがそれでは、改革された世界に責任を持たない連中と同じではないか。
私は、そんな大人にはなりたくなんかない。